日本図書館協会選定図書に指定
宮原英一著「近松門左衛門の謎」の発刊へ
寄せられた鳥越文蔵博士の序文
早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長-d ☆
早稲田大学教授 鳥越 文蔵

 
出自不明の大文豪は、近松門左衛門だけではない。
 近松と同時代の井原西鶴も同様である。
 が、わたしは近松には 西鶴以上に大きな謎があると思う。武家出身者が芸能人になった例も、めずらしくないが、しかし 堂上方につかえた人が、芸能集団にのめりこんでいったところに、なにか 大きな謎があるのを感じるのである。
 近松の出生については、越前説が有力であった。彼の土地には、近松の本姓「杉森」をなのる家があり、明治期になり、筆写されたという系図(ただし筆写の基となる原図はない)が伝えられている。
 それゆえに、わたしも有力と発言はしてきた。
 この書の著作者宮原英一氏には「決議文に反対意見も並記する時代であるから、越前説と長州説を並記するくらいの配慮はあって然るべきで、それをしない学者たちは 勇気がない」とお叱りをうけたこともある。また「大学の先生は、象牙の塔だけの世界しかなくて世間がせまい」ともいわれた。
 宮原氏のこの発言は、近松長州生誕説に熱中するゆえのこととて むろん気には していない。
 長門国の地には、わたしが知るかぎりでは、宮原氏のたくさんの先輩がおられたが、長門以外の人間としては
わたしが近松長門説の最右翼にいると確信しているただ 遠い地にいると、目に触れる資料が限定されてしまうので、土地の研究家の研究に 期待するのである。
宮原氏は 次々と近松長州生誕説の裏づけとなる新資料を発掘して、近松長州生誕説を 強固なものにしてゆかれ、長年の研究の成果を、この書にまとめられることとなった。
 越前の系図は、さらに検討を要するが、この書で語られる
宮原説も、資料批判からはじめなくてはならない。これは「すでに両説を並記する段階を超えて、長州説が ふたたび土俵にあがった」といってよかろう。法学では「疑わしきは罰せず」というが、わたしたちの学問は「疑わしきは採用せず」としている。厳正な資料批判にはいずれの資料が耐え得るか。これからが楽しみである。この書を 手ぐすねひいて 待っているものが多かろう。
 わたしもその一人である。
 万感をこめて期待している。        

            一九九三年十二月八日

             
筆者敬白  当然のこと、明治になり創られた系図のほかは 資料らしき資料もない、デタラメな既成の越前生誕説も 資料批判から はじめなくてはならないだろう。「これが日本の大学教授のすることなのか」と 諸外国の大学から笑い者にされないように・・・・・ 


日本図書館協会選定図書 関西書院発行「近松門左衛門の謎」の序文原本
 近松の生誕が 越前藩、現在の福井県鯖江市であるとされている唯一の史料的な根拠は 原図のない 明治以後になってつくられた系図である。
 その系図については 当の鯖江市公民館からいただいた当時大阪市立大の森修氏による論文がある。
 森修氏の論文は 「福井県立図書館職員数名の一週間にわたる協力を得て調査した」とある。当時 大阪市立大教授であった森修氏が書いた鯖江市公民館蔵書の「近松の少年時代」によると、

一、杉森系譜によると 近松の父親は越前藩士三百石の杉森家であるとされているが、「越藩史略」そのほかの「越藩史料」には、
系図で近松の父とされている杉森信義にかんする記事は 存在していない。
二 系図丙の信盛こと近松という文字は、
活字に似せた文字で、明治末か大正はじめに書きくわえたものである
三 さらに系図は 単に生誕の問題だけではなく 近松は大阪で死没したのに
京洛で死亡したという マッカな嘘が 麗々しく記載されているとある。
 と 森修氏は およそ歴史を研究するものが 絶対にしてはならない史料改竄の事実をバクロしている。 
 
また 系図を文献的に証明するものとして 挙げられているのは 俗書「俗耳聾記」であり、その「俗耳聾記」にあるのは 杉森「作」右衛門であり、系図にあるのは 杉森「市」右衛門だ。
 森修氏は「これが近松の父杉森「市」右衛門であれば 都合はいいが・・・・」と 論文で 前置きされ「しかし、文献的には証明はできない」と きちんと断言も しておられる。

(註 付け加えの余談になるが すると最近発見されたという大阪の滝安寺で 当時の芸能人たちが納めたという大般若経に 近松の真筆近松の父の名として 大阪市大の森教授が 福井県立図書館職員数名の 一週間にわたる協力を得て調査してもなかった杉森信義。「越藩史略」そのほかの「越藩史料」にも ついになかった杉森信義という名があったということになっている。誰かが京都の墓を模倣して書いたとも考えられるが、その場合はその大般若経は 学術的史料としての信憑性を 疑われることにもなりかねない。近松の真筆による手紙 十数通も 伊丹市の資料館に保管されているので 滝安寺のそれが 近松の真筆かどうかは 専門的な鑑定により いずれ 明らかになるだろう。だから滝安寺からフアックスにて 資料は送付していただいたが あまり関心はない。
一、杉森系譜によると 近松の父親は越前藩士三百石の杉森家であるとされているが、「越藩史略」そのほかの「越藩史料」には、系図で近松の父とされている杉森信義にかんする記事は 存在していない。
二 系図丙の信盛こと近松という文字は、
活字に似せた文字で、明治末か大正はじめに書きくわえたものである
三 さらに系図は 単に生誕の問題だけではなく 近松は大阪で死没したのに
京洛で死亡したという マッカな嘘が 麗々しく記載されているとある。
 と 森修氏は およそ歴史を研究するものが 絶対にしてはならない史料改竄の事実をバクロしている。 
 
また 系図を文献的に証明するものとして 挙げられているのは 俗書「俗耳聾記」であり、その「俗耳聾記」にあるのは 杉森「作」右衛門であり、系図にあるのは 杉森「市」右衛門だ。
 森修氏は「これが近松の父杉森「市」右衛門であれば 都合はいいが・・・・」と 論文で 前置きされ「しかし、文献的には証明はできない」と きちんと断言も しておられる。

 (註 付け加えの余談になるが すると最近発見されたという大阪の滝安寺で 当時の芸能人たちが納めたという大般若経に 近松の真筆で近松の父の名として 大阪市大の森教授が 福井県立図書館職員数名の 一週間にわたる協力を得て調査してもなかった杉森信義。「越藩史略」そのほかの「越藩史料」にも ついになかった杉森信義という名があったということになっている。誰かが京都の墓を模倣して書いたとも考えられるが、その場合はその大般若経は 学術的史料としての信憑性を 疑われることにもなりかねない)。
 
近松の真筆による手紙は 十数通も 伊丹市の資料館に保管されているので 滝安寺のそれが 近松の真筆かどうかは 専門的な鑑定家により いずれ明らかになるだろう。 
 以上 日本図書館協会選定図書に指定された私著 関西書院発行「近松門左衛門のなぞ」で 系図にまつわるさまざまな問題点を 公的に指摘した。
はじめに
 近松の生誕地は長い間、福井県鯖江市とされてきた。
 しかし
文化庁の「近松の故郷づくり指定」により 山口県の山陰長門市を中心に 自動車専用道路、海沿いのドライブ・ウエイ「近松・みすず道路」が新設された。
 大津郡三隅町の香月画伯記念館に 往還するための 長門市のメイン道路の頭上を よこぎる巨大な陸橋は 近松作品の名作シーンが絵画化され 名セリフが書きこまれた銅製の華麗な絵画プレートが 数十枚はめこまれた
「近松大橋」であり 橋のむこうは ドライバーが休息する近松道路公園がある。
 長門市には 近松の復活記念事業として 総工費七十億円の公共事業投資による 古典芸能のための 山口県民文化芸術劇場「ルネッサ長門」が完成 スタートしている。
 劇場の装置は 現在のコンピューター技術の最高レベルが 駆使されていて 内装は 東京国立劇場と同じにされていて 京都南座とともに 西日本では最高の日本三大古典芸能劇場であるといわれる。
 
一九九三年五月。わたしは 山口県地方史学会の定例総会という公式の場で「近松門左衛門の生誕地は長州である」という研究報告を世に公表した。
 
永らく近松の生誕は 福井県鯖江市と されてきていただけに「晴天の霹靂」として テレビとマスコミが 中国、四国 九州地方広域版のトップ記事として わたしの学会報告をとりあげて 大きく報道した。
 次いで新人物往来社の人気歴史よみもの 月刊「歴史読本」一九九三年八月号に 特別記事として「近松門左衛門出生地の謎・定説をくつがえす長州生誕説」を執筆、掲載され 全国津々浦々の書店で発売された。
 
 
平成九年九月二十二日 長門市湯本・大谷山荘での
長門市近松懇話会でのノートから

 筆者も藤田長門市長により 公式に委嘱された長門市近松懇話会委員であるが 急遽 長門市近松懇話会委員に着任された早稲田大学坪内逍遥記念演劇館長であった鳥越文蔵博士が 福井県にゆかれた。そして 
「日本図書館協会選定図書に 指定された関西書院発行「近松門左衛門のなぞ」に 掲載された
近松長州説諸史料に 反論できる史料が福井県側にあれば ぜひ提出するようにと 何回となく要請した。しかし従来の近松門左衛門福井生誕説の 唯一無二のよりどろであった系図の矛盾と作為を 全国に広く公開されたあととなっては 近松が福井でうまれたことを 裏づける史料は ほかには 何もないとのことであった」
と 平成九年九月二十二日十六時より 長門市湯本の大谷山荘の会議室で開催された 長門市長委嘱による長門市近松懇話会の席上での 近松懇話会委員として あるいは早稲田大学坪内逍遥記念演劇館長としての鳥越文蔵博士氏による公式な報告であった。
 当時は まだ早稲田大学坪内逍遥記念演劇館長の現職であった鳥越文蔵博士の このような公式の確認と公式報告を経て 文化庁による近松の故郷づくりが指定され 山口県の山陰長門市を中心にした自動車専用道路、海沿いのドライブ・ウエイ「近松・みすず道路」が新設され 三隅町の香月画伯記念館に往還するための長門市のメイン道路の 頭上をよこぎる巨大な陸橋は 近松作品の名作シーンが絵画化され 名セリフが書きこまれた銅製の華麗な絵画プレートが数十枚はめこまれた「近松大橋とされ 近松道路公園が造成され、総工費七十億円の公共事業投資による古典芸能のための山口県民文化芸術劇場「ルネッサ長門」が完成 スタートした。
  
近松の影響を受けた金子みすず
お祖母さまと浄瑠璃
金子みすず作

縫ひものしながら お祖母さまは 
いつもお話 きかせました。おつる、千松 中将姫・・・・・・・
みんな哀しい話ばかり

お話しながらお祖母さまは
ときどき浄瑠璃をきかせました。
おもひ出しても胸がいたむ
それはかなしい調子でした。

中将姫をおもふせいか
そのことは みんなみんな
雪の夜のやうに おもはれます。
それももう遠いむかし
歌のことばは忘れました。

ただ せつない、ひびきばかり
ああ、いまも水のように 
かなしく、しずかに沁みててきます。

さらさらと さらさらと
ふる雪の音さへも
「県立山口大学に赴任 鋭意 集中講義をしています」と おハガキを頂戴した鳥越文蔵博士によると、「近松の生誕が 福井県鯖江市とされたのは大正の学会であった」という。
 わたしたちは 敗戦直後 教員の指示により墨と筆で自分じぶんの教科書にある 天皇陛下とか 神軍とかいう文言をすべてぬりけして あちこち墨で削除されたために てにおはもツジツマがあわず 読みあげることすらできない教科書を 手にした世代だ。
「ほこの先からおちるしずくで 日本列島ができた」だの まったくなんの科学的根拠のない話を デッチあげ われわれ小学生に 歴史教科書として配布したのも 呪うべき大正の教科書を作成した軍国主義権力の幇間 腰巾着でしかなかった学者たちによるものだ。
 改竄したのが 早稲田大学教授であったのかは知らないが 福井生誕系図に「活字に似せた文字で 信盛こと近松という文字を 書きくわえてある」のも たぶん そうした一連のデッチアゲの作為の過程であったのだろう。
 軍国主義権力の幇間として 日本を戦争に導いていった御用学者たちの 戦争責任という問題である。
 このホームページは ほかならぬ当の鯖江市公民館からいただいた資料自身により まず福井生誕説そのものの矛盾を明らかにしたうえでの 従来の定説をくつがえす世界で唯一無二の 長州生誕史料を 掲載したホームページだ。長州生誕史料を 掲載したホームページだ。
 二OO一年三月。 わたしは腎臓ガン手術により左腎臓を摘出した。
 現在はそのアフターケア中だ。
 だれも残された自分の生存時間が どれくらいあるのかは{全知全能の超越存在である神のみぞ知ること}だ。
 わたしが亡くなれば このホームページも 自動的に閉鎖されるから 近松研究や歴史研究に興味ある向きは ぜひ 随時ご自由にオリジナルCDなどに 保存されておくことを お薦めしておきたい。
 なお 2001年3月 私が腎臓ガンによる左腎臓除去手術のために 労災病院に入院中に 鳥越文蔵教授は下関に 来関され わたしの親友の下関の海事史学会員の沢忠宏氏と 歓談された折り
「越前には近松が越前で生まれたことを証明し得る史料など 何もない。みんなただのツクリバナシにすぎないことがわかったと 近松福井生誕説を手きびしく非難された」という連絡が 当の沢さんから電話であったというメモも あわせてここで お報らせしておく。
            
                  二千一年八月 
                山口県の軽井沢 美祢市大嶺町祖父ケ瀬の寓居にて 
                        長門市近松みすず懇話会委員  宮 原  英 一
             おことわり

 
筆者は美祢市在住の民であり 近松門左衛門の歴史研究のために 長門市近松懇話会の学識研究者委員として 藤田長門市長に委嘱されたのであり 金子みすず賛美のために 長門市近松懇話会の学識研究者委員を お引き受けしたものではない。
 基督教界では 「生命は神により与えられたものである」として 自殺は禁止されていて 自殺者は葬儀すらしてもらえないという。
 先進国中では 無宗教国の日本だけが ここ十数年 毎年三万人を超える自殺者に 国をあげて 苦慮している。 
 みすずは童謡詩人とされているのに、たとえば「からたちの花」「赤とんぼ」や「ふるさと」のように 人口に膾炙される有名童謡を 一曲も創作することが できなかった。
 みすずは その創作のゆきづまりの苦悩か 「性病に感染していることを理由」に若年自殺をしたと スキャンダラスに 語られてされている。
 わが国には もっと深い絶望的な理不尽な偏見と強制隔離の苦悩の中でも 生きぬいたハンセン氏病者も沢山いる。
 長門市民にも 個人的には みすずへの自殺批判者は 少なくない。
 筆者個人としても このホームページで たとえ数行でも自殺幇助の社会教育になりかねない「金子みすず賛美」だけは しない主義にしている。
だが、金子みすずの人生に性病による自殺という事件がなかったら 童謡詩人みすずには 誰もが 口ずさむような童謡は 皆無であるのも現実だ・

 
 
 
尼ケ崎市の広済寺ホームページの宮原説ページ

近松門左衛門


広済寺 Homepage

近松門左衛門

出生地 長州説

 

近松長州説の学問的研究

山口県美祢市大嶺町祖父ヶ瀬 
宮原 英一

 標記についての研究発表を、一九九二年第七七回地方史研究大会でおこない、その後一冊の本にまとめて「近松門左衛門の謎」として、大阪の関西書院より刊行し、幸運にも、中央の日本図書館選定図書審議会で、一九九四年度日本図書館協会選定図書に、選定されるという光栄に浴しました。ひとかたならぬご声援を、ここに感謝します。

 また関係諸氏のご尽力により、事後十年間、文化庁後援による近松祭が、「近松イン長門」として、長門市を柱に、毎年おこなわれることになり、ふるさと山口県のあかるい話題になりました。資料の裏づけもなく、推測で発言すると、説が混乱しますので、その後の踏査で発見した資料によって、その後の問題を再構成します。

(イ)萩郷上資料館において、萩城下町居住者人名録で、近松の幼名杉森平馬の元服後と推定される杉森平兵衛が、萩三の丸追いまわし筋の、椙杜八郎の役宅に住んでいる事実を、ついに発見しました。 そこは波多野家や冷泉家ほかの萩藩の有名な重臣ばかりの役宅がならぶ通りです。この発見は、長年のあいだ裏づけがないとされてきた近松長州説の、近松の幼名杉森平馬が椙杜家の子であるとする霧の中の伝承が、けっして根拠のない架空のロマンではなく、資料として確実に裏づけられたという、本当にうれしい資料の発見でした。

(ロ)椙杜の旧姓は、周東町杉森家でした。したがって、唐津近松寺から還俗した平馬は、再び椙杜姓をつぐことを許されず、椙杜家にありながら、生涯にわたり旧姓を名のったことが、この資料にてわかります。
(ハ)「毛利に嫁いだ越前藩千姫のおつきとして、越前藩にいたのではないか」という推理も成りたちますが、越前藩家臣の記録に、杉森平兵衛がいたという資料は、現段階ではまったく存在しません。
(二)また小学館発行の日本古典文学全集に、掲載されている近松の肖像画は、椙杜家の家紋「鷹の羽ちがえ」であり、家紋を盗用することはゆるされなかった当時からして、彼は文豪として世間に出てのちも、おのれを武家の椙杜家家紋を、着用する資格を有する武家として、肖像を公表しています。 椙杜家が越前藩につかえたという、記録がないうえ、椙杜家家紋の羽織を着る近松が、越前藩に関わりがあったことを、証明する資料がない以上、近松が越前につかえたという説は、まだ資料的には成立しません。
(ホ)別の資料から考えるならば、当時の毛利家は大膳太夫として、後水尾帝以後、衰退した朝廷の賄役をつとめ、御所そばのニ条河原あたりに、長州藩屋敷をかまえています。平兵衛こと幼名平馬は、その京都長州屋敷にて、三塊九卿(一条邸をふくむ)の台所役として、朝廷より雑掌(従六位・註・江戸の近松碑)として、たちはたらきながら、ひまを見つけ、山岡元隣の句会「宝蔵」にも顔をだしたと解釈できます。
(へ)京都と長州の特産物の運搬は、まだ当時は船便が主体であり、長州から北前船で若狭湾経由、琵琶湖をへて、入京という運送経路を、往復したため、のり継ざ待ちのため、越前にたびたび、かつ、かなりの期問、滞在したことが推定されます。
(ト)したがって、この場合、近松長州説と越前説が発生するのは、ごく白然なことと解釈できます。
(チ)なぜ(へ)の発想をしたかというと、単に近松だけでなく、柿本人麿、古くは継体天皇まで、北浦説と越前説があるからです。だれでも知っている移動に長い期間をかけたこの海路を考えると、これらはいずれも、オホーツク海にいたる、暖流の流れを利用した、船による北上船路の、北浦発−若狭湾の越前経由−水路にて京都入りという、当時の運送経路による、柿本人麿、継体天皇また近松の、長州説と越前説の発生と考えられます。柿本人麿、継体天皇、近松、それぞれ越前に、別の滞在地が実在したと考えられます。
(リ)とりわけ萩毛利家は、系図資料としては、登佐子姫が越前にとつぎ、その娘が再び萩藩にとつぐという血族関係を重ねています。越前は近松の往復だけではなく、江戸にゆく参勤交代のための山陽道とはべつの、萩から京都の長州屋敷に、荷物を水路運送する人々の、古来からの重要な中継滞在地であったからです。それは本来は、二条中将をつれた京都公家であり、京都には庇護者の多い大内氏が、けっして下関ではなく、わざわざ北浦の仙崎港をめざして、迷走した理由でもあると推定されます。
 そうした海の流れを、主体にした交通を考えるならぱ、京都長州藩屋敷と萩藩を往復する近松もまた、越前に逗留、在宿期間が毎年あり、長州説とならんで、越前説が存在するのは、ごく当然です。
(ヌ)また長門市に椙杜屋敷ゆえの、近松誕生碑もあり、豊田誕生説資料と対立するかのように考え勝ちですが、付近で幼児期の近松の、生育とかかわったとされる岡本家(もと木村姓。あとに出る大坂屋の旧姓も木村。「近松門左衛門という人」(NHKブックス)に「近松の父は木村長門守というある教授の説」が紹介されていて、近松の生育とかかわったとするこの木村諸家は、当時は木村長門守を名のっていたと考えられ、興味深いものがあります)に招かれ、事情をうかがったところ、ここもやはり、豊田に女が逃れて、寺侍の家でうまれたという伝承があります。当時、出血をともなう出産は、当主の宅内ではされず、別に建てた産所でうむ習慣でした。したがって、彼の孤々の声をあげた場所としての豊田神上寺ふもとの近松屋敷あとと、彼が所属するイエとしての長門市椙杜私宅の、彼の誕生碑とは、別に対立するものではないことが、あきらかになりました。この両本家の付近の茶畑には、あどけない近松が、成長後に劇化したと倍じ得る、情事ゆえに生を傷つけた無名の庶民の、近松劇と同じ事件が発生しています。なお資料として、幼い近松の生育に、かかわったとされている両本家の家紋は、人間国宝とされる、人形浄瑠璃吉田蓑助師匠の、豊竹座の幕の紋と同系の「九枚笹」(藤原北流)です。
(ル)また深川の近くの川棚を、現地調査したところ、非常に歴史の古い人形浄瑠璃一座若嶋座の記録が現存しています。若嶋座の常うちをした祇園神社も、歌舞伎発祥の地とする教育委員会の碑とともに現存しています。この川棚一座は、藩主より士分として、公営免許を拝領しており、殿様観覧の記録もありこの地大津が長府藩主、萩藩主と領主が交代してゆく時代、各藩主の臨席によるお側衆の観覧のコケラ落としを、長門市にいまも現存する、希有というほかない古代ギリシアの、円形劇場型の楽桟敷ですませたのち、西日本全域への、巡演活動にまわったのでした。
 大坂の蜀山人揮毫一の近松碑にある、近松の親友錦江は、名優松本幸四郎の俳名であったことは、冒頭の拙著に公表しましたが、川棚資料によれぱ、川棚雁次郎といわれた市川団次は、市川団蔵の門下です。そして「川棚のいてうか、いてうの川棚か」と世にうたわれた一座の名優松本銀杏(いちょう)こそは、なんとこの松本幸四郎の門下の名女優でした。この若嶋座は、大坂から主演男優をまねいて、彼の終生その指導をあおいでいて、近松劇をたくさん上演しています。大坂で活躍している、無類の世話好きとされる長門深川出身の近松が、若嶋座の大坂興行におとずれ、一座に大坂の舞台俳優の、斡旋をしたことが、これでわかり、世話好きであったとされる近松の姿が、ほうふつとしてきます。当時としては一世一代の檜舞台、大坂道屯堀の興行をさせ、若嶋座を名実ともに、西日本随一の劇団にした、大坂ぐらしの、埋もれ火人生をよしとする劇作につくせぬ、黙々とした陰の苦労があったことを、ふと想うとき、一座が東洋のシェイスクピア近松の薫陶により、いかに西日本有数の劇団として活躍したか、川棚の記録に躍如としています。日本が対アジア交流でさかえていたころ、北浦一帯は西日本屈指の劇団を擁する、中世山口県の文化のセンターでした。幕末いらい、百数十年を経て、ふたたび日本が「脱欧入亜の時代」をむかえた現代、ひとしおの感慨をもって、ただ凝視するのみです。
(オ)拙著「近松門左衛門の謎」をベースに、下関先帝祭近松発案説を研究されている、沢忠宏氏提供の資料を分析すると、当時下関で有名であったこの街の舞妓たちは、下関の大坂屋劇場で、出演しており、それぞれの遊女は、死亡の後、別の事件を取材した近松の、鎮魂のために執筆した戯曲の、ヒロインの名として、それぞれの名のまま、登場しています。色道大鑑ほかをしらべると、当時はこの付近は、長崎の丸山、京都島原を上まわる華やかな舞妓さんの街でした。またこの大坂屋劇場に、近松がかっていた、近松寺のある肥前唐津藩の蔵屋敷があったことを、下関のみもすそ川美術館に、現存する石碑により確認できました。沢氏の研究によると、大坂屋は近松の出身である椙杜家の親戚です。またその稲荷町舞妓街の中心にある稲荷神社には、井原西鶴がお参りした記録があります。今まで西鶴研究では、西鶴と近松の親交の、発端の場所がどこからなのか、霧の中でした。近松が親戚である大坂屋の、肥前唐津藩の蔵屋敷にいて、大坂屋劇場の舞台劇の、シナリオを書いていたとすると、あでやかな舞妓さんたちを、大勢ひきつれて、稲荷神社にお参りする、十歳上の井原西鶴と、近松の出あいの場は、ここ稲荷街の舞妓のなかになり、近松はこの大坂屋劇場と楼閣で、井原西鶴から、戯曲つくりの手ほどきを、うけたことがわかります。近松の作品への西鶴の影響の研究が、ここの出会いをキイワードに、今後また進展します。なお、死後、近松戯曲に登場する舞妓さんたちのモニュメントは、東霊苑に今もたくさん現存しています。また江戸時代と考えられる、もはやくずれかけて緊急保存措置を必要とする埋蔵文化財である珍しい歌舞伎の人形が、発見された亀山八幡宮は、歌舞伎発祥とされる川棚の祇園とつながっていました。
 また稲荷神社には、近松の平家女護ケ島に、登場する平清盛の愛人で絶世の美女とされる常磐太夫の碑が、大坂屋常磐太夫の名で現存。女護ケ島とは、当時の遊廓の隠語であり、壇の浦合戦のあと、白拍子になった舞妓たちのいる大坂屋劇場の、付近一帯にあった稲荷町楼閣で、近松がすでに、平家の女官を、取材していた事実がわかります。この常磐太夫は、先帝祭の上ろう道中の花形であり、大坂屋は、近松の出身である椙杜家の、親戚であるところから、先帝祭がいままで、永統するだけの魅力をもっている理由がわかります。仕掛人は唐津藩屋敷と大坂を往復していた若き文人近松門左衛門と、年上の井原西鶴。後世の日本が世界に誇る、江戸時代の二大天才の合作であったと推定できます。(山口県各地の俗謡、八百屋お七と西鶴との関係については、山口女子大学国文学教授竹野静雄氏が、同大学の研究誌に興味深い論文を、執筆されていますのでご参照ください)
(ワ)なお、近松研究では最高権威の、早稲田大学坪内逍遥記念演劇博物館長の鳥越博士が、すでに長門市の市報に、市に公式に近松係をおくように、という提案をされています。
 以上、近松長州説のその後の研究成果と、現況についてご報告しておきます。(長門市近松懇話会委員)
 付記。なおこれ以前に発見した近松資料は拙著「近松門左衛門の謎」(大阪・関西書院発行)または第七七回地方史研究大会で、研究発表に際して、当日参加された会員に会場配布した資料をご参照ください。
 追記。「歌舞伎発祥の地・教育委員会碑」とされる川棚一座は、島根県から俳優がきており、武家姿踊りで、初登場したとされる歌舞伎の元祖「出雲のお国」は、長門に今も伝わる「南条踊り」を、この楽桟敷で踊っていたものが、一座とともに上阪、道頓堀劇場の晴れの舞台に、颯爽と姿をあらわしたとも解釈され、人形浄瑠璃田部から歌舞伎発祥の川棚一座と豊竹座につながる岡本家に伝わる殿様拝領の、九枚笹裏紋の紋付き。およびこの楽桟敷の、日本演劇史に占める価値は、われわれの想像をはるかに上まわる、かけがえのない貴重な史蹟であると考えられます。

(上記は著者の許可を得て転載しました)


  
五月二十三日 下関文芸誌「海虹」同人作家の集会で
県とともに「生涯現役主義ユーモラス人生」をあゆむ筆者

 
☆ わたしたちは神の宮であって 神のみ霊が自分のうちに宿って居ることを知っている。
 もし人が 神の宮を破壊するならば 神がその人をかならず滅ぼしてしまう。
 なぜなら 神の宮は聖なるものであり そしてわたしたちはその宮だからである 
 だれも自分を裁いてはならない 
 もしあなたがたのうちに 自分がこの世の知者だと思う人がいたら その人は知者になるために愚かになるがよい。
 この世の智恵は神の前では愚かであるからだ 
                                                          コリント人第一の手紙 

                  付 記
 私自身は 正確には故山崎徳三郎さんは知りませんし 老羽仁雅助さんとは 一度あっただけで 深い面識はありません。
 むしろ 
豊田町史編纂委員の故藤井善門氏、同じく豊田町史編纂委員の故安村石邨氏の「近松は深川出身の奥女中が 若君の子を妊娠して 豊田神上寺ふもとに逃げてきて生んだ子。こんなことは 中央の知識人に話したところで わかってはもらえないだろうされるお二人の無念の遺言を 継承して 自分の手と自分の足によってあらためて検証して 発掘した歴史事実を 
中央の知識人に報らせています。
 
その奥女中の下がり宿が 内日にあったのなら 「山口県には 近松長門説 近松豊田説 近松内日説などがある」という通説はあやまりで 豊田町史編纂委員の故藤井善門氏、同じく豊田町史編纂委員の故安村石邨氏の説一説しかなく あとは両氏の死後に現れた郷土史家たちによる部分的な引用による創作バラエテイにすぎないことがわかりました。公史も「豊田町史」以外は 長門市史も内日村史も近松の生誕には いっさいふれていません。
 さいわい 私自身の著作「近松門左衛門の謎}(関西書院発行)は 中央の優良図書審議会により 日本図書館協会選定図書に指定され 新聞やテレビにも何回も登場し このうえない栄光を付与されることができました、(その後、関西書院は倒産。私著はその後 発掘した史料を加えて「若き日の近松門左衛門」という書名で 叢文社より発行)。
 しかし
鳥越先生は 西欧の青い目の近松研究者をひきつける早稲田大演劇博物館尼崎の園田女子学園近松研究所と 
山口の近松研究機関との三点セットによる近松研究ネッツトワークと、シエクスピアの生誕地にして 世界的な観光保養都市ストラッドフオードににて 東洋のシエクスピア近松の生誕地として、温泉保養による長期滞在都市 第二のストラッツドフオード山陰づくりを 夢みておられただけに 当時の藤田光久長門市長の落選による挫折は 鳥越先生にとっても 長期滞在者による温泉保養の学術観光都市をめざした長門市や下関市への 飛躍的な発展にとっても それによって当然 もたらせるはずだった利益の損失は ちいさくはないでしょう。