長崎県平戸に見る「国性爺合戦」と鄭成功とキリシタンの交錯
換骨奪胎の名人 近松の名作「国姓爺合戦」の
創作における虚実の皮膜(史実と創作)
平戸に見る鄭成功廟・鄭成功居宅跡
丸山遊郭とキリシタン文明 
資料提供 宇部興産勤務 宮原リエ
未だに「倭冠」と日本史でも「海賊扱い」されている鄭成功軍団の松浦党史料館とキリシタン資料
 超ロングランをつづけた近松の「国姓爺合戦」肥前松浦郡平戸郷の女性を戯曲に創作、肥前唐津近松寺修業の跡がみゆる近松。難解な漢語が多いので 現代訳・注解 宮原 英一  



 近松門左衛門は没してより、数百年を経て、現代とへだてられること、すこぶる遠きといえど、その傑作、雄編は永く世につたわり、日月のような光明を放ち「李杜文章在。光焔万丈長」の句を 連想せしめ 「一生は短かけれども、芸術は永遠なり」というヒポクラテスの名言を 想い起こさせられる。
 昔の人をして、「この人は、実に本邦の李笠翁(注解・中国の大詩人杜甫のこと)なり(瓢々亭南水主人「浜松歌国」著・今古参考南水漫遊拾遺二の巻 平安堂近松氏の伝。)といわしめ 西欧社会では 「東洋のシェクスピア」とまでいわれている。
 この近松の遺作は多いが、なかでももっとも名高い
「国姓爺合戦」「雪女五枚羽子板」「曽我会稽山」は 古来「近松の三傑作」とされている。
 団扇曽我は 百日の興行記録ゆえに「百日曽我」と 改題されたという歴史があるが、とくに
「国姓爺合戦」は、世人がいまも賞美する 近松門左衛門氏の生涯第一の秀作である。初回は正徳五年十一月より 三年越と十七ケ月の大当たり。二度目は、享保五年正月二日よりつとめ、三度目は、同十六年五月につとめ、四度目は、寛延三年七月につとめ、その後も数回、興行におよぶが、ついに「一度とても 当たらなかったとがない」と言われている。
 まったく 近松門左衛門の文段が、古今の人情に通ずるゆえにこそ(南水漫遊拾遺二の巻・声曲類纂巻二、近松門左衛門の条)」だといえよう。
「国姓爺合戦」の傑作の評判は 江戸中期当時ですら、海外にまでおよび、
長崎の訳司で 周文二右衛門という人が、国姓爺第三回「楼門の段」を翻訳して支那へ送った
 その訳文は、上記「南水漫遊拾遺二の巻」に掲載され、また「象胥訳文」等の写本によりて、汎く世に伝えられた。

戯曲として創作された「国姓爺合戦」のあらすじ」


 
明末の逆臣、右将軍李韜天は、韃靼王に内通し 明王朝をほろぼした。
 国をうしなった天子思宗は、敵軍が闖入して、宮殿の内で拭殺された。
 そして皇后の華清夫人もまた、乱戦中に殺されたが、遺腹の皇子は、大司馬将軍、呉三桂夫妻の忠勇により、この世にのこり、呉三桂夫妻に護られて、九仙山に隠れ、皇妹栴檀皇女はわが日本に、落人として漂着した。
(宮原注解・このあたりは、「中国大陸の争乱の敗北者たちが 日本に逃れて、日本の古近世の宗教や日本文明の基盤が形成された」と、最近になり 日本の歴史学者たちが言いだした定説を、はやくも江戸中期に確立している近松の先見性の偉大さである。欧米各地の歴史学者たちが、歴代権力者とその周辺に 著述の力点を置いた日本の歴史学者たちが書いた本ではなく日本史研究の第一級資料として 近松門左衛門の諸作品を研究する「近松サミット」が 欧米各地の大学でまわりもちの主催で 毎年実施されている現代をみていて、底辺の庶民の暮らしに創作の視点を置いた近松の 歴史観の先見性に、ただ感嘆させられる)
 明王朝の遺臣、鄭芝竜こと 改名老一官は、日本の肥前の国松浦郡平戸の郷(註解・近松が修業した寺も 肥前唐津松浦郡の近松禅寺)に 逃れきて、浦の一女に契りをこめて、一男子をもうけた。
 ゆえに 鄭芝竜の子鄭成功は、母親が和国の「和」の文字をもちい、父は唐人、「唐」の声をかたどって、「和藤内」三官と 名のったとした。
 後に親子は支那にかえり、明朝の復興をくわだてて、韃靼国の大将 呉将軍甘輝をさそい、味方にしようとするが、呉将軍の甘輝は、老一官と先妻の子にうまれた和藤内と異母姉妹の錦祚女の夫である。 彼の割拠している獅子ケ城に 老一官夫妻と和藤内の三人が 訪問したが 軍紀がきびしくて面談できない。一官の老妻(和藤内の母親)が独り あえて縄にかかり、やっと呉将軍甘輝と面談できたが、甘輝は「妻の縁にひかれて 味方するとされるのを、快しとはしない」という。
 一方 城の外に待つ一官と和藤内は、城内にはいった一官の老妻とは
「首尾がよければ、城内に流れる小川に、お白粉を流し、もし不首尾ならば、紅を流すこと」
と 打合せていたから、「その合図やいかに」と、かたずをのんで、待ちまちかまえているところに、城内から流れ出る小川に、宝紅が流れてきた。
 その紅は 城主の呉将軍甘輝の妻であり、和藤内の異母姉妹である錦祚女が、生命を捨てて乳の下をえぐって 流した血潮だった。
 呉将軍の甘輝は「妻が自害した以上は 女に心引かれて 岳父老一官と義弟和藤内に味方をしても、人々の誹謗は もう起きない」として、またわが妻が 死をもって「親兄弟に味方してほしい」と 義をすすめる心を 痛切に感じて、ついに和藤内に味方することになる。
 また呉三桂も、皇子を奉じて来会。
 明王朝をほろぼした韃靼王の軍勢を撃ち敗り、逆臣右将軍、李韜天を殺し、ついに永暦皇帝の御代万歳。国の安全と 日本の君ケ代の神徳 武徳 聖徳の 満ちてつきせぬ国繁盛、民繁盛のみ恵みによりて、五穀豊穣うちつづき、万々年とぞ、祝いたる・・・という大団円になる。

(宮原注解  福井生まれとされてきた近松の経歴には、肥前唐津近松寺などはないが、「長州生まれで 唐津近松寺に修業した 換骨奪胎の名人とされている近松」は、肥前松浦郡の女性に 題材を設定して 日本人の岡本家の女性を、戯曲上では、みずからが修業した肥前松浦唐津近松寺のあったところに 換骨奪胎して創作していることに注意)

    
江戸中期の人にしては、近松の世界的な識見の広さ
 

 次に感じるのは、この戯曲にみる近松氏の世界的な識見である。
 
カンボジアのかぼちゃ塞右衛門。呂宋(ルソン)兵衛。東京(トンキン)兵衛。シャム太郎。占城(チャボ)次郎。チャグチュウ左衛門。チヤルコン四郎。ホルナン五郎。ウンスン六郎。スンキチ九郎。ウル左衛門。ジャガ太郎兵衛。サントメ八郎。イギリス兵衛。
 世界各国の国名を いちいち なるべく原語原音に忠実に訳した{Cambojia}{Luzon}{Tonkin}。{Siam}{Champo}{Moyol}{Jagatara(バタビアの旧称)}{San Tome}{Engrish]など 和藤内のセリフを借りた近松の、鎖国下の江戸時代の人とはとうてい思えない、すばらしい世界地理上の博識である。
 文明開化の先端にいた明治 幕末の維新の志士たちですら 英国のことを
「エゲレス」とよんでいたのに、幕末よりはるか以前の正徳五年(1715年)のころ、すでに「イギリス」、原語の原音を 忠実に訳している。近松はひそかに白人たちに接していたのだろう。

(宮原註解、キリシタン禁教の後、近松は保身上 法華宗に寄寓した。東北の法華宗寺院は いまでも”隠れキリシタンの総本山"とされて キリスト教料理によるキリスト教セレモニーが 毎年行われている。隠れキリシタン近松説”の有力な根拠の一つとされている。
 なにしろ、山口県や九州では、古来「長州生まれだ」とされている近松が、修業したのは肥前唐津の近松寺であり、近松寺はキリシタン禁教まで、本来は豊臣のキリシタン奉行 寺沢家の菩提寺。
 今も人形を彫り込んだ三位一体のキリシタン灯籠が三基。唐津近松寺の庭や茶室の垣根の陰に 注意深く 隠されたままの キリシタン寺であった。
(永久保存史料の唐津近松寺のペーシの写真を参照)
 
案内して頂いた地元の松浦党研究会の地方史家 富岡氏によると「キリシタン禁教後は 人類愛の宗旨の十字架は「納戸神」とされ、役人すら立ち入れぬ 夫婦のまぐわいのための別棟の部屋「納戸」の「愛と豊饒の守護神」として、明治まで 漁師たちの納戸に 代々祀られていた。
 唐津やその付近の人は、いったん表向きは 仏式の冠婚葬祭をすませたのち、夜は
「納戸神」の前に集まり、かっては藩主とともに礼拝したキリスト教式の冠婚葬祭をしていた。
 島原、天草の乱の島民の決起で 老若男女のすべてが殉教して 三万数千人が一人残らず 虐殺された。
そのあまりのむごたらしさと 信教の信念に懲りたのか。藩としては 表向き仏式の冠婚葬祭さえすませてくれたら、あとは いっさい見て見ぬふりをしていた。
 そのために
「納戸神と名を変えた十字架のキリスト教は 明治まで 唐津の漁師たちの家でまもられていたという。
 キリスト教禁教は 近松が 唐津近松寺で修行にはいる直前の ことであった。
 話題はとぶが まだ信教の自由の保障がなかった明治のはじめに 納戸神を奉じていた唐津の人たちは、明治政府になったばかりに 安心して公然化して 異端として捕えられ、津和野や萩藩に、送致されたらしく、いまは受難の跡の名所「乙女峠」のある津和野藩や萩藩に 異端としておくられ 過酷な拷問のうちに 次々に亡くなったという
 その棄教をせまる拷問のすさまじさは、津和野藩も 氷の池に漬けるなど苛酷だったが、
「棄教をせまった萩藩の役人の拷問のすさまじさは、とうてい津和野藩の比ではなかった」という。
 萩には それほどすさまじい拷問で 囚人信徒たちが殉教したのに、その跡かたちすら、永遠に抹殺されたままになったキリシタンたちの哀しみもある。吉田松陰も国禁の密航を企てて 死刑に処された。明治維新発祥の町が もっている「異端者たち」の明暗の歴史である。
 筆者はカソリック信徒ではないが あえてそれをここに明らかにしておくのは 
いまは萩市の観光名所になっている萩カトリック墓地公園に たちならぶ墓標には、唐津で納戸神を奉じていて明治政府になり 逮捕されたのか、すさまじい拷問によって 萩で殉教した人たちの墓標に「唐津出身の殉教者たちの名」が 少なくないからだ。  
 ところで 紫衣事件で幕府に引退させられた一条帝の側室の 実家である唐津近松寺は、朝鮮半島進出のために、
名護屋城まできずいた豊臣秀吉のころ、曽呂利新左が 設計した広大な寺だった。
 しかし幼い近松が修行したころは、関ケ原合戦で西国武士たちの連合である豊臣党は敗北し、幕府のキリシタン禁教により、年間わずか三石の貧乏寺に、突きおとされた時である
「その理不尽な幕府の仕打ちに 近松の幕府への反骨魂が形成されていった
」といわれている。  
 九州は 越前とちがい、フランシスコ・ザビエルとその一党の活躍によるキリシタン伝道で、後には天草、島原のキリシタンの一揆がしばらくは一帯を支配したほど、ほとんとの民が、キリシタンに改宗していた。
 当時総人口が 八百万人そこそこの日本人口の十人に一人、約六十万人から八十万人の日本人が、キリシタンに帰依していて 東国武士対西国武士の 天下分け目の関ケ原の合戦では、九州 中国 近畿のキリシタン信徒が 多数だったゆえに キリシタン浪人たちは 西国武士として 豊臣側軍勢に加担したという。)

    
歴史上の人物としての鄭成功における史実
 

 歴史上の人物としての鄭成功は、父鄭芝竜がわが国に亡命。平戸の田川家の日本人女性と結婚し、その日本女性が産んだ子がこの鄭成功だ。鄭家の家紋は山口県宇部にあっつたとされて いまも家紋辞典にには鄭家の家紋として掲載されている。 
 あとに父子は、本国に帰り、明朝の復興を計画した。鄭成功は、はじめは日本姓で「森」といい、小字は福松と名乗り、「森福松」という名であった。しかし明の唐王と謁見して、明の国の姓「朱」をたまわり「成功」と改称。これより中外国姓爺と称するようになった。 とくに「爺」というのは、わが国の「様」と同じ尊称で、時の天子を、年号により万暦爺、嘉靖爺などというのは支那の俗語。国姓爺とは、国姓「様」ということばである。国姓爺の「姓」の字を「セン」というのは、支那音なり。ポルトガル人または、オランダ人が明朝の末期、清朝初期の事を記すものは、Kxinya or Koslinyaというが、国姓爺は支那音に依ったものである。
 鄭芝竜は はじめは明朝のために力をつくしたが、一旦、封爵のために 忠節を失い、明王朝の臣下の地位を去りて清王朝についた。息子の鄭成功はこれを慷慨嘆息し、ついに意を決して、父親の鄭芝竜をすてて、主君明につき尽忠の誠を貫かんとした。またその母の田川氏女も、明に渡って 福建省の泉州城にはいったが、清国の軍勢にとりかこまれても、節を護り、明国に殉じた。
 鄭成功は母が非命により死せるを悼み、決心はいよいよ堅固となった。
 これより連年、支那の東南方面を転戦し、地方中原回復の大事、ようやく有望とはなった。近松が この一党には 極端に詳しいのは当然で、日本では 近松が修行した唐津近松寺の在る唐津が、本拠地として
「唐津松浦党」とも「和冦」ともいわれ、大陸や日本の支配者から 蛇蝎のように怖れられ、忌避された。しかし日本に最初のキリシタン伝道をしたザビエルを 日本に案内したキリシタン・ヤジロウも 最後はこの松浦党の幹部になり 日本最初の聖書「ドチリナ・キリシタン」を著作。インドのゴヤの神学校の指導者として 彼の地ゴヤに死没している。
 すればこの一党は大陸や日本の支配者から 蛇蝎のように怖れられたのは当然で いわゆる盗賊の軍ではなく、禁止されたキリシタン武士たちによる治外法権の場であったからであった。
 その幹部ヤジロウたちがキリシタンたちであることは オクビにもださず、ドラマでは鄭成功を三国一の英雄として描き、史上最長のロングランの人気を得た近松の キリシタンへの親近性がますます証しされる作品でもある。隠れキリシタンの総本山であった法華宗の門徒でもあったとされる近松門左衛門とは あるいは権力者中心でしかない日本の歴史学者からは 盗賊か 海賊のごとく 日本の歴史に扱われている「和冦」の正体とは いったいなにものであったのか、まだ謎に包まれている。
 鄭成功 ひきいる軍勢は金稜(南京)で不幸にも一敗。
 
挫折して、軍勢は漸次窮乏してゆき、ついに台湾をとって再挙 雄図を成さんとし、先に台湾を占拠していた外人部隊のオランダ人たちを駆逐して、台湾全土を解放。
 台湾に拠ることになったのが、時に 寛文元年(明朝の永暦十五年。西暦一六六一年)のことであった。
 鄭成功が 台湾に拠っつてからは 人もあつまり、土地もひらけて、鄭氏の勢力は ようく盛んになった。されど鄭成功は、不幸にも享年三十九才をもって病没。台湾人は 廟をたてて、オランダと戦い、白人支配から台湾を解放した鄭成功を 崇祀し、はじめは「開山王廟」といい、清朝や明延にいたり、廟は 明延平郡王祠というようになった。
 敗戦により 日本の植民地支配が終わるまでの、台湾の「開山神社」が、すなわち是の鄭成功を祭った神社である。
 明治二八年六月。台湾が 日本帝国の領地になるや、総督および地方長官等みな善政を行い、風教をおこす。台湾知事磯貝氏は二千石なり、二九年。任地に赴任するや、延平郡王祠表彰の世道は人心に益あることを思い、ときの台湾総督に建言した。総督はこれを善しとして、さらに内閣に提議して、ついに明治三十年一月十三日付けをもって、県社に列し、
開山神社と称すべく 拓殖務大臣より示達せられた。この社号は、創建当時の開山王廟という廟名に因むものである。
 本殿の後殿の正中は太妃祠として、「烈女日本人田川氏」を祀るものである。
 (以上は雄山閣 大正十三年二月初版発行、昭和十一年三十六版発行の国史講習会編「国史上疑問の人物」百九三頁 文学士中西久四郎氏の文よりの抜粋と引用)

 
 
敗戦後の現代も、開山神社は開山王廟にもどり、祀られている。鄭成功は 中国大陸と台湾と日本にとっても、植民地解放の誇るべき三国共通の英雄として崇祀されているという。
 これは「国姓爺合戦」には 描かれなかった「歴史上の人物としての鄭成功の実像」である。
 後世に大陸中国、台湾中国と日本の三国共通の国際的な英雄になる萌芽を、鄭成功に発見して 劇化した近松の 先見性の前には、ただわれわれは頭べを垂れるだけである


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