宮廷詩人近松の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士」
についての覚え書
 
  史料では「近松は法華宗の人」とされている。
 近松が みずからにつけた戒名は
「阿耨院穆矣日一具足居士」だ。
 
 奈良本辰也・高野澄著の「忘れられた殉教者」)をよむと なんと、皇室にもっともに近い
近衛家に「阿耨院日行」という僧が、備前にあらわれている。
「阿耨多羅」とは、
無上を示すサンスクリット語の漢訳だそうだ。
 
阿耨院日行は、近衛熈孝という公卿で、園藤斎と号していて、三宅島に流されて、日妙上人をしり、教義をまなんで 直弟子になった人。
 備前法華の祖 大覚僧正が 近衛経忠の息子であったという。

 幕府により、罪人にされたとはいえ「近衛家系公卿出身の僧」という経歴は、特別な意味があり、備前一帯では
阿耨院日行派が急激にのびていった。
 
阿耨院日行の主張は、そのままの記録にはないが、
一、天地に二日なく、土地に二王はない。にもかかわらず 天皇をさしおいて 将軍が運営している日本の政情は まちがいである。
二、過去の清者は すべて強信の者であったが、いまどきの清者は、ただ渡世のための清者としか、いいようはなく、身軽法重身弘法を忘れた下賎のものにすぎない・・・」。
     (奈良本辰也・高野澄著「忘れられた殉教者」)より。
 
「近松を創られた系図(原図はない)により「越前生まれ」としたのは 大正の学会であった」と 早稲田大演劇博物館長は 手紙で教えてくださったが 
昭和三五年に江戸柳島妙見跡から「近松は萩藩杉森の人で 笏六位の公卿であった」という江戸時代の石碑が発掘されてみれば、みずからの戒名に 敢えて近衛家の「阿耨院」をなのった近松の魂が偲ばれるし、この戒名により 公卿出身の近松が「武士政権幕府とたたかう中世の天皇(網野善彦史学)」の側にいたこともますます鮮明になり かつ近松が お公卿さんであれば、「咫尺(天皇のそば近く)したてまつり、三槐九卿(三摂政関白家と九晴華家)につかえた」としたためた近松の遺言は すんなりそのまま 受け入れられて ぴたりと符合する。
 
 ある高名な女流作家は
「近松には 公卿の血がながれている」と 書いているが、みずからの戒名に 皇室の近衛家と同じ「阿耨院」となのり、近松みずからが 公卿であることを暗喩した近松の姿勢が 発掘された碑文から 判明した。
 近松は世襲制のきびしい武家社会の越前の失業武士の杉森の子などではなく 柿本人麿らとおなじ 宮廷詩人のお公卿さんだったのである。


「近松は武家より自由な公卿の出・・・」    
三田村鳶魚全集より 
 
 時代物を書く人の「時代考証の神様」といわれている三田村鳶魚が「近松の出生について」触れているのは まだ発見していないが「近松を論じる場」では 三田村鳶魚は、自明のこととして「近松は公卿の出身」として 以下のように論じている。
「・・・・こうして見ると、婦女の覚醒は 民間に先だって、武家から生ずべきであるのに、そうでないのを訝らなければならぬ。近松が 武家より自由な公卿の間から出ただけに、ここの様子も めだったであろうから、武家の婦女が 腑甲斐ないようにみえたろう」(昭和五一年四月初版発行 中央公論社版・三田村鳶魚全集第十二巻七十九ページより
 
 {近松は身分の低い雑掌であった}
だの、{身分が低いゆえに 不満で武家会を外れて、戯作者になった}
だのという もってまわった解釈はせず、
「近松が武家より 自由な公卿の間から出ただけに、戒律に束縛される武家の婦女が、腑甲斐ないようにみえた」と 書いている。
 たしかに 源氏物語以後の「王朝文学の伝統」からいえば、武家階級が勃興し 支配する以前の公卿や町衆社会では 女性の恋愛は肉体的にも自由で、それを「不倫」だの、「不義密通として非難する」ものは 見当たらない。新興階級である武士が、それまでは自由に恋愛してきた女性にも、きびしい戒律を おしつけたゆえの 絶望的な
「憂き世」の相対死の時代であると民俗学、歴史学的にもいえる。
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