或るわかもののものがたり
 
  先日 テレビで 家族の申告にもとずく精神異常者の 病院への搬送場面が放映されました。
  精神異常とは なんでしょうか 
  近松が執筆していた広済寺の 長屋の二階にあがるハシゴのそばには 当時は 人が怖れてよりつかぬ精神異常者たちが沢山たむろしていたとかかれている 尼ケ崎の郷土よみのもがあります。
  近松が「曽根崎心中」を発表したとき 世論の多くは「近松は気ちがい沙汰というほかない こんなものを近松が書くから 世間がますます乱れる」という識者の批評が圧倒的でした。
  一人萩生狙来だけが 「この世のなごり・・・」という道行きののくだりをよみ「天下の名文である」とうなり 扇子で ひざをたたいたといわれています。
  近松もまた そういう場所でないと執筆はできなかったのです 
  そしていまは 「曽根崎心中」は 近松の名作中の名作とされています 
  芸術家の宿命で セザンヌの絵は 「好色だから」と 当時の欧州画壇は セザンヌをボイコットしました。どこが好色なのか 現代人には見当もつきません。
 バッハにいたっては 世にみとめられたのは なんと死後六十年も 経てからでした
 「毒をもて」というエッセイをのこした異色の天才画家岡本太郎にいわせると「世の識者といわれる人々に あげてほめられたら まずは最低の駄作であることを覚悟せよ」といいます。
 発表当時は 「気ちがい沙汰だ」といわれるようなものでないと 後世 名作にはなり得ないと。 
 芸術の宿命です・ 
 
  ぼくの母の実家は この近くの常森という草深いところですが その近くに Sさんという つくりの古めかしい昔ながらの石垣の上に たてられた立派な農家があります。
  母屋の前には 二階建ての土蔵があります。
 「精神異常者が その家から現われて その土蔵を座敷牢にして とじこめられたまま 亡くなった」ときいて うす暗い昔づくりの大きな柱のその家と これもうす暗い それ以来だれもつかわぬ土蔵の二階を ぼくはある種の恐怖をもって みつめたものでした。
  反戦運動にかけまわる地区労の委員長のころは 各種審議会委員がおおく 戦後 教育長をつとめたHさんと いつのまにか 親しくなり 花村さんがなくなったいまも 奥さんが 毎年かかさず 年賀状をくださいます。
  ある時 H教育長さんが 「どうしても あなただけには おりいってきいてほしいことかあるから」
と家にご招待されました。
  その精神異常者の青年のことでした。
 次郎として おきましょう 
  彼はHさんがまだ若い教員のころの 学校の高等科の卒業生として 頭脳明晰で 剣道もうまく 前途有望な申し分のない わかものでした。 
 戦争がはじまり 「O月O日に入隊 山口師団の営門に出頭せよ」という赤紙 召集令状が次郎にきました。
 当時ですから 集落をあげて 祝宴をひらき出征を祝いました。
 旧い家ですから 町長もかけつけて Hさんも恩師として 教え子の次郎とならんで 正座にならべられて 祝杯をうけました。
 ところが 翌晩 次郎は 姿をけしました。
 指定された山口師団の営門に 期限まで 出頭しなかったら 徴兵忌避として 陸軍刑務所ゆきです。
 みんな まっさおになり 付近の山をさがしました。
 かれは 山の中にすわっていました。
 法政大の大原社研のわたしの父も そのころの女学生のあこがれの的マルクスボーイで 戦前の選挙では 労農党の大山郁夫をおして はしりまわったようですが 頭脳優秀なかれも 当時は流行のマルクスをよみふけった労農党支持派でしたし 若い教員H
Hさんもまた おおいにマルクスをよみ 次郎にも マルクスをすすめたのでした。
 「戦前は 言論や思想の自由がなかった」というのは嘘で マルクスは 戦後よりも 当時はベストセラーになるほど よく読まれたのです。
 そしてこの青年も 草深い田舎ではめずらしく マルクスをよみふけり 将来をちかった優しい娘和代もいて そばでお茶をすすめてくれる和代のまえで 若い教師花村と夜をあかして 悲憤慷慨して 時局批判をかたりあう こころのまっすぐなわかものでした。
 しかし マルクスの読書家次郎の予定には 出征という現実は いれてありませんでした。
 兵隊に召集するひとを 地域から ピックアップするのは 役場の兵事係です 
 役場の兵事係は 自分の息子に たのまれていて 息子の嫁に 次郎と将来を誓った和代を のぞんでいました。
 その上 マルクスをかたる村の政局批判派の次郎をにくんでいましたから 真っ先に戦線おくりの対象として 次郎に召集令状がきたのは あたりまえでした。 
 そういう裏事情を わかっている村人や教員のHさんは まっさきに次郎に令礼状がおくりつけられたことをしり 暗然としてなぐさめようもありません。
 兵事係ににくまれると いつ召集令状がくるか わかりません
 和代には まだ召集のかからぬ兄もいます 
 次郎さえ 戦線においだせば 兵事係ににくまれるのをおそれる父親によって 彼女は 兵事係の息子と結婚させられるのは 目にみえていますし 兄を戦線にだしたくはない 父の密かな気持ちを知っている和代も 結婚をこばめないことも 村人はしっています。 
 裏にそういう確執もふくんだ一通の令状の あまりの衝撃で どうしたらいいか わからなくなり 次郎は山のなかにまよいこみました。
 しかし罪名でいうなら それは「陸軍刑務所ゆきの 懲役忌避」です
 古くからの家の父親は このあたり一帯におおい天理教の熱心な信徒です 
 天理教本部は 「叛乱のための武器弾薬を隠している危険な宗教」として この間 サリンによる殺人事件をとわれた新興宗教のように 何回となく 武装警官隊にふみこまれています。
 それだけに 天皇の名により はじまった戦さには 天理教信徒の父親もまた不賛成でした。
 そのうえ 次郎の恋人らしい美しい娘和代をめぐる兵事係との 陰にこもった確執も しっています 
 おもいあまったあげく 教師のHさんと相談した一家は 次郎を「精神異常をきたした」ということにして 徴兵からも 投獄からものがれました。
 そんな徴兵のがれの相談をしたことが 周囲に露見したら 教員のHさんも 徴兵忌避に加担したことになり 軍に厳しく罪をとわれます 
 次郎は 排便といえども 一歩も土蔵からでないこと。三度の食事も 土蔵にはこぶから 座敷牢の土蔵で摂ることを誓います。
 文字どおり 彼は 一歩も土蔵からでませんでしたから 付近の人とも 顔もあわせず ただ端座して 読書だけにうちこむ日々でした。
 不幸は もう一度 やってきました。
 「敗戦らしい」という知らせが 天理教をとうして ひそかにつたわったときです  
  いつおわるともわからぬ戦の日々に この狭い土蔵で 一生をすごすことにしていた彼には この土蔵からでる日がくるとは 信じられませんでした。
 敗戦後 シベリアで 長い抑留生活にたえた人が 帰国の船で 夜の日本列島の島影をみた瞬間 あとたった数時間の夜明けの上陸がまちきれず 凍りつくようなまっ暗な海にとびこみ 何人も死んでゆきました。
 孤独に耐え抜いて すぎさった四年をおもいだしたかれは 土蔵からでられる日が 待ちきれず ある日たおれたまま 息がたえていました。    
 
 和代は だれとも 結婚せず 独身をとうしました。

「その次郎ゆえに その家は精神異常の家系だといわれています。地区労委員長のあなたなら おわかりになってくださるはず。次郎というその頭のいい青年のうまれた時代が わるかっただけで あの家は すぐれた家系であるといえても 精神異常の家系ではありません。でも そういう相談をしたことすら 教育長になった立場上 だれにもいえないままにないままで・・・わたしもだまったまま死ねば あの家は永遠に うわさとおりの精神異常のでた家系になる。おもいなやんで うちあけたのが 同じ学校教員という職業だった幼なじみの あなたのおかあさんでした。
「息子の英一に 話せばあの子は 戦争反対で 昇進の道も 自分で塞いで 後悔すらもしていない子 きっとなにもかも わかってくれる」と・いわれました。
「・・・これで 肩の荷がおりました いつか 機会があれば 戦争を拒否したゆえに 座敷牢でなくなり 精神異常といわれたまま 死んだわかものの名誉回復のペンをとってください。・・・社会が異常になれば 正常な人が 精神異常者とされる」 
 そういって 目をしばたかせた 元教育長さんも もう白髪の老人でした。 
 精神に ちょっとの 異常でもあれば 絶対に守れない恩師との 自己幽閉の約束をまもりぬき あくまで 精神異常者をよそおい 戦争の時代を土蔵にとじこめられたまま いきぬき精神異常者を よそおったまま あの世へとさっていった 文字通り先生の教えをまもりぬいた優等生次郎でした
 
 純愛をつらくための心中物で 有名な近松研究のために 「統計による自殺の歴史」をしらべていました。
「徴兵忌避により 自殺した人々」が 暗い谷間の時代にはかなりの数もいます。 
 戦争中とはいえ 個人的には まったく怨みもなにもない人を殺すなど 死ぬよりもいやなのは 当たり前です。
 怨みもなにもない人を 通りすがりに殺せる人こそは まちがいなく 精神異常者です。
 だが当時は 国家が勝手にはじめた戦争にゆき 怨みもなにもない人を通りすがりに射殺できる人が 英雄として称賛され 怨みもなにもない人を 通りすがりに射殺できないというひとは 精神が異常とされました。  
 
 いまも その土蔵は あります 
 八年まえ その元教育長の老Hさんも なくなったいまも 奥さんは毎年かかさず きちんと年賀状を くださいます。