07/6/24

後の京の維新芸者につながる非転向の誇り「京都島原遊郭」の発生

 
一六一四年、(慶長一九年)、豊臣征討を目前にした徳川家康は キリシタンとこれに好意をもつ大名には警戒したものと思われ、「全宣教師の追放」を実施する決断をした。
 この年十一月、家康が豊臣征討を宣告したころ、長谷川左兵衛は 島原のキリシタン禁止を実施するために 有馬に到着した。
 他方 大阪の一揆と 秀頼と内府さま間に戦端が開かれそうなので まず有馬人の征服を実現する必要があった。そこで彼は 駿河殿(山口駿河守直友)とともに 薩摩や肥前から徴収された兵約一万人を率いて出発、この軍隊は最初に
島原にむかった

 その弾圧の模様を「宗門史」は 次のように記している。
 徳川幕府の島原切支丹攻略軍のトップ長谷川左兵衛は 
島原キリシタンに対して
「婦女子を苦役につかしめ また特に容貌の美しき女は「京にともないて」 遊女となすことなるべし」。もし イエスズ キリストの教を棄てなば、年貢と賦役は これを免除さるべく 唐船をその港に迎え、もって通商を営み、お国を 富裕ならしむべし、」
と 威嚇と懐柔 アメとムチをまじえた キリシタン婦女子の拉致と強制連行の恫喝命令を発した。
 
(地方においてはキリシタンは 進取の気象をもつ武家や庄屋が、その拠点になった。幕府はそのキリシタン武家や庄屋たちの 上品で美貌な妻や娘たちを拉致して京都に強制連行して、遊女にしたのであった。こうして一六四一年、京都に島原遊郭ができた。)
 むろん 島原キリシタンは抵抗した。
「迫害者の軍隊」は、有馬領に侵入。
 キリシタンの弾圧をはじめた。
 これについて「宗門史」は 次のように記している。
 「千人の兵士らが 周囲を固めていた。
 中央には 一束の縄を用意した二十人の兵卒がいた。
 キリシタンたちは ここに入ってくると 兵卒たちに 鉄の鉤で 髪の毛や耳をおさえられ 引きずりまわされ、殴打され 素裸にされ、足をくくられて 足は挫かれ 泥まみれの草履で 顔まで打たれた。
 これは 日本の習慣では いちばんひどい屈辱であった。
 この間 ずっとキリシタンたちは 声高らかに 聖詩と祈祷をとなえていた。
 キリシタンたちは つぎつぎに 新手の拷問にかけられ 棄教者も出た。
 さらに 長谷川左兵衛らは 「婦女子は裸体にして」「こどもたちは踏みつぶす」と恫喝した。
 そして 見せしめのために もっとも信仰の固い十七人を斬首し、その遺骸は寸断されて 放棄された
のである
     ( 教育社歴史新書煎本増夫著「島原の乱。提供・美祢市立図書館)
 
 下関市彦島には 下は荒波が渦を巻いて吸いこまれている断崖があり、そこには巨大な観音像が建てられている。ここに投げこむと「遺体は渦潮の底に沈み 永遠に浮かびあがらない」といわれる。
 そこは「身投げの名所」でもあり 亡くなった「遊郭の女の遺体の投げこみ場」でもあったという。
 遊女は 死ぬと無縁墓やこうした断崖の上から 渦潮の中に放りこまれていた。
 出所不明、生地不明の遊女の一人小野小町が 流浪の果て「吾れが死んでも 焼くな。 埋めるな。野良犬の腹の足しにせよ」という辞世の句を残したと語られるのもと 併せ考えると、不屈のキリシタン女性たちが 遺骸を寸断されて 野に廃棄され、新刀の試し斬りの材料して 藩士の家に分け配られたり 野良犬の餌にされたこの当時の この島原キリシタン弾圧の記事。
 徳川幕府の手先の軍勢が、島原のキリシタン武家や庄屋の妻女をつぎつぎに強制連行、拉致して、京都に送り 遊女にしたというこの記録は、京都奉行板倉が島原遊郭だけを名ざしにして たひたび そこへの禁足令を出している理由も明らかになる。
 武家政権とはいえ 世襲制度の弊害はひどく たとえば幕末の家老職の息子たちは 「越前という漢字すら 満足に書けるものがいなかった」という。しかし世襲制により これら人間のクズのような息子たちが 代々家老職を継いだという。
 維新は 起きるべくして起きた人間の自然の 歴史の所産でもある。

 近松が遺言に遺した三隗九卿。易、祭り 文章司 和歌 雅楽 相撲など日本の伝統文化は、家元を京都の三隗九卿の朝廷公卿が独占していて 単に無学無教養でしかなかった「さぶらうもの」武士は 寄せつけなかった。
 京都御所のある街、元島原のキリシタン妻女たちが隔離された京都島原遊郭の、誕生と盛衰の経緯を思わせて興味深い。
 日本文学史をひもどくと 当時の天草 島原は キリシタン版「平家物語」やイソップ物語の換骨奪胎版「伊曽保物語」などを創作、出版。知の遠近の拠点であり、刀に物言わせる「無学」「無教養」な武士階層が 立ち入れない高度なキリシタン文化の輸入の拠点でもあった。、
 豊臣氏の滅亡が決定的になり 徳川氏による日本統一が 名実ともに確立された一六一六年(元和ニ年)八月。秀忠は次のキリシタン禁止令を発布した。
 きっと申しいれ候。よって伴天連門徒の儀、堅く御停止の旨、先年 相国様(家康)仰せだされ候うえは よりその意を得られ、下々百姓にいたるまで、彼の宗門無きよう御念を入られるべく候 (ご当家令集)
 このように、百姓にいたるまで、キリシタンとなることを禁止されたのである。
「宗門史」によると
 日本人が宣教恩師やその協力者 もくしくは奉仕者と といささかでも関係をもつこと。ことに彼らに宿を貸すことは厳禁され、これを犯したものは火炙り 財産は没収された。おなじ刑罰は 訴人を除く罪人の妻子とその家の近所の両隣り五軒におよぶのであった。 
 かくして 別冊「歴史読本・歴史の中の遊女 被差別民」新人物往来社によると 京都六条に島原遊郭が誕生したのは一六四一年(寛永八年)のことである。
 クリスチャンは 人間の生命は神与のものと確信していて 人間の権力により たとえ遊女に身分を貶下されても、「自殺は絶対にしなかった」ことと考えあわせると、幕府軍勢が 天草島原への
キリシタン弾圧で「婦女子を苦役につかしめ また特に容貌の美しき女は 京にともないて 遊女となすことなるべし」とした一六一四年、(慶長一九年)キリシタンの妻や娘たちを 京に拉致 強制連行した時期が 島原遊郭の設立の時期と ほぼ一致していることは 興味深い。
 NHKブックス発行の故田中澄江氏の
「近松門左衛門という人」によると 近松は血を流すことを嫌う公卿の出身で、平家公卿時代をふくむ公卿政権の時代は、源氏の鎌倉政権がはじまる武家政治までの四百年、死刑がなかった近松門左衛門の本質は、この公卿の出身にふさわしい粘着度の高い性格にあり、血を流すことを嫌う公卿たちの時代は、鎌倉政権がはじまる武家政治までの四百年は死刑がなかったのに 近松門左衛門の少年期は 徳川幕府による諸国大名へのキリシタン詮議が厳しく 残忍 残酷、目をおおわしむるようなキリシタンへの処刑が相次いだ時期で、近松は朝廷公卿の一条家にいたが、尾張藩徳川光友領内でキリスト教徒ニ百七人の処刑があり、美濃の国でも二百余人のキリスト教徒が処刑され、すべて新刀の試し斬りの材料として 藩士の家々に分け与えられている。寛文年間には尾張藩だけで 八月から十月までに キリスト教徒ニ千人が斬首され、無惨な刑死を遂げている。これでは近松 西鶴 芭蕉など芸術家は殺伐を嫌い 刀を捨てたのは当然だ。故田中澄江女史によると「とりわけ 近松門左衛門には 人間の諸相を見極め その諸悪の根源を把握し 未来永劫にわたる人間救済の夢を見つづけた宗教家として 深い尊敬をささげたい」とある。
 現代のわかものは 特定の宗教ではなく 宗教性を尊ぶ心理的傾向がある時代だという。(講談社学術文庫、前文化庁長官心理学者川合隼雄著「影の現象学」)
 故田中澄江女史によると 
「近松門左衛門は作家である以前に あらゆる既成の職業的な宗教家を超えた 偉大な宗教家であった」という。
 歴史学は 周縁の女性たちや少数言語集団等 底辺とされてきた人々を 「歴史の新たな主人公」とするアナル史学の時代になって久しい。
 温故知新として こうしたキリシタン弾圧史と島原遊郭の発生史を見ると、地女とは比較にならぬほど 遊女たちが知性 教養、容姿 美貌ともにすぐれ 古今集や新古今集などの勅選和歌集に 天皇と並んで名をつらねていた身分の高い女性たちであった理由もわかる。
(筆者宮原註。自殺三万人をこえる無宗教の国日本とはちがい、キリスト教先進国の欧米では キリシタンは自殺を禁じられている。{生命は神が与えたもの}とされていて 神ならぬ人間が 勝手に自分を殺害したりすることは 許されていないから 自殺すると 葬儀もしてもらえない。ゆえにキリスト者は、たとえ苦界に突き落とされても 神により与えられた運命にしたがうという堅い信仰を「内なる自己規律」として 内面に確立しているから 無宗教国日本だけが自殺大国になる。無宗教国であることが 自殺者が毎年三万人を超え、先進国の中では 自殺者数が突出している理由の一つでもある)
参考文献 
教育社歴史新書「島原の乱」煎本故増夫著(提供・美祢市立図書館 )
日本放送出版協会「近松門左衛門という人」田中澄江著
新人物往来社別冊歴史読本「歴史の中の遊女と被差別民」今井照容著