書評近松洋男著「口伝解禁・近松門左衛門の真実」を
題材にした近松越前生誕系図への批判
「大阪読売テレビ撮影余談」  
下関市豊田町、神上寺前の近松生誕記念碑まえにて、宇崎竜童氏や大阪読売テレビ・スタッフとともに
 むかってて左から、読売テレビ制作局中川エクゼクテイブプロデューサー・筆者・宇崎竜童氏・小野デイレクター、日本放送作家協会常務理事南川泰三氏
                    特 報
 
 二千六年五月。30万中核都市、下関市連合自治会は年一回発行の機関誌「わくわくタウンしものせき」に、このホームページを基礎として「近松は下関の人」とする数々の写真と解説による数ページの近松特集を、下関市内全戸に配布した。都市合併により 近松の生誕した豊田町神上寺麓の江良は 下関市豊田町江良になったからである。
 二千六年一月三十日、山口県庁から 山口県総合政策局広報広聴課長と同主査が、美祢市の宮原家にご来訪。山口県の広報誌「ふれあい山口」の本年度十一月号と十二月号の二回にわたり、「山口県の近松」についての短文を、連続執筆した。。
 「ふれあい山口」は 山口県の広報誌として山口国民文化祭週間に 県下各地の行政を通じて、山口県下の全戸に 洩れなく配布された。
 近松の山口県生誕は、すでに文化庁公認の「近松のふるとさとづくり文書指定」というお墨つきがある。
下関市は「近松生誕のまち下関」を宣言
 
ともあれ「防長が世界に誇る山口県生まれの作家の氏神、近松門左衛門」は、次は山口県の広報誌「ふれあい山口」の県下全戸配布により、ここに山口県民の全家庭に ゆるぎない草の根をおろした。

「大阪読売テレビ撮影余談」 宮原記

  2004年の年末に「大阪よみうりテレビ」により 同テレビエリアの兵庫県・大阪府・京都府 奈良 和歌山県等関西一円に 日本図書館協会選定図書に指定された私著「近松門左衛門の謎」をべースにした「追跡 文豪・近松の謎」を撮影 放映するために、大阪よみうりテレビの小野デイレクターほか三人が 打ち合わせにこられた。
 その時に 小野デイレクターに 「前年十月に 中央公論新社からだされた京都外語大名誉教授近松洋男氏"の「口伝解禁・近松門左衛門の真実をどう思うか」ときかれた。
 筆者も以前に購入していたが 歴史研究者としては 内容があまりにもデタラメなので 読み捨てにしていたが、「さすがに 京都外語大名誉教授だけあって、出版資金が桁違いに豊富で こちとらのような零細出版社による本とはちがい、大手の中央公論新社から出されたのを 羨ましいとは思うが、内容としては 荒唐無稽な著作だ」と、偽らない感想をのべた。
 しかし さすがに 関西三都の視聴者に責任のある大阪よみうりテレビのスタッフだけに、私著「近松門左衛門の謎」をべースにした「追跡 文豪・近松の謎」を撮影、放映するための事前準備として
突然 あらわれて 自称「近松門左衛門の九代目をとなえている近松洋男氏」の書いたものの要点を、調査しておられた。、

「第一」に 小野デイレクターが 京都にしらべにいってみると、近松洋男さんの主唱される京都の杉森家一族の墓は、なぜか撤去されていて 影も形もなくなっている。撤去した理由は 当事者ではないわたしたちには わからないから、「撤去されている事実」だけを 広く公開して、何故撤去されたか。このホームページの読者個々が、主体的に判断されるしかない。
 
第二」に、小野デイレクターがスペインにまでゆき 「口伝解禁・近松門左衛門の真実」に、近松洋男さんが記載されているスペイン関係者を、逐一あたってみたが 「近松とスペインの関わりを証しする証言も 史料も何ひとつみつからなかった」と 報らせてくれたことも「事実として」 ここに記録しておこう。

「三つ」には、近松洋男さんは「近松洋男家の祖先には、赤穂討入りの一人近松勘六がいて、それが 幕府にばれたら危険だから 二千年のいままで 文書ではない口伝で伝えてきた」といわれる。そして「近松門左衛門は 赤穂討入り義士大石内蔵助と親交があり、近松は大石内蔵助にたのまれ、赤穂の製塩の秘法を 長門に教えるために 長門に行ったのだ」という。(山口県の塩は長門部ではなく 周防部の防府の塩田により発達したことは 山口県人には常識だが 農学士の近松洋男さんは そうした歴史にはくわしくない)

 

2007年6月17日 追加史料
山口県は 赤穂ではなく周防の「三八換持製塩法」
 むろん「近松家代々の秘密」でもなく 産業功労者として。大正に 従五位の褒章
 近松洋男さんは「近松は大石内蔵助にたのまれ、赤穂の製塩の秘法を 長門に教えるために 長門に行ったのだ」と力説されるが・・・・・
防長の製塩は 周防の田中藤六による発明の「三八換持製塩法」として有名。 
 たとえ大学教授だろうと 三八換持法を創造した先哲の血のにじむような努力による製塩法発明の功績の横取りは決してすべきではない。
 防長史には 防長ッ児が誇りとする「三八換持法」を 明和八年十月、藩政府に建議し 製塩を再興した産業ヒーローゆえに、大正四年十一月十日、従五位を贈られた中関の田中藤六氏がいる。別にそれは「代々の秘密」でもない・
 防州における製塩業 一時盛んなりしが 後に大いに衰ふ。時に中関の人、田中藤六なるもの、三八換持法を明和八年十月、藩政府に建議。奮励ことにあたり、ついにその業を再興。盛大にいたらしむ。
 藤六 大正諱四年十一月十日 従五位を贈らる。
史料、時山弥八編「もりのしげり」毛利氏史要年表 「製塩業再興」より
 「防長文化氏史年表」によると 大石内蔵助ら失業した赤穂浪人たちが、吉良邸を襲撃。赤穂浪人岡島八十衛門ほか赤穂浪人たち十人を 長府藩が預かったのは 元禄一五年(1902年)一二月一五日。切腹させたのが翌年二月四日だ。
 長府藩家老椙杜家ら 長府藩には親類の多い近松が「碁盤太平記」(後に後継者竹田出雲により「仮名手本忠臣蔵に改訂)として 赤穂失業浪人の吉良邸討ち入りの顛末を取材するには この「赤穂失業浪人たち長府藩預かり}は 作家として 聞き語りを創作するには 絶好の機会だった。
 しかしそのころ、近松洋男さんのいう「塩の道塾」なるものがあったという根拠史料もないし 近松洋男さんのいう「近松が大石内蔵助と親交があった」という史実も伝承も皆無である。

 

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「何事も自分の目で確認する」ために「追跡 文豪・近松の謎」のナビゲーターの宇崎竜童氏が、四十七士の位牌を安置している寺にゆき、直接 そのことを尋ねたが 寺としては テレビカメラの前で「大石内蔵助が近松門左衛門と親交があったなどという話は 聞いたことがない」と、宇崎竜童氏に近松洋男説を一蹴された場面が、この「追跡 文豪・近松の謎」で 大阪読売テレビにより、兵庫、大阪、奈良 京都、和歌山県の 関西三都の放映エリアに放映、関西っ子の各家庭の無数のビデオにそのカットも 録画されている事も お報らせておこう。
 したがって 「近松門左衛門が 大石内蔵助にたのまれ、赤穂の製塩の秘法を教えるために 長門に行ったのだ」という「口伝解禁・近松門左衛門の真実」は 根も葉もないツクリゴトである。
 また「口伝解禁・近松門左衛門の真実」225ぺーじの年表には {1675年。門左、塩の道塾を終了。塩の道づくりに従事し、長門国深川に赴任。北国航路を開拓する」とある。
 山口県民も 長門国深川の市民も {近松に塩つくりをならった}などという荒唐無稽な話は 今まで聞いたこともないし、いかにも世間のせまい大学教授らしく「塩の道塾」なるものを設定されたが、しかし「塩の道塾なるものがあった」ということは 誰も聴いたことはなく うらづけとなる史料はない゜

 
系図で次男とされる近松と三男とされる岡本一抱は
三十三年の生誕年齢差(国史人名辞典)
四つ」には「口伝解禁・近松門左衛門の真実」222ページの年表には、国史人名辞典に1686年うまれと記載されている岡本一抱を 近松のうまれた二年あとの1655年まれに改ざんしてまで むりやりに兄弟にしているという オソマツなツジツマあわせの年表が 麗々しく添付されている。
 岡本一抱は 医学の名著もある有名医師だ。医師一抱の生年を勝手に変更して 医学史まで混乱させるのは いかがなものか。

「国史人名辞典」によると 近松は1653年うまれ、岡本一抱は1686年うまれであり、近松と岡本一抱は 生誕年齢差が 三十三年もあり とうてい兄弟とはいえない。
 筆者は「これでは 長男と四男の年齢差は 半世紀近くなってしまう。
 
三十三歳もちがう次男と三男の関係はありえない」と、月刊「歴史読本」(九三年八月号)誌上で 近松越前生誕説批判を指摘した。

 
宇崎竜童氏や大阪読売テレビ一行とともに わが家に訪ねてきたシナリオライター 南川泰三氏のブログホームページ「南川泰三氏の隠れ家日記・ブログエッセイ「猿の手相」によれば、「近松門左衛門の出生については、最近は福井説と山口説に絞られていて、学者たちはおおむね福井説を支持しているが 学者たちは、この近松洋男さんの著作「近松門左衛門の真実」を無視。読もうとはしない学者さえいる。何回の裏付けのない口伝など学問の対象にならないのだ」と書いている。
 ふりむいてくれる人もないらしいから、およそ論評する必要も ないのかもしれない。
 

第一回「近松in長門」発足に至る経過
 
 
 当時、早稲田大学坪内逍遥記念演劇博物館長にして、長門市長の諮問機関「山口県長門市近松懇話会」の会長だった鳥越文蔵博士による長門市近松懇話会(会場・長門市湯本・大谷山荘への報告」によると 
 
 鳥越氏は このページに大意述べた筆者の
月刊「歴史読本」(九三年八月号)誌上での 近松越前生誕説系図批判について、「早稲田大坪内逍遥記念演劇博物館長として、福井県側にも「歴史読本で 全国津浦々に紹介した 山口県の宮原氏の{史料による近松長州説}に反論すべき 「江戸時代当時の第三者により 公的に記録された近松越前生誕説史料があるなら、公開して、ここで新しい世紀に向かい「近松学」という学術的な体系を築くため 学問的で民主的な公開討論をしようではないか」と、福井県に 足をはこばれて何回となく 福井県側によびかけた。これに対して 福井県側としては「近松と岡本一抱の三十三年の年齢差や、大阪で没した近松が「京洛で没した」などと 嘘が書いてある「明治につくられた系図の作成過程の作為」を、世間に暴露されてしまった今、裏づけのある公的史料で 反論できる江戸時代史料は 何もないとのことであった」長門市近松懇話会に報告をされた。
 
 長門市長の諮問機関「長門市近松懇話会」
鳥越文蔵座長による福井側のこの報告を受けて「第一回近松イン長門の開催」を決定長門市議会の承認を経て 文化庁による「ちかまつの古里づくり事業」の公的指定を受けた。
 
美祢市在住の筆者には、詳しいことはわからないが、藤田市長によると
「長門市議会は満場一致の承認」。山口県教育委員会後援ほか 関係各機関の後援により発足
 「第一回 近松イン長門」の開催を決定
した。
 
そして七十億円を投入する 県営古典芸能劇場「ルネッサ長門の建築」が 決定された。

 
美祢市にいて、年に一回「長門市近松懇話会に出席するだけ」の筆者は、七十億の公費をつかうハコモノ、西日本最大の古典芸能劇場を長門市に建てるということを 誰と誰がどこで企画して決定したかは知らない。ただ「長門市近松懇話会委員として西日本最大の古典芸能劇場を建てることになった」という藤田市長の事後報告をきいただけだ。県営古典芸能劇場「ルネッサ長門」が新築された時は、全国から押し寄せる見学者のため、湯本 俵山温泉の旅館、萩や美祢市の旅館まで超満員になった
 だが さまざまな情報がとひびかい、藤田光久市長は、僅少の差で落選した。
 
全国から押し寄せる、東京国立劇場と内装が同じのルネッサ長門見学者のため、湯本 俵山温泉の旅館、萩や美祢市の旅館まで超満員になり、前途洋々の長門市だっただけに その立役者 藤田光久市長が、なぜ落選したのか、他市の住民である筆者には わからない。
 

 
むろん それより十数年前から 一人で県立図書館の膨大な国書類を コツコツしらべてきた近松文学の研究発表の場であるこのホームページは、開設のはじめからいまも どこからの財政援助もなく、むろん長門市の政争には関係なく、あくまで「近松学という学術体系を築く」という「初心」を貫いており しかも美祢市という他市の市民なので、長門市の政争には まったくの無関心だ。
 
 
鳥越博士は 脱落した福井を除いた早稲田大演劇博物館・尼ケ崎市園田大近松研究所と「近松の里山口県」との「三点セットによる社会教育ネットワークの形成」と 長期滞在者による温泉保養や近松を通しての歴史観光に「世界中からやってくる青い目の長期滞在客による白人観光客による繁栄」を 企画され、シェクスピアの生誕地として、世界的な観光地ストラッドフオードにも 数回訪問。アメリカや西欧で 毎年開かれている近松シンポジュウムにも出席。
 駐英日本大使館を仲介にしたストラッドフオード市との「日英文化の推進と繁栄の両輪となろう」という姉妹都市の縁を築いた。
 そして 東洋のシエクスピア・近松の生誕地として 世界的な観光地ストラッドフオードにつぐ「第二のストラッドフオードを 山口県に築かむ」としていた。
 すでに 長期保養者むきの温泉地帯はあるし、公害に汚染されていない響灘という有数の風光明媚な日本海沿岸という 長期保養には最適の地でもあり、それは{実現可能な「世界の文学研究者による東洋のシエクスピア近松研究のための保養」という長期滞在者たちによる社会教育ネットワークと温泉保養や海浜保養が結合した街づくりの夢}
だった。

「市長選の得票数は 「松林市長派と反松林派は僅少差で、辛勝していて ほぼ拮抗している」というのが現実で「近松による町おこし派」が とりわけ商工会関係者を中心に根づよいと語られている。藤田光久氏は、その後 二回目の市長選に出馬したが やはり僅少差で落選した。


 
ここに近松生誕地に関しては、他の近松関連県市にも また 長門市議会の満場一致の賛同という組織的な順序をふみ、「近松イン長門」の開催に至った経過を 永遠に刻んでおく。

 結果として長門市による「近松の世紀の国際的な街づくり」の挫折と、姉妹都市として、ストラッドフオード市長邸での歓迎会にまねかれたりして、着実にすすんでいた「第二のストラッドフオードづくり」という長期滞在客による国際観光都市にする」という「実現可能な壮大な街づくりの夢」が、為政者の交代により「夢のまた夢」になった。それにより得べき利益の損失を受けるのは ほかならぬ長門市民である。
   
下関市が長期滞在客の獲得をめざして「下関は近松誕生の町」という年一回発行の自治会連合誌を全戸に配布
。 
 大阪読売テレビもKRYテレビも さまざまな新聞、雑誌社も「近松の生誕問題では 宮原文庫が一番 史料による裏づけがしっかりしていて完璧だ」といって訪ねてくる。
 したがって、わたしの「近松長州説」は、それを裏づける江戸時代の史料が稀観本として わが家の文庫に 無数にあり、史料も「近松長州説」も 江戸時代にさかのぼって 抹消したり 変更することはできないので、長門市の政争の勝敗とは 関係なく変わることはない。
 もともと 近松の生まれたところは、現下関市豊田町神上寺麓である。下関市の連合自治会が、美麗な写真満載の自治会連合紙「わくわくタウンしものせき・近松特集」を、市民全世帯に配布。北九州百万都市とならぶ県下最大の都市下関市が「近松の生誕地」として、近松関連史蹟めぐりのできる「近松ネットワークに参加する」と内外に宣言」した。
 下関にも川棚・豊田、一の俣温泉がある。
 フグも魚も美味く、大学の研究機関もあり、近松史蹟めぐりも 泊まりがけにするほど豊富だから、社会教育ネットワークと温泉保養とグルメ志向を兼ねた長期滞在客の町に変身すべく、まず草の根の市民に「近松が生まれた町」としての 観光マップづくりの根まわしをしている。
 本来 長期滞在客の誘致は 湯本温泉や俵山温泉などの悲願であったはずだ。
 長門市長選の前後には 藤田陣営と対立していた松林陣営から「われわれは 宮原先生の近松思想には まったく賛成であり、ただ藤田市長の政治手法とたたかっている。いかにも松林陣営が 貧しい人達の味方、なきに等しい存在への味方であった近松に 反対であるかのように、マスコミが書いているが マスコミにだまされないようにしてほしい」という電話が 下関の「海虹」という文芸誌の編集長が 遊びにきているときに 二回もあった。
 萩の宮木さんというカトリック信徒の妻は、筆者の親戚の元三隅町長森沢雄二の娘で、その宮木さんと松林長門市長は従兄弟だ。松林長門市長は林派の秘書だった。筆者の妻の実家の姉は千葉に居て、二井山口県知事の母上とは実の姉妹だ。ときどき 千葉から宇部空港に降りて、宇部興産につとめるわが娘に電話して、二井知事の母上らとともに 娘の車で県内を案内させる。山口県人は 竹藪の竹の根のように人間関係がつながっていて、表層の事象しかかすめられないマスコミにはわからない深層の情報の渦だ。そんなわけだから、「反近松派松林市長が当選した」という新聞報道を信用してはいないし、松林市長自身も「近松による街づくりをやめるつもりはない」と、当選後に声明している。
 ただフイッシュケーキとよばれているほど、ヨーロッパの食品市場にはいりこんでいる「藤辰の焼きぬき蒲鉾」の社長だった藤田光久前市長ほど 西欧にゆく行動半径がないというだけだ。
 何か事を起こすのには、先行投資は不可欠だ。本来なら 鳥越構想にしたがって、いま響灘に面した温泉地帯として、国際観光都市第二のストラッドフオードへの道をあゆんでいるはずの 長門市。三十万中核都市下関市が、近松文化の長期滞在客の町になるのかも知れない。
 長門市は いまは「県下随一の高齢者の街」になり、「人口は合併以前の時の長門市人口まで減る」といわれている。「街はその町の選挙民にふさわしい行政府をえらぶ」という。
 民主主義は 反面「愚民社会だ」ともいわれる。
 長門市長選の結果についての判定は 後世の歴史にゆだねることになる。

            当時長門市近松懇話会 学識経験者委員 宮原記

 注 長門市には 鯖江市の近松推進派市長が落選したあと、鯖江市新教育長ほか鯖江市民一行が ルネッツサ長門との交流、視察にこられて激賛しておられた。ただ「まさか 歌舞伎・文楽が世界文化遺産になろう」とは、当時は長門市や鯖江市の政治家センセイは予測もできなかったらしい。
 
叉 実弟が中央レコード界で活躍した 金子みすずに関しては、童謡詩人というのに なぜか「みかんの花咲く丘」や「赤とんぼ」のような 長く歌い継がれる童謡特有の何かに欠けていて 「文芸山口」や「風響樹」や「火山群島」など、県下の文芸同人作家には ほとんど 評価されていない。ために 「数奇な運命に翻弄されて自殺したみすずに同情すべき面はあるにせよ。みすずの詩そのものは 詩としては すぐれているとはいえない」という批判が 県下の文芸同人作家には 広く散在しているらしい。
 長門市の隣り町の 美祢市教育委員会も 人権教育推進大会で わずか数年間 優秀作文に「金子みすず賞」を授与していたが あまり 評判が芳しくないのか まもなく「金子みすず賞授与も 選考」は立ち消えになり 久しい。
 市の行政区画を 一歩出た美祢市においててすら 金子みすずへの関心は このように ほとんどない。
 それにともない、 「自殺に至るみすすの生涯や生い立ちが 数奇であるというだけで みすずの詩そのものは そこらの女学生ならだれでもかけるていどのもので、かならずしも詩として すぐれているわけではないらしい」という懸念が 一般市民にあるらしいが、長期滞在者のすごす「近松ゆかりの地」という街づくりを放棄した以上は「長門市民が みすずに真に心酔して 大いにみすず振興に邁進するのがいいだろう。
 ただ 街づくりの題材としては 若くして性病をわずらい 自殺したみすずのことは 文芸や詩にまったく興味のない人までも スキャンダラスに 陰にこもり 永久に 広く伝播する一方である。
 しばらくは忘れられていた「長門市仙崎が かっては 赤線地帯だったこと」まで みすずの自殺に付随して語り起こされつづけ ダメージになる結果になり、長門市のシンボルのように みすずを推奨するのは 「教育上 いかがなものか」という 草の根からの声が強いという。 

 

 
下記の大阪教育委員会の案内札
のたつ大阪府大東市法妙寺にある「近松門左衛門は、長門萩の人なり」と
平安度近松翁 長門萩之人・・・仲善医称岡本一抱子叔為翁。と大田蜀山人の江戸時代の巨大碑がある大阪大東市の寺法妙寺と
同寺の大阪市教育委員会案内板  写真提供 伊能千恵子(大阪府地域誌「まんだ」編集部)
 上記の大阪教育委員会の案内札のたつ大阪府大東市法妙寺にある「近松門左衛門は、長門萩の人なり」とんだ大田蜀山人こと江戸幕府役人大田南畝の書いた巨大な近松碑は「近松は一抱の叔父」「仲善き師弟」と記されているし 東京柳島妙見で 石碑が発掘され、東京墨田区業平の妙見山法性寺で2006年(平成18)五月ごろ 披露が予定されている 発掘姿のままの近松供養碑の原文 江戸の文人近松繊月の「近松略伝」では一抱は近松の舎弟である」とされていて、記述者がそれぞれ別人による江戸時代からの近松長州生誕の記録は いずれも 近松と岡本一抱との三十三年の出生年齢差と矛盾しない。
 明治になってつくられた近松越前生誕説系図を 踏襲すれば 近松と一抱との三十三才の年齢差が 自己矛盾になるが、近松長州生誕説の江戸時代の文人たちによる近松と一抱は「伯父」とか「師弟」なので 
三十三才の年齢差が逆に 鮮やかに浮き彫りになる。
  標準語がなかった当時、作家は自分の訛りのまま 書くしかなかった。日本方言辞典でしらべると、近松の作品はなんと二百をこえる防長地方訛りや佐賀なまりで書かれているが、越前地方訛りは、近松
の作品には 見出すことが困難である。
 「人は語らず 史料をしてかたらしむる主義」のわたしの近松長州論は 史料のうらづけがあり、日本図書館協会選定図書にも指定されているが、「口伝解禁・近松門左衛門の真実」に、わたしの著作や私の史料ホームページ「近松門左衛門の生誕地の最新史料」が 引用してある関係上、この一文をもって、自称「近松の末裔」とするこのご老人の著作への書評とする。
 むろん 言論出版は自由であるから、ご老人の筆をとがめるつもりはない。
 もっとも 近松没後に三百七十年も経て 突然 近松門左衛門の末裔をなのりでたこの人が、東洋の文豪 近松門左衛門の末裔だとみとめる近松関係者は、いまのところ 越前説の学者にも皆無だ。
 文楽についで、歌舞伎も ユネスコの世界精神文化遺産に指定された。最近の日本人には もう近松の本は 難解で読めなくなり、忘れ去られている。
 内容はともかく、氏により 近松の論評が話題にされる功績は評価しておくべきだろう

 なお 近松の真筆が問題になっているが、拙宅の大正末期、大阪朝日新聞社発行の全十二巻の「近松全集」にも、あるいは岡田利兵衛著作集3「西鶴・近松・伊丹」(発行八木書店)にも 近松の真筆の手紙等が 多数掲載されている。参照してみられたらよいと思う。
             
    
参考図書  近松洋男著「口伝解禁 近松門左衛門の真実」 (中央公論新社)
参 考
日本図書館協会選定図書に指定された私著「近松門左衛門の謎」
(関西書院発行・倒産につき絶版 )より抜粋

 
江戸の随筆家暁晩成の「晴翁漫筆」によると、大阪で死没した近松は 大阪の法妙寺に葬られた。法妙寺は 大田蜀山人が野田梅園に依頼されて「近松は長州萩藩の人」と彫った 等身の二倍くらいの大きな石碑を建てた。その碑はいまも 大阪市教委の案内板とともに、大阪大東市の法妙寺に現存している。「晴翁漫筆」によると、「尼崎市広済寺の近松の墓は、もともとは大阪法妙寺に埋葬されていたものを 後に広済寺に移転したものだ」とある。ただし仏教は分け墓制になっており、大阪市内に数ケ所ある近松の墓もふくめ、同一人物の貴人の分け墓は全国各地に建てられている。したがってどれも近松の墓であるというほかなく、分け墓制には、墓の真偽論争はなじまない。 
 大阪市立大の森修氏の論文によると、「近松は大阪で死亡したのに 系図にはナント京洛で死亡したと まっかなウソが 書いてある」という。
これでは近松は福井生まれという系図の近松の生誕地死没地信憑性がまるで、なくなってしまう。
 大阪人には「大阪文化の産んだ近松だから 近松は大阪にかえすべきだ」と主張する人が多い。
 
 
歳時記で、「近松は長州でうまれて大阪で死没した」と一貫して譲らない句聖 高浜虚子らとその弟子たち(参照・三省堂「歳時記」・講談社発行 監修・水原桜桃子・山本健吉ほかの「カラー現代版 大歳時記」の 近松忌の項が一貫して不変であることにも なっとくができる。
 
平成六年十月、日本図書館協会選定図書に指定された当時関西文学同人作家だった私著が指摘した問題
 
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系図は 越前杉森家に甲乙丙資料として三通ある。これらが越前説の学者がよりどころにしてきた近松越前生誕説の系図をみよう。
 甲と乙の系図では、近松は越前藩三百石の藩士杉森信義を父として、長男に智義 次男に近松(信盛)。三男には東洋医学の数々の著作で有名な医師、岡本一抱(伊恒)を配し、近松は
三人兄弟の次男になっている。しかし何ということだ。同じ杉森家の系図丙では、近松は末弟に為竹をくわえた四人兄弟の次男になっている。(岩波「近松への招待」参照。)
 三枚の系図は 同じ杉森家にあるのに 二通は三人兄弟で、一通は四人兄弟だ。
 この系図作成の経過は 早稲田演劇博物館長鳥越文蔵氏の「虚実の慰み・近松門左衛門」に書かれている。
 鳥越文蔵氏によると、
「この系図は 明治になり書写したとあるが、その原図はない」というのだ。つまりこの系図は 代々書き継がれてきた系図に 近松を書き加えたものではなく、近松の死後百年以上も経た明治になって「新しく作成された系図」なのである。
 もっとも明治は、系図屋が門前市を為したといわれている時代だった。この系図もそれら系図屋が 過去の有名人を適当に配置して作成した系図のひとつだろう。そんな系図を 
金科玉条にして近松の生誕地を論じる学者たちさえ いなければ、罪のない庶民のアソビの話なのだ。 
越前説の根拠とされている当時大阪市立大の森修氏の「杉森家系譜と親類書について」という論文から

 鯖江市資料館より提供された 越前説の根拠とされている当時大阪市立大の森修氏の「杉森家系譜と親類書について」という論文から 原文のママを抜粋する。
 氏は
「福井県立図書館の職員数名の 一週間にわたる協力を得て」調べたとある。
 
 ★ 一、杉森家系譜によると、近松の父信義は 三百石を取っていた人で、忠昌から吉品に仕えている。忠昌の死後、正式に吉品に従うことになっていたのであれば、「越藩史略その他の越藩資料になんらかの記録を とどめているはずである。
 わたしが調べたかぎりの越藩資料の中からは、近松の父とされている三百石の杉森信義に関する記事を 発見するのは 不可能であった。
 
 
★ 二、「越藩諸士元祖由緒書」は、浅井家滅亡の後に 浪人してかかえられたというように 杉森と似た経歴の人も あげられている。また知己の肝いりで、仕官した例も、「越藩諸士元祖由緒書」に挙がっている。それをみると 総数四百十四人中 松平忠昌によって、召しだされた氏名は 百三十人も挙がっている。その中には、もちろん岡本為竹もあげられている。
 しかし、
父とされている杉森信義の名だけがなかった。

 ★ 三 
系図丙の「信盛こと近松という文字は、活字に似た文字で、明治末か、大正はじめに書き加えたものである」
  ★ 四 近松は大阪で死没したのに、この系図は「京洛で死亡した」と 死亡した地まで真っ赤なデタラメが書いてある。
 以上は、当時大阪市立大森修氏の近松福井生誕系図批判の論文から 原文のママを抜粋した。生誕土地も嘘なら 死没地も嘘の系図。にもかかわらず 越前生誕説の「系図を信じる」とされる学者も 所詮は 本人の実存的な自由である。

 どこの電話帳を見ても、杉森という姓は珍しい姓ではなく、あまりにもありふれている姓だ。
 前記 大阪市立大の森修氏の論文によると、「いろいろな解説に、系図の中味を証明する文献としてあげられている
俗書「俗耳聾記」にあるのは「杉森衛門}であり、系図にある杉森衛門」ではない。似てはいるが、同一人物ではない」と森修氏は明記されている。
 なお、明治末か大正はじめに「信盛こと近松」と活字に似た文字書き加えた別紙が貼りつけてある改竄系図は 2004年末、大阪よみうりテレビの「追跡 文豪・近松の謎」により撮影され、同テレビ・エリアの兵庫県・大阪府・京都府 奈良 和歌山県等、関西一円の家庭のテレビ画面に 大きく映しだされ、不特定多数の市民家庭のビデオに 収録されている。 
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まだ、近松の作品「用命天皇職人鑑」の題材になった柳井市・大畠の用命天皇の揮毫額のある般若寺や、題材となった般若姫伝説がある瀬戸内海の三大渦巻きや、大阪屋劇場が境内にあった下関市法華宗本行寺や山陽地方に散在する念仏躍り(歌舞伎の始祖 出雲のお国が 京で喝采を浴びた踊り? 山陽に無数にある)など たずねて見なくてはならないところがかなりある。交通事故してここのところ 足がないのが痛恨のきわみだ。
参考資料
近松は長門で生まれて、享保九年大阪に没
監修 水原秋桜子・加藤楸邨・山本健吉「日本大歳時記」

 高浜虚子の近松略伝を継いだ弟子たちによる 講談社のカラー版大歳時記の「近松忌」では、「近松は防長二州とされていた長門国にうまれ、亨保九年、大阪に没した」とされている。
 これが江戸時代から不変の近松略伝だ。ただしここでいう長門とは、江戸時代から防長二州とよんできた山口県西部地方を総称である長州あるいは長門国のことである。
 長門「市」は 昭和三十年代に湯本や仙崎 俵山町村等が合併して 発足した新しい市で、長門市としての歴史は浅い。