永久保存史料 若嶋歌舞伎発祥の地川棚
松本幸四郎と特に親しかった近松、その松本幸四郎門下生の川棚若嶋座の名女形松本イチョウ
長期滞在の保養地をめざす下関近くの温泉町
川棚町の祇園社を擁して栄えた若嶋冨三郎一座の史蹟
祇園会社のふもとの草むらにたつ若嶋座の碑
  
 汚染がまっくないコバルト・ブルーの日本海の海べに、華やぎの湯の町といわれる温泉町の川棚の町がある。
 ここの祇園には 若嶋座歌舞伎発祥の地と書かれた教育委員会の碑のたつ祇園社があり、苔むした石の鳥居には それをを奉納した若嶋座の人たちの名前が 個々にきざまれた鳥居があるが 一部の人の姓名は、もはや風雨にされされて 判読不能になつている。
川棚祇園社に 鳥居を奉納した若嶋座の人たちの名を刻んだ鳥居 永年の風雨にさらされて判読不能になっている若嶋座の人たち

 この若嶋梅三郎一座は 一般の旅芝居一座とはちがい「梵天櫓御免」という特権を認められている歌舞伎一座で、大阪道頓掘りの劇場で旗揚げ公演をして、毛利藩公の御前公演から諸願成就・諸国祭礼芝居・市場の芝居ほか、臨時興行などを、公然と諸国巡業できた一座である。
 記録をみると 近松の制作した戯曲は ほとんど公演している。
 近松が俳諧名を錦江といった松本幸四郎と、特に親しかったことは、大田職山人が 大東市法妙寺に建てた碑文で、よくわかるが、「川棚の銀杏か 銀杏の川棚か」と、その妖艶美を世にうたわれた一座の名女形、松本いちょうこそは ほかならぬその松本幸四郎の門下生であり、いまに川棚雁次郎とつたわる名優市川団次は 市川団蔵の門下生であったといえば この一座が、まだ人形浄瑠璃一座であったころ、大阪で、人形浄瑠璃台本の作書として 「雲上式部 地下近松」と世にもとはやされていたころからの近松とは無縁であると いいきる史料は わたしたちにはない。
祇園社ののそばの墓地にて
梅三郎の墓碑
演劇史の課題 出雲のお国と念仏踊りと本来人形浄瑠璃であった若嶋梅三郎一座の前身
   
 ここの俳優は大阪と島根からきた人たちが多いという。
 そとここの歌舞伎の発祥は、この川棚町の江良の寺で踊られていた、六品行者の
念仏踊りに橋を発しているとある。歌舞伎の祖とされる島根出身の巫女出雲のお国が 念仏踊りで 一躍 天下に有名になったのは万人の知るところだが「梵天櫓御免」という公然と諸国巡業できる特権を、もっていて、かつ念仏踊りを 歌舞伎の舞台化したこの一座が、念仏踊りで一躍天下に名をなした島根出身の巫女、出雲のお国とは無縁であったという史料もまた、まだ発見されていない。
 萩市史によると 出雲のお国は、京わらべの人気をかっさらった二年後、藩公のいる萩藩に舞いもどり、歌舞伎を上演。
 それを見て気が狂ってしまった藩士たちが、手に手に白刃をぬいて乱闘して、以後、長府藩もふくめて「藩士たるものは 歌舞伎を観るべからず」と、藩公のきびしいお布令が でているという歴史的事実からして、京わらべの人気をかっさらった出雲のお国を擁する一座が、山口県下を巡業していたという事実を、うかがい知るだけである。

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