日本有数の女優歌舞伎劇場
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参考記録 「女歌舞伎・近松門左衛門」
 明和四年 一七六七年 水戸地理学者久保赤水は下関を 訪れ 稲荷町の遊女歌舞伎の様子におどろいている
 
 
              さ  は  番  か  し  の  い  け     浄  町  あ  わ  舞     
              太  お  付  ぎ     庫  る  れ  遊  瑠  に  り  か  伎  い  
              郎  も  け  り  年  裏   ° ど  侠  璃  も   ° に  す  な  
              舞  わ  売  と  よ  に  案  お     は  お  舞  舞  る  り  
              う  れ  り  す  り  群  内  も  法  義  と  台  う  茶  町  
                 ず  な   ° こ  衆  な  し  師  太  ら  は  と  屋  と  
                    ど  橋  ど  し  き  ろ     夫  ず  江  い  三  い  
                 そ  た  が  も     も  し  や  に     戸  ふ  軒  ふ  
                 の  ち  か  は  押  の   ° っ  て  あ  の   °    と  
                 つ  め  り     し  も  見  こ     い  湯  そ  銀  こ  
                 ぎ  ぐ  中  入  合  お  物  ら  富  だ  島  の  三  ろ  
           ∧     の  り  道  る  い  し  人  ま  見  に  芝  夜  百  は  
           長     夜     な  こ     い  す  で  西  は  居  さ  あ  娼  
           崎     は  さ  ど  と  も  ら  べ  み  行  錦  よ  い  た  家  
           行        な  あ  を  み  ん  て  な  な  を  り  わ  ふ  あ  
           役     堺  が  り  得  あ  と  揚  女  り  着  も  い  る  り  
           人     屋  ら  て  ず  い  す  屋  な     た  広  に  も   ° 
           日     に  娼        喧  る  の  り  悪  る  し  大  の  そ  
           記     て  家  菓  桟  噪  ゆ  案   ° 方  も   ` 坂  あ  の  
           よ        の  子  敷  は  え  内  し     の  装  屋  れ  な  
           り     も  う  売  三  な  に  に  ど  あ  も  束  に  ば  か  
           ∨     の  ち  り  百  は     て  け  ら  あ  は  興     に  
                 ぐ  と     人  だ  門  は  な  事  り  堺  行  に  歌  
                                             `           
                                   
 
 
江戸時代初期に 風紀をみだすとして 禁止されたはずの女歌舞伎は この地では 脈々と 生きつづけていたのである。(宮原註 幕府無視の豊臣方長州武士の反骨)
 しかし舞台は 江戸の代表的な芝居町堺町にも劣らぬというから かなり本格的なものである。
 そこでは
 近松門左衛門の「けいせいほとけヶ原が 演じられたとうある。
  

 
        下関の中の関西
      
天保九年の赤間関当時の人別帳にみる大勢の関西人たち

 
近松が活躍した当時は、沖がアメリカ大陸まで何もなく、どこまで流されるかわからない太平洋岸側の船便は 危険視され、北前船といい、日本海沿岸をはしる大型の帆掛け船が、裏日本や九州の港みなとで、各地の特産物を積みこみ、いったん下関に集荷します。 そして下関からは 大阪に蔵屋敷のある商店が 常駐している先物買いの早船が 瀬戸内海を走り、木材港で有名な尼崎港や大阪港や江戸港にむけ、瀬戸内海を走りました。
 商都尼崎や大阪や江戸では、商品を一日でも早く仕入れたものが、特別の高値で売れたので、そのために「越荷方」とよばれる巨大な全国各地の特産品の集積庫がある港町、下関に 関西人たちは仕入れのための出店を張りました。
 天保九年の赤間関、つまり下関の 当時の人別帳にみる大勢の関西人たちを抜きだして観察してみましょう。
 
下関外浜町には 奈良屋源蔵の店が、伊勢屋小四郎の店、播磨屋嘉右エ門の店。中之町には、兵庫屋平左衛門。大阪屋久兵衛、堺屋利右エ門。奈良屋籐兵衛、播磨屋源吉らの出店。
 
下関赤間町には 堺屋長兵衛。奈良屋小左衛門。堺屋利兵衛。尼崎屋籐次郎。尼崎屋庄太郎らの店。
 
下関東南部町には 尼崎屋喜兵衛。姫路屋安右衛門、尼崎屋勘右衛門、北国屋吉右衛門、尼崎屋市五郎。奈良屋喜兵衛。尼崎屋与作。尼崎屋松五郎。尼崎屋善吉。堺屋久右エ門たちが出店をかまえています。
 
下関南南部町には、堺屋仁左エ門。尼崎屋伊兵衛。兵庫屋市右エ門。尼崎屋又兵衛、北国屋平吉、伊勢屋右エ門、播磨屋利左衛門。尼崎屋佐右エ門。堺屋平吉。奈良屋平佐衛門。北国屋庄右衛門。尼崎屋嘉兵衛。堺屋平助の店が・・。
 いまでは下関市東細江町といいますが、当時の
東細江町には、尼崎屋富蔵。堺屋源助、兵庫屋孫右衛門。奈良屋金兵衛、大阪屋儀兵衛。阿波屋清兵衛、
 
西細江町には兵庫屋七兵衛、播磨屋市兵衛らが、それぞれ下関に常駐している出店を構えていました。
 したがって、尼崎や大阪の蔵屋敷には、長期不在者が多く、下関では、現地妻ともいえる身のまわりの世話までする遊女の社会システムが繁盛します。
 大阪商人たちが別れを惜しみ 尼崎神崎町遊廓や大阪新地につれてかえり 囲った愛らしい女性たちも多かったのか、全国で大阪方言と下関方言だけが 遊女のことを
「惣嫁」といいました。
 当時はどう書くべきなどいう画一の標準語など この国にありません。したがって、遊女のことを「惣嫁」と書いたのは 作品として「博多小女郎浪枕」や「下関猫魔達」などを書きあげた 下関に縁の深い長州生まれの近松門左衛門と、ちょくちょく下関に住む風流をこのむ数奇者大阪人の招きで 下関遊廓にきた作家にして 近松より十才うえだった井原西鶴だけであることは、江戸文学をやるものの常識です。
 
稲荷町には 大阪屋太良衛門が母壱人、妻壱人、妹壱人、男子二人。女郎二十三人。かむろ三人。下男四人、下女五人と三味線師匠が七人いる遊廓を兼ねた女の劇場をかまえていました。同じく 稲荷町遊廓の石見屋宇右衛門は母壱人、伯父壱人、女郎十一人。かむろ八人。下男二人、三味線師匠が一人でした。同じく稲荷町遊廓の鞆屋久兵衛は、母壱人、女子壱人、女郎はおなじく十一人。かむろ五人。下男二人、下女二人、三味線師匠が五人でした。やはり稲荷町遊廓の島屋勘左衛門は、女子二人、女郎十一人。かむろ四人。下男一人、下女二人、三味線師匠二人でした。宮屋悦蔵は母壱人、妻壱人、男子二人。下女三人と三味線師匠は七人を抱えていましたが、遊女はいませんでした。山口屋伊三郎も母壱人、妻壱人、男子一人。女子一人。下女二人。三味線師匠は七人いますが どこも芸を売る芸者主体で女郎とよばれる遊女はいません。当時の稲荷町人口は、男性はわずか二十七人。女性は百五十一人の女の街であったと、天保九年の人別控帳にあります。下関彦島の地方史学会会員の沢忠宏さんからいただいた遊廓大阪屋の過去帳には、「宮詣り女郎」という遊女が数人記載してあります。
 
 下関には、ほかに豊前田町、裏町などがありますが、人別控帳をみると、大阪商人の出店は、外浜町、中之町、赤間町、東西南部町や東西細江町に集中しています。
 こうした記録をみれば、現代の下関市民には、尼崎や大阪人と先祖が共通で 本来は尼崎・大阪人でもあり得るこれら関西人の末裔たちが、いまもかなり 実在して暮らしていることが、ひと目でわかります。
 遊廓が栄えた稲荷町には、文人井原西鶴が参詣したと記録のある稲荷神社がありますが、北前船にのせた全国各地の特産品の集荷をする下関。
 月に一、二度しか北前船が入らないこの港町には、和歌、俳句、茶、舞踊、歌舞音曲などで、不聊をなぐさめる文化が発達します。
 大阪生まれの文人を囲み、遊芸の毎日を娯しみ、おもしろおかしく暮らす大阪・尼崎商人の市民層が、庶民の現場 下関には、かくのごとく発達していて、関所手形もなんのその。
 坂本竜馬や薬売りのあきんどに変装した維新の志士たちも、公卿たちが訪ねてくる尼崎 神崎遊廓に往復する下関遊女たちも、おおいに利用した大きな帆をあげた
金比羅参りの船が、下関、大阪、土佐の高知人との維新に突出してゆく、幕府が知らざる思想的、人的交流をささえたのでした。
 

         

  下  ∧  荷     に  県  v  あ  行     野  衛     は     と     け  稲  
  関  宮  町  遊  東  有   ┐ る  し  江  外  門  長        し  そ  て  荷  
  遊  原  の  郭  京  朋  け   ° た  戸  劇  誕  門  土  萩  て  れ  い  町  
  女  註  遊  と  第     い  大  川  期  場  生  市  地  よ     は  た  の  
  た     郭  は  一  伊  せ  坂  棚  に  ∧  地  に  芝  り  ス  中  か  遊  
  ち  北  の  俳  ホ  藤  い  屋  芝  若  宮  と  属  居  下  タ  世  ら  女  
  が  和  玉  諧  テ  博  色  は  居  竹  原  い  す  興  関  l  の  で  が  
  溺  子  紫  文  ル  文  三     が  座  註  わ  る  行  ま  性  白  あ  ス  
  死  研  や  芸  が  た  味   ┐ あ  と     れ  俵  の  で  を  拍  る  タ  
  し  究  紅  の  あ  ち  線  色  る  い  楽  る  山  さ  の  も  子   ° l  
  た  員  葉  サ  る  が └   道   ° う  桟  地  女  か     っ  と     に  
  と  に  も  ロ   °    な  大  さ  一  敷  の  歌  な  山  て  よ     な  
  こ  よ     ン     登  ど  鑑  ら  座  の     舞  ん  陰  い  ば     り  
  ろ  る  俳  の     楼  に     に  を  こ  近  伎  な  海  た  れ     え  
  に  と  句  場     し  も     下  か  と  く     所  岸  こ  た     た  
  も  尼  を  で     た  み     関  ま  ∨  に  長  で  は  と  遊     の  
     崎  の  あ     郭  え     の  え     あ  門  あ     に  女     は  
  二  の  こ  っ              遊  て  特  る  市  る  い  似  が        
  メ  神  し  た     現  幕     女     牛  日  の     わ  て        芸  
  l  崎  た   °    在  末     歌  各  の  本  近     ゆ  い  芸     を  
  ト  川     下     は  に     舞  地  南  最  松     る  る  能     身  
  ル  で     関     跡  は     伎  を  に  古  門     北   ° 集     に  
  の        稲     地  山     が  興  は  の  左     浦     団     つ  
                                                           
                                      講     り     藤     高  
                                      談  立  全  十  記     さ  
                                      社  教  エ  月  者  こ  の  
                                      よ  大  リ  十  を  れ     
                                      り  学  ア  六  同  は  大  
                                         文  に     行  十  き  
                                         学  テ  七     月  な  
                                         部  レ     撮  七  大  
                                         教  ビ  八  影  日  坂  
                                         授  放  日   °    屋  
                                         渡  映  の     K  の  
                                         辺  ∨  三     R  供  
                                         憲     日     Y  養  
                                         司     間     T  塔  
                                         著           V  が  
                                          ┐    K     放  あ  
                                         江     R     送  る  
                                         戸     Y     下  ∨  
                                         遊     T     関     
                                         里     V     支     
                                         繁           局     
                                         盛     に     の     
                                         記     よ     権     
                                        └                  



下図は 当時の日本女性の夢であった天女と呼ばれる 尼崎神崎方の宮廷舞踏会の舞姫や近松の「平家女護ケ島」を彷彿とさせる下関先帝祭道中
 仕事とはいえ 現代でも時価数千万円するこれらの一式衣装を「日常ふだんに 身にまとい日々をすごす」ということは 武家の女はむろん 地女である庶民の女性には 夢のまた夢の世界。そしてその夢の世界に 作家近松が居たというこは 彼の社会的地位の高さを わたしたちに推定させるに 十分だ。
 いまも厳密なコンテストにより選ばれるが 下関先帝祭のこれは 当時もまた 遊女とは 抜群の美貌と容姿 教養 知性 諸芸百般を 身につけ 選りすぐられた少数スター女性のみが 享受できる社会的地位であることが だれの目にわかる貴重な日本の歴史伝統資料でもある。
       
尼崎駅に遊女像たつ

ここまで変った現代の遊女認識
二OOO年四月二三日 朝日新聞 名画日本史の記事から 」
タイトル 「遊里は文化の先進地」
 
近世初期の遊里は 高名な遊女は 高い教養が必要とされ。、一流の文化人だった。舞い 書はは欠かせず、南蛮風のカルタ、キセル。ペツト犬などをすすんで とれりいれた。小袖や髪型も 時代の先端をゆくものであった
 
歴史の深層にひそむもの

遊女塚ともと京都六波羅朝廷女官。下関遊女


 このページは 下関と尼崎両市の 経済文化交流の参考新史料として  江島下関市長(尼崎の文化経済交流使節として すでに北和子さんを紹介ずみ)と 赤間神宮宮司さんと 尼崎市に すでに贈呈しました。
 神崎には 神崎遊女が入水した現場に 遊女墓があります。 
 神戸市垂水には 建武のころ 博多の商人が 船で
下関に帰る途中に溺死した」その神崎遊女のためにたてた 近畿一の大きさをほこる宝篋印塔があります。
 
長州藩士残念さんの墓と とおなじように これも「この遊女塚を巡ると 大きな功徳がある」と 昔から信じられています。
 
 この一行であきらかになったことは 宮廷貴族に和歌の手ほどきをしていた教養の高いご寮人さま 神崎遊女たちとは ふるさと下関では ふだんから 武士の妻すらはかぬ白たびをはき 武士の娘たちをあずかり、礼儀作法や茶華道や書道を、伝授していた「長州下関の遊女」です。
 いつの世でも 戦乱の悲劇を もろにうむる女性たち 
 建武の中興の乱のころ 難をさけて下関に帰国しようとして ひとりだけなら偶然のミスですが なんらかの理由により 神崎川のなかに「つぎつぎに」溺死しました。  
 
神崎の町は歌仙 (有名文士) が 右左に・・ 以上 三十六格子・・・・・」長州下関の大坂屋遊女劇場に縁の深い近松が 神崎に縁が深いのは 神崎遊女とは 本来は ふるさとては 先帝祭道中をして 平家と安徳帝の祭り供養を かかさぬ下関遊女であったからでした。
 「単なる偶然の一一致サ」とはもういえぬ できすぎている「偶然の一致の底にある意味」 
 尼崎の市民とは 本人たちはそれと意識せぬままに 「偶然にも」 男では 残念さんという長州人と近松を尼崎名物として祀る街の人 女性では遊女塚として 「偶然にも」 宮廷貴族に接するために 
下関遊女から選抜されて出張してきた 長州の女性を尼崎名物とし祀っている街人 
 
尼崎のむらおこしの参考として」 つまり現代も 当日は先帝祭道中をして 三十万人の外来市民の人出をあつめている上図の下関の遊女のあでやかな姿とは そのまま 下関から尼崎の神崎に 出張していた 当時の神崎遊女の姿でもあります。 
 死者にみちびかれる
   
 昨年 尼崎アルカイックホールで 講演の時 北和子、三谷研究員と松本満子さんと 「神崎川で 入水した」とされる遊女の墓や遊女碑をたずね この下関遊女塚を巡ると 大きな功徳があるとはつゆしらず 調査のために 石の痕跡をしらへるのに 背広のまま 遊女碑の下にもくって そばでみていた北さんらが 目を丸くしたことがありました。 
 なぜか 以来 「神崎町の遊女の復権」のことが すっと気にかかる一年でした。  
 昨日 近松に関連して遊女発祥の地 赤間関遊女のことを 今までとは別の 新しい視点からよみものとして書くための資料集めに 愛娘の車にのせられて 宇部の古書店にゆき 関連古書を二十九冊 購入しました。
 「求めよ さらばあたえられん」 
 ユングでいうと「死者とのたましいの共振といい 「資料のなかから死者が 求める人を無意識によびよせる」といいます。
 わたしからすれば 宇部の古書店にいったのも「偶然」なら そこで手当たり次第 買い求めたなかにその本があったのも「偶然」。わたしからすればすべて 北研究員たちがびっくりした 尼崎の遊女碑の下に 背広のまま 腹ばいになり もぐった時以来の まったくの「偶然の一致」。
 「巡る」どころか 腹ばいになり もぐりましたが「この下関遊女塚を巡ると大きな功徳があると 昔からしんじられている」としったのは 昨日 つまり 平成十二年五月六日のことでした。
 
         
                   
山口県の近松ゾーン

 
 下関の海虹同人主催による 防長近松講座のあと 五月二十五 六日 
海虹同人のキャップ瀬戸諒さんと 世話人の井手くみこさんのおまねきで 壇の浦海観荘に 平家琵琶をかかえた 近松人情ものののかたり部 古谷和子さんの独演にまねかれて 鑑賞したあと あしかけ二日間 下関にあそび ガイドをしていただき 近松が防長である動かぬ証拠 大坂屋の遊女にして「平家女護島」のヒロイン常磐太夫の苔むした玉垣のある稲荷や博多小女郎浪枕の海賊のモデルの一人肥前の人米屋平兵衛生一族の奉納した客船安全祈願の石灯籠ののある普応寺金比羅さまに参詣しました 唐津の一角「伊崎流れ通り」の本来の街 下関伊崎街を散策
 
北和子研究員の調査によれば 神崎川でその下関遊女たちが沈んだ地点には なんと人の背丈り一倍半もあるおおくな大坂屋の 供養灯籠が いまも立っています。灯籠の制作と建立には 大変な費用も要しました。当時は目印の石ころの墓しかない庶民とはことなり 当時の遊女たちが いかに社会的な地位が高かったか その大きく高い供養石灯籠で 一目瞭然です。
 尼崎の下関遊女塚を くぐった大きな功徳が またありました。

 「下関に帰国中 神崎川で溺死した尼崎や神戸の下関遊女塚」に まつられている その遊女たちを運んでいた動かぬ証拠 客船乗組員一同が奉納した
「神戸曽応丸船中」とほった客船安全祈願の大きな玉垣を 普応寺金比羅て発見。
 この玉垣からあきらかなことは 当時の神戸は たんに帰国する遊女たちだけではなく 近松門左衛門や後には長州がイギリスから購入した船で 海援隊をつくり活躍する坂本竜馬も 高知ー下関を往来する この石段の眼下から 大坂経由知の金比羅もうでに往来する豪華客船 人形浄瑠璃の伝播経路 下関金比羅船の交易圏でした。
 県民も下関市民にも「しられざる長府の史跡 栗山大膳の墓や侍門」がそのままある 長府逢坂通りの原田和彦さんの邸宅(若き日の近松九六ページ参照)に下関市民瀬戸 井手のおふたりを ご案内しました。おふたりもただ感動でした。

下関ほかで採取 
市場の風景あざやかな いくつかの近松西鶴系祭文節
 
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☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆提供 竹野静雄二松舎大教授 当時山口女子大文学部国文科教授           
尼崎 文化経済交流民間使節 高知県人会鳴子躍り長州近松応援隊 
(竜馬の高知市民が選んだ高知市長さんは 長州山口県出身)

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