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人形浄瑠璃の作家、近松門左衛門。東洋のシェクスピア、作者の氏神とまでいわれている世界的文豪である。江戸時代に活躍したのは、江戸時代であった。
浄瑠璃ときくと、最近は歌舞伎とどうちがうのかというほど、縁がとおくなっている。 浄瑠璃は、そのころの音曲全体をいう。この音曲を、歌舞伎にも人形劇にもつかった。音曲とはいうが、浄瑠璃は「うたう」とは言わず「語る」という。西欧音楽ではギターを抱えての「ひき語り」をする吟遊詩人に近い。「音曲かたりもの」とでも、いうほうがいい。
浄瑠璃をかたる職業を、義大夫(ぎだゆう)という。
歌舞伎につかう浄瑠璃には、常磐津、河東節、富本節、清元節、新内節、竹本節ほかの義大夫の流派がある。そのなかで、竹本義大夫が近松とくんで、流行させたものをとくに文楽とか人形浄瑠璃という。
人形は口をきかない。したがって、ただ語りを、耳できいたり、あるいは人形ぬき、音楽ぬきで、本を目でおっても、ほぼ物語はわかるようになっている。
この伝統をひいているのは、わたしたちがスナックで歌う演歌だ。どんな人でも、くつろいだときに、演歌が口をついてでるのは、日本の長い伝統が、わたしたちの潜在意識に定着しているからに、ほかならない。演歌の歌詞は五七調だ。この五音と七音のくみあわせと哀愁の伝統は、わたしの直感では渡来以前は朝鮮の郷歌、トラジやアリランに端をはっしていて、和歌の氏神山陰出身の柿本人麿の現われる万葉のころからは、日本文化のたましいの根底を、色濃く染めている。それは日本人とは、切ってもきれない文化の地下水脈である。
近松も、黙読よりは声をだしてよむといい。まるで演歌の歌詞を読んでいるようで、五七調でのみ、感覚的にわかる良さがあり、わかりやすくしようとして、これをくずした現代訳にすると、かえって、興がそがれしまうという一面もある。
現代語訳にするのなら、詩にして、現代音楽のラップ音調にすると、詩の緊迫した感動が、直接的に、つたわってくるのではないだろうか。
ドラマは現実から取材しても、テレビや舞台の世界にした瞬間、そこには現実とはちがう非現実の世界がうまれる。現実の乞食とテレビドラマに登場する俳優が、化粧をした乞食は、同じ乞食であってもちがう。現実とドラマという非現実は、どこまでも、区別がある。
むかしの現実の農民や武士は、TVや舞台にみるような、化粧した人々ではない。しかし、化粧でよそおわれた農民、武士によって、創られた非現実であればこそ、わたしたちは、安心して演劇や映画を娯しむことができる。
日本の知識人は、西洋のリアリズム演劇はもちあげるが、伝統文化の文楽や歌舞伎をみさげる傾向がある。歴史からくる文化の個性のちがいにすぎない。たしか西欧演劇人には、不滅の天才とされるメイエルホリドであったか、文楽や歌舞伎を「レトロではあるが、その洗練された様式美は、西洋文化からすれば、垂涎の唯一永遠の舞台美術である」と激賞しているのを、なにかで読んだことがある。わたしたち日本人は、いつかは「自分とはなにものか」と、本来の自分の原点を問う時がくる。他ならぬその伝統的な心性を、自分の無意識の深層に宿しているわたしたちとして、西欧の天才たちがそういっているということは知っておくほうがいい。
西洋では人形劇でも、演技もできるかぎり人間に近くなるよう、さまざまな工夫をしてきた。それもひとつの芸術だが、逆にあの百貨店の陳列だなにいる美しい博多人形が、そのまま動いて、物をいい、絵に書いたような物語を、みせてくれるとすれば、それはそれとして、別の美しい芸術である。
歌舞伎の場合、美しいそれらの人形に、一歩でも近づく努力も、人間である俳優がしてきたという見方もある。歌舞伎と人形浄瑠璃文楽は、たがいに学びあって、それぞれ成長した。そのため、歌舞伎役者は、時として人形の動きそのもののような演技をやる。それもまた芸の一つだ。様式化した美を、観賞するものとしては、芸術としての見方があっていい。
五月節句の武者人形、あるいは金らんどんす帯をしめた可憐な花嫁人形のように扮装した俳優や文楽人形たちが、くりひろげる豪華絢爛たる絵巻物。そうした美意識から観るなら、舶来の新劇とは、異なる感興もわく。
歌舞伎はエロスの極致である。それだけに、その目的にふさわしくない現実の要素は、演技、化粧、舞台装置をつくる過程で削ぎおとす。
日本のアイディンテイテイを求める若い人々が、文楽、人形浄瑠璃や歌舞伎に、興味をもつようになった。わたしはそこに、日本人の美しい成熟をみる。
ところで、問題の近松門左衛門とは、どういう劇作家だったのだろう。
江戸時代、有名な二人の作家を対比して、人々は「雲上(うんじょう)式部、地下(じげ)近松」といった。
雲の上の男女の世界「源氏物語」をえがいた、紫式部とは対照的に、無きにひとしい民衆の愛と行き場のない閉塞の時代の苦悩とを、あざなえる縄のごとく、ない交ぜにしつつ、エロスの極致までひきあげ、世話物として登場させたのが、なきにひとしい人々の純愛の劇詩人といわれる近松門左衛門である。
西鶴は、恋のかけひきの男女の、微妙な世界をえがくのが、得意であった。しかし近松ものにでてくる人々は、思いこんだら命がけという純愛の女と男だ。世間のしがらみをつき破るために、ついに心中にいたるまで、ただひたむきに愛をつらぬく。
「たとえ遊女でも純粋な恋をすれば、その恋は無垢な清いものです。世の中には卑しい汚れた恋をするお嬢さんがいくらあるか知れません」この本もそうだが 高校生がよく作文の課題図書にする日本図書館協会選定図書、倉田百三の「出家とその弟子」の一節である。
近松の時代は、すでにバブル経済の元禄が、うたかたの夢のごとく崩壊して、世は手れん手くだの虚々実々の愛より、素朴で純粋で、ひたむきな愛を求める時代に移っていた。 それまでの演劇や文学は、権力者や権力周辺の歴史の英雄が、ヒーローやヒロインとして舞台や小説の主役であった、おそるべき大胆不敵、伝統に反逆する彼は、周縁の女性である遊女やこども、老人など、いわゆる社会的な弱者、権力にはほどとおい、いわばなきにひとしい人々を、ヒロインとして次々に舞台にあげる。それ自身、それまでの演劇や文学にとっては、天地逆転の文化革命であった。結果として、それは現代の映画「灰とダイヤモンド」の監督ワイーダら「ヌーベルバーグ」とおなじ系譜につらなる、社会批判リアリズムの日本におけるはじまりしとなり、作家の氏神として、現代に語りつがれるまでになる。そればかりではない。当時は権力の勝手気ままな藩つぶしなどの政策により、大量に失業武士の群れが現われた。それは犯罪の温床になる。権力はたびたび「浪人狩り」と称して、これらそれなりに名のあるもと武士である無辜の浪人たちを捕らえ、新興江戸つくりの人足として酷使した。彼の創作「基盤太平記」が、その時代の失業浪人集団の暴力である赤穂浪人の吉良邸討ち入りを、題材にしたというだけで、上演を禁止される時代であった。彼の筆は「富士裾野のかたき討ちの曽我兄弟」など、むかしの似たような故事来歴をひっぱりだしてきて、登場人物の名をこの曽我兄弟にすりかえ、物情騒然とさせたなまなしい仇討ち事件を描く。過去の故事来歴ものがたりを題材にして、換骨奪胎して、自分の生きる時代の世相のさまざまを、縦横無尽に語るという現代作家に連なるドラツルギーを産みだした。
いまに伝わる日本版怪盗紳士アルセーヌルパンである石川五衛門は、当時、釜ゆでという残酷無比な刑により処刑された、無きにひとしい盗賊を題材にした近松の筆になる創作の人物である。私的な直感では、離れ島に流され、赦免にきた船をみて、歓喜して踊り狂い、それが他の刑人の赦免であり、ついにわが身ひとりが島にのこされ、ヌカよろこびと悲嘆のどん底のものがたりは、たまたま武将として戦い、戦さに敗れたというだけで、戦犯としてとらわれ、四十数才から八十四才の長きにわたりび、島流しの悲嘆にあけくれている、かって豊臣きっての賢明をうたわれた名将宇喜多秀家のものがたりだ。
このように、近松が編みだした創作方法は、お家騒動ものなど、大名や武家のドラマは故事来歴を換骨奪胎していても、当時の上方の観客は、それが暗に現実の何をたとえて、いるかわかる話題の事件である。
江戸時代の権力とその周辺は、映画テレビでみるように華麗なくらしであったかもしれぬ。しかしピラミッドの底辺である庶民の世界は、朝おきて散歩でもしようもなら、川辺に捨てられた、うまれたばかりの幼な児が、何人も引きとり手のないままに、母の乳房をもとめて泣いている。それが江戸時代の庶民のあまり語られざる日々でもある。
鳥越博士監修の「歌舞伎の狂言・言語表現の追求」(八木書店)に収録されている、やはり当時の狂言作家の一人、金子吉衛門の「日記」をみると、日記の冒頭、突いた槍がゆがみながら、何本もつきさされ、やっと絶命にいたる無残な死刑囚の風景を、一同はひそかに山から見る。そのあと、それを題材にしたドラマの制作にかかったのだろう。にわかに勢いづいた信盛こと近松門左衛門と、大阪屋ほか舞台関係者たちの、時には一日二回にもわたる作劇の打ちあわせのために、相互の情報交換をしてゆくありさまが、生きいきと描かれている。前後の様子からして、近松は、当時は下関にも、日本最大の劇場ホテルを経営している遊興をかねた交易巨大資本、これも歴史の陽のあたる舞台から、夜の帝王になった大阪屋の京宿に、寄宿しているようである。
江藤淳氏の著作「近代以前」によると、幕府の権力学の学問所の筆頭の林羅山は、文楽の舞台で語り動く人形を、「幕政のよりどころである儒教哲学に対する、きわめて危険な思想の持ち主、生きている生身の人間そのものである」として、終生、文楽の舞台へのを監視の目をはなさなかったという。たぶんそれは、のちに吉田松蔭の草もう屈起論に現われる山県大弐の「君、君主たらざれば、臣、臣たらず」とする反逆の思想の源泉でもある。紫衣事件などで、その座を喪い、徳川とたたかう中世の天皇として、陰に陽に幕府に抵抗しつづけた後水尾帝の系譜にあり、極貧にあえぐ公卿たちの一人に、近松もいたからであろう。
「最近、九州でかくれキリシタンの名簿が発見された。近松の研究に役立つのではないか」
と、はげましのお手紙をくださったカトリック作家田中澄江先生は、「近松門左衛門は、職業的宗教者を超えた宗教家である」と、書いておられる。宗教ははじめは政治と正面からたたかうが、やがてはついに道徳宗教におわるという名言もある。近松にキルケゴールを感じるという学者もいる。ハイデッガーなど現代人の実存主義に至る祖、キルケゴールは、宗教家でありながら、人妻レギーネとの相思相愛を終生つらぬく。それはキルケゴールの著作の原動力になった。彼はレギーネだけはそれが自分にむけられたことばだとわかるが、読者にはそれとさとられぬ作品スタイルにより、数々の不朽の著作を発表。平凡な男にとついだレギーネは、天才キルケゴールとの純愛に生きたゆえに、今日、人々がキルケゴールをかたるとき、その愛らしい名とともに、清冽な愛を、永遠の女性として語られる。キルケゴールを批判する既成宗教のみんなにたいして彼は、私はどこまでも神とともに生きる。しかしわたしの望むのは、決してみんなであることではなく、わたしであり続けることであるとして、エロスを孕む愛と単独者の哲学を生みだした。それは魂に秘めているのは、共にくらす相手ではなく、愛する人の姿であり、まなざしの奥には不安がいつもゆれ、孤愁とともにいきる伏し目がちな現代の男女の姿にふさわしい哲学となる。ゲーテは、真に宗教的な人はみんな異端であるという。宗教は最初は政治と対決するが、やがて神仏の名を利用する職業ゆえに、自己保存のために守旧化した新パリサイ人階層による制度宗教に化してしまう。社会システムをささえている根拠そのものがゆらぐ時代には、制度宗教の職業的宗教家は革新的なアウトサイダーではなく、ただの頑迷なインサイダーになってしまう。キルケゴールは、あらゆる制度に対しては異端でありつづける個の神学ゆえに、それをもって新しい宗教制度にはならない第二の宗教改革者となったといわれる。なにひとしいものへの愛ゆえに、永遠の異議義申し立ての宗教的異端者として、純愛の劇詩人となった近松は、日本のキルケゴールである。
英一蝶は獄死。これも投獄されたうえ、手鎖り五十日の刑で、たぶんその時、絵師の生命たる絵筆をもつ指の骨を、むざんにもことごとくへし折られたのだろう。浮き世絵の名手喜多川歌麿は、出獄のあとは、床にふせったまま、ついに再起できず、四十歳を出たばかりで、世を去った。西欧では絶賛の現代世界美術の不滅の天才である。
歴史の虚空にまいあがったこれらの異端は、たたきおとせば簡単に落ちて死んでしまうしかし異端でてあるがゆえに、世にも美しい揚げ羽蝶である。
かれらを救う宗教は世にない。かわって近松は、衆生を救うとして寺をとびだした。唐津近松寺に残る近松賛の漢詩にあるように、彼はその美とエロスの極致により、暗やみの世に浮上、暗黒の世の一灯となる。それは、さまざまな大義名分により、次々に囚われて獄死、処刑されてゆく無数の第二、第三の英一蝶や喜多川歌麿らの運命と、いつも紙ひとへの危険きわまりない風前のともしびの座標軸に、みずからをおく生きざまでもある。
台本に作者名は記載しないという、伝統のおきても、平気で踏みにじり、「近松門左衛門の作」と、自分のペンネームを堂々と書きいれる。「売名作家、近松」と、世上は非難ごうごうである。「芝居一筋に自分の生命を賭けたものにとって、当たり前のことにてそうろう」と彼はその非難を、一笑に付している。既成演劇の伝統や既成の社会機構に「とおからんものは音にもきけ、ちかくば寄って舞台をみよ」とばかり、たった一人の反乱をつづける異端である自分とは、なにものであるかを「殺さば殺せ」とばかり、世間に公然とつきつけるため、近松は自己のペンネームを、堂々と掲載した。
ところが、その近松による改革以来、作者名を記載することが、著作者のまったく新、しい伝統となってしまったのである。
権力に依存していた、それまでの日本の正統文化にとっては、まさに晴天のへきれきであった、ピラミッド社会の底辺の庶民を、ヒーローやヒロインするという逆転。故事来歴に名をかりた世相批判という作劇革命。著作権の確立という改革など、それまての既成のシステムをくつがえしてしまった近松の大胆不敵を語るに、かかせないことである。
作品群に一貫するなにかに欠けるが、ただのオモシロサという大衆娯楽性を主軸におくため、近松の次世代以後の作家たちと、近松とは、決定的な質のちがいがある。
それは「肺腑をつかれる」とさえいわれるほど、近松の作品群を一筋につらぬく真摯そのものの「宗教性」である。
二十年くらいまえのことである。日本の劇団がロンドン王立劇場で、「曾根崎心中」の幕をあけた。観客席はシンとして、しわぶきひとつしない。そのマナーの良さにおどろきながらも、日本語のわからない英国人には、とても理解はむりだろうと、関係者は舞台の袖で、みつめていたという。
ところが、心中の名場面、遊女の天満屋お初が「この世の名ごり、世の名ごり。死にゆくわが身をたとえれば、あだしが原の道の霜」となげく、道行きにさしかかるや、観客席にいっせいに、白いハンカチがみえた。ロンドン王立劇場は、観客のむせび泣きに満ちたという。
もっとも世界的な普遍性をもつ文学とは、もっとも民族的な個性を備えた文学のことである。俳優の名演技もさることながら、近松の作品は、国籍やことばの相違をこえ、かくも人々の心をはげしくゆすぶる、わけても西欧宗教の影響にある人々の魂をゆするのだ。はげましのおたよりを頂戴したカトリック作家、田中澄江さんは「近松には、キリスト教の影響が強い」とされる。近松作品の映画化で、カンヌ映画祭で、ブルーリボン賞をとられた映画監督篠田正浩先生は、東京からはるかな中国山脈の田園都市の美祢のわが家に、電話で延々四、五十分にわたり「近松は隠れキリシタンである」と激励される。
さすがに当代屈指の映像芸術家の直感は、当を得ている。
ひろく知られているように、新約聖書の圧巻は、いうまでもなく、衆目の侮蔑のまなざしにかこまれて、死刑の予感におびえ、うちひしがれている遊女の側にたつイエス。疎外された人々の側に、立ち、既成宗教に、たったひとりの反乱をして処刑された、疎外されたものの神、イエスのシーンである。
キリシタンの反乱、天草、島原の乱の大量処刑の現地てある地帯の、近松の出身とされるキリシタン大名寺沢家の菩提をとむらう唐津近松寺をおとずれるものは、目からウロコがおちるように、近松のそのナゾが氷解する。
死臭が全島に、数年はただよいつづけたという、天草キリシタン二万数千人のみなゴロシを招いたその現地の、それまではキリシタンであった唐津藩主の菩提寺に、いる近松は、わずか十歳そこそこの、あどけない無心な少年である。
筆者が現地でたしかめたところによると、トップダウン方式の布教スタイルに予想したとおり、もともとそれまでの長い豊臣時代は、小西行長らとともに、キリシタン藩主寺沢家につかえ、みずからもレツキとしたキリシタン藩士として、合同の場で、神への祈りの日々にあけくれている肥前唐津藩の重職キリシタンたちと、末端の藩士キリシタンたちである。
禁教令により、あらゆる情報の交流を失い、精神の暗黒にとざされたキリシタン藩主以下、ほとんどのキリシタン藩士たちの、内心の屈折は、どこに町人として変装しているかわからぬ幕府隠密の、目をくらすため、最初に昼間、キリシタンの大名類族ほかの檀家の武士たちによる、形式的な仏式の葬儀を行い、見えぬ隠密に確認させるという形式をとるにいたる。
そして深夜。あたりにだれもいないことを確認して、あらためてもう一度、こんどは敬虔な神への祈りによる昇天式として、愛の祝祭をする密室にいます「納戸神」と名をかえた十字架のまえに、かわるがわるひざまずき、敬虔な祈りをささげるという苦肉の護教策をとった。
納戸・・・。どの部屋も紙の襖でしきられて、声もたてられぬ、プライバシーのない日本の民家の習俗として、納戸だけは男女が心おきなく愛の祝祭にもだえられるよう、立ちいりが禁止じられた個室として隔絶されていた。禁断の宗教のシンボル十字架はその「納戸神」とよび名をかえられ、男女の愛の劇場の祝祭を、みまもる密室の優美に聖神になった。それはついに、キリスト教から表むき改宗したはずの唐津キリシタン藩主寺沢が、幕府に詰問されるにおよび、彼は類族に追求の手が波及することを怖れ、さきんじて江戸屋敷で、単身で切腹し、狂死とつたえられる原因にもなっている。キリシタンに改宗した菩提寺唐津近松寺にある彼の茶室をいまもとりかこんでいるのは、イエス像がきざまれた等身大のキリシタン灯篭三基である。とつぜんの禁止令のまえに、あるのはキリシタンである藩主の自分の、キリシタン一族類縁者たちや藩の重臣キリシタンたちとその類族をまつっていた菩提寺、唐津近松寺なのである。
ことの善悪を論じるのは、この拙文の目的ではない。故遠藤周作氏の終生の課題でもあった、苦悩にみちしかし、それでもなお生きることをよしとする日本の心性にねざす姿を、どう評価するかは、これを読んだ人の、思いおもいに、ゆだねることとする。「宗教により、人は争い、たたかい、そして死ぬ。しかし生きることだけはしない」というコルトン鋭いが優しいまなざしもある。タテマエからすれば、たしかに連絡もしようもないとおい海のむこうで法王権を保証されているローマが、世界の中心とする人からすれば、それは棄教と裏切りである。しかしことはその無事安全なローマから、はるかに遠く離れたアジアの日本で、生命の危険にさらされ、ましてその西欧に、父祖代々のふるさとがあるわけでもない日本人の一人ひとりである。
このくにの大地に根ざしているわたしたちの心性としては、生きるものの神として、現実に即した信仰が、呼び名をかえてまで、複雑骨折に似た姿で、ひめやかに続けられていたということにこそ、むしろ感動をおぼえる。
それまで属していた宗教団体の権威や信頼が崩壊したとき、信仰していた人に、訪れるのは虚無、ニヒリズムである。
途絶した禁教と弾圧という、情報がすべて途絶した、精神の暗黒にいきなり、ほうりこまれ、暗やみのなかを、手さぐりで生きたその姿にこそ、むしろ衿をたださざるを得ないジンと胸せまるものを感じる。このあるキリシタンたちの、禁断の宗教を胸に、それでもなお、手さぐりで生きぬいた姿を、日本キリシタン史における語られざる一灯として、ここに伝えるにとどめたい。
徳川三百年を経て、明治はこの納戸神は民俗化して、関係者の民家に連綿と語りつたえられるだけの話になってはいるが、これは唐津の現地できいた話である。篠田正浩先生には、ほかにも近松の作品には芭蕉からの引用が豊富であること、武家もののなかにも、出生にかかわる隠されたヒントがあることなど、ご示唆いただいた。同じ近松門左衛門懇話会委員の内海先生は、いま長門市の近松人形館を飾っている近松ドラマを語る自分の作品であるたくさんの和紙人形の姿をとうして、地獄をいきぬいた近松について、無言の示唆をされた。日本が世界に誇る現代の芸術家の、こうした援助があってこそ、中国山脈の田園都市での十数年にわたる孤独な研究の私の部屋が、ささえられたことを、感謝とともにあわせて書いておく。
近松が東洋のシェクスピアであるのは、単にその博覧強記で、当時の日本有数を、石碑にいまも語られると、いうだけだろうか。
禁教により、いきなり身分や地位を剥脱されながら、それでもなお納戸神とよび名をかえた弾圧の血に染まる十字架を、愛しあう二人の時間以外は、家族ですら立ちいることのできぬ愛の密室に隠しておいて、形式的な仏式葬儀のあと、もう一度、深夜に葬儀がおこなわれる。禁止されたキリシタン大名の親族やもと重臣たちを、檀家の旦那衆とする唐津近松寺にいるあどけない少年近松である。僧侶からすれば、檀家の旦那衆である類族の檀家の葬儀の深夜。人々が寝しずまったあと、はじめられる秘めやかな敬虔な祈りに、その都度、菩提寺のおさない名代僧として、その家の愛の祝祭の密室、納戸にゆき、納戸神である十字架の前に、檀家の旦那衆の見守る中、ふりあおぐべき神をふりあおいだのは、藩主の切腹により、追及の波及をまぬがれたキリシタンの藩主寺に、修業する少年僧である以上、なにをさておいても絶対にしなくてならぬ檀家の旦那衆への当然の職責である。それを目的に、この寺に引きとられた少年近松にあたえられた仕事である。
ひろく知られているように、明治にはじまるプロテスタントのほとんとが、いきなり失職して、どん底に転落。落魄したもと武士たちの、人間としての再起を根底からささえるたましいの拠りどころになった。藩主につらなる家にうまれながら、見捨てられた子として、寺まいりをする藩主の馬をつなぐ厩で、産湯を使うまでのどん底の落魄にいたった少年近松の、幾重にも傷つけられたたましいが、その都度接する檀家の旦那衆の手にする聖書やキリタン信仰への傾斜をしなかったと語れば、偽りをここに書くことになる。
無抵抗ではあるが、いかなる苦難の場においても神の加護を信じ、自殺は絶対にしない宗教である。島原の乱の直後に、京都ほかの非武装地帯に創設された、その名もそのままの女の苦界、憂き世の義理から隔絶された安全地帯であればこそ、島原遊廓に身をしずめた、本来はセミナリオに通っていた教養が抜群の知的女性として、忍んで生きる、もと島原キリシタン類族、遊女たちの一人ひとりの中に、近松は熱い涙とともに人間の本来の姿を熟視しつづける。
刀を腰にした、しょせん朝廷につかえるさぶらうもの。血と暴力を背景にして成立している、みやびの神髄をわきまえぬ不骨にして無教養な武士の京都での居住を拒絶しつづけ、武士の上に座すものを軸としている町の衆として、武家政権の支配も居住も拒否しつづける京都。明治の改革にいたり、とうとう廃刀令により、腰に刀なき市井人の日本という、全土の京都化を実現した、学問と知的教養文化の首府であり続けた京都の町衆の反骨とその中心京都御所。遊女のことばの端「ありんす」とは、すなわち宮中につかえる雲上の女官たちのことば「ありんす」であることを、言霊のくにの市井人として、例示しておくにとどめよう。そこは和歌や茶華道や優雅の礼をわきまえた知的女性を、遊女としてかばいつづける非武装安全地帯であるみやびの街であった。
その武士の政権と無言の拮抗をつづける京への焦らだちがみられるが、当時の幕府を代表する奉行板倉は、島原遊廓だけを名ざしにして、たびたび、そこへの禁足令をだしているが、まったく無視され、京都の廓は栄え続けた。
近松門左衛門の方が、二百年はやく誕生してはいるが、近松の遊女ものは、ほとんどが、ロシヤの文豪ドストエフスキーの世界文学、大都市モスクワの街の片隅にひっそりとしてくらし、犯罪を犯して逃げこんだ男を、愛で救った娼婦ソーニヤというあの「罪と罰」と作品の原型を一にしている。時代も国もまったく違うロシヤの文豪ドストエフスキーと近松門左衛門に、同じ創作をさせたもの、それはこのくににあっては、すぐそばの島原、天草の乱により禁止されたとはいえ、三基のキリシタン灯篭がその存在を証明する一冊の聖書である。
「心中、刃は氷の朔日」で、もともとは大名の重職の娘である遊女が、逃げこんだ男をかくまうのは、見るものが見れば、即座にそれとわかる「納戸」の中である。
文化人類学や心理学では、あらゆる宗教に共通して存在する救いの神の名は、トリックスターとして分類されている。「日本の聖書」(講談社学術文庫)をみると、禁断の日本のキリスト教の神は当時は、隠語で「玉」と呼ばれていたようである。
近松の作品に共通して、玉とよばれる女がトリックスターとして、どの作品にも、しばしば登場することは、近松研究者によく知られている。
現代ニューエイジの人気の中心、ユング心理学からすれば、これを偶然とはいわない。もし聖書に神が宿っているとしたら、神のなせる業は、わたしたち人間の理性を超えている。おそるべし。文豪ドストエフスキーに先立つこと二百年。近松門左衛門は、難波や京都の一室で、これものちに世界文学の珠玉の名作群となる日本版「罪と罰」を、書きつづげていたのだった。近松は東洋のドストエフスキーでもある。
刀に頼るものは、いずれは刀によって滅びる時がくる。かって深夜、納戸神をあおいだ無刀の哲学にいきる純愛の劇詩人近松は、聖武いらい死刑のない三百有余年をつくりあげた、人の血をきらう教養の平家公卿一門に、かっては弓と血刀でおそいかかり、いま目前の遊女らのかっての夫や親族たちの武士に、信仰ゆえに血の雨をふらせた武士政権の側にはたたなかった。
王ダビデの末裔として、まずしい馬小屋でうまれたイエスが、罪をとわれる遊女をふりかえり、群衆につぶやいた「なんじらの内、おのれに罪なきもの。この女に石をうってみよ」と、こたえる聖書圧巻のシーンの、寸鉄人の肺腑をつく一言が、暗やみの納戸で、くりかえし読みあげるなかで、おさない少年近松の、幾重にもきずついた魂が、人の世の永遠の清冽な真理を、ふるえるような魂の感動とともに染めあげられたとて、それを非難する資格は、当時ならいざしらず、現代の市井人にはいないだろう。
近松寺の庭園には、背のたけ以上の潅木のかげに、まるで人目につくのを恐れるかのように、人型をきざみこんだ、頭身大のキリシタン灯篭が、なんと三基もその近松の宗教性のよってたつ原点を示すかのように、いまも屹立している。それは、はるか近代以前の江戸時代に、反骨の筆をふるいつづけた彼が、なぜ「近代」劇作の氏神といわれるか。だれもよりすがる人とてない、ただ親に甘えたいさかりのみなし児の、あどけない少年の日々、森閑とした木陰にいまもたたずむキリシタン灯篭の人型像を抱きすくめ、よりすがって、人にはみせぬ屈辱の涙を、いっしょうけんめいにこらえ、わからぬ父を思い、おさない彼をおいて昇天した母のおもかげを追い、ただシクシクと泣きつづけた少年の絶望体験ゆえの、近松を貫くラジカルな宗教性の、よってたゆえんを、おとずれる人に、永遠に語りつたえるかのごとくである。
さて、シェクスピアもそうだが、民衆の中からあらわれたこの近松。誕生から青春にいたるまでの実像は、今も霧のなかであるとされている。
しかし、巷間の文学辞典をみると、彼は「福井県越前藩三百石の武士、杉森家のうまれとされ、五人兄弟の次男」とされている。
この解説が、よりどころにしている越前説の系図をみる。
系図はこの杉森家に、甲、乙、丙資料として三通りある。甲と乙の系図では、近松は、「越前藩三百石の藩士、杉森信義を父として、長男に智義、次男には近松(信盛)、三男には、東洋医学の著作の数々で、世にしられた医師岡本一抱(伊恒)を配した三人兄弟の次男」になっている。なんということだ。同じ家の丙の系図では、近松は「末弟に為竹とをくわえ、四人兄弟の次男」になっている。(岩波「近松への招待」参照)。
三枚の系図は、おなじ杉森家にあるのに、二通は三人兄弟で、一通は四人兄弟である。それは説明できない矛盾だ。
この系図の作成の経過は、早稲田演劇博物館長鳥越文蔵博士の「虚実の慰み・近松門左衛門」(新典社)に「この系図は、明治になって書写したとあるが、その原図はない」とある。
つまり福井県のこの系図は、代々書きつがれていた杉森家の系図に、近松の死後、書きくわえたのではない。近松門左衛門の没後、百年以上もたった明治になって、あとからつくられた系図である。
明治は、それまで姓なしにすごしてきた人に、適当な姓をあたえ、役場はあらたに戸籍を、つくらなくてはならなかった。それは系図によって、自分の祖先を届けるという時代でもあった。したがって、明治にあらためて書かれたこの系図は、とおく初代は、三條三位中納言実次という、高貴なお公家になっている。
山口県の大内氏実録では、おなじ三條三位中納言でも、三条公頼は、長門市で大内氏滅亡のとき、壮絶な戦いをして、義隆と死をともにしている。その墓は、かって近松座があった長門市の大寧寺にあり、名所史蹟となっている。
「伝承に出ずるものは、かえって信にして、文書目録の書は、かえって偽なるなり」という学海は妾宅日記に筆をとどめている。
山口県には、古くから近松長州説が、つたわっていて、たとえば、近松が生まれたとされている豊浦郡豊田町には、「近松屋敷」とよばれている雑草地が今もある。
そこは「人形浄瑠璃作者家、近松門左衛門が生まれたところである」という伝承が、古老によって、なんと二百年以上も、語りつたえられていることが、この町の公史である豊田町史に掲載されている。
豊田町史によると、この近松屋敷が、朽ちて倒れるまえに、持ちだされた椙杜(すぎのもり)家のタンスは、豊田町の伊賀家に移したという。
ここから相互に、なんの連絡もない山口県下のあちこちの、どの伝承にも共通する「近松は椙杜家の人」という命題が、第一に証明される。
豊田町からほど近い、当時の捕鯨基地である長門市。
長門市の図書館に秘蔵されいた古文書をひもどくと、ここには捕鯨のために、とおく唐津は近松寺のある肥前唐津から、海をこえてやってきた、大勢の鯨とりたち一人ひとりのの名が、かれらの身分を証明する当時の役場であった観音寺の旦那衆の名簿として、目をうばわれんばかりに、ずらりと並んでいる。
今は解体され、スーパーがあるが、かってここ長門市深川には、「近松座」という、歌舞伎の劇場があった。
敗戦の余燼がまだおさまらぬころ、わたしの姉がこのまえで、貸本屋をしていた。当時まだ文科の学生であったわたしは、夏休みには、ここでアルバイトをした。
夜はこの近松座に映画を観にゆく。近くには「近松せんべい」が、売られている。近松の直弟子で、彼の芸術論「虚実のなぐさみ」を、口述筆記した難波の名哲穂積以貫の難波土産の口絵にある近松像が、型どってあるせんべいである。
そのせんべいを、かじりながら、ロマンに飢える狼のような目で、当時の映画フアンの話題をさらった若尾文子のキス・シーンを、くいいるようにみつめるのが、わたしの青春であった。
一枚一まい、せんべいを手焼きで焼くようでは、時流におくれる。この「近松せんべい」も、今はすがたを消し、はさみのような長い柄のついた鋳造製の、重いばかりがとりえの道具は、長門市の某家にある。創業は明治より以前であると伝えられる。
また下関市では、観音崎にある永福寺の義天和尚が、唐津近松寺の和尚としたしく、複雑な経緯で、豊田町の神上寺の寺侍のところにかくまわれ、この近松屋敷でうまれた椙杜家の少年近松は、十歳のころ、この義天和尚を経由して、唐津近松寺に修業の途にたったとされ、今もこの寺は、中央が近松門左衛門は福井県の生れと書こうが、どこ吹く風と、近松門左衛門の追善供養を、欠かさないという。
拙著の研究、初版の発行のあと、それを読まれた唐津の史家からのお手紙では、それは「肥前東松浦史の書に、いまも明らかに記録されている」とあり、永福寺の近松門左衛門の追善供養は、ここにその明白な資料的な根拠も、あわせ有するにいたった。
これらは、近松の生誕地とされる山口県の、あちこちに散在する事実である。
では「近松が越前福井県で生まれた」という説と、「防長山口県でうまれた」という説とは、どちらが真実かということが、だれの胸にもわく疑問だ。
原図はなく、近松没後百年以上もたった明治になって、あらためて作成されたという越前説の系図は、その内容を証明し得る、近松生存当時の第三者の文献がもしなければ、ただ文書化されたその家に伝わった自家製伝承になる。
「近松の出生など、どっちでもいい」という話もある。
しかし「近松語彙」をみると、近松のものではないかとされる作品には「江州石山寺源氏供養」「舎利」「三社託宣」「助六心中蝉のぬけがら」「牛岩千人斬り」「葵の上」「藍染川」「十六夜物語」「平安城」「亀谷物語」「京わらんべ」「甲子祭」「源三位由頼政」「頼朝浜出」「大原御幸」「巴太鼓」「信濃源氏木曽物語」「弁慶京土産」「花洛受法記」「柏崎」「都の富士」「平仮名太平記」「弱法師」「多田院開」「佐藤忠信二十日正月」「当麻中将姫」「義経東六法」「傾城浅間獄」「文武五人男」「信田小太郎」「えがらの平太」「甲賀三郎」など作者不明の作品が、まだたくさんある。
標準語のない当時、彼の作品には、あちこちに無数とも考えられる防長なまりがある。彼が防長人であれば、いまだに作者不明とされているままに放置されている、無署名の当時のたくさんの戯曲の作者を、三種類の訛りが混在しているという椙杜家発祥の地、近松のいう、だれも知らぬ臨時の名「そろばん橋」こと、岩国は錦帯橋近くの、玖珂郡周東町の椙杜神社のある椙杜郷の、防長ナマリを手かがりにして、推定してゆくこともできる。また昭和の初期まで、近松の作とされていて、その後、作品リストから外されたものに「花山院后諍」(かざんいんきさきのあらそい)がある。これもまた、作品リストに、復活してゆく。
歴史を記述する時、ある時代を、たかだか当時の政治、当時の経済、つけたしとしての当時の文化というたった三つの視点でしらべて、記述するスタイルは、とうにおわっている。複眼的視座から、たとえば江戸時代を語るなら、江戸時代の食生活、気候、言語、行商、みぶり、民衆文化、家族。江戸の女、こども、少数言語集団、集合的意識。心性、病気、死、暴力の形態、とりわけ近代には、口にするさえ、はばかられてきた男女のセックス。江戸の周縁の女性遊女など、まだまだ無数に近い江戸時代の庶民の、ありとあらゆる生活軸に多面的な脚光をあて、江戸時代や明治への変化を、さまざまに語るポストモダンの歴史記述の時代である。もはや政治好きの政治学。経済むきの経済学は、かすみ、ポストモダンの歴史記述の新しい主役として登場しているのは、先入観をすて、これらあらゆる軸の多様な異なる姿を調査してきた文化人類学者、民族学、民話学もふくむそのくにそのくにの民俗学者たちである。
ごく最近いただいた映画監督篠田正浩氏からのお便りによると
「ニューヨークで開催される近松シンポジュームに出席、いずれ機会をみてご報告しましょう」
とある。
ピラミッッド社会の底辺の、なきにひとしい人々をヒロインとして、無数の生活軸をえかいた近松門左衛門の作品は、文学としてだけでなく、奇跡の復興をとげた日本の文明基盤、歴史としての江戸時代を多面的な軸足をつうして語る歴史者としての唯一無二の第一級資料として国際的な研究者の、垂涎の的である。
生誕地の問題は、文学研究者として、歴史研究者として、心理学研究者としての近松研究者たちの、さまさまなあたらしい夢をかきたてる大切な問題だ。けっして、どっちでもいいというわけにはいかない。この研究ノートの目的の一つは、そこにある。
防長には、近松は長門市のほかに萩、豊田、長府説もある。
明治三十年代、村田清風の孫である村田峯雨氏は、東京神田町の日本医科大学の前身、日本医師養成学校の講堂で、のべ数十回にわたる防長史談の連続講義をしている。むかしの医師は、こういう直接には医学とはかかわりのない高い教養を、こうして身につけていったものらしい。山口県史学会の前身である防長史談会発行の、その村田峯雨の日本医師養成学校講堂での講演速記録をみると「椙杜家は藩祖毛利の子が、養子になった名のある家。(筆者注 毛利元就の八男。俗に厚狭毛利とされる毛利元康が、一時養子になった先が椙杜家で、近松の出生にかかわる毛利家萩本藩の江戸屋敷の家老、椙杜兵庫就幸の父が、椙杜元康こと実の名はこの毛利元康。したがって防長伝承がただしければ、田中澄江さんほかの作家が、近松は公卿の血を感じると看破したとおり、運命の業苦を背負いつつげたとはいえ、遠くは鎌倉政権の文の公卿の藩祖毛利元就と、鎌倉政権のこれも文の公卿、三善氏の流れを汲む椙杜家の血を体内にひめいていた当時はどん底の貧乏公卿の一人である)近松先生は三善氏のわかれで、周東町の椙杜郷を源流とするこの椙杜家の出身。どこで生まれかは別にしても、長門深川に居られたことがあるのは、まちがいない」とある。公卿の血筋であれば、世界的文豪になれるとは、いまどき、だれも考えはしないだろう。 防長が世界に誇る劇作家であれば、一人の物書きとしては、それぞれの地で、永遠に大切にしてほしいものである。
二十世紀最大の人間科学の発見といわれる心理学者、天才フロイドとユングは、二人とも、若いころまでは、精神異常者というレツテルをはられ、挫折につぐ挫折の、それこそ地獄の底をはいずりまわるような、絶望のどん底の日々でしかない人生の前半であった。
それはのちに、世界でだれしらぬもののない、永遠の世界的天才の名を、ほしいままにするそれぞれの人生の後半のために、このたぐい稀れなる天才の青年期に、天が準備した、人生の最高学府の日々なのであったと、関係学会に総括報告されている。
キリスト教にかかわったものは、親、子、孫の三代にわたり、きびしい監視の下におくこと。これがキリスト教の禁止にともなう、幕府将軍の市井の人々への永代管理のおきてである。複雑な経緯ゆえに、それを承知のキリシタン柳庵こと毛利秀包に、幼少を愛育された少年近松は、肥前唐津で、豊臣の敗北、没落した藩主寺沢。そのうえ禁断のキリシタンである藩主の菩提寺として、繁栄から年間三石の極貧につき落とされた三重苦の寺に、追いやられた。
見捨てられた子として、天涯孤独な孤児の身につきおとされ、キリシタン毛利柳庵にかかわった子として、キリスト教の禁止にともなう監視社会のなかでは、生きるすべもない絶望にまみれ、まだうぶ毛ののこるあどけない頬に、つたいおちる涙だけを、たったひとりの友として、自分の居場所をもとめて、生々流転した少年近松の、幼少の影が、さまざまな地にカゲロウのような史料として確固として語るべくもない影を、落としていればこそ、屈辱ののどん底から、のちに東洋のシェクスピアという世界的な重要人物にまでなっていった彼の、屈辱の苦悩だけが友だちの、成長の過程の本当の意味が、世界すべての人々に、心底から理解される。
それが可能なかぎりの踏査の結果、あつめた基礎資料のこの書をだした、もう一つの目的である。
そこでまず、系図が三人兄弟と四人兄弟にわかれている上、明治につくられた越前説系図が、客観的に妥当といえるかどうか、しらべてみる。
二、越前説のよりどころ、越前系図
今、越前説の根拠とされている論文、当時大阪市立大の森修氏の「近松の少年時代について」から、その原文のママを抜粋する。氏はたぶんどこかから、公式な委託をうけたものだろう。「福井県立図書館の職員数名の、一週間にわたる協力を得て調べた」とある。
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一、杉森系譜によると、信義(近松の父)は、三百石をとっていた人で、忠昌から吉品に 仕えている。忠昌の死後、正式に吉品にしたがうことになっていたのならば、「越藩史略やその他の越藩資料」に、なんらかの記録をとどめているはずである。わたしが調べた かぎりの越藩資料の中からは、父杉森信義に関する記事を、発見することは、不可能で あった。
二、「越藩諸士元祖由緒書」は、浅井家滅亡ののちに、浪人して抱えられたというように 杉森氏と似た経歴の人もあげられている。また知己の肝煎りで仕官した例も、越藩諸士元祖由緒書にあがっている。(中略)それをみると、総数四一四人中、松平忠昌によっ て、召し出された氏名は、一三0人もあがっている。そのなかには、もちろん、岡本為竹(筆者注・系図丙の四男)もあげられている。しかし、杉森信義(近松の父)の名は 、見いだすことが、不可能であった。
三、「諸士元祖由緒書」には、近松の父親と似たような経歴の人も、その数一三O人も記 録されているのに、近松の父の名だけがなかった。
四、系図丙の「信盛こと近松」という文字は、活字に似た文字で、明治末か、大正はじめ に書きくわえたものである。
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以上、論文の原文のママを引用した。いろんな解説に、系図のなかみを証明する文献としてあげられている俗書、「俗耳聾記」らにあるのは、森修氏によると、杉森「作」右衛門である。系図にあるのは、杉森「市」右衛門だ。似てはいるが、同一人物ではない。氏は「これが近松の父杉森市右衛門であれば、都合がいいが・・・」と、前置きしたうえで、「しかし文献的に証明はできない」とことわっている。よく似た杉森作右衛門という名があったので借用して、それを近松の父市右衛門と仮定して、越前福井説の論理をすすめたと経過を書いている。
おそらく明治になり、系図を作成する時、それぞれの生存年代までは、よくしらべずに、適当にそのころの有名人をとって、ならべてしまったものかもしれない。
国史人名辞典をしらべてみると、系図に次男とある近松は、一六五三年から一七二四年の人であるのに、三男とされている有名医師岡本一抱は、一六八六年から一七五四年の人。二人は次男と三男の関係というのに、なんと、年令が三十三才もひらいている。となると、長男智義と四男為竹の年令差などは、半世紀近くもひらく。
もっとも、歴史が、科学的研究として、独立したのは、西欧でも十九世紀の後半以後のことである。それまで、歴史は伝承文芸であった。この系図も、当時のならわしにしたがって、権威を先祖にして、自己を権威づける創作系図の方法を踏襲している。
しらべてゆくと、当時の萩には数十もの杉森をなのる家があり、それらはみな末裔が萩にいるわけではない。
特産物の運搬に太平洋海岸の航路が開発されたのは、まだあたらしく、その頃は北前船といい、西国いちの大みなとと近松が博多小女郎浪枕で描いたように、日本海から瀬戸内航路にはいりこむ下関港を分岐点にした、日本海沿岸の港みなとを、船の積み出し駅とする航路しかなく、朝廷や三塊九卿、天皇家と三摂家に九清華家を世話する大膳太夫である毛利藩が、たとえば京都に荷物を運ぶ場合、下関から瀬戸内海航路で、大阪港経由で運搬する航路と、山陰の港みなとを北上し、それぞれの港で朝廷に献上する特産物を積みこみながら、越前の港を経て、川をさかのぼり、京都に運搬する場合とふたつあった。越前港は、京都の天皇と三摂家九清華家の台所を賄うという大膳太夫という重職にある毛利藩にとっては、藩の命脈にかかわるたいせつな中継の拠点であった。したがって越前越後の松平と毛利は、重婚につぐ重婚の間柄で、萩からかなりのさむらいが、越前に移り住んでいる。とうぜん越前にある杉森家が、この萩にたくさんある杉森家の、末裔のひとつであることを疑っていない。
沢田源内と「浅井日記」
権威を祖先において、自己を権威づける慣習は、けっこう近松のころも流行していた。 戦国時代がおわり、実力で台頭した新興勢力は、封建制度の中に安定した地位を得るには、門閥を示す系図が必要であった。平和な元禄には、系図屋はたいへんな礼金を得たようである。
村雨退二郎氏の「史談・のみの市」をみると、近江の国坂本雄琴村に、沢田源内という男がいる。みずから近江の名家六角佐々木の正統の、従三位参議の子孫と自称し、偽証するために、佐々木氏の系図を偽作した。やがてその嘘がばれて、逃亡したが、元禄元年、七O才で病死するまで、依頼に応じて無数の偽系図を書いたという。
中には頼まれて、ただの博徒まで、由緒ある家の末裔であるかのように書いた。
彼が書いた偽系図で、民間に今も残るものについては、もはやどうしようもないが、今ものこる彼の偽作には、ジンギスカン義経説の唯一の論拠とされている「金史別本」や「江原武鑑・合計二十巻」「大系図三十巻」「江陽屋形年譜」「沢田源内倭論語」「足利治乱記」等がある。
わたしがあえて、この沢田源内を問題にするのは、近松越前説をしらべた森修氏の論文に「近松の父親は、浅井家滅亡ののちに、うんぬん・・・」とあるからだ。
実は滅亡した浅井家の「浅井日記」も、この沢田源内の偽作だ。さらにこの沢田源内の偽作を、無批判にとりいれてしまったものに「浅井始末記」「浅井三代記」などがあるのだ。
もしも、この福井県の越前説系図の作者が、明治にそれらをもとにして書いたとすれば、その人はあやまって偽作を引用して、越前の近松の系図を、書いてしまったため、越前藩の公式資料には、ないものを、つくってしまったということになる。
ほかに「三河後風土記」「武家高名記」「異本難波戦記」「真書太閤記」など、偽作は枚挙にいとまがない。
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