|
日本図書館協会選定図書に指定された私著「近松門左衛門の謎」
(関西書院発行・倒産につき絶版 )より抜粋 |
|
|
江戸の随筆家暁晩成の「晴翁漫筆」によると、大阪で死没した近松は 大阪の法妙寺に葬られた。法妙寺は 大田蜀山人が野田梅園に依頼されて「近松は長州萩藩の人」と彫った 等身の二倍くらいの大きな石碑を建てた。その碑はいまも 大阪市教委の案内板とともに、大阪大東市の法妙寺に現存している。「晴翁漫筆」によると、「尼崎市広済寺の近松の墓は、もともとは大阪法妙寺に埋葬されていたものを 後に広済寺に移転したものだ」とある。ただし仏教は分け墓制になっており、大阪市内に数ケ所ある近松の墓もふくめ、同一人物の貴人の分け墓は全国各地に建てられている。したがってどれも近松の墓であるというほかなく、分け墓制には、墓の真偽論争はなじまない。
大阪市立大の森修氏の論文によると、「近松は大阪で死亡したのに 系図にはナント京洛で死亡したと まっかなウソが 書いてある」という。これでは近松は福井生まれという系図の近松の生誕地も死没地も、信憑性がまるで、なくなってしまう。
大阪人には「大阪文化の産んだ近松だから 近松は大阪にかえすべきだ」と主張する人が多い。
歳時記で、「近松は長州でうまれて大阪で死没した」と一貫して譲らない句聖 高浜虚子らとその弟子たち(参照・三省堂「歳時記」・講談社発行 監修・水原桜桃子・山本健吉ほかの「カラー現代版 大歳時記」の 近松忌の項が一貫して不変であることにも なっとくができる。
|
|
|
|
平成六年十月、日本図書館協会選定図書に指定された当時関西文学同人作家だった私著が指摘した問題 |
|
|
|
|
● 系図は 越前杉森家に甲乙丙資料として三通ある。これらが越前説の学者がよりどころにしてきた近松越前生誕説の系図をみよう。
甲と乙の系図では、近松は越前藩三百石の藩士杉森信義を父として、長男に智義 次男に近松(信盛)。三男には東洋医学の数々の著作で有名な医師、岡本一抱(伊恒)を配し、近松は三人兄弟の次男になっている。しかし何ということだ。同じ杉森家の系図丙では、近松は末弟に為竹をくわえた四人兄弟の次男になっている。(岩波「近松への招待」参照。)
三枚の系図は 同じ杉森家にあるのに 二通は三人兄弟で、一通は四人兄弟だ。
この系図作成の経過は 早稲田演劇博物館長鳥越文蔵氏の「虚実の慰み・近松門左衛門」に書かれている。
鳥越文蔵氏によると、「この系図は 明治になり書写したとあるが、その原図はない」というのだ。つまりこの系図は 代々書き継がれてきた系図に 近松を書き加えたものではなく、近松の死後百年以上も経た明治になって「新しく作成された系図」なのである。
もっとも明治は、系図屋が門前市を為したといわれている時代だった。この系図もそれら系図屋が 過去の有名人を適当に配置して作成した系図のひとつだろう。そんな系図を 金科玉条にして近松の生誕地を論じる学者たちさえ いなければ、罪のない庶民のアソビの話なのだ。
|
|
|
|
越前説の根拠とされている当時大阪市立大の森修氏の「杉森家系譜と親類書について」という論文から |
|
● 鯖江市資料館より提供された 越前説の根拠とされている当時大阪市立大の森修氏の「杉森家系譜と親類書について」という論文から 原文のママを抜粋する。
氏は「福井県立図書館の職員数名の 一週間にわたる協力を得て」調べたとある。
★ 一、杉森家系譜によると、近松の父信義は 三百石を取っていた人で、忠昌から吉品に仕えている。忠昌の死後、正式に吉品に従うことになっていたのであれば、「越藩史略その他の越藩資料になんらかの記録を とどめているはずである。
わたしが調べたかぎりの越藩資料の中からは、近松の父とされている三百石の杉森信義に関する記事を 発見するのは 不可能であった。
★ 二、「越藩諸士元祖由緒書」は、浅井家滅亡の後に 浪人してかかえられたというように 杉森と似た経歴の人も あげられている。また知己の肝いりで、仕官した例も、「越藩諸士元祖由緒書」に挙がっている。それをみると 総数四百十四人中 松平忠昌によって、召しだされた氏名は 百三十人も挙がっている。その中には、もちろん岡本為竹もあげられている。
しかし、父とされている杉森信義の名だけがなかった。
★ 三 系図丙の「信盛こと近松という文字は、活字に似た文字で、明治末か、大正はじめに書き加えたものである」
★ 四 近松は大阪で死没したのに、この系図は「京洛で死亡した」と 死亡した地まで真っ赤なデタラメが書いてある。 |
|
|
|
以上は、当時大阪市立大森修氏の近松福井生誕系図批判の論文から 原文のママを抜粋した。生誕土地も嘘なら 死没地も嘘の系図。にもかかわらず 越前生誕説の「系図を信じる」とされる学者も 所詮は 本人の実存的な自由である。 |
|
|
|
|
どこの電話帳を見ても、杉森という姓は珍しい姓ではなく、あまりにもありふれている姓だ。
前記 大阪市立大の森修氏の論文によると、「いろいろな解説に、系図の中味を証明する文献としてあげられている俗書「俗耳聾記」にあるのは「杉森作衛門}であり、系図にある杉森市衛門」ではない。似てはいるが、同一人物ではない」と森修氏は明記されている。 |
|
|
| ● なお、明治末か大正はじめに「信盛こと近松」と活字に似た文字を書き加えた別紙が貼りつけてある改竄系図は 2004年末、大阪よみうりテレビの「追跡 文豪・近松の謎」により撮影され、同テレビ・エリアの兵庫県・大阪府・京都府 奈良 和歌山県等、関西一円の家庭のテレビ画面に 大きく映しだされ、不特定多数の市民家庭のビデオに 収録されている。 |
j
まだ、近松の作品「用命天皇職人鑑」の題材になった柳井市・大畠の用命天皇の揮毫額のある般若寺や、題材となった般若姫伝説がある瀬戸内海の三大渦巻きや、大阪屋劇場が境内にあった下関市法華宗本行寺や山陽地方に散在する念仏躍り(歌舞伎の始祖
出雲のお国が 京で喝采を浴びた踊り? 山陽に無数にある)など たずねて見なくてはならないところがかなりある。交通事故してここのところ 足がないのが痛恨のきわみだ。 |
|
|
参考資料 |
|
|
近松は長門で生まれて、享保九年大阪に没 |
|
|
監修 水原秋桜子・加藤楸邨・山本健吉「日本大歳時記」
・ |
|
|
 |
|