山口県広報課 発行200年3月
山口が育んだ魂、浄瑠璃歌舞伎作者 近松門左衛門
文・宮原 英一  イラスト・あべ弘士
山口県県外広報誌春の号 
  芭蕉や西鶴と並んで、元禄の三大作者といわれる近松門左衛門。その筆は人の持つ弱さを見つめる。日常の営みに潜む、胸底のささやかな思いをすくいあげる。時代を経て、現代という新しい地平にも、生きることへのしたたかさと優しさを抱いた近松の声が 聞こえてはこないだろうか。
           
            
 近松伝説
 
 万葉集に「よしえやよし、潟はなくとも鯨魚とり」と柿本人麿が詠んでいる。長門から下関は魚類の宝庫であり、鯨の群れさえ、かってはこのあたりの魚をめあてに日本海を周遊していた。歴史は地層のように重層的なものがたりを、無数に秘めている。生々流転の少年近松の孤独の影は、山口県のあちこちに語りつがれている。
 長門深川の町に女がいた。みなと小町とよばれたほど美しい、詩歌に堪能な女性だったという。女は海の好きな孤独な青年と、はげしい恋にむすばれる。家老職のふあるじ持ちの女にはゆるされざる恋であった。子だねが、女の腹に宿った。居場所をうしなった女はくらやみのけもの道をひたすら逃げまどう。それは宿ったいのちをまもりぬくというちいさい胸にひめた「胸一つ」をつらぬく気高い母の姿だった。
 女がたどりついたところは、豊田町神上寺ふもとの、藩主が馬をつなぐ馬小屋である。彼女はそこで赤子を産んだ。それがほかならぬ近松自身だった。
 少年にもやはり居場所がなかった。
 少年近松が修業した佐賀県の肥前唐津の近松寺は、近松門左衛門の遺髪塚がある。碑文は「近松門左衛門、印海祖門という上座の者。長門深川の人なり。近松寺第十四代の遠室禅師により得度を受ける。学識は卓絶していて、のちに京師にあそび、浄瑠璃の著作業に従事。近松門左衛門と姓を変えた。享保九年辰年十一月二十一日、浪華に没せり。遺言をもって当寺に帰葬す。享保十年乙巳年六月二十二日。当山六世現住鏡堂、これを識す」とある。仏教には分け墓制という埋葬システムがあり、必要に応じて、縁者のところに、分け墓を建てて、遺髪や遺爪などを本人の遺体としてあちこちに埋葬する。むろん、唐津のこれも、浪華から近松の遺体の全てをもってかえったわけではなく、分け墓として、近松の遺髪を埋葬した石塔である。
 長門の捕鯨港の記録によると、唐津の漁師たちは唐津と長門通い浦の捕鯨港を往復するときには、いったん下関観音崎の永福寺を経由している。その永福寺の義天和尚が十歳の少年近松をともない、唐津近松寺につれてきたと、佐賀県松浦郡史にもあるゆえんである。観音崎の永福寺では今も近松門左衛門の追善供養を絶やさない。
唐津には伊崎流れという通りがある。いまでも語調の強い佐賀なまりの唐津で、ここにゆくと、長州人に、なつかしい下関伊崎町なまりを聞くことになる。
 
       長門楽桟敷と川棚若嶋座

 長門市では近松大橋、近松公園、近松みすず道路の開通など、ちかまつに因んだふるさとづりがめざましく進んでいる。毎年、文楽や歌舞伎を上演する「近松祭イン長門」も行なわれ、今年三月には古典芸能県民劇場「ルネッサ長門」が完成した。
 長門市の中枢道路のうえにかかり、文楽の有名場面がレトロな渋いプレートになって、欄干の一つひとつにはめこまれている近松大橋をくぐりぬけると、右手にのぼる石段の上に近松巣林碑のある赤崎八幡宮がある。その近松巣林碑のそばをみると、だれも一瞬、わが目をうたがう。
 ひとまわり小型ではあるが、すり鉢の底に舞台のある 中世の石造のギリシヤ円形劇場に似た楽桟敷がある。
 観客席はすべて細長い石が重ねられて段々になり、舞台をみおろすように、周囲をグルリと囲んでいる。    
 
 ひと気のない夜の楽桟敷には、日本海をわたる男波女波が、さいさいと松風を鳴らせている。人の顔色をうかがい右顧左眄していて、本来あるべき自分ではない自分。そのためになら、たった一つしかない生命を うしなってもいいといえる 自分の魂のよりどころとは何だろうか。定まらぬ自分の居場所を求めて、草叢にころがり、星をみあげている若い近松の吐息がそこここの草叢に強烈に漂う。
 
 中村雁治郎師匠は「近松門左衛門が長門にわたしを呼ぶ。長門には私の祖先がいるような気がする」とまでいう。えにしの糸にひかれて、楽桟敷に近松は野村万作、吉田蓑助師匠などといった、当代切っての演劇人たちをつぎつぎに引き寄せてやまない。
 長門深川から下関にゆく途上には温泉町川棚の町がある。ここには「若嶋座歌舞伎発祥の地とかかれた碑がたつ祇園舎があり、苔生した石の鳥居には川棚若嶋座の若衆の名が刻まれている。若嶋座は大阪道頓堀の舞台で名をあげて、西日本屈指の劇団として近松のドラマとともに関西から西の日本をくまなく巡業した。
 
        民衆の哀感を筆にのせて、
 
 北は三韓、壱岐対馬。南は香椎宇佐八幡。みもすそ川の底きよく。神徳普き夢想の告げ、鳩の峰に鎮座あり・・・かかる遠国、波涛にも、名所は音に響き灘。鐘が岬にあけわたる。箱崎の松、太宰府の梅木は芦屋の漁火影もなく、松吹く風の声ばかり、今行く船に通いくる。苫よりくぐる滴りは、小倉の雨の糸にににて、波もちぢみや織るらむと心を結ぶ中空に。初雁がねの雲間より、ちらちらちらちら、散らし書き。だれが玉章の文字ケ関。和布刈りの明神伏しおがみ、潮の満ち干しの玉島。つづく光や茜さす。周防灘とは是かとよ。・・・・灘の男波が打ち寄せて、いつも添い寝の床の島、京とまりては上の関、近松門左衛門「平家女護島」より
 遊女発祥の地、広びろとした海にかこまれる西国一の大港、下関の華やかな栄光をつたえる東洋のシェクスピア近松門左衛門の流麗の筆である。近松ときくとむつかしい古文でわたしたちには縁が遠くなった。しかし読んでみると、現代映画にでてきそうな、愛とスリルのロマンである。「平家女護島」では女装した源氏の若君牛若丸が、平清盛の女になっている母の常磐御前の館にしのびこむ。そしてははとともに色しかけで、源氏一党を糾合しよとするが、危機におちいり、遊女松枝の情けにより、虎口をあやうく脱出する。腐敗堕落した平家党を倒すために敵の本拠に潜伏した愛と命の危険に満ちた物語りだ。近松が歴史の舞台で活躍したのは江戸中期である。永遠につづくかのように見えた 元禄の華やぎは、満開の花が散ってしまえば、その下からは地獄がせりあがつてくるだけの宴げのうたかたの夢にすぎなかった。繁栄の夢を喪失した人々の胸は、行方知れぬ黒い不安に閉ざされた。政権ののこした負債は膨大な金額にのぼる。傘はりの内職や、慣れない土木作業で、かろうじていきている多くの失業武士たちろねひたむきにそれをささえる家族におい打ちをかけるような政府の浪人狩り。遊女に転落して身体を売るもと武家の子女たち。衰退した経済のしめつけ。借財におわれる男と女が、せめて見つけたささやかな愛すら許さない当時の社会システム。浮き世は憂き世に一変した。生きてゆくのに疲れはて、生きる望みを失った男と女の心中が多発する。
 顔色をかえて人々がはしる。
 借金を苦にした男と この世に生きる望みもない遊女が、腰を帯でむすびあい、折り重なって死んでいる。西鶴より十歳したの近松門左衛門が、赤貧洗うがごとき公卿たちにつかえたあと、自立して無きにひとしい存在であった民衆のがわにたち、透徹した徳川体制批判の筆をはしらせたのはそういう時代だった。過去の故事来歴を題材にして、換骨奪胎をして、自分の生きる時代の世相のさまざまを縦横無尽に語るという近松の作品は、現代作家のドラマツルギーを産みだした。
 
            ロンドン王立劇場のなみだ
 
 この世の名ごり、夜も名ごり、死ににゆくわが身をたとうれば、あだしが原の道の霜。一足ごとにきえてゆく。夢の夢こそあわれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘のひびきの聞きおさめ。寂滅為楽とひびくなり。鐘ばかりかは草も木も、空も名残りと見あぐれば、雲心なき、水の音。北斗は冴えて影映る。星の妹背中の天の川。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも。われとそなたし女夫星。かならず添うとすがりより、二人がなかに降る涙。川のみずかさも増さるべし・・・
              近松門左衛門「曽根崎心中」より
 二十年前のことである。日本の劇団がロンドン王立劇場で「曽根崎心中」の幕を明けた。観客席はシンとしてしわぶきひとつしない。そのマナーの良さに驚きながらも、日本語のわからないイギリス市民にはとても理解は無理だろうと関係者は舞台のそでで見ていた。ところが心中の名場面、遊女の天満屋お初が「この世の名ごり、夜も名ごり、死ににゆくわが身をたとうれば、あだしが原の道の霜。一足ごとにきえてゆく。夢の夢こそあわれなれ」となげく道行きにさしかかるや、観客席にいっせいに白いハンカチがみえて、ロンドン王立劇場は観客のむせび泣きに満ちたという。もっとも世界的な普遍性を持つ文学とはもっとも民族的な個性を備えた文学のことである。近松の作品は、国籍やことばの相違を超えて、かくもはげしく人々の魂をゆすぶる。名もない民衆の愛と行き場のない閉塞の時代の苦悩とをあざなえる縄のこどくないまぜにしつつ、エロスの極致までひきあげて純愛の劇詩人といわれる近松門左衛門であった。

   
-d
「目次」にもどる。