"    「山のオバコ」・秋田おばこの起源
                     
                 宮原 英一

 故菊地敬一さんの「みちのくの女たち」によると、かって東北にも 山窩(さんか)がいたという。
 山窩は 小集団で 独特の文化と風習をもち 山沿いに漂泊する無籍の民で、籠や山のけものの皮を売ったりしてくらしていた。
 ある山ふところの山窩に「山のオバコ」という美しい娘がいた。オバコはたぐい稀れな美貌の娘だったから 村のわかものは きそいあい言いよるのだった。
 オバコはオバコで そのだれかれの差別もなく応じていたから 村のわかものたちはオバコ無しでは暮らせないほどに 夢中になっていた。
 村の年寄りはたちは これをみて
「困ったものだ。オバコを何とか始末しなければ・・・」
 ということになり、ひそかに相談のうえ、
「今度行くお伊勢参りに オバコもだまして連れだし オバコを琵琶湖に沈めてしまおう」
 ということにした。
 そんな残忍な相談がされているとは 露しらぬ愛らしい山窩の娘のオバコは 喜々として 一行に加わった。途中で
「三井寺に参るから」とて 一行は あらかじめ計画していた船で 琵琶湖にのりだした。琵琶湖のまんなかに来た時 かねてからのうち合わせ通り 船をとめた村人たちは騒ぎたてはじめた。
「船が動かなくなった。これは竜神の怒りだ。人身御供をださねばならねえ」
「みんなで自分の手ぬぐいを湖になげろ。沈んだ手ぬぐいの持ち主が 人身御供になるのだぞ」
 村人達はあぶら汗のついた手ぬぐいをいっせいに湖になげた。オバコは洗ったばかりのきれいな手ぬぐいをなげた。
 オバコの手ぬぐいだけがしずんだ。
「オバコだ」
「竜神はオバコを欲しいと言っているのだ」
 村人たちは よってたかって オバコを琵琶湖につきおとして いそいで船をすすめた。何の罪もない山窩(さんか)の娘を湖に沈めて 殺ししてしまったのである。
 湖の水がさわぎ大波がたった。村人達はおどろいてうしろをふりかえると オバコが 竜神のツノにつかまって 湖の上に浮きあがった。
「だましたのねえ。このウラミは かならずかえしてやるから」
 オバコはそう叫んで 湖の底に沈んでいった。
 なにも知らない村のわかものたちは オバコの帰りをまっていた。
 しかし いつまでたっても オバコの家の戸は しまったままだった。 
 
 オバコ このごろまだ見えぬ。
 かぜでもひいたのかや
 オバコくるかと
 山のほうばかりみて 待っている・
 
 と わかものたちは歌い 慕情をなぐさめた。
 山窩というのは 古い時代の奴婢のながれだとか 傀儡(くぐつ)という人形師の芸人の子孫だとか あるいはマタギの一族だとか 先住民の子孫だとか いろいろ いわれているが はっきりしない
 いずれにせよ 一般住民とは異なる 差別の目でみられていたという。しかし この伝承には 差別のもっと向うにある一種の畏敬心がうかがわれる。
 とくに わかものたちのオバコへの慕情には 社会の規範を超えた 人間の原初的な情念の美しさが光っている。
 これが「秋田オバコ節の起源だといわれている」とは菊地さんの伝える伝承である。
 秋田おばこは 秋田のもっとも有名な民謡だ。
 その起源が「山窩」といわれる漂泊の流浪の民の 美しい娘を殺した村人たちに 端を発していることを知り、いまだ解明されていない少数言語集団の山窩が東北・奥羽地方にもいたという歴史や山窩の民の苦難の歴史を わたしたちは知るのである。

 菊地氏のお住まいのある岩手県和賀に電話してみると 未亡人が出て「主人はとうに亡くなり、もう五回忌である」という。
 故菊地敬一さんは、岩手文庫で活躍されていたみちのくの民話伝承者だった。
 その岩手文庫も とうに解散している。
「今は 主人の書いたような地味なものを、読む人はいなくなった。主人の作品を引用してもらえば もう 忘れ去られている亡くなった主人も どんなに喜ぶでしょう。娘のお婿さんが 山口県出身で 千葉に居る。これも何かのご縁でしょう」と著作権は主張するつもりはない旨 しみじみと語られた。
 
  奥羽山麓の民俗舞踊団一座の伝承

 菊地民話には この傀儡くぐつ師たち山窩の末裔か、奥羽山脈の山ふところのムラには「あねこ踊り子」という 年頃の娘たち 十五 六人の民俗舞踊と 民謡の一座があり、雪がやってくる頃から、雪の消える春先まで 青森から山形あたりまで 巡業して稼いでいたという。
 ツヤ子という 今なら「ミスみちのく」になれるくらいの かわいい娘がいて ムラの八幡サマの境内に 舞台をかけて 村人に公開するならわしだったが ツヤ子の「秋田音頭」がいちばん人気があった。
 舞台を もみじの枝でかざり、ガス灯がまばゆく照らす中で ツヤ子が 豆しぼりの手ぬぐいで 泥棒むすびして かわいく鼻先でむすび 衣裳の裾をはしよって 白い股倉をちらつかせて 銀紙を貼ってつくった出刃包丁で、手ぎわよく踊ると わかものたちは「ホーホー」と さわいで囃したてた。
 ツヤ子には 俊次という海軍兵の許婚がいた。
 戦争がはげしくなり 踊り巡業も 今回かぎりになり 丁度 ツヤ子の許婚俊次が 海軍から一日だけ 帰郷してきた日だった。ツヤコは 自分の踊りの出番を気にしながら 八幡サマの裏山に 隠れて もみじの下で俊次とあった。
 呼び物の秋田音頭の踊りが はじまった。
 ツヤコは踊りながら 途中で ハッと気がついた。
 俊次に抱かれときに脱いだズロースを 八幡サマの裏山の紅葉の木の下に 忘れてきたのだった。
 ツヤ子は 必死に股倉を隠しながら 踊っていた。
 その時 見物人のなかから 長い紅葉の枝をつき出した連中がいた。
 その枝の先には ツヤ子のズロースが ぶらさがっていた。
「俊次 よごしたぞ」
 と やじられた時 ツヤコは踊りをやめて そのズロースをひったくりながら 
「こったなもの いらなかったよ」
 といって 長い舌を ペロリと出し わかものたちは 手をうってはやしたてて喜んだ。
 その翌年。俊次は死亡した。
 飛行兵を志願して 訓練中に墜落事故で 死んだのだった。日本が真珠湾攻撃する直前のことだった。

 ツヤコが むらの端をはしる鉄道の鉄橋から 投身自殺をしたのは それから一ケ月後のことであったという。
「もったいない。いい女だったな」
 と 若者達はいっていたという。
 まだツヤコが死んでから そんなにたってはいない。
 みちのくの奥羽山脈のふもとの村の「あねこ踊り子」という 年頃の娘たち十五六人の 民俗舞踊と民謡の一座の伝承である。


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