近松の現場からのリポート
平景清と平家の女武将真那と
   近松門左衛門作の「出世景清」の原型
 
 
美東町史によると 真那宗国というと 男の名のようだが、実は女性の名である。真那は夫の平宗国が出陣前に急死したので、夫の代りに宗国を名のり、亡夫の部下をひきいて 女武将として 壇の浦合戦(1185年)出た。真那は背丈もスラリとして 腕力も強くも弓矢でも彼女にかなう武士はいなかった。壇の浦では得意の長槍をふるい 小男で醜い義経をさんざん苦しめたが、たたかいは平家方に利あらず、真那は無念の涙をのんで 宗像 南波 藤永 兼重ら 重臣とともに 現在の美東町宗国(地名)に落ち延びた。
 やがて壇の浦で奮戦した真那のことが 近隣にも有名になり、真那はのちに真名と名前をかえ、真名村として 隣の長田村と合併して 現在の真長田村になり 宗国は 真長田村の現在二五戸善後の一集落になっている。
 
源氏は 東日本を支配している東国武士で、平家は 西日本を支配している公卿武士である。したがって平家は 壇の浦合戦に敗北したくらいでは 容易に東国武士源氏に屈服する西国武士たちではない。現に 真那が生き残っていることを知った源氏方は 美貌の女真那を掠奪すべく、建久四年(1193年)に 真那のいる地を攻めたが すでに帰農して農民になっていても 町絵のくらす地の隣りに「武士河内」と名乗る集落をつくって町絵一族を擁護している もとをただせば れっきとした西国武士たちである農民軍を 主力にした軍勢に 源氏の軍勢は 二本木峠で さんざんに大敗した。
 つづいて 建久六年
に 源氏はふたたびここを攻めたが、今度は佐山の景清穴を 根城にしている平景清が、
真那の応援の軍勢として かけつけて 平景清と真那の連合軍に 源氏方は 惨敗をしてしまったのである。
 壇の浦合戦は 「平家物語」として盲僧の琵琶により脚色されているが、実際はもともとが 水軍の平氏。船は 瀬戸内海から 関門海峡を通りぬけて 外海の日本海にでて 山陰各地の浜に降りて 新しい暮らしをはじめた。

 
それゆえに「二位の浜」とか 二位の尼たちが暮らした地名が 山陰に現在も残っていて 向津久半島には 平家の家臣たちの墓が なんといまも六百数十基も建っている。六百人といえば壇の浦で平家の船にのっていた公卿武士の数だ。平家の一族は 壇の浦でほろびたのではなく 風光明媚な山陰の地で 悠々自適の人生を おくったのである。
 山陰の半島に散逸している六百数十基にのぼる平家一族ほとんどの墓が 雄弁にそれをもの語っている。
「平家物語」は盲僧の語る琵琶の文芸であり、盲僧の想像で語られている文芸だ、
 
 それまでの海戦は 櫂をこぐ水夫は非戦闘員なので、弓矢で攻撃してはならないのが 戦のルールだった。源義経は 平氏の船を漕ぐ水夫を かたっぱしから弓矢で射殺した。水夫が次々に弓矢で射殺されれば、船にのこされたのは 堂上六波羅公卿武士達と女官たちである。
 漕ぎ手を失った平家の船は 潮に流されるままになり、ほとんどは瀬戸内海の潮流とともに 勝手しったる外海に出た。
 関門海峡の外にひろがる荒海の外海 日本海を見て 山猿といわれていた源氏は おびえてしまい 追撃はできなかった。
 
郷土史家で海事史学会の沢忠宏氏によると 壇ノ浦合戦で死没したのは わずか七、八名に過ぎないという。ほとんどの平家武士は 全員が外海 日本海に出て もともとが 平家領の山陰の浜に 泰然とおりた。
 当時は 刀は女性が捧げもつ習慣であったから 二位の尼御前が捧げもっていた 皇位継承の儀式には 必要不可欠の三種の神器の一つ、草薙の剣は 以来 永遠に行方不明になった。
二位の尼御前が ささげもっていた草薙の剣は はたして 海中に投じられたのか 山陰の秘密の場所に埋められたのか 知る者はいない。


 
したがって 安徳帝の死後は、「三種の神器の一つが 欠落しているから 天皇の皇位継承のセレモニーは成立してはいない」という説も 神道関係者には多い。
 
 宮司の嬢小野姫を 妻とした平景清は それから何回も 人足に変装して 鎌倉政権頼朝の暗殺をねらったが、愛人の遊女阿古屋姫の嫉妬により 鎌倉幕府に密告されて捕らえられて、眼をくりぬかれて 日向の国に追放される。
 近松門左衛門は その女たちの三角関係の愛憎の世界を「出世景清」として描いて 大当たりになり 記念碑的な作品になった。その原型の物語が この景清洞の生目八幡の「寺社縁起」にある。。
 なお 日向に流された景清をまつった宮崎県生目町は、願かけの生目神社の門前町として合格祈願などの 願かけに詣でる客により 栄えている。

 真那の嬢 町絵は その後 平景清の子と むすばれた。
 いまも山口県美祢市真長田 綾木には「町絵」という名のその子孫達の集落があり、町絵川 町絵越えなど、町絵の名を冠せた集落や川や峠が 人々に親しまれている。
 よほど近隣の人々に 愛された女性だったことがわかる。。