忠臣蔵の原型、近松の名作「碁盤太平記」創作の舞台裏
レジュメ 下関市豊田町 歴史大学講座
日時 平成一九年 八月二五日午前十時から 
場所 下関市豊田町 生涯学習センター
講師 県教委社会教育課「かがやきネット」非常勤講師 宮原 英一
「歴史から観た近松門左衛門」、
 
生涯学習近松史料
三十万中核都市下関の市民として 
ふるさとの文化史を大切にしよう
後の忠臣蔵「碁盤太平記」の創作の秘密
 討ち入り後切腹まて、長府藩屋敷預かり
とされた
赤穂浪士たち
  
 
吉川弘文館発行の今田洋ニ著「江戸の禁書」によると 近松門左衛門は 1706年に大阪竹本座で、はじめて「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」をとりあげて 「碁盤太平記」として描いた。
 
舞台は太平記に 場所は 江戸を鎌倉に変え、大星由良之介の名で大石蔵之介を、その子力弥の名で 大石主税を登場させて 「赤穂浪士の復讐計画」、「吉良邸討ち入り」「切腹の顛末」を劇化した。それ以後 京都では 浪士劇が流行した。
 
近松門左衛門は 幕府の厳しい言論統制をはね返し、その豊かな批判精神により、舞台による幕政批判の火蓋を 切ったのであった。
 幕府による度重なる上演禁止のあと「碁盤太平記」は 後に近松の直弟子の竹田出雲により 赤星由良之介の仇討ち物語「忠臣蔵」として 改変されて世に出た。
 
防長文化史年表によると 吉良邸討ち入り後の赤穂浪人たち十名は 切腹まで長府藩屋敷に預けられて 幽閉された。
 近松が幽閉中の赤穂浪人に 取材のために面接し 赤穂浪人たちが 木炭を積んだ薪小屋に隠れていた吉良上野介を引きずりだし、首をはねて 主君の仇討ちを果たした「ことの顛末」を 詳しく聞きとることができたのは、彼が「長府藩筆頭家老椙杜家ゆかりの人」だったからだ。  長州藩士であった近松なればこそ、長府藩屋敷に幽閉中の赤穂浪人たちに面接 取材することが出来た。
 「忠臣蔵」は 主演俳優を変えて 映画で何回新しく創りなおしても かならずヒットするといわれている不朽の名作である。
歴史学界で 見直されている周縁の女性たち
                 日本を代表する遊里 下関
 

 
下関稲荷町は、明治四十年代に 山陽本線が開通、停車場に近い豊前田に中心が移るまでは、江戸時代のはじめからそれまで 「日本を代表する遊里」であった。
 「色道大鏡」によると、稲荷町には 遊女を呼んで遊ぶ揚げ屋が32軒もあり、それは35軒あった大阪瓢箪町につぐ数で、24の京都の島原、わずか14の江戸三谷に比べると 下関の遊里は 日本有数であった。むろん 11軒の奈良木辻。10軒の大津・柴屋、7軒の鞆 有里磯町などとは 比較にもならない隆盛ぶりであった。
 藤本箕山は「傾城は長屋の造り、田舎めかず、郭内は爽やかにして 閑潔なり。傾城の風儀よきこと 西国一なり」と 伝えている。
 ここの遊女たちは 静御前等と同じ「白拍子」や「遊君」とも呼ばれ、高位の貴婦人の容姿を伝えもち 公卿の母親にもなった女性たちだった。
 明治五年 明治天皇が 西国に巡幸したおりは 稲荷町の遊女は 「そのむかし 天皇家に奉仕した女性達である」という理由で、奉迎の式典への参列が特別に許可されたほど優遇されていた。
 下関の遊女は 中世における女官伝承をうけつぎ格別の尊敬を受けていたのである。
 遊郭は俳諧 文芸のサロンだった。下関いなり町の玉紫や紅葉も また俳句を残しているが 当時の女性としては ハイレベルの知性もあわせもつ第一級の女性であった。
           
講談社現代新書 渡辺憲治著「江戸遊里盛衰記」より 
 下関は 日本ではもっともにぎやかな港である。妓楼の起源は 壇の浦の戦跡にありと言われ 戦後内裏赤間席に居残りたる官女、ならびに平家の貴婦人たちが、自らを救い 自らをいきるために 身を戦敏捷者の恩賞に委ぬるのほかなきなり。さればこの地は 今日まで女郎として われらが国にていわれる 「美しき令嬢」とでも称すべきほどの特権層なりという。
                    
シーボルト「江戸参府紀行」より。

 いなり町に娼家あり、その中に歌舞伎する茶屋三軒。銀三百あたうるものあらば、にわかに舞うという。その夜 幸いに「大阪屋」に興行あり、舞台は 江戸の湯島天神よりも広し、衣装は大阪堺町に劣らず あいだには 錦を着たるものもあり、浄瑠璃は 義太夫にて 富士見西行なり。悪方 荒事も 遊侠もの 法師もの、奴まで すべて女なり。しどけなけれど 面白し、
 見物人は すべて揚げやの案内にて入る。案内なきものも 押してはいらむとするゆえに 門の庫裏に 群集おしよせ もみ合い 喧騒はなはだし、年よりや子どもは入る事 得ず。
 桟敷は三百人をかぎりとす。橋かかり、中道などありて 菓子売り 番付け売りなど たちめぐり さながら 娼家の内とは思われず、その次の夜は 堺屋にて ものぐさ太郎を舞う。話すところ 足らずとはいえ その土地の風俗を 見つべきなり。
       
  江戸の地理学者 久保赤水が下関を訪れた時の 「長崎行役日記」より。
 大阪屋と近松門左衛門の関係は、鳥越文蔵氏編の八木書店発行の「歌舞伎の狂言」の三三七ページから四六一ページまでに「金子吉左衛門関係元禄歌舞伎資料二点」として、近松門左衛門信盛と一緒に仕事していた作者兼任の金子吉左衛門の 当時の日記に 大阪屋が七回、近松門左衛門はなんと八十数回も登場している。
 信盛は 魚釣りが好きで、魚を釣って帰っては同道して大阪屋にゆき 料理をつつきながら 夜おそくまで 狂言の打ちあわせをしたりしたあと、宿に帰って寝ている。金子吉左衛門日記には「信盛と狂言談合」という下りが 非常に多い。
 「・・・・大カミの弥兵衛 打ち首。主殺し長兵衛は ハリツケ。槍一本はゆがむ。余りの槍二本にて突き止む。帰りに 西の土手にて 今日切られたる罪人の首 三つもって来る者に逢う。獄門にかかる。四つ時分に信盛来りて 替わり狂言の四番の詰めをする・・・等と書かれている。下関の歴史家故沢忠宏氏によると 大阪屋は近松の産まれた家の椙杜家の出自でもあったというが、犯罪人の処刑現場の見物に同道してゆくなど、信盛と大阪屋とは 浅からぬ縁があることが、この金子吉左衛門日記でも 十分にうかがえる。 


 その
大阪屋の過去帖 「万暦家内年鑑」によると、
近松門左衛門作「卯月の紅葉」のお染は戒名は「妙染信女」
 天下の悪女と高名な花鳥太夫は、戒名は「妙柳個女」として、
近松門左衛門作「卯月の紅葉」のお亀の戒名は「清岳妙春コトカメ」
近松門左衛門作「おさん茂兵衛」のおさんの戒名は「清岳妙春」
近松門左衛門作「天鼓」のテシの遊女「天鼓」は 戒名「閑月妙有」等
と 遊女達は 大阪屋墓地に丁重に葬られている。武士の妻でも墓も建ててもらえなかった時代に、玉紫太夫の墓は今も下関市東霊園の大阪屋墓地に 大きな観音開きの立派な墓が残っていて 彼女たちの社会的地位の高さを今に誇るかのごとくである。また下関市稲荷町の稲荷神社の石段には 近松門左衛門作「平家女護島」のヒロイン常盤太夫の名を彫った大阪屋の玉垣があった。
 歌舞伎文楽が世界文化遺産に指定された現代、こうした下関市の近松ゆかりの史蹟は、貴重な文化財である。 
  
抜け荷関係者の捕物が 下関に設定された近松門左衛門作「博多小女郎浪枕」。
 船を出すなら 夜ふけに出しやれ。帆影観るさえ気にかかる。長門の国の秋の夕暮れは 歌に詠むてふもじが関 下関とも名に高き西国一の大湊 北に朝鮮釜山海 西に長崎 薩摩潟 唐 オランダの代物を 朝な夕なにひきうけて、千艘出れば入り船も、日に千貫目 万貫目 小判走れば銀がとぶ。金色世界もかくやらん・・・としたドラマの背景になる下関の描写に はじまる近松門左衛門作「博多小女郎浪枕」。
 まさに下関は 西国一の大港であった。
 桜楓社の藤野義雄著「近松名作事典」によると、貿易利益を独占しようとした幕府は 自由な交易組合に所属する商人たちを 抜け荷買いをした密輸業者として 断罪した。
 
 高麗橋( 尼ケ崎神崎川川上)にて 鼻を削ぎ落とされて西国に追放された者 
「博多小女郎浪枕」劇中名 肥前者弥平次こと 実は長崎者 さつまや嘉平次 
同劇中名 けぞり九右衛門こと 実は肥前者 石垣八右衛門  
同劇中名 徳島者平左衛門こと 実は肥前者 米屋平兵衛 
同劇中名 上方ものおぐら屋伝右こと 実は大阪者 小倉屋善右衛門
同劇中名 上方ものなにわや仁左こと 実は大阪者 難波屋仁左衛門  
同劇中名 市五郎こと 実は小倉者 若松屋市兵衛 
同劇中名 三蔵こと 実は小倉者 岩崎三介  
この「近松名作事典」によると「博多小女郎浪枕」の本文中に 「耳削ぐ 鼻削ぐ 血みどろ、ちんがい追い払う」とあるのは 事実によるもので 近松もあまり深入りしていないのは 為政者への思惑があってのことと 著者の藤野義雄は書いている。 

抜け荷買いをした密輸業者だが 同業者を訴人して 御公儀より褒美を得たもの
     野村 久左衛門
        清左衛門 
        勘左衛門

 近松門左衛門作「博多小女郎浪枕」に描かれた、この「鼻を削ぎ落とされて 西国に追放された」自由貿易の旗手たちの家号「米屋」。家号「小倉屋」。家号「若松屋」等の名を 彫った玉垣は 今も「西国一の大港、下関市の亀山八幡宮の玉垣に その家号が名をつらね彫りこまれている。幕府の厳しい監視の眼ををくぐり 自由貿易の拠点でもあった亀山八幡宮が 倒幕軍の砲台になったゆえんであるのかも知れない。
 なお 若松屋は 奇兵隊に挺身して 倒幕のために 家財もすべてなげうった白石正一郎の屋号である。商人たちで結成している自由貿易組合に参加していたのに 抜け荷買いとして 鼻を削ぎ落されて 追放された若松屋にとって 倒幕は家代々の怨念であったことがうかがえる。