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作家は新聞の事件などにヒントを得て、推理小説などをかく。近松門左衛門もまた何かの物語からヒントを得て、たくさんの作品を書いた。これらはもとの物語そのものではない。しかし物語の内容などが、作品に反映している。これを題材と作品との関係という。 とりわけ、近松は「換骨奪胎の名人」であったという。
別図にまとめて描いたが゛彼の作品の題材となった物語と、長州や唐津を考えてみることにする。
長門楽桟敷・日本のギリシア型円型劇場
そばに近松公園のある、長門市の中枢道路の上にかかる、文楽の有名場面をレトロな渋い絵にしたプレートを、欄干の石に一つひとつひつはめこんである近松大橋をくくりぬけると、右手に石段をのぼる上には、近松巣林子碑のある赤崎八幡宮がある。
近松巣林子碑のそばを見ると、だれも一瞬、目をうたがう。
ひとまわり小型ではあるが、世界的に有名な石造のギリシヤ円形劇場そのままの、すり鉢の底に舞台のある、中世の石造のギリシヤ型円形劇場がある。観客席はすべて、細長い石により、石段のように、段々になり、舞台をみおろすように、周囲をグルリと囲んでいる。このくにの中世には、唯一無二の石造のギリシヤ型円形劇場である。
観客のすべては、すり鉢の周囲のような観客席から一番底にある舞台で、なにかが演じられるのを観た。それはなんであったのか。萩城の役宅に通うころだろう。「近松先生がいた」と村田清風の孫が、明治の神田、東京医学専門学校の講堂で講座をしたという長門深川であれば、この石造の観客席のどれかに、近松は座った。
そして 眼下の舞台にいる俳優が、踊りうたう芸を、じっと凝視していた。
吉田蓑助師匠は、木でつくられた文楽人形は、人間とぎょおなじように呼吸をして生きているという。
のちには李笠翁、杜甫に比されて、大阪の石碑に永遠に刻まれるその近松の、するどい視線と息づかいが、あたりの松林の静寂のなかのこの円形劇場の、幾重にも囲まれた観客席のあちこちの石の座に、強烈に残存している。
むこうにある静かな湾は、紫津が浦という。仙崎ともいう。壇の浦で平家が敗北、安徳帝が海底に入水したあと、引き揚げにいったのは、どうしたわけか、このあたりの海辺の漁師たちであった。
かかる辺国、波涛まで、だれがふみわけし恋のみち。汲むも焼くもそれはまだ浜の業。そりゃ時ぞと夕波に、かわいや女のまる裸。腰に受け捕り、手は鎌、千尋の底の波間わけ海松布かる。ワカメ、アラメ。あられもない裸身に、ハモが濡らつき、ボラがこそぐる。カザミが詰める。餌かと思うて、小鯛が乳にくひつくやら、腰の一重が波にひたれ、肌も見え透く、壷かとここころえタコが臍をうかがう。浮きつ沈みぬ浮き世のわたり。人魚の泳ぎもかくやらん。(平家女護が島より)
この紫津が浦には、人魚がいるという。
そこに居るというだけで、昼も夜もその顔が目にうかび、魂の底まで、その女の姿がしみついてしまう、美しい女が一人いた。いくつになっても歳をとらず、慕う男のもめごとのタネ。とうとう或る月夜の夜、この紫津が浦の湾の鏡のような静かな海に、女は身をしずめた。いまでも月夜の夜、この浜辺に打ち寄せるさざ波にたつ巌頭に、ときどき人魚が座っていて、玉をころがすような声で、人をまねくという。漁師たちが壇の浦から、連れかえった平家の官女かもしれない。近松によると、御殿にすんでいたという静御前にちなむ袖ケ浦の浜辺がある。白拍子トンネルというトンネルもドライブウエイにあり、最近の史書によると、遊女といっても、白拍子は広大な領地をもっていたという。須佐は当時、源頼朝に馬を献上している。袖ケ浦のこのあたり一帯は、遊女白拍子、静御前の領地であったのかも知れない。
今も、腰に受け捕り、手は鎌、千尋の底の波間わけ海松布(コンブ)かる。ワカメ、アラメ。あられもない裸身に、ハモが濡らつき、ボラがこそぐる。カザミが詰める。餌かと思うて、小鯛が乳にくひつくやらと、岬のむこうで、現代の人魚、海女さんが潜水している。腰の一重が波にひたれ、肌も見え透くことも、かわいゆき女のまる裸でもない。まして餌かと思うて、小鯛が乳にくひつくということはもうない。潜水着にアクアラングである。ただしかかる辺国の波涛であればこそ、だれがふみわけし恋のみちは、思いこんだら純情一途であると、浜の漁師からきいた。近松のころと、それは変わっていない。
北極の海から南海に南下する寒流。それを人々は親潮という。その上を南洋からオーツク海まで北上する暖かい潮の帯が北上している。それを人は黒潮という。暖流は長門沖では真冬でも、摂氏二十度はあるという。暖流に無数に浮かぶ畳数枚くらいの海藻の一つひとつには、卵から孵化したばかりの二、三ミリくらいのかわいい稚魚が、数十万尾、群れている。ちょうど親潮と摂氏二十度以上の黒潮が混合するここらは、良質のプランクトンに恵まれ、無数の魚たちがあつまる豊饒の海である。「大浦をすぎると獲れた魚の味が落ちる」と、釣り師と味覚通はいう。かってはセミ鯨もたくさんいた。北の海から流れて、かなりは暖かくなった親潮とまだ南海の暖かさをもつ黒潮のこの沖合の交合の時の温度ゆえに、ここの沖合しかいないプランクトンの質が、その秘密をとく鍵である。
最大の捕鯨港として中世の捕鯨船が出入りしていた鯨組のあった鯨墓を護る近くの「通い」という地帯には、槍の権三の原型である、女仇討ちに発展した美男と人妻の純愛を伝える祭文語りが、伝わる。そしてここにはすでに九番が欠落してはいるが、死を覚悟した白装束に気かえた赤穂浪人の、吉良邸討ち入りの祭文語りもある。それはあとに美化されて映画でみるお揃いの紋服に颯爽とした赤穂浪人たちではない。きいていて目にうかぶのは、貧しさに耐えぬき、もはやあとには死しか予定できず、汚れた白装束しか、のこってはいない痩せ浪人たちの、手に手に刀をかざしてかけこむ討ち入り姿である。それがこの円形劇場の底の舞台から語られた。
石の座席のひとつひとつは、ごく最近まではここに座る資格のある数十人の人々だけの専用とされた私有財産であった。
近松がいたという伝承のある、吉田蓑助師匠の豊竹座、そして筆者が所有する大正年間発行の近松名作集の表紙を飾る金色の九枚笹の紋、それと同じ紋章をもつ岡本家専用の席は、舞台からむかって右側の中段にある。「近松先生はまちがいなく、長門深川に住んでおられた」のであれば「大名なぐさみ曽我」にある、還俗して不潔な行為におよんだ兄弟子を斬りすて、椙杜のもとの名杉森にもどった近松がすわったのは、まきせれもなくその岡本家専用の席である。まもなく歌舞伎の台本「大名なぐさみ曽我」を書くに至る彼の、鯨油の灯火に照らされた舞台を、注視する胸を、去来するものがなんであったか。目をそらせば円形劇場をうえからかこむようにして立ちならぶ松に鳴る、日本海の男波のうえをわたってきた夜風が、月光にわたる芝居の夜。舞台ははね、人っこ一人いなくなった夜の円形劇場の観覧席に、いつまでも動かぬ影がひとつある。衆を救うとして出奔したはずの寺を思い、こうしてこの観覧席にすわり、ただ日々をすごしても良いのか。
萩の市史をみると、このあたりから京都にのぼった出雲のお国が、女だてらに侍姿で登場、京わらべの話題をさらい歌舞伎の始祖とな二年あと、この地で出雲の巫女が歌舞伎を上演。それをみて狂った藩士たちが、抜刀で入り乱れて乱闘。歌舞伎を観覧することを禁じた布令がだされている。長門には南条踊りという、まるでチャップリン扮するおどけ侍姿の踊りがある。いかにもそいう旅役者の群れのよう顔で、城門をあけさせ、だまし討ちして、城をのりとった吉川元春をたたえるという由来のある舞踊だ。しかしその由来の説明もなく、舞台でおどけ侍の、着物の下は、ヌードのそれに扮して、妙齢の女性が踊ったとしたら、モダンタイムスどころではない、侍を揶揄したパロディになる。反骨の京わらべにすれば、やんやの喝采になるのはまちがいない。しかし由来ぬきでその踊りをみれば「侍をバカにした」と怒りくるう藩士と、「あれはは南条踊りというて・・・」と、とめる藩士とが、とうとう抜刀で入り乱れて乱闘になることはまちがいない。日本史史料をみると、「まかりまちがっても、侍にだけはなるな」と、商店に家訓ののこる時代になっている。
いかにも反骨の近松門左衛門の気風を育成した深川である。藩士たちが観覧にやってきた円形劇場のあるこの深川は、侍の町ではない。元禄以来、藩士といえども、傘張りや下駄の鼻緒づくりの内職で、やっと細々とくらしをつなぐほど転落した侍たちを、城をのりとった吉川元春の故事来歴にかこつけ、庶民がパロデイにしたてあげ、痛快をさけんで笑いとばしていたとしか、いいようのない、オドケ侍姿の群舞である。
人の気配の絶えた円形劇場の夜の静寂の中に、吐息がきこえる。
わたしにとって、欠けていることは、自分はなにを、どうしたらいいのか、決めかねているという問題である。他人はともかく、そのために生き、そのために命をうしなってもかまわない、わたしにとっての真実。それを生きてゆく支えにして、ルビコン河をわたるのだ。世間のものさしという客観的な真実など、さがしもとめたところで、わたしというたった一人のかけがえのない自分にとって、それがいったいなんの役にたつだろう。(キルケゴール)
自分のアイデンテイテイとはなにか。中段の観覧席にすわりこんだ孤独な影は、うつむいて動かない。
こうして、いまここに座っている自分とは、本当の自分であろうか、それとも周囲の顔色をうかがい、虚構の仮面を顔やことばに、していきている偽りの自分であろうか。
関西の俳人山岡元隣の句会の席で「しら雲や花なき山の恥かくし」と詠み、一座をシラケさせた十九歳の彼。わがか二年前詠んだて水野頼広の「積む雪や山の恥かくし」の盗作であるうえ、しら雲は季題てはない。そのうえ、しら雲とは、女性の下半身の下着。当時はそれをとったらなにもない裸身になる女性の、腰にまいている赤い布、腰巻きの通称である。
荒れていた。青春にひたすら悩む、考えても考えてもわからぬ一人のわかものの孤影が、物音ひとつしない、ひっそりとしたこの円形劇場の、石の観客席にある。
江良の集落の前の高砂山という高い山の上に観音像がある。淋聖太子大内の祖先がわだつみの海の彼方からもちきたった高山の中腹に立つ観音像である。
難波の川辺だけではなく、ここもまた人しれず生み落とされた子が、夜ひそかに捨てられている時代である。
反面、藩主の家でさえ、生まれた子がつぎつぎに死ぬ、幼児死亡率の非常に高い時代でもあった。
生まれた子がそのまま死に、乳房がはってはって痛みに泣く若い母親が大勢いた。
乳房が張りつめて、痛みに声をあげる子のない母。高い高砂山の上にある観音像の足もとに祈るような思いとともに、そっと置きすてられた母のない子。山の上のそこは、子を喪った若い母の豊かな乳房の乳首をくわえた、見もしらぬ子がけんめいに乳を吸っているたとえようもなくもの哀しく、しかし世にうるわしい、子なき母と母なき子のかぐわしい風景がくりひろげられている。
それを足元に、観音像は、ふもとに広がる深川の町をみつめている。
・・・げにや安楽世界より、いまこの娑婆に具現して、われらがための観世音。あおぐも高し、高き屋に・・・曽根崎心中の冒頭。
一般に仏教は下からささえるが、キリスト教の神は、上から救うといわれている。
この江良の観世音だけは、道ばたの祠に、平地に人とむかいあう観音てはなく、高き屋にあって、ふりあおぐ聖母的救世観音であった。
還俗して平馬を平兵衛とはしたが、関ケ原の合戦で、武勲の感状を与えられた椙杜姓ではなく、おおむかし椙杜の大内に仕えていた時代の姓杉森しか与えられず、萩城三の丸椙杜屋敷の役宅に通う、若き近松の姿である。
秘境の村・近松のゆりかご
彼の生まれ育った豊田町から一帯は、壇の浦合戦でほろびた平家一族の落人集落が、今もあちこちに散在している。なかには、車一台がやっと通れる長い山道の向こうに、突然目をうたがうような立派ないらかが、輝きわたる江原とかい入見とかいう集落が、今もある。
満願寺の跡
近くには、壇の浦の総大将であった平知盛の末裔がいた満願寺跡という土地もある。昔はみあげるような鳥居のあった寺で、本日、満願にてそうらえば、たたいまより、参らばやと存じそうろうという謡曲の一節「橋弁慶」で謡われる、あの満願を願う寺の跡だ。近くには、平(たいら)という姓の人も住んでいる。
安徳帝の巨大墳墓
天皇様という地名になっているが、豊田町には宮内庁管理の壇の浦で沈んだ安徳帝を埋葬した巨大な墳墓がある。
滝口入道・平家会・妖刀
源平の戦さで戦争をきらい、卑怯者といわれ、姿を消した滝口入道の名の、滝口といわれる集落もある。三方を高い山にかこまれたそこは、平家会という会がいまもある。ここのお宮には妖刀があった。ある日その刀が突然姿を消す。ある家が死にたえる。その家の軒から、かならず隠れていた妖刀があらわれる。困りはて、ついに県社に奉納したそうだ。この滝口には手洗川という細い川がながれ、その地の女は年に一度、ゆっくり朝寝をする。目がさめると、滝口中の男たちが前の夜から集まってついたホカホカの餅が、枕もとにおいてあるというわけだ。それが何百年と続いているしきだりだ。
中将姫の哀惜碑
豊田町の稲実には、反乱に敗れた大内の姫、三位の中将の愛人の碑がある。大内義隆と三位三條の中将の壮烈な最後をしらせるように、燃えあがる大寧寺の煙りを、はるかに長門にみて、姫は乳母とともに川にとびこんで自殺したといわれる。
あどけない幼年の近松のゆり篭は、それまでにあった古浄瑠璃の、戦さに勝った英雄の勇壮な物語ではなく、敗れて行き場を失って、ここににげこみ、帰農した人々が語りつたえる悲しい昔話で満ちていた。
黒田騒動の栗山大膳・その妻の墓
主君の乱行をあえて幕府に訴え、なお自己を悪人として藩をさり、黒田藩の危機を救った栗山大膳。俗に黒田藩騒動とよばれ、歌舞伎作者が、さまざまにがくりかえしとりあげる題材だ。この栗山大膳の妻の墓が、この豊田町にある
夫の栗山大膳の墓は、盛岡にあるとされているが、友人の海事史家沢忠宏氏が、盛岡の恩流寺をしらべたところ、あるのは栗山大膳の顕彰碑である。
栗山大膳その人の墓は、豊田の近くの長府、栗山大膳の三男で、長府藩士栗山そう八の子孫の武家屋敷から、百メートル上の山中にある。晴れた日でも、長靴とGパンで草刈り鎌をもっていかないと、うっそうとした草むらから、何が出てくるかわからないような深い草の中だ。
関ケ原合戦を日程においた家康は、毛利秀元の姉に、黒田藩の家老栗山大膳をめあわせ、みずから媒酌人の席にすわる。こうして西軍の雄毛利を姻戚関係で、動けなくしていった。歌舞伎では有名な悲劇のこの忠臣の夫婦の墓は、それぞれ近松のゆり篭の地にある。
女歌舞伎・俵山
豊田から山道を木屋川を山陰にさかのぼると、秘境としかいいようのない温泉地俵山にでる。出雲のお国にはじまった歌舞伎は、幕府によって女性の出演を禁止され、現代まで女形の時代がつづく。ところがこの俵山は、いまでも、女性ばかりの女歌舞伎が伝えられ、年に一度公開されている。
敗れた人々にただやさしく、きびしい社会の下積みとして、じっと耐えている人たちに熱いまなざしをそそいだ近松の、幼い日々がどんな背景にあり、成長したのち、恵まれた公家邸のつとめを捨てて、なぜ、劇作家に、転じていったのか、こうした事実から、想像できる。
では題材となった物語を紹介しよう。
出世景清と景清洞と小野姫
豊田町の近く、秋芳台の山陰に景清洞という隠れた名所にされている洞窟がある。
町史をみると、一一八五年、壇の浦の合戦で敗れた平景清らは、真那宗国という平家がたの女将軍らともに、この洞窟に身をひそめた。
それをかぎつけた源氏が、一一九三年攻めてきた。農民に身をかえた野武士たちと真那の連合軍の前に、源氏の軍勢はあえなく惨敗をしてさる。
真那にはかわいい娘がいた。この娘は、景清かその子の愛人であったと伝えられる。
近松の「出世平景清」は、壇の浦の合戦で敗れた平景清がかたきをうつ機会を狙って、身をひそめているが、景清には妻阿古屋の他に、愛人小野姫がいる。その小野姫への嫉妬に狂った妻阿古屋の密告により、景清はとらえられる。彼は目をくりぬかれ、日向の国に追放されるというあらすじである。。
謡曲景清も、それ以前にあった。しかし小野姫という女性を登場させて、男女の愛の葛藤にしたてのは近松門左衛門だ。当時、たいへんなヒットであった。
この原型である物語が、生目八幡縁起(由来)として 景清洞にあるほこらと、宮崎県日向の八幡にある。ここの地下水で目を洗うと、よくなるという寺社の伝承だ。
景清洞のに近くの道ばたに、古い石の歌碑があり、なんと小野という字が署名されている。
歌は、まかなくに、何をたねとて、浮き草の、浪のうねうね、おいしげるらむとあり、 おもてむきは、名もない雑草のたねが一面においしげる中の、農作業をうたっている。「まかなくに」が万葉古語である「真悲し」の変用であるとすれば、「悲しいことに、すでに、景清のなきあと、訪ねるところのない、この小野姫。壇の浦の波のさざめく間をすごしているうちに、老いが重なってしまった」と、平家興亡の波にもてあそばれた小野姫という女のかなしみの、裏の意味が詠みこまれている。
洞窟から流れ出る水は清澄で、目を洗浄するという眼科治療が、この伝承の中に生きている。かって生木のくすぶるいろりの火で、夜の作業の採光をしていた農村では、眼病はつきものであった。
にしても、もし越前で近松が育っていたら、中国山脈の分水嶺であるこの秘境や、日向のこの寺社縁起は取材する機会はない。
愛人として小野姫をいれて葛藤させ、嫉妬と戦さのドラマをつくりあげた近松の作劇の目のたしかさが、この歌碑をみているとしのばれる。
花山法皇伝説と「花山院后諍」
近くのみね市には、藤原王朝期に設立されたという南原寺がある。
ここには恋にやぶれた花山法皇が、かなしみのあまり、都落ちをして、写経にいそしんだという伝承がある。
火事で宝物のあらかたは焼失しているが、法皇の自像という三Oセンチほどの木像が残されている。いまはここの長生き観音の方が人気をよび、遠くから長生きにあやかりたいと、ご老人がバスをつらねてやってくる。しばらく前までは、発掘がおこなわれ、それが経塚であることがわかったりして、なき花山法皇は、よく話題になった。
「花山院后諍」は、かっては近松の作品リストにあげられていた。その中にあるしかけが、後期近松の作品にもあるからだ。しかし最近はまたリストからはずされた。防長説になれば、題材が近くにあるので、また近松の作品リストに、復活する機会があるだろう。
碁盤太平記と赤穂浪人と豊田・長府
赤穂浪士の討ち入り事件は、一七O二年、近松が五O才のとき、起きた事件だ。
近松の作品に赤穂浪人の討ち入りを描いた「碁盤太平記」がある。のちに竹田出雲により、「仮名手本忠臣蔵」として、世に出た日本人の永遠の名作である。
豊田町は町の中を流れる川をさかいに、半分は長府藩領である。
「碁盤太平記」は、解説では、江戸の友人からの手紙をよんで、近松が劇化したと伝えられる。防長文化史年表をみると、実は長府藩屋敷に、岡島八十右衛門ほか十名を預かったと記録されている。そして豊田町からは、浪士たちの護衛のために、藩士として十数人が屋敷につめかけた。この浪士たち、実はとびきりの文人たちであったことは、広く知られている。
近松門左衛門は、長府藩屋敷に討ち入りの様子を、本人かその口述書からとりいれて、書いた。
敵ながら清水一角の見事な最後、そして最後に上野介が見つからず、内蔵助が一同をあつめ、本懐をとげられず無念だが、ここで打ち切ろうといっている。そこに木小屋の裏で、こそこそとしている上野介がみつかり、本望をとげるという討ち入りのあらすじである。さまざまな作家が忠臣蔵を書いても、永遠に変更できない討ち入りから引き上げまでの過程。そのもととなる細部を最初に緻密に描いたのは、近松門左衛門だ。
上演は禁止され、五O年あとに、竹田出雲によって、当たり狂言となった。忠臣蔵はまだここ二、三百年は、日本人の魂をゆすぶる不朽の名作として扱われるだろう。
国姓爺合戦と唐津
鎖国の時代といえば、閉鎖的な国を連想してしまうが、この時代に日本の銅輸出は年間六千トン、当時の世界最大の銅輸出国であったことも、頭の隅にいれながら、この国際的なスケールをもつ近松のドラマを見なおしてみたい。
明朝のある時代、重臣の将軍がダッタン国王に内通して、その軍勢を引き入れ、王城を陥落させて、帝を殺す。一方、大司馬将軍は、乱戦の最中、わが子を犠牲にして、幼い王子を救い、九仙山に隠れる。
帝の妹は敵の手をのがれ、長崎の平戸に流れつき、偶然にも旧臣の子の和藤内(わとうない)に救われる。この旧臣、かって帝に忠言をしたが用いられず、日本に亡命し、一子和藤内をうみ、二十年を経ていた。
祖国の危機ときくや、妻子とともに大陸に復帰して、前妻の夫の居城にいき、援軍をこう。前妻の夫が返事をしぶるや、前妻と現妻は、壮烈な死をとげ。それに感動した前妻の夫は、和藤内と連合をくみ、ダッタン軍と反乱の将軍を撃破し、九仙山に隠れている王子をむかえ、明朝を再興する。和藤内はこの手柄で、めでたく国姓爺延平王という地位につく。
これが物語のあらすじであるが、この主人公を和藤内と名づけたのは、「和でも唐でもない」という近松独特のユーモアだという。
国際的なスケールのドラマであり、物語りの展開の面白さに、大あたりとなり、当時三年越しの連続興行をつつけ、今もなお人気抜群のドラマのひとつだ。
肥前平戸の田川氏の女性と、明朝から亡命した中国人の父親との間に生まれた鄭成功が、父親に従い、中国に渡り、明朝の復興のために活動しながら、日本にも援軍をもとめた。しかし日本の援軍は成らず、台湾を拠点に清朝に抵抗したという実話に、題材をとったものといわれている。
ところで今も、唐津には研究者や知識人を網羅した数百人の唐津松浦党研究会という会がある。
唐津松浦党とは、わたしたちが日本歴史で、日本沿岸、中国大陸沿岸を荒らした海賊として教わる倭冠のことである。
「倭冠史考」(呼子丈太郎著人物往来社)をみると、彼らは唐津に根拠地をおき、朝鮮半島沿岸、中国大陸沿岸、今のベトナム、ヒリッピンから、インドのゴアに至る海域を支配した国際的な水軍である。幹部も中国人、日本人など、国籍をこえた同志で、選挙制、会議による運営という、中世には、考えられぬ民主的な地方権力だ。
船は中国製のジャンクを使い、日本刀をふりかざす軍団だ。瀬戸内海では大内の軍船を沈めたりして、当時は、唐津松浦党ときいただけで、ちぢみあがるような海の軍団であった。
戦国乱世時代は、切り取り強盗世の習いである。彼らだけを倭冠として、日本史に海賊扱いすることに、「日本史とは勝てば官軍」と、この唐津松浦党市民は、怒りを感じている。
群雄割拠の時代に、彼らは唐津を拠点にしたアジア人による国際的独立共和国であったのだ。それだけのことで、これを賊あつかいするのは、日本史の記述としては、正しいとはいえない。
たとえば清国からおわれた明朝の臣たちとか、当時、大陸沿岸と東南アジア一円で、それぞれの国の当時の権力からすれば、倒したはずの政権の有能な人々が集まった。そして選挙で幹部をえらび、万事合議制度で運営し、ここだけは、めずらしく封建領主がいなかった。この中国・東南アジア海域共和国は、中世にユニークな存在として、日本史に再評価すべきだ。
たしかにその陸地の権力から、追放されたゆえに、日本、インド、ヒリッピン、ベトナムの、どの国の法の支配にも入らず、彼らは彼らで決定した自分たちのルールと、政策により彼らの国を運営した。
どの国からも敗れた前政権の家臣たちが、国際的に集まっている水軍だから、どの国の現国王からも、目の敵にされたのは事実だ。それが倭冠と、あたかも無法者のような、歴史に不名誉に扱われる原因だ。人種の上でも、彼らがどの国の歴史に入るべきなのか、それもきまらない。まだ学者は、歴史をその国の政権中心にとじこめてしか、考えられないいまは、アジア各国の敗軍の将からなるスケールのおおきいこの合衆国は、日本歴史にはとらえきれない。
彼らの最初の幹部六人の墓は平戸にあり、十字架が刻んである。投票による幹部の選出といい、万事会議で方針を決定する運営といい、禁圧されたキリシタンを中心に、再編成されたのだろう。ザビエルを日本に案内したヤジロウは、松浦党幹部として活躍し、最後はゴヤで生を終えた。
ヤジロウのことを特筆しておきたいのは、中央の権力資料依存であるのか、ヤジロウは最後は盗賊一味となったという記述がときどきある。前述の「日本の聖書」を参照すれば、このヤジロウの功績をあげるなら、ひとつはむろん、ザビエルを日本に案内したことだが、なんといって最大の功績は「このくにで最初の日本語聖書を創った人だ」ということだ。幕府軍勢に蹂躙されて、歴史から消えたからとて、倭冠が中央権力史料でいうように、はたして野蛮な賊であったのか。たしかに権力史からすれば賊であるが、町ぐるみ、織田信長により、老いも若きも男も女も、一人のこらず、煮えたぎる湯の中に一人ひとりつけられ、釜ゆでにされて、阿鼻叫喚のうちに滅びたからとて、親鸞の教えにいき、平和で平等な千年王国をめざした一向一揆が、賊徒とはいえない。日本を庶民の自由と民主主義と人権思想を柱にして書くとしたら、このクリスチャンヤジロウの存在は、かなり大きいものなる。
世界史に名をとどめる民主主義の原型、万事会議で運営していた平和で自由なギリシヤのデモクラシーの都市国家が、スパルタカスの軍勢の前には、ひとたまりもなかったことを、参考にあげておく。
この唐津松浦党支部は大陸にもある。山東省青口鎮はいまも室町期の和鏡をもつ家もあれば、二階建ての家はほとんど日本風の土蔵造りだ。その町の付近は、今でも日本のわらじをはき、魚のことをサカナ、餅、モチ。塩、シオなどの日本語を中国語として使つている。
中国大陸の王朝をせめるときは、二O万人の軍勢であったという。まかりちがえば、ジンギスカンのような勢力にも、なりかねない海の民の合衆国であった。
コップの中の嵐のような日本の戦国時代を尻目に、日本海やインド洋をまたにかけて活躍した独立合衆国の本拠が、唐津にあったという事実は、実に痛快というほかない。
日本に銃砲史の扉をひらいた種ケ島銃は、彼らがポルトガルとの交易で手にいれたものを、九州の大名に寄付し、それが種ケ島銃として日本歴史に残っている。カンボジアからカボチャを、日本にもちこんだのも倭冠ならぬこの唐津松浦党だ。
唐津松浦党の功績として記録せず、ただポルトガル銃種ケ島の到来やカボチャの日本到来だけを、歴史に記録して、かたや倭冠として、彼らを賊あつかいするのは、今からの歴史の記述法ではない。
日本に銃が入っても火薬の原料である硝石は、鎖国といえども、輸入するしかない。それはこの広域共和国唐津松浦党の仕事であった。遠くポルトガルまで、当時の日本の銅輸出がおよんだのは、単にご朱印船の力ではない。国際社会では、ジャンクで海を渡る唐津松浦党の交易圏が、はるかに広く、インドのゴヤまで、支部がある。
日本の鎖国時代、すでにイギリスの東インド会社に雇われた日本人サラリーマンたちが、南洋の島々で、クリスチャンとして、あちこちに数千人の日本人町をつくった。その町を、唐津松浦党は交易船でつないでいた。
むろん、敗れて逃れた将である自分たちを、殺すまでは敵視する各大陸の政権の船とは、武器をとり、正面から戦った。それは敵視され、みつかれば追跡されたためである。
各国て戦いにやぶれて、生き残るために商人として集まった国際的な貿易集団を、日本史までが、乱暴な賊あつかいするのは、何としてもゆるしがたい中央権力史観だ。
明朝から平戸に亡命した鄭成功やその父とは、ふだんは長崎で一市民として、商店を営なみ、この唐津松浦党の幹部の一人であった。大陸に二O万の軍でせめこんで敗れた鄭成功は、最後まで明朝の臣として、唐津松浦党台湾支部を根城に、大陸を脅かし続けた英雄である。それが国姓爺合戦には、あらわれない実態だ。
近松は唐津松浦党の名をふせたまま、そこの秘話を、ドラマにした。
まぼろしのような合衆国の存在自体が、江戸や浪華の庶民には奇想天外であった。しかしそれは、まほろしの合衆国ではなく、唐津を中心に平戸まで潜在している実在した合衆国である。
交易圏がインドのゴヤまで及んでいるのに、普通の近松解説書にあるように、実話としての明朝の帝の妹は、平戸に「漂着」しようはない。合衆国唐津松浦党をめざして、大陸から一路平戸に「亡命した」のだ。「漂着」という偶然ではなく、亡命の目的地としての平戸が、唐津松浦党をしらないか、意識的にさける解説書には欠落している。
(これは改訂版のいまは、日本と中国や韓国、東南アジアなど当時の往来圏の広さは、承認されるようになった)。
赤穂浪士の武林唯七も中国人三世である。鄭成功も中国人二世だ。そして山口県の家紋録には、鄭家の家紋がのこっている。鄭家とは、山口県の歴史に家紋が残るほどの家であった。
読売新聞社発行の西国太平記には、鄭成功は中国大陸でも台湾でも共通の英雄とされているという。おそらく日本にとっても、日本人を母とするハイブリッド鄭成功は、英雄として高く評価する日がかならずくる。彼は大陸の中国人、台湾の中華民国人そして、日本人共通の国際的ヒーローなのであるから。
余談になるが、太平洋戦争を日本という国の歴史に矮小化すると、あの戦争の本当の歴史がみえなくなる。中国・東南アジア太平洋を包括するアジア史としてみないと、戦争の痛みも反省もつたわらない。
近松の時代も、中国・東南アジア・日本の歴史という広域史を書く時がきたら、小さな日本列島のなかで戦さにあけくれていた戦国大名にくらべ、全域を活躍の舞台にしていた唐津松浦党は、一段とスケールの大きい合衆国として、まちがいなく復活するだろう。
中国大陸で捕虜になった数千人の松浦党兵士の故郷の地名には、京都、奈良、阪神地方の地名が無数にみられる。中国人の赤穂浪士と、松浦党との関係は今からの解明にまたれる課題だ。
いまだに広域史がないのに、近松はこの時代、すでに広域史の世界を描いたのだ。
博多小女郎浪波
長門の秋の夕暮れは、歌によむてう文字(門司)が関。下の関とも名に高き、西
国一の大みなと。北に朝鮮、釜山海。西に長崎、薩摩潟。唐、おらんだの代物を、
朝な夕なに引き受けて、千艘はいれば入り船も、日に千貫目、万貫目。小判走れば
銀がとぶ。金色世界もかくやらん。(博多小女郎浪枕より)
「・・・・船をだすなら、夜ふけにだしやれ、帆影みるさえ気にかかる」という冒頭のセリフをはいた海賊のモデルは、これも松浦党の一門、博多にいた豪商伊藤小左衛門である。
彼こそ、火薬の原料がない日本に硝石を運んで、戦国大名の火薬庫をみたしたのであった。
市史をみると、唐津湾に面した島にある彼の屋敷跡には、数億という埋蔵金があるといわれる。
日本を統一した幕府には、彼の存在は今度は諸大名の反乱の武器の提供者になる。戦国時代にはたいへん重宝にされた彼ら松浦党は、統一政権をつくった幕府には、危険そのもの存在になる。天下を押さえた秀吉にとっての、千利休がそうである。記録によると千利休は、秀吉前の君主織田信長に、銃弾一千発を寄贈している。片方ではいまに表千家、裏千家とのこるほどの、茶道の名門中の名門として名をのこしながら、裏にまわれば彼は死の商人でもあった。掃き清めた庭に、ひらひらと自然に舞い落ちる落葉が、それとなく散っているそれを、茶道は風情のある無心の境とする。それがないキリシタン高山右近の茶を評して、「右近の茶は清の病いがある」としたのは千利休である。精神的な価値中心の人織田信長にたいして、秀吉はついに物欲中心の人物であるとは、フロイスの指摘するところである。清の病いどころか、秀吉はついに茶道という精神的な価値に親しめぬ人物である。ところが千利休の高弟として、織田信長型の精神的な価値をよりどころにする旧信長の家臣が師事している。人間が物欲で動くと信じている秀吉には物、そういうものに恬淡として虚心坦懐でいる彼らの存在は、信長のために、銃弾一千発を寄贈した利休を中心に猜疑心のかたまりである秀吉には獅子心中の虫に、思えてしかたない。なにかの理由を無理矢理にこじつけ、利休を結局は亡き者にした。
あらたな権力幕府にとっても、博多豪商の存在は、いつ反乱者に強力な銃砲を提供はするかわからぬ不気味な存在である。
海賊だの倭冠だのといったところで、交易の利潤をすべて私的に独占しようとする権力のいい分にすぎない。今日あきらかにされているのは、これら豪商は自主的な組合をつくって海外貿易をして、国際都市博多や下関の今日に至る国際都市化をしてきた中心人物ばかりで、むしろ肯定的に高く評価すべき、貿易の自由を旗印にした国際貿易商組合なのである。
貿易利益の独占を企む徳川幕府は、これら国際貿易商組合の貿易商を、密輸の名目で捕らえた。豪商伊藤小左衛門は助命の代わりに、金でつくった灯篭を千基寄付することを、奈良に申し出た。神社仏閣側の助命嘆願はききいれられた。しかしその使者が、長崎に到着する前に、幕府は彼の首をはねてしまった。
政権をとってしまえば、諸大名の火薬庫をみたすこともある豪商は、ただの邪魔者でしかなかった。
この豪商伊藤小左衛門が、この戯曲の海賊のモデルだ。彼らの組合ルールで、自由貿易をしていた豪商を海賊として、幕府のルールで、処刑されたのであった。いつも問題になるのは、近松がえかいたのは、海賊どころか、役人をみたとたん蒼白になり、へたへたとする人たちである。つまり貿易の自由を旗印にした国際貿易商組合の商人なのである「博多小女郎波枕」をつらぬくのは、近松の「海賊とりあつかいに異義あり」という魂だ。そのタネ明かしをすれば、ドラマの長崎の弥平次とは、長崎の人薩摩屋嘉平次。徳島の平左衛門とは、肥前の人米屋平兵衛。おぐら屋伝右とは小倉屋善右衛門、なにわや仁左とは、難波屋仁左衛門。市五郎とは松屋市兵衛。三蔵とは小倉の人岩崎三介のことである。
これらの屋号をもつ人は、北前船の起点であり瀬戸内海航路の起点でもあり、まだ裏日本航路しかない当時、日本海沿岸の各港に寄り特産物をつみこんだ各地の特産物を集荷した越荷方のあるの下関に、店を構えていた。むかしは島であったその神社の石段を降りたところが、これら貿易商組合専用の豪華船の発着場であった、下関の亀山八幡宮の境内に無数にたちならぶ石の玉垣に、いまも近松の「博多小女郎浪枕」に登場した、これらの人々の名が、克明に刻まれていて、穏やかな瀬戸内海の風がこころよくふきつける関門の海をみおろとしている。海賊、実は無許可の自由貿易者として処刑された人々のこの屋号のひとつは、みずからも隊士として、倒幕の魂、奇兵隊をささえた膨大な資産をそすべて倒幕に投げこんだ下関豪商白石家の屋号であることを書いておこう。「明治までの三百年、長州武士は、ちいさいときから、江戸に足むけて寝るようにきびしくしつけられた」という明治のヒーロー井上馨の、防長史談会の講演速記録とあわせて、なにがかくも苛烈に倒幕の原動力となったのかを思うとき、歴史の火山帯を知る手かがりのひとつになる。
近松シンポジュムが、こともあろうに、ニューヨークで国際的な叡知が集まり開かれる世紀だ。この貿易商社組合の海外における人脈の仲介者として、あるいは通訳として、もっと重要な役割をはたしながら、人権の平等を告げる日本最初の聖書をかいたヤジロウを、こともあろうに盗賊の群れに投じて生涯をおえたとか、これら海外に雄飛した貿易商社組合を、こともろうに各大陸沿岸を荒らした海賊倭冠だの、どの女性も性の相手にほんど制限がなかったこのころ、日本有数の知的女性として、庶民からお上朧さまとよばれ、人々から聖女として、うやまわれた白拍子や遊君たちを、売春婦としか書けぬ中央権力史料による学者の書いたいままでの歴史では、語られていない物語である。
権力を頂点にした、富士山の裾野である庶民の現場の、セックスのありざままでふくむさまざまな無数の生活軸から、醜悪きわまる権力者たちのあるがままを、逆照射した真の歴史が、書かれてゆく二十一世紀。ほかならぬ現代日本の奇跡の復興をなしとげる基盤、日本の中世江戸時代を、築きあげたのは、バブルの元禄に、数十万両ににおよぶ政府赤字をつくり、通貨供給でまた悪貨経済にして、人々を時代閉塞の不安におとしいれた徳川将軍と、その周辺の政治、経済学者たちてなく、これら玉垣の一人として、時の変遷を声もなくみつめてきた、わたしたちの名もなき祖先、ほかならぬ現代日本の奇跡の復興をなしとげる基盤、日本の中世江戸時代の文明を、築きあげた人々にかわり、玉垣の石が静かに歴史を語りかける。
この松浦党に属する博多豪商たち。古くからの大阪での交易先は、泉州堺の鉄砲鍛冶であった。堺の千利休の茶室は、鉄砲・火薬の購入者、大名たちとの出会いの場であった。 天下を築いた豊臣政権の足元をゆるがす存在になる。
信長が殺害されたとき、のちに天下をとった徳川家康は、泉州堺にお忍びでいた。彼を護衛していたのは、伊賀半蔵以下の忍者二百名であった。信長殺害の報せをきいた家康は忍者に護衛されて、大急ぎで、関東の駿府城にかえりついた。そして何食わぬ顔で、駿府城に信長殺害の公式の報せにきた豊臣の使者をむかえたのであった。
この泉州堺の鉄砲鍛冶から銃を仕いれ、ゴヤでうりさばき、海外に輸出して、帰り荷に火薬の原料の硝石を積んで大阪港に入る。めずらしい茶わんをもって、利休の茶室に集まる。そこには大名たちがおしのびで待っている。茶にかこつけて、大名と豪商は茶の友人になる。それが博多小女郎枕の主人公である博多豪商たちの書かれざる日々である。そしてそれが、唐津松浦党の主たる仕事であった。
この唐津を本部にした、武装した国際的な豪商たちの、裏の世界をはしめから、知っていたのが、唐津近松寺にまなんだ近松門左衛門であった。
近松と遊女
女護島とは遊廓の別名である。廓のように囲いこんだものはなく、女の館として個別に散在し、街全体が遊君の街として栄えていた下関には、日本最大の劇場があった。最近の歴史学では、現在、もともとが京都も含む、太宰府を首府とする公卿たちのホームグランド平家の西国民文化と、京都のむこう、日本の北東地帯の東国民文化とは、日本列島では渡来の文明起源を、それぞれ異にしていて、生活習慣もヨコ型社会構造の西国民とタテ型社会構造の東国民とは、意識すらふたつに分かれて発達してきたこのくにである。
鎌倉を主軸に考える東国民族源氏は、京都の支配権さえ奪えばよく、西国民族圏は太宰府を首軸とする平家を、深追いはせず、船で海路を帰国してゆく平家のホームグランド壇の浦での海戦は、実質的には十指にみたぬ戦死者で完了した。それ以後は、六波羅でもやはり公卿であった平家名家の高貴な知的女性たちが、やはり名家として、ホームグランドにそのままくらし、現在、紅白の華麗そのみもの建造が、紺碧の海に映える赤間神宮の前身、阿弥陀寺を中心とした、囲いこまれた篭の鳥ならぬ、自由な女性の優雅な館を個別に営んでいた。彼女等は壇の浦に沈んだ安徳帝を偲ぶ命日、きらびやかな御所車六台に分乗して、安徳帝を祭る御影堂参りをして、在りし日の西国平家時代をしのぶ。目をうばわんばかりの華麗な絵巻物をみるようなその道中を、現在も先帝祭のお上朧道中として、西国一の大みなとを偲ばせる有名なち中世絵巻物風景をくりひろげる。
この日本最大の劇場の経営主こそ、全国各地の港みなとに、貿易と宿泊と遊興のお大尽遊びの施設をつくったコンツェルン、わずか十数ペーシしかない元禄十一年二月から極月までの実録「金子吉左衛門日記」にさえ、京宿の近松門左衛門信盛とともに、十数回にわたり登場する彼ら芸能文化人たちの拠りどころ「大坂屋」である。
渡辺憲法司著江戸遊里盛衰記」(講談社)による、これらの人々の守護とされる稲荷を中心ととした下関稲荷町の大阪屋劇場を紹介する。
・・・まん中に歌舞伎する茶屋三軒、銀三百あたふるものあれば、にわか(即座に)に舞うといふ。その夜、さいわいに大阪屋にて興行あり、舞台は江戸の湯島芝居より広し。装束(舞台衣裳)は堺にも劣らず。間には錦を着たるもあり。浄瑠璃は義太夫にて、富士見西行なり。悪方(役)、荒らごと(役)、遊侠(役)、法師(役)、やっこ(役)まで、みんな女なり。しどけなけれど面白し。見物人すべて揚げ屋よりはいる。案内なきもの、押してはいらんとするゆえに、門の庫裏に群衆し<押しあい<もみあい、喧噪はなはだし、年よりこどもは、入ることを得ず。桟敷三百人を限りとす。橋がかり、中道などありて、菓子売り、番つけ売りなど立ちめぐり、さながら娼家の内とは思はれず、その次の夜は、物草太郎を舞ふ。
三百人入りの観客席。舞台は江戸の湯島の歌舞伎劇場より広びろした舞台、大阪の堺の舞台におとらぬ派手な舞台衣裳。出演はすべて歌舞女優。歌舞伎とはいえ、現代でいう宝塚歌劇の歌舞団の劇場である。
大阪屋は井原西鶴の作品にも、経営主としてしばしば、登場する。
この劇場のある大阪屋の敷地には、のちに劇作家として天与の才能を発揮して、天空にはばたく青年近松が、唐津との往復をした唐津藩蔵屋敷があり、その石碑はいまも、み裳裾川博物館の庭の草原に、唐津藩蔵屋敷という文字も鮮やかに、西国一の大港の往時を忍ばせている。
そしてこの稲荷町の中央の赤い鳥居が建ちならぶ稲荷神社には、なんと井原西鶴が参詣したと記録されている。永らく謎とされていた近松とその十才上の、天才井原西鶴との出会いは、「金子吉左衛門日記」の近松門左衛門信盛とともに、十数回にわたり登場する彼ら芸能文化人のよりどころ、大坂屋である。下関の唐津藩蔵屋敷を敷地内におく下関の大阪屋の日本最大の劇場と西国各地にホテル経営をしているコンツエルン大阪屋。二人の出会いと交遊は共通のスポンサー大阪屋の宿を交差して、鮮明に浮上してくる。
近松が最初のころに書いた歌舞伎シナリオ「大名なぐさみ曽我」を執筆したのが、十歳うえの井原西鶴が名作をかきあげたの天和元年ころである。そのころの近松はまだ萩藩の萩指月城内の静かな重臣の役宅ばかりがならぶ、三の丸にある椙杜八郎の役宅の主、杉森平兵衛として記録されている。京都御所のすぐそばにある三槐九卿こと、三摂家九清華家の台所を賄う大膳太夫である毛利家の京都屋敷や大阪の藩屋敷、堺の藩屋敷と、裏日本各地の特産物が集積する下関の越荷方を往復していたものであろう。
唐津には伊崎流れという今も防長なまりの街がある。いうまでもなく下関港でも、主に漁船専用の埠頭のある伊崎町の人々が、集団的に移住して定住した町である。唐津藩とわが防長とは、伊崎流れといい、長門深川の鯨組への唐津からの季節労働として、観音寺旦那衆の大量の渡来をかたる檀家名簿といい、日本海に面する韓国の基地港や中国大陸の基地港との三点を結ぶ海面を、潮流と季節風を利用して、船を自由に操る海の民の自由往来の歴史は、関所で区切られている陸地人の意識や、江戸を中心とした人間関係をよりどころにする藩士とは、生活感覚がちがう。唐津で地方史家富岡先生にきいたところによると、明治までは、唐津のたちは、どちらが母国語なのかそれすら意識のないままに、日韓両国語を自由に話していたという。海の民は海が三百六十五日のほんどをすごすふるさとの大地であり、港みなとの家とは、大地の周縁にある宿泊所である。明治以前でいうなら、韓国の家、大陸の家、日本の家に、それぞれ妻や子がいて、明治以後は本当は一人の夫を柱にした国境を超えた血族になってしまった海の民は、日本海沿いには、少なくはない。それは江戸、東京を自分の中心とする人々とは、まったくうらはらな、日本海を共有してきた三つ国の海の民の共通感覚だ。したがって日本海を故郷(くに)とする海の民の日韓中三者共同の貿易商組合のとりきめを軸にして活動することが、なぜ各陸地の役人に、とりしまられるのか感覚として理解できず、ついに刀剣で武装して、貿易活動をして、のちに倭冠などいう、奇妙な呼び名を、各国の中央権力資料に依存している歴史家から、頂戴するという、ブラツク・ユーモアの現実がある。海の民は海の民である自分の論理にしたがい、自由に明るく健康に生きていたというだけで、それが賊扱いされるなど、「モスクワに雨が降れば、チェコスロバキアでチェコ大統領が傘をさして歩く」という、かっての共産圏時代の共産国の市井人のジョークにそっくりの、そうしたモスクワに主軸をおいた記述が、このくにの全体像を語り得る歴史だとは、とうていいえない。
ここの船は上と下に帆があり、上は風の流れ、下は潮の流れを動力源としていた。したがって、陸地の中央で机上で考える想像とは反対に、恐怖の玄海灘の船底を押しあげ、船を転覆させる三角波こそ、それを下の帆で、舵をとる船には、南洋だろうと大陸だろうと、一挙に海をわたれる省燃料、省資源の快速船の永久動力であった。資源節約型社会に移行する現代、伝統回帰の時代である。過剰な知識ではなく、古人の素朴な知恵に、まなびそういう現代の船が創造されれば、燃料費はかなり節減されるかも知れない。岬に磁力線を放射する巨石が鎮座していて、沖を通過する船の、北辰を北とする船の羅針盤をみな狂わせてしまい、方向感覚を喪った船がつぎつぎに難破したという萩から津和野にむかうドライブウエイの途上に須佐という町がある。それゆえに荒らぶる神須佐之男のイメージの発生源になったと推察されるが、この町の岸にはいつもキャッフードの空き缶が、韓国の海から、無数に漂着する。つまり韓国のそこに、丸木船を浮かべると、昼寝をしている内にこの須佐の岸に着く。この付近の海岸三隅町には、継体天皇が、しばらくいたという伝承がある。韓国には唐津という町もあれば、深川という町もあり、巫女群島という島々もある。むかしはアカマ郡もある。「ワッショイ」は古代朝鮮語で「オイデ、オイデ」という意味。われわれは、お神輿をかつぎ「ワッショイ、ワッショイ」と、古代朝鮮語を無意識に発している。大量の古代朝鮮人が渡来した大阪には「わっせい」という、起源が古代のいつともわからぬ祭りが、いまもある。わたしたちしたちは、その昔、お隣のくにの岸から丸木船にのり昼寝をしていて、山陰の岸に到着して住みついた日本列島在住在日アジア人である。そればかりではない。海事史家沢先生の話だと、揚子江にいかだをうかべて昼寝をしていて、うかつに河口をとおりすぎてしまうと、いかだはそのまま潮流にのり、まちがいなく対馬に着く。そこで夜明けに対馬を出ると、いかだで朝飯をたべて歓談していると、北九州か山陰の岸に着いてしまう。そのまま、帰国しなければ、これも日本列島在住、在日日本人になってしまう。蛇頭さんたちが、たいして燃料もつかわず、日本に密入国の大陸人を送りこむゆえんである。哀調の五七調のトラジやアリランに似た詩を創作して、中国渡来の漢字により記録すると、万葉和歌になる。島根県にある操り人形は、中国の四川省の農村演芸である。日本列島在住、在日アジア人による日本文化は、こうしてできあがった。普通、外国から帰国したら帰米とか帰仏とか帰中という、日本人は帰国すると帰日報告会とはいわないで「帰朝報告会」をひらくと、朝鮮に帰国したことを指すことばをまだ無意識に発している。王室自身が朝廷という。
継体天皇の逗留伝承のある三隅の近く、やはり鯨組のあった田尻港には、「スプルヌカンという古代朝鮮王室の王子が、白玉姫をおいかけて、ここにやってきて、越前のほうまでおいかけていった」という古代からの自由往来をかたる伝承がある。朝廷は継体天皇を越前から迎えている。古代朝鮮王室の王子が、白玉姫をおいかけて、この山陰の岸辺の三隅町にやってきて、そのあと姫を恋うて、越前にゆき、ついに朝廷にいる白玉姫に迎えられたと考えると、「韓つ神を招く」という祝詞が現存している皇室の恋の歴史が安定してくる。古代朝鮮王室の王子として、白玉姫をおいかけて、ここらにやってきて、胸の想いもたぜしがたく、越前まで姫をおいかけていったというスプルヌカンとは、日本史に「越前よりむかえた」とある継体天皇のことだろう。日韓にまたがるもゆるがごとき恋と愛のの宮廷史である。
「スプルヌカン王子」などいう専門的に古代朝鮮史を研究者でもないと、思いもつかないような、まるで舌をかみそうな王子の名が、田尻にくらすふつうの人の口からとびだすなど、考えられない。日本海の沿岸の沖合いは、厳寒の冬でも、山陰沖で摂氏二十度もある暖流が、幅広い帯をなして、エスカレーターのように、時速数ノットで、北のはてオホーツク海まで北上している。船は風を帆にうけながら、岬にあたると逆流する潮により山陰の港みなとに停泊しながら、北上していった。佐渡ケ島にあるお祭りの祝詞の文言は「長門沖あいの角島の祝詞である」と、いまも祝詞として伝えているという。各地で日本の神道がつたえる祝詞は、語られなかった歴史をかたる資料として、これからは重要になる。近松だけではなく、継体天皇や柿本人麿など、日本列島では北九州と山陰だけに限られている、潮流を利用して漂着する古代渡来人の基地、山陰に端をはっするものがたりは、東日本に移住する人々とともに北上して、いつのまにか、佐渡ケ島や東日本の日本海沿岸のものがたりに転化してゆく重層的な歴史だ。
大陸やお隣の朝鮮半島から、北九州と山陰に流れついた渡来文化を、暖流がものがたりを暖かくつつんで発酵させつつ、北へ北へと運んでゆくからである。
阿弥陀寺を端緒とする下関赤間神宮は、白拍子という、女としての自分の領地すらもっっていた、売春婦どころではない優雅な知的女性である「遊君の発祥の地である」とされている。下関遊女の特徴は、囲いこまれた遊廓ではなく、町に散在する女の豪華な館という形式である。人々は気高きお上ろう様と呼び、武士の娘に、短歌、茶、花道や礼儀作法を仕込む往時の女学校教師だ。根がとおく六波羅まで支配した平家公卿の名家に端を発している。侍の妻でさえ外出のときしかはかぬ白足袋を一年中はいていた。酒席では一番の上座にすわる。高嶺の花をみつめる男たちは、かわるがわる前にゆき、盃をいただく。およそ売春のイメージはない。シーボルトはこれをみて「気品のたかきこと、戦勝の勇士にのみ身をゆだねる西欧貴族の姫そのものである」と感嘆した。
明治天皇が下関に巡幸したとき、とうてい庶民には無縁の席に、招待され、列席したのが、近松の中年のころから、公然化した赤間神社の花魁道中という名の安徳帝供養を、細々とそれまでつづけてきた、今、百万人近い観衆を、その日この街にすいよせてしまうお遊女たちである。
特産物の集積の街にやってくる豪商たちへの劇場やお大尽遊びの大阪屋ホテル、そこいた近松作品に登場する遊君たちの墓は、今も下関東霊園にある。当時はかなりの費用のかかる石の墓があるということ自身、石の戒名墓どころではなかった庶民のくらしとの格段の生活の格差をうかがわせるが、妙夏個女ことお夏。玉顔妙光こと玉紫。妙染信女ことお染め、妙恵個女ことお花、雲月妙信女こと松ケ枝。妙恵願個女ことお亀。清岳妙春ことおさん。近松に「天鼓」というタイトルの作品があるのは周知だが、閑月妙有という戒名の、ほかならぬその天鼓という女性の名を発見するにいたると、いままでの西日本文化にはゆかりのない明治以後に創られた近松のイメージに、親しんできたわたしたちは、ハタと当惑してしまう。
「平家女護島」(女護島は遊廓の隠語)とは、壇の浦合戦のあと、平家官女が落魄の身を転じた下関の遊女のことである。登場する常磐太夫の名を刻んだ石碑は、大阪屋のあった稲荷町の、井原西鶴が参詣した稲荷神社の石段の途中にある。古びていて蒼い苔がむしていて、注意しなければ、それとはわからないままに、石段をのぼってしまう。
亀山八幡宮には、お亀さん稲荷がある。その道の好事家の好む、そばかす女性であったという。お亀稲荷のほこらのある大きな銀杏のキンナンの実は、ふしぎなことに、ソバカスたらけである。
天下の悪女として有名な花鳥は、大阪屋花鳥といい、この大阪屋の遊女である。
下関市史をしらべると、火事をだして処刑された遊女がいる。スケープゴートという、弁護士のいない裁判で、悪い事の犯人にされてきたのは、犯罪人がでた家として、有形無形の迷惑をこうむる身寄りという類縁のまったくいない、権力からすれば、世俗から縁をきった、なきにひとしい孤独な女たちが、いつも無辜の罪の犠牲にされてきたということを、亡き近松にかわって、ここに記録しておこう。
最近の史学でわかっていのは、この時代の女性は、既婚未婚にかぎらず、農村、都市にかぎらず、性はほとんど開放されている。からおけ合戦のような歌垣の夜は、老若男女、それぞれ気の合うカップルですごす一夜のエロスや、晴れの女といい、女偏に家とかく嫁OOら家(ケ)の女が、毎月の祭りの晴れ着にきかえたときは、家族のだれにも干渉されない祝祭の女として、亭主ならぬ好きな相手と、燃えたつような愛の営みの夜をすごせるという自由な性の権利を娯しんでいる。したがって、営業としての特別な性の祝祭が、成りたつには、ただの女性では駄目である。売春婦などという下品なことばとは、およそイメージがちがい、「ありんす」という朝廷ことばが、小さいときから身についていて、遊女に至るそれ以前の高貴な家にうまれた由来ほか、よほどの美貌や見識、聖女の容姿を兼ね備えた特別な生来の雰囲気を、身辺にただよわせている何十万に一人しかいない希少価値の女性であってこそ、相手の気をそらさぬ特別な修練も、祝祭の高貴な女として、光を添え得るのであった。売春もなにも、遊女にある普通人にはとうていそんな気すらなれぬ、近よりがたき高貴の気高さ。それはおそらく江戸中心の東国歴史意識の人々には、とうてい感得しにくい西国史を潜在している西日本の人々の感性である。
いまはちいさな墓石になり、さいさいと樹々の葉をならす海峡をわたる涼やかな風のなかに、下関東霊園のかたすみから、眼下にたゆとう関門の海をみつめているこれら遊女は近松と同時代に、大阪屋で近松をとりかこんだ遊女たちである。そして十才うえの西鶴と近松の酒席にもいた遊女たちである。「しら雲や花なき山の恥かくし」。大坂屋の一室で、枕をならべた寝ものがたりに、周縁の女として生きるさまざまな苦悩や妻ある男とはまりこんだ純愛の哀しみを、近松の胸に顔をうずめて、涙とともに切々と語り明かしてくれた女たちである。
膝の高さしかないとはいえ、記録にさえ名の残らぬ武士の妻どころではなく、一人の女として、当時は非常に高価な石造りのモニュメントを残し得たのは、何十万に一人しかいない希少価値であった彼女たちだけである。この女性たちがいたればこそ、近松はいま「世界の近松」として数々の不朽の名作を産み、世界の中心いニューヨークでシンポジュームまで華々しく開催されるに至っている。
死んだものはもはや口をきかない。かたるのはいつも他人である。だがもしだれも語らなかったら、彼女たちが大坂屋に生きる愛の女神として、下関の地にいて、愛してはならぬ人を愛し、死を思いつめて、鏡にむかったことを、だれも語らぬまま、墓石は、売春婦人とまちがえられ、建築物の敷石に加工されてしまうかも知れない。だれもふりかえらぬ場所に、だれも気がつかぬまま、まとめて集められたまま、親知らず子知らずの、いかにも自立した周縁の女性らしく、だれかが花や線香をあげたあとは、ない。
この世の終わり、世の終わり、死にゆくわが身をたとうれば、あだしケ原(墓地のこと)の道の霜・・・近松「曽根崎心中」より
あすの朝、太陽がのぼれば溶けて消えてなくなる、だれもいない墓場の道ばたに立つ寒い夜のちいさなちいさな霜。それがこの小さな墓石に刻まれた遊女たちの、華やかなしかし華やかゆえに、はかなさもまた人一倍しみじみと思う孤独な一生であった。
これらの人は「大きなものがたり」を語るいままでの歴史のように、権力の周辺にあって、歴史のヒーローとして、語られてきた人々では決してない。だが江戸文化の繁栄の歴史のヒーローは、亀山神宮の玉垣に名をとどめる「博多小女郎波枕」の商人たちや、この廃棄寸前に瀕している、周縁の女たちであったと、ニューヨークなど、西欧世界の近松シンポジュームなとで、歴史はやっとこの人たちについて、語りはじめたばかりである。
もはや忘れられようとしている墓石のひとつひとつに秘められた、小さな、しかしその一人ひとりの女性にとっては、権力主義ヒーローたちとなんらかわらぬ、忘れることのできぬ自分の哀歓のものがたりをもっていたことを、語り部の一人として記録しておこう。 過半数以上が「死後はある」とこたえる大学生たちの専門の書店にはどこも、東洋に学び「死後はある」とする科学者ユングの著作になる難解な専門書が、棚一段を占有している。カトリック作家故遠藤周作氏は、インドの旅で、とうのむかしにに逝去した亡き父の亡霊に出会って以来、終生、ユングの著作を読みふけったという。そういうものは居るはすがないと否定してきた近代の物質科学主義の科学体系がゆらぎ、そのユングを掲げる霊性の新世紀が、まもなく到来するといわれているからである。
ユングはアフリカの古老に、近代西欧の物質科学主義は、自分が下敷きにしている大地からたちのぼる祖先の霊に、たましいを奪われてしまう時がくると、不気味な予告をきいて「これは世界共通の無意識の歴史の変化の法則である」という。
はたして世界は、無意識のうちに、ゆっくりと伝統回帰の世紀に刻々とむかっている。 この原稿が製本されるころは、下関東霊園のかたすみに、まるで身をよせあうかのごとく、整理してあつめてあるその墓石は、もはやどこかの新建造物の下に、敷き石としてその小さな身を、よこたえているかもしれない。彼女たちの生前の日々が、そうであったように。
「川棚の銀杏か、銀杏川棚か」。松本幸四郎門下生
長門深川からドライブウエイを、まったく汚染のない目のさめるようなコバルトブルーの海沿いに、下関にゆく途上に、温泉の町川棚がある。川棚に入る直前に道のそばの崖のうえに祇園神社があり、富嶋歌舞伎発祥の地という建て札がある。
ここは近松のころは人形浄瑠璃、文楽の一座若嶋一座があった。
西日本屈指の一座で、当時のこのくにでは、カーネギーホールに匹敵する一世一代の晴れのひのき舞台、大阪の道頓堀劇場の公演を皮切りにして、九州、西日本各地をくまなく巡業していたとある。ちかくの田部の人形浄瑠璃の歴史をついだとある。とりわけ興味深いのは、ここの狂言は、西暦千百年代。この付近にあった六品行者の文言と踊りに由来しているということである。
日本の狂言の源流はまだ霧の中である。
島根にある中国四川省の操り人形といい、この六品行者の文言と踊りといい、楊子江に筏をうかべたまま、河口をでて、潮流にまかせていれば、昼寝していても漂着する渡来基地としての、この付近がある。源流はたぶんここらあたりの渡来宗教者六品行者にあるのだろう。
江戸時代は近松の作品をレパートリイにしている。ここの能面のひとつは、下関の亀山八幡にあるという。
ここにはいまに川棚雁次郎つたわる名門市川団蔵の弟子、名優市川団次がいた。大阪の石碑にあるように近松門左衛門は錦江こと、これぞ名門松本幸四郎とは親友だが、その松本幸四郎門下生で、川棚のいちょうか、いちょうの川棚かとまでいわれた妖艶、松本銀杏がいたという。近松がいつもいた大阪の道頓堀劇場の皮切り公演。近松名作ぞろいだった、近松のふるさとのこの一座の上演レハートリイ。松本幸四郎とは親友の近松門左衛門、松本幸四郎門下生の近松にはふるさとの一座の妖艶、松本銀杏。名門市川団蔵の弟子、近松にはふるさとの一座おなじく名優市川団次の川棚雁次郎。近松の里のすぐ近くのいで湯の町の日本の中世文化史を飾る一座のものがたりである。観客が座る広い境内の正面の舞殿は、観客からは人形つかいがしゃがんで隠れる高さの腰板で囲まれている。石のちいさい鳥居には、一座のあとがわかる若衆と四人の名が彫りこまれている。ここは人形浄瑠璃一座の。もはやめったに見ることのてきない中世の舞台であった。
この一座の俳優の供給源は、なんと出雲のお国のうまれた島根県である。
京都で人気をえた出雲のお国の一座、それから二年あと、その出雲の巫女の歌舞伎をみて、狂って抜刀して、入り乱れて乱闘した藩士たち。それは何座であったのだろう。
そういうロマンが華やかににおう温泉町である。
そのほか、近松を育てた防長の文化土壌としては、光に島田人形浄瑠璃、柳井に伊陸人形浄瑠璃、熊毛に安田人形浄瑠璃。徳地に徳地人形浄瑠璃、綾木に綾木人形浄瑠璃。出雲に出雲糸操り人形。埴生に埴生人形浄瑠璃と、それぞれに歴史の永い特徴のある民族芸能があった。また下松には 切山歌舞伎が 現在も活動している。
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目で観る銀本位圏と唐津 長州 大阪 |
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