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| 笏六位の公卿 宮廷詩人 近松門左衛門藤原信盛 ☆ | |||
| 「阿耨院」・・・信仰ゆえに流刑 弾圧 流人にされた宗教 | |||
| 遺言にみずから無上と名乗った「阿耨院」の意味 宮原メモ | |||
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史料では「近松は法華宗の人」とされています。 近松がみずからにつけた戒名は「阿耨院穆矣日一具足居士」ですが、近衛家の「阿耨院日行」という僧が、備前にあらわれています。 阿耨多羅とは、無上を示すサンスクリット語の漢訳だそうです。 阿耨院日行は、近衛熈孝という公卿で、園藤斎と号していて、三宅島に流されて、日妙上人をしり、教義をまなんで直弟子になった人。備前法華の祖大覚僧正が近衛経忠の息子でした。 幕府により、罪人にされたとはいえ「近衛家系公卿出身の僧」という経歴は、特別な意味があり、備前一帯では阿耨院日行派が 急激にのびていった。阿耨院日行の主張は、そのままの記録にはないが、一、天地に二日なく、土地に二王はない。にもかかわらず 天皇をさしおいて 将軍が運営している日本の政情は まちがいである。二、過去の清者はすべて強信の者であったが、いまどきの清者は、ただ渡世のための清者としか、いいようはなく、身軽法重身弘法を忘れた下賎のものにすぎない・・・」。奈良本辰也・高野澄著「忘れられた殉教者」より。 近松が生まれたのは一六五三年ですが、幕府権力により 日講と日浣が追放されたのは一六六六年。日庭に佐渡流刑の処罰が下ったのが一六八七年。日述 日浣 日講 日堯 日了 日庭らは 寛文法難殉教「後六聖人」と尊称されていますが 近松が生きた時代は流刑と処刑の宗教弾圧の江戸時代二百年の最中でした。不受不施派が宗教として公認される明治九年までは、キリシタン弾圧と同じように 権力による弾圧 流刑 処罰の連続でした。 その時代に 老衰死が近くなったことを知った近松は 自分は阿耨院という法名であると、不屈の信念を秘めて生きたいたことを遺言状で公開し 幕府の宗教弾圧におびえている世間をアッといわせ 当時としては 衝撃的な反骨の精神の所在である自分の位相を あきらかにしたのでした。 教義論の正否はともかく、反幕派で、僧としては「無上」というサンスクリット語。近衛家と同じ「阿耨院」という至高の高僧名をなのっていた近松。「咫尺(天皇のそば近く)したてまつり、三槐九卿(三摂政関白家と九晴華家)につかえた」と遺言した近松に「公卿の血がながれていると感じる」と いわれるのは、みずから 無上の存在阿耨院となのっていた、このあたりに 彼の真骨頂があるのかも、しれません。 当時 日本最大の劇場があつた下関稲荷町の女歌舞伎劇場は、法華宗の下関本行寺境内にありました。 |
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| 若き日の近松門左衛門藤原信盛(笏六位)の肖像画 | |||
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| 「北浦乱菊物語」連載中に 下関市豊田近松顕彰会の地方史家から受贈 | |||
| 著者近影 | |||
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