近松は「萩藩に生まれ」「下関長府にて成人」した

浄瑠璃作中祖近松門左衛門略伝
出典「摂陽奇観・巻之四十九」
出典「浪速叢書・第六』昭和4年9月、浪速叢書刊行会」
☆☆☆  近松門左衛門信盛 本姓杉森氏。毛利家の臣にして長州萩藩に産まれ、長府に成人す
 ゆえ有りて 京師に登って 雲上家に仕官し 雑掌を勤む。
 兄は上京。相国寺にて宗長老とて 碩学の禅師也。
舎弟すなわち岡本一抱子といふ。(宮原注 福井製系図では 次男近松は三十三才も下の三男一抱と兄弟とされている。一抱が近松の舎弟であれば、近松と一抱に三十三年の年齢差があるのもうなずける)名医にて、妹は錦江といふて、誹師浪花に住みて名家也。兄弟いづれも人に知れて、天下に卓絶し、門左衛門、元禄の比仕官を退き、東山に閑居し、曽て博学広識の余り、教戒の志厚く、法華経普門品に云う……と説き給へる(宮原注 下関の大阪屋劇場を境内にしていた本行寺は学問の宗教法華宗である)釈尊の大慈に随ひ、則ち 狂言綺語を以って、児女子に勧善懲悪の理を諭すは、浄るりに如かずと、門左衛門 知覚発明し、京師都万太夫、宇治加賀掾等の浄瑠理を新作し、後竹本義太夫筑後掾に招かれ、浪花に至り 則ち貞享三年丙子二月四日 始めて「出世景清」といふ時代浄留理を新作し出す……(宮原註解 源平の壇の浦合戦に敗れた落人 平景清が隠棲した山口県美祢市美東町の景清洞の入り口の生目八幡に この「出世景清」の原型が 寺社由来として残存している。)
 門左衛門 事蹟妙作の事は 諸書に挙げたれば こゝに略す。委しくは 本書を見給へかし、則ち 摂州河辺郡久々知村(神崎より十八丁北) 広済寺に葬る。
 妙見宮寺内也。石碑あり。自然の青小石也……そもそも 門左衛門 近松と称するは、叔家(はゝかた)の氏にして、浪士のみぎりより、是を名乗る叔家の子孫 芸州沼田郡府中村 近松龍左衛門とて 今なお連綿として、代々村正を勤む。
 予は又門左衛門の家より出し、女の子孫にて、則ち又、叔家の跡を続けて、近年 近松を以って氏とす。不侫(およばずながら、門左衛門より遺志を続けて、則ち 浄瑠理を筆作し、東山に閑居して 世を楽しむ。当文政六癸未年 すでに百廻に 正当なるがゆへに 此略記を著わして 菓林翁が誉を 弥増しに薫さんがため 拙き毫をこゝに止む

国立国会図書館蔵
 近松研究所のホームページや園田学園女子大のホームページにも掲出
研究者のコメント     宮原 英一
(一) 当時は「防長二州」といい、防府と長府に 防長それぞれの府都があった。長府を府都とする下関には 朝鮮特使などを接待する日本最大の劇場 大阪屋劇場があった。
 「萩藩領でうまれた近松は そこで成人した」とある。
 大阪屋劇場は 下関の法華宗本行寺の境内にあった。
 「近松は法華経普門品に・・云々と説いた」とあるのは、近松が 劇作家として修行、 成人していった大阪屋劇場が 「法華宗」本行寺境内にあった関係と 推定される 
(二) 尼崎市広済寺には 近松の末裔で 毛利藩の御典医だったという芸州の人が 寄贈した近松の養生訓があるが、{芸州沼田郡府中村の近松家にあった近松の筆による養生訓である」ともいえる 
(三) 日本図書館協会選定図書に指定された私著で指摘したが 国史人名辞典をみると 岡本一抱がうまれたのは 近松よりも三十三年後だ。したがって 近松が岡本一抱の家に上京して髪をたくわたというたぐいの話はすべてツクリバナシである。しかし岡本一抱が有名作家近松翁の舎弟であったというのなら 近松より三十三才下の舎弟岡本一抱がいたとしても 奇異なことではない。 
 新人物往来社刊 歴史百科196頁より
近松門左衛門は 長門国の杉森氏の出という
歴史百科 日本人物事典より
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