文化庁の公式文書による
近松ゆかりの故郷づくり指定にいたる経過と作者の略歴
著者 2004年9 月29 日撮影・大阪読売TV放送
宮原 英一 みやはら えいいち (作家 歴史研究員)ペンネーム北村 晶
現住所 759 2213 山口県の軽井沢 美祢市大嶺町祖父ケ瀬 
◎  1935年1月16日 O型 山羊座 最後に笑うもの 
◎ 山口県美祢郡美東町赤郷 宮原酒造(銘酒「美祢鶴」「宮乃露」)の 次男として産まれる(長男死亡)
 まったく偶然の一致で 維新革命の最初の衝突 高杉晋作ひきいる奇兵隊がいまの美東町、太田絵堂の戦さのはじまった一月十六日の、ちょうど七十年目の同じ夜 宮原酒造に誕生

 
日本劇作家協会(本部東京 設立井上ひさし 筒井康隆氏ら)所属 
 歴史研究会(本部東京神田)所属、
 山口県地方史学会 文芸山口ほか 
 長門市近松みすず街づくり懇話会 学識者委員 

 美祢市生涯教育推進企画委員。
 ほか役職。
 山口高等学校美祢郡市同窓会・美祢市鴻峯会を創立(会員343名.会長中元克巳医師)幹事長。

 
 
郵政省金融部門につとめるかたわら、日本社会党美祢市総支部長(解散)や美祢市労働者福祉協議会会長。美祢地区労連議長を経て 全逓信労働組合山口県本部業務対策部執行委員。
 連合への発展的継承をめざして 山口県労働組合総評議会解散準備大会の大会議長として登壇。
 正しい歴史的評価は 一世紀後にゆだね、総評労働運動の栄光と伝統とともにあゆんだ歴史を閉じる。
 連合山口美祢地協顧問として引退。
 ほかに
日本キリスト教団美祢基督教会筆頭理事、美祢市青少年補導委員、保護司、市民合唱団指揮者(二十数年)として 市の文化を高める会を創立、 同副会長十一期。美祢市青少年健全育成会議を創立 副議長 美祢市子連三役 大嶺町子連会長八年 小中高各PTA三役などを歴任
 
美祢市総合都市計画審議会委員 美祢市公害対策審議会委員 美祢市三役報酬審議会委員 中央公民館運営審議会委員 ほか 美祢市商工会商業調整協議会委員などを歴任
 病いを得て退職

 
 青年期より
 詩人として 謄写版による不定期刊個人詩誌「にんげんのみね」主宰 
 角川短歌人賞候補の檜隈幸子と 短歌と詩誌「わら人形」を創刊 主幹 
 総合文芸「みね文芸」事務局ほか
 
「文芸山口」会員 
 関西文学同人などとして 
日曜二千字エッセイ「秋吉台造山運動」を山口新聞に四十回連載 
 短編集「現代の民話」ほか 草分けの山口高等学校文芸部「無蓋車」以来の「もう一人の本来の自分」に立ちかえり 歴史研究の作家として 本来の念願であった詩による小説を志した中勘助をつぐことに専念
 関西文学同人
 
朝日カルチャーセンター下関 創立二十五周年記念事業「防長人作家近松門左衛門講座」の講師 二年 
 県教育委員会主催 
県民大學成人講座講師 
 
毎日ペンクラブ山口顧問
 などを歴任
表彰歴

ニ十四回 山口県芸術祭文芸の部 随筆文芸賞受賞 
第ニ十五回 山口県芸術祭文芸の部 随筆文芸賞入選 
昭和六三年度 毎日新聞郷土提言.山口県最優秀作品賞受賞       
第ニ三回関西文学賞 最終候補にノミネートされ.編集キャップ筒井康隆の「関西文学」の同人に参加 
「近松門左衛門の謎」(関西書院発行・倒産)が 一九九四年度日本図書館協会選定図書に指定
 そのほか 郵政省事業論文賞(在職中)
 保護司として、法務大臣より感謝状。引退 
 美祢市青少年補導委員。   
 美祢市小中高校PTA三役として 県PTA連合会より表彰 
 美祢市子ども会連合会三役として 県こども会育成連合会より表彰   
 


                                         時代閉塞の現状

       第二の世界宗教 産業 文化革命の維新 転形期
          
近松史料の発掘と検証にかんする主な経過


ことの発端1986年
「あなたが調べてダメなら もう可能性はないから この資料箱はもうドブにすててください」と近松の防長生誕を、誰にも相手にされない羽仁雅助老人よりボール箱を託される
 羽仁さんは
長門市金子みすず顕彰会の理事だが「童謡詩人金子みすずでは 知名度がないので、世界的な文豪近松を 長門に再興することにより 便乗して金子みすずの知名度を全国にひろめたい」とする氏の 「近松の世界的名声を利用して その実知名度のまったくない童謡詩人金子みすずのPRをする」という相談には、長門市民ではない筆者には いささか不純な動機を感じた。
 しかし羽仁老人は 筆者にダンボールの近松長州生誕説史料を委託した直後 集中治療室に入院して 面会謝絶。羽仁さんの無二の親友のはずの、長門市の郷土史家T氏は コッソリと筆者に
「近松長州説が世に出る可能性は、0・0001%もない。近松長州史料研究などやめた方がいい」と 何回か明言した。しかしこのT氏は目が不自由であり、図書館などの資料館にゆき、国書類など江戸時代の文献を調べられたこともなく、またいまから調べるのは無理な高齢でもあった。羽仁さんは「史料捜しが軸になる近松検証では、目が不自由なので無理だ」というT氏には ひきつがず 美祢市在住の筆者に 後事をすべて託されて 老衰による集中治療室にはいられ 面会謝絶にされた。
 預かったボール箱を かかえて 途方にくれ、立ち往生した。
 やがて豊田町にゆき 豊田町教育委員会製の木製の近松長州生誕記念碑が 神上寺の山麓の草むらにあるを知る。長門市の山崎翁は 豊田町史編纂委員の故藤井、故安村氏の弟子入りをして 近松生誕の経緯を学び 近松巣林子記念碑を 長門市赤崎神社の森の中に建てられた。
 
明治になり現長門市の椙杜親介氏が、東京の京橋区役所に「椙杜家の近松を継承する旨」公式に、届け出た。
 
近松がどこで生まれたかは 別にして 以後「近松は長門深川の人」になった。
 豊田町史編纂委員の故藤井、故安村氏が「近松は 長門深川の奥女中と若殿との間にでき 神上寺のふもとに逃げてきた母親の 不倫の子、こんなことは 中央の文化人にいくら話しても 理解はされないだろう」という悲通なことばをのこしたのを読んで、中央の文化人ではないが 現代の天才作家の一人、筒井康
隆氏が 編集キャップの大阪の「関西文学」の同人作家として はじめて「近松の生誕の経緯を調べて 世に出して見よう」という気になる。
 

 近松を妊娠
した「長門深川の」奥女中が 内日安泰栄寺にゆき さらに保護寺神上寺にきて産んだのであるば、郷土史家の我田引水による近松長門深川生誕説、内日生誕説ともにこの幹となる故藤井、故安村氏による近松生誕説の部分的引用であり 豊田町の史家 中野政紀氏の証言によれば、豊田神上寺山麓には 古老たちにより「ここは 人形浄瑠璃の作者 近松門左衛門の産まれた土地である」と約二百年語りつたえられてきた近松屋敷跡が現存している。
 
すれば 山口県では「近松は 長門深川の奥女中と若殿との間にできた不倫の子で 妊娠した奥女中が豊田神上寺に逃亡して産んだ子」という一説だけしかなくなり、後はそれぞれの町の郷土史家たちが、自分の町に都合のいいところだけをとりあげて我田引水の 後継者のいない内日説等が できた。
 唐津近松寺も 数回訪ねた。
 本格的に 膨大な江戸時代の国書類を あけても暮れても 県立山口図書館で調べる孤独な日々が 七 八年続いた。  
それはたった十五部の「迷路のノート」による叛乱からはじまった。

 19991年7月 
約五年間にわたる 自分の目と自分の頭による 事前の慎重な近松生誕現地踏査。 
 この年「近松長州説研究随筆「迷路のノート」第一号を、
十五部ほど発行。早稲田大学演劇博物館館長鳥越博士ほか 希望者に贈呈 

1991 年7月5日 近松長州説研究「迷路のノート」第一号
1993年 5月 
 
山口県地方史学会大会において 最初の衝突 「近松門左衛門長州生誕説を研究発表 
 
ショッキンクなニュースに テレビ新聞各紙が大きく報道
1992年,10月1
近松研究の第一人者 早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長鳥越博士が「全国に数ヶ所ある近松出生地のなかで"軍配をあげるならば長門だ"(1992年11月6日 地元紙長門時事報道)と 長門市で講演
1993年 
 
県紙山口新聞に 書き下ろし四百三十枚 近松出生秘話 「北浦乱菊物語」を連載 執筆
1993年7月 
    豊田町 町民の浄財により 神上寺ふもとに近松生誕碑を建立 
  除幕式  碑文揮毫 直木賞作家古川薫氏
 新人物往来社の「歴史読本」八月号に定説をくつがえす長州生誕説・近松門左衛門出生地の謎」を発表 歴史研究会(本部 東京神田神保町)に参加 以後 歴史作家とされる
 
 1993年7月
「歴史読本」により近
松維新 日本全土に拡大。
 硬軟とりどりの市外電話が、鳴りつづけ、世情にわかに騒然.天動説一色の世に 地動説をとなえたガリレオ.ガリレイの孤立無援の心境なり 
 これが異説の自由を認めない社会主義ソ連なら たちまち中央決定に逆らったとして 即時、シベリア収容所の重労働送りだ。.
 されど当方は 県立山口図書館の江戸時代の膨大な国書類から抜粋した「近松門左衛門は長州の人なり」とする近松が活躍した江戸時代の古文書をよりどころにしているので、
「文句があるなら 近松門左衛門は越前なりとする江戸時代の古文書を出して見よ」として 雑音には耳は貸さず 馬耳東風。
「大望を抱く者に 毀誉褒貶はつきもの也(山高大先輩の岸信介氏の座右銘)」あり ゴーイングマイウエイ

 
「・・・・近松門左衛門の出生についても、最近になってようやく福井説と山口説に絞られ、学者はおおむね 福井説を支持しているが、これだけでも 100年以上に渡る論争が繰り返されてきた。ましてや、門左衛門が20歳ぐらいの時から、浄瑠璃の作者として名前が記録される三十一歳頃までの十年近くは空白の十年とも言われており、それをあっさり口伝とはいえ、赤穂藩で塩の事業をしていたと言われた自称近松門左衛門津のの末裔、近松洋男氏への、学者たちの当惑はいかばかりかと思った。ところが学者たちは この近松洋男さんの著書を無視した。読もうとさえしない学者さえいた。「何の裏付けもない口伝など、学問の対象にならない」と言うのだ。よくよく調べれば、近松洋男さんが門左衛門の末裔と言えるかどうかも確証はない・・・・」と わが家にも 尋ねてこられた日本放送作家協会常務理事の南川泰三氏のブログにある。

 論議は戦わしてみるものである。前早稲田大坪内逍遥記念演劇博物館長の鳥越文蔵博士も「なにを隠そう わたしは近松長州生誕説の最右翼である」と私著「近松門左衛門の謎」(関西書院発行・日本図書館協会選定図書)に 序文を寄せられている。少年時代を唐津の海水浴場ですごした鳥越文蔵博士は 「個人としてはあくまで唐津近松寺説だが、恩師が近松越前説の水谷不倒氏なので 早稲田大坪内逍遥記念演劇博物館長である間は、身過ぎの生きかたとして 公人としては越前説を公言するしかない」と かって七十年代学園紛争の導火線になった 徒弟制度そのものの白い巨塔 大学内の自己保身のための複雑怪奇な人間関係を 吐露された。
 図書館にある江戸時代の国書類を調べると、江戸時代の書籍のほとんどが{近松門左衛門の出生地は、萩毛利藩の家臣杉森諱家の男」と記してあり、柳島妙見境内や大阪法妙寺の境内にも「近松門左衛門は長州萩藩の人」と彫りこまれた大きな石碑が建てられていて 江戸時代の日本人の常識であった。萩の寺には 杉森家の位牌が百あまりある寺があり、「萩城下町人名録」には 杉森平兵衛という名の家臣が 重臣達の住んでいた萩追廻し筋に住んでいた記録がある。これらは江戸時代の古文書であるから、どんな学者や権威であろうとも 時代をさかのぼって 無かったことにすることはできない。
 こうした古文書で しっかり裏付けられているから、近松長州説を研究発表をした筆者も 近松長州生誕説を 引っ込める気は まったくない。ちかまつの町四十万人尼崎市ののアルカイックホールで 近松検証の講演をしたとき、樽谷さんという四十万「尼崎市の文化を高める会会長さん」も、聴衆席から「福井生誕説の近松系図は、単に近松の生誕地のデッチアゲどころではない。近松は大阪で死没したのに 福井生誕説の近松系図は「近松は京洛で死没した」と まっかなデタラメが記入されている。ぜひ まともな近松の伝記を書いてほしい」と四十万人尼崎市市民の声を代弁して強く要望公言された。 
 
かくして 最近は近松門左衛門の出生地については 福井説と山口説に絞られるに至ったのである。
 
 1993年12月1日
 
藤田長門市長さん 中村課長同道で来訪
 長門市に「近松イン長門」を開催するための、近松懇話会が発足。長門市より同懇話会委員に委嘱
 近松の法要をした尼崎市広済寺(椙杜家記録)が いちはやく、山口県地方史学会大会での近松長州説論文を 広済寺のホームページで 放映放開始 現在放映中  
 ☆1994年 5月10日
 
単行本にて、関西書院から「近松門左衛門の謎」を発行
 早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長鳥越文蔵博士が
「わたしが長門説の最右翼である。学問の世界では、疑わしきは採らずとしている。」と激励の序文。
 当時の長門市は 郷土の高校教員出身の力士登場で湧いて居た。
 それより数年前から「近松研究ノート」を、毎号送っていた近松研究では 西欧で「世界のトリゴエ」といわれる国際的権威の、早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長の鳥越文蔵博士 当時体重八十キロ 身長一メートル七十センチ余の巨漢の著者を 近松学界の東西相撲の土俵で、ガップリ四つにとりくんだ郷土出身の西の横綱にたとえてとして紹介
 

        
☆☆☆☆☆
湯本大谷山荘で 初回の長門市近松懇話会が発足
鳥越文蔵博士話会座長報告を承認
 
 
鳥越文蔵博士 長門市近松懇話会座長より「歴史読本で 近松生誕地の定説をくつがえした宮原説」が 全国通津浦浦の書店でうられた。
 鳥越文蔵博士としては 「宮原長州説に反論できる史料が もしあれば 提出して 近松学の発展をしてほしい」と 福井県や鯖江市に よびかけたが
「明治に創作された杉森の系図のカラクリが 歴史読本によって 全国にバクロされた以上 福井としては 反論できる史料は 何一つないという回答であった」という長門市近松懇話会での公式の鳥越文蔵博士座長報告を 満場一致で採択して 「近松イン長門フエッステイバル」の企画を答申した。
 それ以後 いまにわたるも 反論で
きる福井説史料の発見はない。
 よって 
筆者としては 昨年も今年も 貫く棒のことし(虚子)である
 

「迷路のノート」第一号より三年目1994年10月
☆ 中央図書審議会が 私著{近松門左衛生門の謎}が日本図書館協会選定図書に指定、
硬軟さまざまなる市外電話 一段落す  
 
1993,年3月 
 県教育委員会主催 県立図書館において 県民大学の講師
1997年3月
KRY山口放送発行観光誌「YAMAGUCHIを旅する」に「竜宮城の乙女たち」「響き灘に近松を尋ねて」の二編を執筆  
1996年11月
財団法人西日本文化協会の機関誌
「西日本文化」に「毛利藩出身天下の浪人作家近松門左衛門の生涯と全容」を執筆
1997年6月
 
K
RYラジオ山口放送で 四十分構成「響き灘恨みの近松」を執筆  
 関西書院破産。同人として所属していた第一次「関西文学」も解散
 
997年6月1997年より二年間

 朝日カルチャーセンター開設二十五周年記念事業特別講座「長州生誕近松講座」の講師

1998年
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%1998%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
 文化庁が「近松の古里づくりのみに限定した予算支出」を決定
 あらためて
公式に 国から長門市が「近松ゆかりの地」として 指定
され 
ここに公式に国、文化庁指定、県。市 行政が 上から下まで一体の 「ちかまつゆかりの地」が 不動となる%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

 

1998年8月 関西書院倒産
あらためて東京の叢文社より資料追加二版「若き日の近松門左衛門」発行

 

 
生涯現役時代
320名 美祢郡市山高同窓会の幹事長としての挨拶
萩長門地区会長 佐々木山口高校同窓会全国会長 二井山口県知事 筆者 高校後輩のニ井山口県知事と筆者

 山口高等学校同窓会にて

  

劇作家協会(当時井上ひさし代表)の旗あげに参加 以来 会員
1999年8月 山口高等学校同窓会記念誌「熱球」に「防長生まれの世界的文豪近松門左衛門」を発表 
1999年6 月17日 インターネット購入
 ホームページによる「西洋史とは異なる本来の日本の歴史と本来の近松の祝祭空間」を企画.
 マニュアル片手に、インタネットの独学を開始 . 難解な専門用語に 何回も「もう やめようか」と七転八倒
      
同年9月15日 (シニアデイ)
 
ホームページ開設に成功 
近松研究を通じての 日本研究熱のさかんな 欧米諸国の百数十の各大学のインタネットに発信 スタート 
 「ホームページをみたから」と海の彼方オーストラリアの研究者が 海を渡って わが家にたずねてこられるにおよび 近松文学の世界性と 地球規模のインタネットの広がりに いまさらのように驚愕した
1999年12月
 
航空会社日本エアシステムの旅客機内雑誌「アルカス」12月号に「純愛とエロス文学にひそむ反骨精神・東洋のシェクスピア近松門は隠れキリシタン?」(この「長州生誕近松文学研究講座ホームページ記号番号URL」を記載)
 年末年始の帰省ラッシュに焦点をあわせ 十ニ月一日から いっせいに同航空路線の乗客席の 欧米人をふくむ
学識者や有名無名人の不特定多数の全乗客に 一ヶ月間 一人一冊づつ配布     
    
旅客機日本エアバスの航空機内配付よみもの「ARCAS」12月号に寄稿
 もはや 燎原の火のごとく、欧米を含む世界中の「インターネツト新世紀」に「リンクはご本人の自由」の勝手連方式でひろがりつづけ とどまるを知らず
☆1999年12月25日
 
直木賞作家古川薫氏等らによる編纂 火野葦平創設の全国誌「燭台」復刊ニ号に「近松史疑(一)」を掲載 新日本教育図書株式会社により 東京から全国書店に発売
   
 深夜 腸閉塞にて意識混濁 救急車にて 美祢市立病院に入院
 
%%%%%%%%%%%%%% 2000年3月4日 %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
県立県民芸術文化劇場劇場「ルネッサ長門」竣工式

           
           主催 山口県知事 二井 関成氏
           長門地区広域市町村圏振興整備協議会会長 藤田 光久氏
     %%%%%%% 
著者 美祢市立病院四階の病床にて竣工式を迎える %%%%%%%%%%
 「ちかまつの終焉の街尼崎」からも 多数列席
 
   
古い上着よ サヨウナラ さみしい夢よ サヨウナラ  
   「長門国うまれの近松の時代」のスター
 
 
    
菊つくり 菊見るころは陰
000年3月27日 
 腸のポリープを数ヶ除去 残り多数のポリープは 半年あとに切除の予定 術後の経過順調( 美祢市立病院 竹尾内科部長談)
 
2000年5月2日
長門市の姉 木谷礼子 ガンにて 主に召される
「単独登頂 ただ無心」
 
 
人に教えるどころか こうして 日々書きのこしし通信や 公開の雑文により 後継者のうまるるを祈るのみ
 完成なき されど息をひきとるまで 完成をめざす 生涯学習の あらたな文学登山の道なり

  
ほか 近松発掘にまつわるエッセイ多数  
各地の市民大学講座で 講演、テレビ 新聞に登場多数
 あたかも 労働運動半生を後悔していると筆者がいった「かのごとく」書いたスポーツ紙もありましたが ウソ。 
 世界の評論家佐高信は 月刊「世界」で われわれサラリーマン 会社ニンゲンを 家畜に比して「社畜」と呼びます・
 日々の仕事が ライフサイクル金融プランコンサルタント
  ライフサイクル ユング心理学講座できたえた 中高年の病いを「創造の病い」とする最新心理学 クリスチャンユングの 解放された自由な 後半人生に豊穣の比重を置く人生八十年時代
 いずれは、カイシャニンゲンでも クミアイニンゲンでもなくなる そのあとの、長い第二の人生の日々 
「去るものは日々に疎し」で ヌレ落ち葉ですぎてゆくなら 自殺くらいしか、思いつくことのない灰色人生になります。
 
アメリカサラリーマンの四つの夢は カイシャニンゲンがおわる定年退職後の 自由な後半人生に おとづれる人生の黄金期にそなえ、人生前半は 子育てをしつつ 「黄金期の後半人生」の基盤づくり
  ビッグビジネス社会で モリモリ働き
一 マイ年金 
二 マイホーム 
三 マイカー
四 マイ農場
 を確保すること

 だれも人生は 平均八十万時間 
 いつ果てるか保証のない 一回かぎりの ほかにはかけがえのない自分の人生という点で 医師も牧師もローマ法王も無名の民も 神の前の有限な人生としての条件は 平等 
 どんな人も この広い宇宙に、唯一無二の ほかにかけがえのない それもいつの瞬間おわるかもしれない自分の人生は、たった一回しかない以上 どういきようと 自分の選択と決断の自由 「自分の人生の主人は自分」です 
 わかものに人気のエンデにいわせると 飽きあきするようなヘタクソな説教をする牧師など 「一度しかない他人の人生の、帰らぬ貴重な刻々を盗む時間泥棒」とする時代

 

 一応 自分としては 作家として、後半人生を生涯現役で生きるために 「自分個人の人生計画」どおりに その基盤を築いておく前半人生を 着実に推進してきただけのこと 
 それで満足するわけではありませんが 作家として 中央で日本図書館協会選定図書に 指名される栄光なんて 文学青年なら だれでも得られることではありません。
 一応自分の計画どおりに ライフサイクルが進行中 
 五年先はわかりません 「主がわたしのために あらかじめ用意されている成るべきものになっている」ということだけは 唯一絶対です。

第二の宗教改革 実存的投企の哲学
 世界の全体像は人間にわかるとするマルクスの正反対 未解明だらけの世界の全体像など 全知全能の神ならぬ人間には だれにもかつ 永遠にわかるわけない 
 したがってわたしたちは 周囲のことばに 右顧左眄するのでなく 自己の内奥の声に耳をかたむけ 自分が個として 最善にして最高「と信じる道」を選択し その自己の決断にしたがい 神に与えられた たった一度しかない自己の人生を 牧師や神父など しよせんはタダの人に よりすがるのではなく 神を信じて 自己を全知全能の神に委ね 個人として 自由に しかしいつも最善にして 最高の自分を 生き生きと生きてゆく 実存の世紀。
 「こうこうしないと 悪くなるゾウと 左翼くずれの牧師は 神を知ってるかのごとく 信徒を脅迫しますが そのためにこそ 救済の神が存在しているのであり わたしたちは 福音の主とともにある以上 よりよくなることはあっても 悪くなるということは あり得ません。 
 趣味 
 音楽(好きな曲 夜ひとりで聴くメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトほか、バイオリンソロ 
 カラオケで唄うのが好きな歌謡曲「白い花の咲く頃」「出船」ほか) 
 油絵を描くこと。
 すさぶ世の嵐のなかの 青春の六O年安保共闘世代。
 

「男は強くなくては生きてゆけない。でもやさしくなくては生きてゆく資格がないワ」・
 
                     ハードボルド作家  チャンドラー

 いまでも わたしたちは 結果がわからないままに それが最善にして 最高の選択だ「と信じて」 全力を投入してたたかうしかなく 戦前の日本人と わたしたちはちっとも変わってはいないのです


 
    愚直一徹 賢い人にならず バカになりきること
    
あせらず あわてず あきらめず 人生を愉しむ
 
 
なにが起きても 人は早晩 おちつくべきところに おちつくようにしか できてはいない」   チェスタートン

 
         つらぬきとおすということ
   去年(こぞ)今年(ことし) つらぬく棒のごときなり  (高浜虚子)  

 
 なにごとによらず 結果として 十年つづいたら それはホンモノだ」  
 十数年前 愛娘とウドンを食べた宇部の、食堂にあった大本教カレンダーより
 
近松検証とその文章化 文学の道は「結果として」それから十数年以上つづいています                     
われ神を知らず。されど神を愛するとする人 神に知られ 神に愛される人なり」・・・・・学生時代 山口高等学校の恩師 尾崎秋信先生に いただいた 無神論と一線を画す実存の書。 「善の研究」西田幾多郎より
ホームページに リンクを張っていただいた宮原英一先生は、あらためてご紹介するまでもなく、近松門左衛門研究の 世界的権威であられます。
『近松門左衛門の謎―長州生誕説を追って』(関西書院、1994)、若き日の近松門左衛門』(叢文社、1998)が、近松研究に コペルニクス的転回を もたらしたといっても けっして過言ではない不朽の業績 であることも 周知のとおりです。
 還暦を過ぎても 近松の学術研究を 指導的お立場から リードするにとまらず、多忙な日程の合間を縫うようにして、市政文化事業に 精力的に参画されている姿勢には 端倪すべからざるものがあり、さらにそればかりか、浅学の後輩世代に対しても つねに機会を提供してくださる度量の大きさには 敬服、感嘆するばかりですが、そうであればこそ 貴重なお時間を、更なる知識の地平の拡大へ向けて 傾注していただきたいというのが、「東洋のシェークスピア」をわれらが誇りとするすべての人々に 一致共通する思いであろうと存じます。
 公的に鼓吹された大義によらずとも、権力的弾圧に 屈することなく、自力で初心を貫き通し、文字どおり 生死を賭した戯作活動の中から、民衆が躍動する世界を 描き出した作品群 を送り出した近松の生きかたは、それ自体、体制に盲従しがちな現代人の軟弱な生、とりわけ 日本人に対する もっとも 根底的な批判と いえるのではないでしょうか
                
                 敬 具
                                                                                                 東京  権田  潤(フリーライター) 
 
 

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