| 近松の現場からのリポート | |
| 平景清と平家の女武将真那と 近松門左衛門作の「出世景清」の原型 |
|
| ☆ | |
| 美東町史によると 真那宗国というと 男の名のようだが、実は女性の名である。真那は夫の平宗国が出陣前に急死したので、夫の代りに宗国を名のり、亡夫の部下をひきいて 女武将として 壇の浦合戦(1185年)出た。真那は背丈もスラリとして 腕力も強くも弓矢でも彼女にかなう武士はいなかった。壇の浦では得意の長槍をふるい 小男で醜い義経をさんざん苦しめたが、たたかいは平家方に利あらず、真那は無念の涙をのんで 宗像 南波 藤永 兼重ら 重臣とともに 現在の美東町宗国(地名)に落ち延びた。 やがて壇の浦で奮戦した真那のことが 近隣にも有名になり、真那はのちに真名と名前をかえ、真名村として 隣の長田村と合併して 現在の真長田村になり 宗国は 真長田村の現在二五戸善後の一集落になっている。 源氏は 東日本を支配している東国武士で、平家は 西日本を支配している公卿武士である。したがって平家は 壇の浦合戦に敗北したくらいでは 容易に東国武士源氏に屈服する西国武士たちではない。現に 真那が生き残っていることを知った源氏方は 美貌の女真那を掠奪すべく、建久四年(1193年)に 真那のいる地を攻めたが すでに帰農して農民になっていても 町絵のくらす地の隣りに「武士河内」と名乗る集落をつくって町絵一族を擁護している もとをただせば れっきとした西国武士たちである農民軍を 主力にした軍勢に 源氏の軍勢は 二本木峠で さんざんに大敗した。 つづいて 建久六年に 源氏はふたたびここを攻めたが、今度は佐山の景清穴を 根城にしている平景清が、真那の応援の軍勢として かけつけて 平景清と真那の連合軍に 源氏方は 惨敗をしてしまったのである。 壇の浦合戦は 「平家物語」として盲僧の琵琶により脚色されているが、実際はもともとが 水軍の平氏。船は 瀬戸内海から 関門海峡を通りぬけて 外海の日本海にでて 山陰各地の浜に降りて 新しい暮らしをはじめた。 それゆえに「二位の浜」とか 二位の尼たちが暮らした地名が |