近松長州説とその周辺 6

近松門左衛門の人脈系譜

        
近松業苦説
飼葉桶の文豪

 近松は十九才であった。彼は山岡元隣「宝蔵」に「白雲や花なき山の恥かくし」という句をよせた。これは数年前、堺の水野頼広の詠んだ「積む雪や花なき山の恥かくし」の、かりものであった。もとからあった下の句に、別の上の句をくっけたものである。
 ここには明治に創られた越前の系図の祖父信親、父信義と、近松弟信秀、母喜里の、家族の句会の席の歌とされている。にしては「白雲や花なき山の恥かくし」はそういう家族の場を一瞬にシラケさせてしまう、およそ、家族の席ににつかわしくもない歌だとは、前演劇博物館長の河竹博士の指摘である。換骨奪胎の近松の才であるという好意的な説もあるが、にしても、場ちがいの男が臨席していることを思わせるに、十分な句ではある。
 越前誕生系図によると、近松の弟には、しらべたとおり三十三才も下になってしまう岡本一抱か、さらにその下の弟の為竹しかいないから、弟に十才したの信秀がいたとはいえない。
 唐津の寺から還俗した彼は、出家した以上、椙杜(すぎのもり)の名を、もはや名のれることはできなかった。姓のない自分の恥かくしに、別の杉森家の句席をちょいと借りた事を、この一句で、彼一流のユーモラスな感性で語ってみせたともいえる。
 この近松のユーモアは彼のユニークな個性であった。
 近松はもともとは長府藩家老であった椙杜(すぎのもり)家の椙杜広品の子としてうまれた。ただし椙杜広品は四十才そこそこで死没。長門市にあったとされる広連は、広品の弟の家である。系図でさかのぼると三善氏。足利幕府の太田氏という高位の文系公卿である。椙杜家の直接の祖は、山口県周防の東部である。そこはいま、地図では椙杜郷とあり、椙杜神社もある。しかし慶長検地帳に記録されているように、かってここは杉森郷であり杉森神社と書いた。さきに書いたように、椙杜家提供の過去帳をみると、椙杜家の人は、椙、杉、杜、森を、その時その時に、組みあわせているばかりか、杉一字姓の人ももいる。近松が書いた絵の頭文字に、杉と椙の二通りがあり、近松研究の謎であった。近松は、椙杜家代々のしきたりにしたがい、椙と杉を心おもむくままに使っていた。
 鎌倉幕府の重鎮大江氏を祖とする毛利元就の四男、毛利元秋が、この椙杜家に養子にはいり、椙杜元秋をなのる。近松の祖父にあたる椙杜元周の妻もまた、毛利元就の孫娘である。椙杜家と藩祖毛利家は近親関係だ。
 近松の生まれた椙杜家は、関ケ原合戦で、数々の感謝状を得た武勲の家である。毛利一門につながるものとして、萩藩家老の志道家の名を借り萩藩家老の志道兵庫就幸になるが、絵地図でみると、その前は長府藩の家老椙杜兵庫である。
 この末裔の近松は、代々長州萩の越前家毛利と重縁の多い毛利一門椙杜家の子にあたっていた。
 注
 従来まで、次の図のように、近松は椙杜(志道)就幸の子とする故宮野薫説(長門市)と、椙杜広品の子とする故藤井善門・羽仁雅助説(豊田町)の二つの流れが、長年にわたり対立していた。しかしちがった角度からみると、この二人の説は、一つのできごとのふたつの面なのだ。      
参考 系図にみる宮野説と藤井羽仁説

 椙杜(志道)就幸は、近松の父椙杜広品(ひろかず)の伯父で、長府藩から萩藩の江戸家老に転じるため、萩藩家老志道の姓を借り、すぐ椙杜姓にもどり、椙杜兵庫守として、毛利史には、萩藩重臣として名をとどめた。
 広品の父元周は、その就幸の弟で、妻は毛利元就の孫娘であった。
 末裔である東京の椙杜君子さん所持の系図の写しをみると、近松は広品と伯父の夫人(茶伽ぎ)の子として生まれたと、そえ書きがある。東京の家系家紋研究所発行の限定頒布「杉森一族」という系図では、近松は長州の椙杜の系図に居る。しかしだれとも線はつなげず、ただ近松はこの椙杜一族の人であると添え書きされている。
 もう一人の末裔で、徳山におられる椙杜親介氏の子孫椙杜アヤ子さんにたずねると、やはり、椙杜広品の不倫の子であるといわれた。
 発想をかえ、この系図を女性中心の婦系図に書きなおせば、一人の女性が、志道就幸との間に子慈英をうみ、もう一人の男志道就幸を伯父とする椙杜広品との間に、近松をうんだのであった。
    
   
 近松にとっては、志道慈英は異父の兄であり、椙杜元嶺は異母の弟であった。
 椙杜端嶺はキリシタンだろう。たてつづけに二代、萩の海の孤島三島にやられている。その末裔が蘭学の天才大村益次郎の父である。天与の素質の上に、苦悩にみちた孤独な少年時代があるのは、芸術家として大成した人の必須条件であるとは、心理学者の定説である。屈指の蘭学者にして、江戸攻略の天才大村益次郎もまた、父の正妻の子ではないという苦悩を胸にひめた孤独な少年時代の星を背負っている。
 故宮野氏は、近松の母親から推定して、就幸の子という説をとなえ、故藤井氏は、近松の父親から推定して、広品の子という説を、長年となえた。しかし、就幸も広品もともに正妻は、別にいた。
 近松が生涯、出生をいわなかったのは、母である就幸の愛人の志道家の女性は、就幸の甥椙杜広品との三角関係のあいだに、うんだ子であったからであった。
 さて、近松業苦説にはいろう。通常はそういう子は、うまれるとすぐ川のそばや、橋の下にすてられた。朝散歩に川辺にゆくと、そういうことで捨てられた子が、川のばにたくさん、泣いていたと、渡辺忠司氏の「町人の都大阪物語」(中公新書)などにある。
 妻には実家の姓がある。愛人には名乗るべき姓がない。それが当時の慣習であり、父親が自分の家の子として認知しなければ、愛人の子には姓はない。果たしてどちらの子であるのかはわからないという、生まれる前から彼の母が背負った苦悩は、そのまま、捨てられた子として唐津近松寺にひろわれた、この世に生を受けた近松自身の、どちらが父かわからないままに、生涯をすごさなくてはならないという生涯の上、藩のエリートの家にうまれなから、なのるべき姓がないという屈辱の負い目という苦悩であった。
 当時は参勤交代のため、藩主や江戸屋敷家老は、正妻を任地の江戸におき、故郷には「お茶とぎ」(お茶は女陰の意・岩波の井原西鶴集の注参照)という名の愛人をおいた。それは高禄の武士の習慣であった。一夫多妻は、参勤交代による単身赴任がうんだ制度でもあった。
 どこの家でも、両方の女性に少年がうまれると、江戸屋敷派の家来と、地もとの屋敷派の家来に相続をめぐり、お家騒動がおき、庶民の絵草紙の餌食になった。
 毛利十一代史をみると、椙杜兵庫守就幸は、江戸屋敷で藩主の正妻がうんだ幼い世つぎの警護にあたる重役で、就幸の葬儀も江戸屋敷で、おこなわれた。
 毛利家は毛利一門の椙杜兵庫守を、江戸屋敷におくり、幼い世つぎを保護したのであった。
 兵庫守就幸の江戸屋敷の正妻は、藩主の出生に立ちあった家老口羽家の親戚、堺の医師口羽元良の娘である。しかし、長門深川の彼の志道屋敷には、もともと長府藩椙杜家の長男の彼が、萩藩に転籍するために、姓を借りた志道家の女性を、愛人として置いていた。 明治の偉勲とされる井上馨卿ももとは志道姓だ。この志道家は毛利が芸州にいたころの執権家老であった。山口県美祢市於福町の徳明院という寺跡にその墓群がある。
 鴎外生家とともに、津和野観光名所になっている西周。志道家当主の妻は、この周をうんだ先祖の医師西家の娘であるといわれる。
 おなじ津和野のうまれ、小倉勤務当時の森鴎外は、わざわざ唐津近松寺をたずね、近松の墓の碑文を、克明に「小倉日記」に写した。
 近松は、明治に有名な軍人勅諭を書いた名文家西周をその末裔にもつ女性の娘がうんだ子であった。
 近松の信盛という本名は、幼子をつれて城を脱出して、民家に身をかくして子を育てたという大内家の一本松城主の妻の戒名の信盛である。近松の母親はちいさいとき、津和野西家から妻としてきた志道家の母に、信盛の話をきいて育った。
 やがてその信盛によく似たわが身の運命ににつまされ、幼い近松に、津和野のその女信盛という名を、近松に本名として与えたのであった。
 椙杜元周の子に、広品という元服前の思春期のわかものがいた。
 父はすでに、椙杜家にふさわしい格式の家の長谷川半兵衛の娘をえらび、元服と同時に、結婚させるようにしていた。
 元服は十五才であり、当時は家の格づけにより婚姻は決定され男み女も、自分の愛や自分の目によって、好きな人と結婚する自由などはない社会であった。
 少年広品は、兄広中とは、双生児として生まれた。あとから生まれた広中を、慣例により兄としていた。
 資産はすべて長子が相続する当時は、双生児は相続争いの原因になる。双生児は不吉として忌みきらわれ、産まれた直後、父の指示により、産婆が片方を座布団の下にいれ、しめ殺すのが習慣であった。
 降嫁というが、運よく広品の父は、元祖毛利元就公の孫娘を、妻に押しいただいた男であった。
 妻がうんでみれば、双生児であった。しかし生まれた子は、いってみれば、主君毛利公の血を引く子である、すやすやとねむる毛利元就公の孫娘の妻を前に、抹殺を命じる権限は、夫元周にはなかった。その幸運が少年広品を世に送りだした。
 双生児の二人につきそう、それぞれの女中たちをふくめ確執はたえなかった。
 少年の行儀見習いもあり、長門にすむ伯父兵庫守就幸の屋敷に、彼は預けられた。
 この伯父は父椙杜元周の兄で、もともと長府藩の筆頭家老であった。その敏腕を買われ萩本藩にスカウトされる。当時のしたりはやかましく、長府藩家老が、いきなり萩藩家老に移るわけにはいかない。いったん萩藩執権家老の志道家に、養子にいったことにして、一年間志道姓をなのることにした。萩藩にはごくわすがの間、志道就幸の名が記録されている。あとはもとの椙杜兵庫守就幸として、萩藩のほとんどの重要文書に署名を残した。 さて、この伯父兵庫守就幸の屋敷に、茶とぎの美しい女性がいた。羽仁説によると、おいねという名の女性である。
 おいねは、志道家の家女としてうまれた女であった。
 おいねの母は、先に書いたように、津和野の名筆をうんだ医師西家の女である。
 体が弱くて早逝した志道家当主の未亡人であった。
 当主の弟が、日夜、未亡人の寝室に入りこんだ。そしてうまれたのが、このおいねであった。
 おいねは日陰の誕生をしたため、志道家の土蔵にある書物を読みふけって育った。
 名筆西家の女の娘にふさわしく、詩歌にたんのうな、物静かな女流歌人であったという。おいねのあるじの兵庫守就幸は、おもに江戸屋敷で、幼い主君の補佐と養育の役にあたり、長門屋敷にはときどきしか、かえらなかった。
 こどものいないままに、空閨をすごすおいねには、少年広品の家庭教育が、唯一のたのしみであった。
 一歩まちがえば絞殺される運命にあった少年広品。おいねもまた、未亡人の母が空閨にむかえいれた父の弟との情事によって、この世に生まれた身である。
 ひまにあかせて、おいねは家庭教師として、少年広品の教育に、情熱のありたけを、をそそぎこんだのは、当然のことであった。
 長門の海は日本海である。電車を四両つないだぐらいの鯨を、三メートルたらずの小舟の群れで、この湾においこむ。ガリバーにたかる小人のように、漁夫たちは槍をだいて、海にとびこんだ。そして小島のように巨大な鯨を襲った。鯨が大きな体をひねると、漁夫たちははねとばされ、波の間を泳ぎながら、再び陸地のような鯨の背にのぼった。暴れる鯨のために、岸には大波が、奔馬のような勢いで、押しよせるのであった。
 捕鯨の組には、唐津からきた捕鯨組が六O人もいた。
 差配庄屋は、豊田の大庄屋中野半左衛門である。クジラが捕れると、中野家に早馬が走った。中野半佐衛門が馬でかけつけ、クジラの長さや種類など、帳面に書き込んだだあと「よし。かかれ」と叫ぶ。するといっせいに、クジラの解体がはじまるのであった。
 少年広品はこういう風景の中で成長し、やがて元服前の立派なわかものになった。
 だが、ときどきしか帰らぬ単身赴任の兵庫守就幸、広品、そして兵庫守就幸の愛人の美しい年上の女性とのくらしは、とんでもないうわさを、まねきよせた。
 おいねが妊娠したのであった。
 広品とおいねに男女としての関係が、事実としてあったかどうかは、わかりようはない。ましてそれが、時折りおいねと寝室をともにする兵庫守就幸の子であるのか、たまたま、いつもいる広品の子であるのか、他人にはうかがいしることではない。
 劇作家になった近松は、のちに「槍の権三鎖維子」で、まったく同じ状況を描いた。
 「槍の権三鎖維子」では、手習いにきていた若侍と女は、愛欲をかわしたと、みなされ女は逃げる。そしてわざと夫に討たれ、息をひきとるまで、女は夫への愛を、せつせつと訴える。
 若侍に必要以上にやさしかった年上の女の姿を、彼はえがいた。これは「女殺し油地獄」で若ものに殺される年上の女も、共通していた。
 若侍権三とその女性との間に愛欲のむすびつきが、あったかどうかは、今だに近松研究者の論争になる。情事といういうものは、もともと誰にも知られぬ男女の世界なのだ。見なされた女、しかし事実として愛欲をかわしたのかわからぬ世界。その虚実の間に、近松はわざと筆をおいた。それは近松自身の苦悩であった。
 父とされた広品、その伯父兵庫守就幸、母おいねとの関係は、その間に生まれた「近松には、一生とけぬ謎であった。
 彼はついにかげろうのように短い生しかなかった母おいねと、広品、就幸の関係の中でうまれた。自分の真の父はだれか、考えても考えてもわからぬ苦悩に、終生苦しんだ。そしてたどりついたのは、世のあらゆる男と女の心の底に、底なし沼のように、どろどろとよどむ性の深淵であった。
 さて、広品には長谷川半兵衛家の娘との婚約がある。
 もしおいねに広品の後継者が生まれたら、とついでいく長谷川の娘がうむ子は、財産や地位の相続権をうしなう。そして部屋ずみの次男坊におわる。
 長谷川半兵衛は就幸の女の始末を強硬にせまった。お家騒動の嵐が、広品の父椙杜元周家を襲った。
 情事の非難は、年上の女おいねにあびせられた。広品と関係があったと、見なされれば女に弁護の方法はない。おいねは身に危険を感じ、逃走のしたくをした。
 広品の母は、藩祖毛利元就の孫娘である。当時の悪習にさからって、双生児であった広品を、堂々と出産した女性であった。広品の子(のちの近松)が、うまれたら、彼女にとっては、毛利の血をつぐ広品の初孫である。始末せよとはいいかねる周囲の当惑は、あたらしい当惑をうんだ。
 みごもったおいねは、とりあえず、椙杜家の菩提寺の泰栄寺(下関市内日)に、移された。
 地方史家山田春男氏によると、ここには椙杜のおめかけさんの、屋敷あとがあったという。
 長府藩の椙杜家では、広中派と広品派の家来の論議がわかれ、ついにおいねを妊娠のまま、ひそかに斬ることによって、論争の根をたちきることになった。
 少年広品の母はひそかに指示した。所轄が違えば、刺客は手がだせない。おいねは椙杜家所轄の泰栄寺から、毛利家の所轄である神上寺(豊田町)に逃げ、近松をうんだ。
 その道は十数キロはある。今でも人通りは少ない田舎道で、当時はけもの道であった。 妊娠した重い腹をかかえ、幽鬼のような目をした女が、歯をくいしばり、よろめき走り、ひたむきに走った。
 元禄といえば、人々が豊かさを謳歌した時代である。しかしこの女にとって、どこまでもつづく、けだものの道は、彼女の人生の道、そのものであった。
 両側から頭上においかぶさるように、樹木がしげり、昼でも暗いけもの道の、真夜中の逃亡。それだけがほそい一筋の糸のような自由への細道であった。
 出産の現場を記録したのは、近松誕生碑のある豊浦郡豊田町の地方史家故藤井善門氏である。
 彼女は神上寺の山門前の、小川のほとりの小屋で、幼な子近松をうんだ。
 そこは寺をたずねてくる殿様の馬をつなぐ小屋で、地名は若衆屋敷となっている。夏は銀河の中にまよったかと思われるほど、おおきな源氏ホタルが、一面にとびかう川辺である。ふだんここは、青春の通過儀礼をすごす若衆宿に、利用されていた。
 いまは、直木賞作家古川薫先生の碑文による、巨大な誕生碑が新しくたてられたが、豊田町ののちの古老は、この小屋を長年「近松屋敷」と呼んで育った。
 出産にたちあった寺役人木川によって、平馬と名づけられた近松は、椙杜家のの系譜からノケモノにされ、みなしごとして、育てられた。
 まだ前髪の少年近松を、幼なじみとして育った木川兵右衛門さんの曾孫の、仁太郎さんから、誕生のいきさつを聞き書きした故藤井善門氏の記録は、公史である豊田町史に、いまもそのまま、残されている。
 木川家の当時の系図をみると、兵右衛門が享保と元文とに二人いる。また文政には平助というひとがいる。「へい」という名は、木川家代々のしきたりであった。
 兵右衛門と近松がおさななじみであり、文化十四年うまれの子孫が「わたしがちいさいころ、国姓爺合戦を観にいったとき、おやじがこの芝居はうちの前でうまれた人がつくったのだよと誇らかに語った」というのを、まだ三十才の青年史家故藤井善門氏がきいた。 青年史家は、その家の前の草原が、近松屋敷とよばれていたことはしっていた。
 文化十四年うまれのその古老にとって、近松の誕生は伝承でなく、まだ遠くない日の実話であった。町史はそれを記録した。
 その古老は、学問によって利益を得る人とちがい、近松が東洋のシェクスピアとされる世界的な有名人であることはしらなかった。近松と血縁というわけてもなく、近松がそこでうまれとしても、何の利益もない人だけに、その信憑性は強い。
 内日にある伝承ではおいねは近松をうんだのち、自殺したとも、斬られたとも伝えられる。不倫と見なされたこの女に、あえられた決算は死であった。
 近松屋敷には、それから長いあいだ「椙杜家」の紋のついたタンスがあった。やがてそれは、豊田町の伊賀家に移され、近年ついにくちて処分された。(豊田町史)
 このタンスの実在は、お互いになんの連絡もなく、いままで対立して伝えられている県下の他の近松伝承が、共通して「椙杜家」の子であるとしていることが、意外に正しいという物的な資料であった。
 こうして近松は、若ものたちの溜り場、若衆屋敷としていた殿様の馬をつなぐ小屋の中で、孤々の声をあげた。
 下馬(馬をおりよ)と標札のある神上寺の山門のそばのあたりは、木川家以外は人家もない。小さなせせらぎが、かすかな音をたてて流れているだけの、草原にかこまれた道端の小屋である。
 着のみ着のままで、ここまで逃げてきた近松の母おいねは、小屋にあった殿様の馬の飼い葉桶に、せせらぎの水をくみ、あどけない幼い近松の笑顔に泣きながら、おさなごの体を洗った。
 近くの殿居には、関ケ原の戦さの帰りに、船の上から狙撃されて、下関で命をおしたキリシタン大名毛利秀包の一子、毛利元鎮がいた。
 彼は幼名を才菊丸といい、フランシスコという洗礼名をもっていた。
 キリシタン禁教は、棄教しても親子二代は監視の下におかれる。
 後年、子の毛利元包にいたり、やっと幕府に大名復活がみとめられ、吉敷に領地があたえられ、やがて吉敷毛利とよばれるが、当時はまだ毛利元鎮はキリシタンの二代目にあたる。おしこめ閉門同様の身であった。
 毛利元鎮の妻は、長門の近くの阿川の毛利家からきた佐田姫といった。時代考証事典(新人物往来社)には、江戸初期、日本の五大忍者の一門として、長州に佐田兄弟という伊賀流忍者一門がいる。天和のころは、杉森平兵衛のいる椙杜屋敷とおじ萩城内三の丸に、佐田屋敷がある。記録には残さぬ忍者とはいえ、萩藩の重鎮である。
 近松の誕生の世話をした木川家は、忍法雪弘観居士という墓がある。
 忍という文字はもともと梵語で「アー」とよむ。忍法雪弘観居士は全部梵語ではよめない。また神上寺の基は、忍者の始祖といわれる役の行者であった。国語となった梵字辞典をみると、忍界とは、密教寺からすると、さまざまな姿に身をかえてくらす下界のことをいった。忍者七変化のごとく、さまざまに姿をかえて、下界(忍界)にいきることを、忍の字はさしていた。「椙杜家」の紋のついたタンスを移したのが、豊田町の伊賀家であることは興味ふかい。
 この毛利元鎮は、関ケ原最後の合戦の前に、徳川が対豊臣政権のために築いた名古屋城の建築に参加して、毛利から加増されていた。
 稲垣史生氏の「歴史は語らず事実をして語らしむ」(PHP)をみると、この名古屋城は湖のなかに、数十万本の松の巨木をしずめて築いた浮き城で、今でも年間十数センチは動くという特殊な城である。
 城の背後には、忍者の居住地域がひかえ、そこには数時間も湖底にもぐり、今も湖底固をしらべる役の末裔の忍者屋敷がある。
 佐田兄弟につながる佐田姫を妻にした毛利元鎮が、築城に参加した時、家来としてつれていった武士たちの正体が、なにものであったかが理解できる。
 あらゆる情報を手にしたゆえ、毛利藩は関ケ原で生き残った。その裏舞台には、この毛利元鎮と佐田姫と、それにつらなる佐田一門がいた。名古屋城の湖底での、家康側忍者との死闘。その数四十九人、かっては栄えある毛利家家来の武士、今はきびしい詮議をうけキリシタン類族として、ふだんは野にくらす武士たちであった。
 その一人に、ふだんは神上寺の寺役人として、門前にくらす忍法雪弘観の武士、木川もいた。
 毛利元鎮は、側室の妻の子松村家を家老として、生涯をともにくらしていた。
 近松は松村にひきとられた。
 やがて元鎮の子の元包の代になり、キリタン詮議は解け、毛利元包は松村の子らとともに、今の山口市をふくむ吉敷に移り、吉敷毛利をなのった。
 明治になり、この山口市のもと長府藩士松村氏が、近松の母縁をなのって、あらわれた。証明資料不十分として、これは却下されたが、この松村氏は、さかのぼれば豊田の毛利元鎮とともにくらしていた家老松村の末裔であった。
 その松村氏が近松の母縁を、なのったのであった。
 唐津の松浦党研究会事務局長の富岡行昌氏によれば、その松村氏とは、やがては近松が修業した唐津近松寺の住職寺沢家とは遠い親戚であった。
 寺沢家がまだ豊臣の八奉行として、毛利秀包とともに、栄光の頂点にあった時代、その筆頭家老の松村家が、寺沢家と婚姻関係を結んだのは、ごく自然のなりゆきである。
 母縁としてそだてた幼い近松を、松村はかって豊臣の栄光をともにした唐津近松寺の住職寺沢に頼み、教育を託した。
 たぶん各地の大阪屋にあそぶ、西鶴の手ほどきと紹介だろう。近松がおそらくはじめて、他の物語にかこつけて、自分をたてつつげに語ったと二つのシナリオのひとつ「大名なぐさみ曽我」には、妻がにげこんだ尼寺に、大名侍がおいかけてきて、男子立ちいるへからずの制札をみてうろたえる。そこに妻からの手紙で、「ゆえなき疑いをうけ、いいわけ立ちがたく、身をあだ浪に沈めた」という。それからいろいろとあり、禅師につかえる七つ子の稚児僧。これは乳母の財布の銭を盗むわ、護摩の壇の不動尊の仏像の頭を打ち落とすわ、散々ないたずらものだが、男色の時代である。手ごめにされる。そこへ朝比奈これを聞き「元服して相手になり敵を討て」と剃刀にて髪をそり、角前髪にして振り袖を短くきってすてる。少年の家の若党が激怒。少年僧がうまれた誇り高き家の幟をもちきたり、元服した稚児僧「さあ。男じゃ。のがさぬ」と、一々にとって伏せるという結末である。「大名なぐさみ曽我」と同じ時書いた「世継ぎ曽我」には、平馬は颯爽とあらわれ、左右無尽に斬りまくる。こういうことがそのまま、彼の身の上にあったわけてはないが、彼が少年僧としてみた当時の寺の内幕を世間にうったえている。キリスト教は、男色にはきびしい。日頃そのしつけをうけている少年にとって、醜悪な世界であった。
 太田蜀山人によると、「罪を犯した僧が近松寺の門前にさらされた。そのことを彼は生涯忘れぬために、近松寺の近松を名のった」とある。
 僧への処刑は「百たたきの上、所払い」といって、公衆の面前でまった裸にされて、縛りあげられ、竹の笞で、ピシリ、ピシリと百回たたかれる。十回目ごろから、皮膚は破れ、筋肉はさけ、竹の笞が背中で鳴るたびに、いいしれぬ絶望の屈辱のどん底におかれたわかものは、悲鳴をあげて、地べたをはいまわる。それを追いかけるように、笞が鳴る。あまりの痛みに、とうとう気絶すると、水をぶっかけて、正気にもどし、それでも容赦なく、竹の笞がふりおろされる。そして最後に町を追いだされる。
 近松はドストエフスキーより二百年早く「罪と罰」を描きつづけた日本のドストエフスキーである。その中を貫徹ちしているのは純愛の擁護である。
 大勢の公衆の集まる前に引きだされ、竹の笞でたたかれ、全身の皮膚がボロボロにさけ、町をつまみだされた若者を、介抱して救けてくれたのが、ドストエフスキーの罪と罰で、頭脳明晰すぎるゆえに、罪を犯した若者ラスクリコフを、ささえついに世間におくりだした、街の片隅の娼家でひっそりと男たちに身をだかれていたあどけない少女、愛と祈りの乙女ソーニヤであった。刑によるを死をやっと逃れらた体験を「ドストエフスキー体験」という。劇作家としていきた彼は、目前の題材としての心中事件の内容は、深くしるべくもない。しかし「近松寺の門で起きた処刑を、生涯忘れぬため」、罪を犯して逃げこんだ愛人をかばう遊女の心中として、まるで憑かれたように、それをなんとおりにも描きわけた。それは結果として、「罪と罰」を描きつづけ、ドストエフスキーより二百年も早い日本のドストエフスキー近松になった。わかものが、公衆の面前でまった裸にされて、縛りあげられ、竹の笞でたたかれ、絶望の屈辱のどん底のなかで、悲鳴をあげて地べたをはいまわることになったその原因は、唐津近松寺にいまもたたすむ三基にわたる大きなキリシタン灯篭と、納戸神に祈っていきていたもとキリシタンたちの存在が、雄弁にかたる。、歴史はなにもまだ語らない。しかし事実が、近松門左衛門が生涯わすれてはならぬことと、たとえそれがあどけない娼婦であったとしても、あまりにも頭脳がすぐれるゆえに挫折し、絶望にさいなまれるわかものが、たちなおり、再び世間にでてゆくまで、日々献身的にささえ、そばで祈ってくれた、決してわすれてはならぬ愛の人が、はたしてだれであったかを、作品をとうして、わたしたちに雄弁に語りかけてくるのだ。
 近松の生まれた椙杜家は、不祥事のために崩壊して、家録を返還して、一族は笠岡にいったとある。そこらの経緯は「大名なぐさみ曽我」に他事にかこつけてくわしく書いている。
 杉森にもどった近松は、長門の椙杜広連の屋敷に預けられ、萩の椙杜の役宅に、鬱々として通う身になる。萩はそのころから屋敷を買い取った商人の街となったとも萩市史にある。あるいは椙杜の親戚、大阪屋の人として働く杉森平兵衛であったかも知れない。京都の三摂家九清華家の台所に責任をもつ大膳太夫毛利家の調達のため、仕事として足しげくゆく大阪屋にある下関劇場こそ、かれにとっては、生涯を劇作家として立つ揺り篭であった。当時はすでに唐津近松寺住職として、すごしている寺沢は、京の一条の側室のたかこ夫人の末裔である。上京した近松は、とりあえず、この一条の側室邸に身をおいた。
 毛利家、寺沢家、一条家、水尾帝、いずれも豊臣時代は頂点にあった。しかし豊臣の崩壊、徳川の隆盛とともに、公家は筆をとって、身すぎ世すぎをするほどに没落した。、  その朝廷の復権のために、闘った中世の皇帝として名高い水尾帝。いずれも関ケ原の合戦の敗北以後は没落、悲運の一族であった。
 蜀山人の碑文に、「近松門左衛門は李笠翁」とある。李笠翁とは中国の大詩人杜甫を指す。広辞苑をみると、北面の武士でありながら、歌人としての旅を重ねた西行も、竹笠翁とされている。ここに共通するのは、旅をするもと武士出身の文人である。松尾芭蕉もまた旅の俳諧人でありながら、諸国探索の報告を書く忍者であったともいわれる。
 歴史を別の視点からとらえる最近の網野史学では、公界人、旅僧などの人々を、当時の自由業としてとらえ、上意下達でぎりぎりにしばられた封建的私的隷属関係から、みずからをときはなち、貧しいながら、自由な人生の道を選んだ人々であるという。
 鋭い感性にめぐまれながら、汚辱の泥沼をはいまわる少年期をいきぬいた上、ドストエフスキー体験を、少年期に味わった劇作家近松は、差別の底辺というより、既成のどの社会にも、はまりきれぬ孤独な人であった。
 人生の後半を天才として飛翔するユングの人生の前半に、神は地獄のような日々を用意したとあるが、どんな血筋に生まれたにせよ、近松の青年期にいたる日々は、豊臣政権の崩壊による毛利家がうけた打撃の、最悪の部分の大人たちの重荷が、この幼い少年を、押しつぶさんばかりに、つぎつぎに襲いかかった。そういう崩壊は天才をうむと、江藤淳は「近代以前」で語る。竹笠翁・李笠翁はそういう視点でみたほうが正確である。
 「虚実のなぐさみ・近松門左衛門」(前掲)には、中央の近松の宿の伝説の一つに、大阪寺町の船問屋尼崎吉右衛門という名があげられている。
 文芸講演の途上で、座談会できいた。
「志道家のあった於福で、母親から”近松先生のような”ということばをよくきいた」
 大正五年うまれの利重さんの発言であった。
 「相手が理解できるまで、一つの外題を念入りに教えてくれる人のことを、母親たちはそういっていた。ここで講演をきいて、はじめて近松のことをしって、なるほどそういう人なのかと思った」といわれた。そして「どうも瀬戸内海の船での、近松先生がそうであったときいたように記憶している」ということであった。
 これを大阪寺町の船問屋にいたという大阪の近松の伝説とつなぐと、近松は船旅の人であった。
 明治に松村家が名のりでたことを考えると、赤子の近松は、毛利元鎮の側室の子家老の松村伝之進に委託された。元鎮はキリシタン大名毛利秀包の長男で、フランシスコともいった。その母にマジェンシャという女性がいた。近松誕生地とのすぐ近くに、今も元鎮の母毛利秀包夫人の墓がある。このマジェンシャ秀包夫人は、ローマに名をとどろかしたキリシタン大名大友宗麟(そうりん)の娘であった。豊田町教委によると、幕府の宗教弾圧の中で、信仰をひたむきに貫いた女性であった。
 系図から抹消されたのは、なにも近松だけではなかった。信仰を貫いたゆえ、大友家系図には、大友宗麟娘である彼女もまた、系図には記録されなかった。
 田中澄江氏が「「近松門左衛門という人」(NHKブックス)で、近松門左衛門には、キリシタンの影響があることを、指摘している。元鎮がみなしごにやさしい宗麟の信仰の子でなかったら、みなしご近松の人生は、もっと別の人生になった。
 禁教の徒とはいえ、元鎮は藩祖毛利元就の直系の孫。いろんな機会に、毛利家から、大名としての復活のすすめもあった。
 しかし世は戦国時代をおえ、豊田の町は、東市、西市として、周防西部の交易の中心として栄えていた。
 かっての忍法者たちにとっては、飛躍のときであった。中には数百石の奉行になるものもいた。白紙をひろげて勧進帳をよみあげた武蔵坊弁慶も、密教をまなんだ忍者の一人である。忍法では「七方出の術」といい、剣をとっては無双のうえに、時におうじて、出家、高僧、商人、芸能人など、最低七つの職業に身を変え、絶対に見破られぬほど、七つの職業の専門教養を積んでいた。変装して諸国漫遊をしている彼らは、それぞれ商人や芸能人としても、一流になれる知能をそなえた最高の知識人たちでもあった。
 時代が町人中心になれば、たちまちにして、全国からめずらしい商品を集めてくるネットワークを、彼らは探索活動のうちに、形成していた。
 もはや表面はかた苦しい武家諸法度にしばられ、裏では陰湿な争いにあけくれる武士の時代ではない。豊田町史によると、元鎮は武将をきらい、「再三の加増を辞して、柳庵と名のり、家老松村ととともに、花鳥風月の生涯をおくった」とある。長寿はかならずも、医学の力だけではない。柳庵として、飄々とくらした彼は、八十六才の長寿までいきのび、安らかに昇天した。

     近松の句とペンネーム「巣林子・平安堂・不移散人」

 近松には、この柳庵の姿を彷彿とさせる「あらそわぬ風を心の柳かな」という句がある。それはのちに風流ということばになった。風をうけながす柳のような、しなやかな柳庵の姿は、近松の後天的な性格を決定したほど、大きな影響をあたえた。
 近松という名は唐津近松寺から得たものだ。そして門は、長州萩の越前家松平長門守の門であるが、彼には生涯わすれられぬ、近松寺の門である。
 近松のペンネームの一つは、巣林子(そうりんし)であった。大友宗麟(そうりん)の信仰を慕う元鎮やマジェンシャは、下関で倒れた夫秀包の家来のキリシタン武士四十九人をつれていた。みなしごの自分をすくった宗麟の信仰と、林の中にかくされた聖なる祈りの巣をもじり、近松は漢詩から{巣林子}という句をえらんだ。
 近松のもう一つのペンネームは平安堂である。
 近松は祖母方をいえば、毛利家の末裔であった。彼はペンネームに出自をしめす毛利の菩提寺である萩の平安寺(現在天樹院)を選び、平安堂となのった。
 寺社隠密書記によると、この寺は剃髪した輝元が菩提寺として建てた当時、天樹院と命名した。しかしいやがらせか、家康の孫千姫が天樹院をなのった。難をさけた輝元は、この寺を平安寺とした。近松がおさない頃は、いまの萩天樹院は、平安寺といい、今もその地名は、平安古という。近松のもう一人の兄弟慈英は、この平安寺こと天樹院の僧としていきたという。
 唐津近松寺の略伝によると、近松は馬関(観音崎の永福寺)から、唐津近松寺にうつった。裏には唐津近松寺の親類松村の手引きもあるだろう。この永福寺は、今も近松の追善供養をしている。
 近松はこうして、毛利秀包の信仰の友であったキリシタン大名寺沢の菩提をとむらう唐津近松寺で修学し、雑掌として京都にはたらいた。
 会津守護職始末(東洋文庫)をみると、皇女和宮を徳川将軍の妻に嫁がせようとした一人として、当時の志士に命を狙われた千草家がある。この千草家も雑掌であった。庶民からすれば、雑掌とは皇室と幕府の間の婚姻のとりもちさえ、画策できる高い地位であった。幕府は旭日の勢いをたどるが、朝廷は貧しくなる一方で、徳川に敗れた毛利家が、松平大膳大夫として、陰に陽にこの朝廷をささえたことは有名である。
 一条恵観の兄は後水尾天皇で、近松はこの後水尾天皇天皇のそばにつかえ、帝の和歌から、朽ち木という語を頂き、自己の辞世とした。
 近松門左衛門の、もうひとつのペン・ネームは不移散人である。
 当時、無宿人は散所に移るのが通例である。しかし近松は散所に移らず、生涯を天皇のそば(咒尺にたてまつり)でくらした。森羅万象に通じ、忍法の素養をみにつけた彼。朝廷を陰でささえた毛利家と、朝廷復権のためにたたかう天皇のそばにくらし、武士階級への痛烈な哄笑をあびせた彼。
 近松はお公卿の出身ではないかと、今でも語られる。貧しい公卿には決して、批判の筆をむけなかった彼の姿は印象的だ。
 「近松門左衛門」(河竹繁俊著)によると、近松は後水尾天皇の嫡子の後西天皇の色紙をもらい、大阪広済寺に寄贈した。彼の葬儀は、この広済寺で営まれ、遺髪を葬った分墓は、唐津近松寺にたてられた。
 まさに遺言の通り、武林をはなれた生涯であった。
 本来なら毛利一門椙杜四千石をついで、萩藩閥閲録に名をとどむべきのに、のりをこえてしまった男女の欲望という業苦を身にうけ、武家社会の格子から、おさない身を放りだされた。そして、ついに無宿渡世の浪人作家して、孤独な魂をつらぬき、埋み火の生涯を辞世にとどめた
 近松の集大成は「女殺し油地獄」だ。彼はここにいたり、慈愛をあたえれば、ただ傲慢にしかなれない少年。その慈愛を理由に、少年を異性の目でとらえる年増女の性(さが)をえがいて、どうしようもない人間の性という認識にたどりついたことをしめした。

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              先帝祭と近松

 下関の観音崎の永福寺の近松追善供養に関連して、先帝祭と近松の話がある。
 下関には先帝祭という、壮大なおいらん道中まつりがある。
 「雨が降らねば金が降る」といわれた遊女のおいらん道中だ。
 もとは壇の浦でやぶれた平家の女官ちが、遊女になり、おいらんとして、平家の安徳帝をまつる赤間神宮にむけて、街をねりあるく。
 海事史家沢忠宏氏によると、この先帝祭の起りは、近松の発想であるという説が、市立大学教授の説として、かってあったという。
 その研究報告にはついにめぐりあえなかった。
 しかし「博多小女郎浪枕」からも、近松が下関にくわしかったことは、うかがえる。また大阪屋と日本最大の劇場に関与していれば、
 先帝祭の起りは近松の中年期にあたる一七世紀の終わりだ。そして近松の没とともにしばらく絶えている。
 沢忠宏氏の研究によると、壇の浦の合戦で戦死したのは、十指にたらない。この日は今でも、海流が二ノットぐらいに落ち、漁夫が船をやすめるほどである。
 敗北した平家は武士とちがい、かげろうのような短い命をおしむ公家たちである。
 その日の潮をあらかじめ計算したとすれば、敗北した平家こそ、生き残り作戦に成功した人々である。
 壇の浦の海は、もとは遠浅の浜である。
 敵にうしろを見せるというのは、公然たる敗北である。海上からふなばたをたたいて、はやしたてる源氏の軍勢の、嘲笑を背にした平家の一党は、平然と遠浅の浜を岸にむかってあるき、もともとホームグランドである土地の門司、長州の両側の奥地にそれぞれ去った。
 もとをただせば、西日本、九州はすべて平家人である。もと平家の女官たちの身をかえた姿が、遊女のおこりであるという発想は、まとを射ている。
 かって女は家との縁を切るため、阿弥陀寺にいき、髪をおろして、比丘尼になった。そのしきたりを利用して、遊女になるために、家庭との縁をきるとき、女は阿弥陀寺にいきいかなる男性とも特定の縁をもたない遊女になる。
 おいらん道中は、年に一度、その登録の確認のために、阿弥陀寺にいく道中を、美女行進の行事にかえたものだ。
 西鶴や近松は、遊女のことを惚家と書く。遊女のことを惚家というのは、全国では浪華と下関だけだ。
 第二章に書いたように、大阪の旧遊廓のあとには、近松巣林子碑が、今でもある。石碑自身は年代は古くはない。
 西鶴は遊廓にまつられるほど、遊女たちの聖なる存在ではない。また長州とは縁のない作家だ。石碑自身は年代は古くはない。この大阪の巣林子碑周辺の人々は、それが近松門左衛門はんの碑と知って、なお一層大切に、祭りが続けられている。近松と遊廓の深い関係を思わせる興味深い事実だ。
 先帝祭が近松門左衛門の発案であるというその教授の研究は、根拠があるといえる。
 近松門左衛門という人は、だれにも心をうつさず、恋のかけひきに生きる遊女たちをえがいた西鶴のあとを受け、表面的な遊女のその姿の深層心理にひそむ、ひたむきな女心を舞台にひきずりだした。そしてその愛ゆえに、世にもうつくしい純愛の女神にして、舞台にあげた救いの神であった。
         
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 近松研究の初版を四年前、「近松門左衛門の謎」として、関西書院からだした。
 それから数年をへた一昨年、わたしのこの研究を陰で一貫してささえてくださっている山口県立大教授の竹野静雄氏から「西鶴研究の過程でみつけたから」と、江戸時代の随筆家暁鐘成の随筆コピーが送られてきた。氏は「西鶴資料研究集成」の監修者として、中央では著名な西鶴研究の学究だ。感謝ととともに、ここに全文を紹介しておく。
         
江戸時代の随筆家による長州人近松像

O 近松門左衛門ハ
長州萩の産にして。同藩の臣杉森某の男なり。名は信盛俗称平馬といふ。平安堂巣林子。不移山人の数号あり。卯花園漫録にハ越前の人とす。恐らくハ誤りならんか。若くして肥前唐津近松寺に遊学し、のち京師に登り、ある堂上方に仕え奉り爵六位階を賜ふ。元禄のころ仕官を辞して退き、浪人して近松門左衛門と名のり、歌舞妓芝居都満太夫が座の狂言の作をなし。また宇治加賀掾。井上播磨掾らがために浄瑠璃を作る。その後元禄三年庚午正月京師より浪華に下り。竹本築後掾が為に浄瑠璃あまた著述しその名を世に轟かせり。もとより和漢の書籍を学び、博識にしてしかも時世の人情を察し、下情を穿ちて百余番の浄瑠璃を作る。中にも蝉丸。浦島年代記。嫗山姥。曽我五人兄弟。加古教心七墓巡り、用明天皇職人鑑、傾城反魂香。碁盤太平記。相模入道千疋犬。楓狩剣本地。持統天皇歌軍法。嵯峨天皇甘露雨。天神記。日本振袖初。本国三国志。信州川中島合戦。宵庚申。平家女護島。鎗権三重帷子。河内通。重井筒。わけて国性爺合戦ハ大当たりにして。十一月より興行はじめ三年目の三月まで打ちつづけ、都合十七月の繁昌なり。また雪女五枚羽子板。曽我会稽山等ハ最も妙作といふべし。享保九年甲辰十一充月二十一日七十二歳にて没す。浪華妙法寺に葬る。すなわち当寺に碑あり。また河辺郡久々知広斎寺にも石碑あり。辞世の文、左に誌す。
O 代々甲冑の家に生まれながら、武林を離れて、三槐九卿に仕へ、咫尺し奉りて寸爵なく、市井に漂ひて商売しらず。隱にて隱にあらず、物しりにて何もならず、世のまがいもの、唐のやまとの教ある道々。伎能雑芸滑稽の類まで、知らぬ事なげに口に任せ、筆に走らせ、一生を囀りちらし。今際のきわにいふべく思ふべき。真の一大事は一字半言もなき倒惑。心に心の恥を覆ひて、七十余りの光陰、思へば覚束なき我が世経畢。もし辞世ハととふ人あらば
 これ辞世さる程にさてもその後ちに残る桜の花に匂はば
 享保九年中冬上旬入寂、阿耨院穆矣日一具足居士
 不俣終焉期予自己春秋七十二歳囗囗
 のこれとは思うもおろか埋火のけぬまあだなる朽木がきして
 一説に門左衛門兄ハ相国寺の長老。弟は岡本一抱子といふ名医なり。妹ハ錦江といふ俳諧師にて浪花に住す。同胞みか世に高しといふ。

O 東都本庄柳島法性寺の境内に建るところの碑あり。勒して云う。
        日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖近松門左衛門藤原信盛文碑
 曾祖近松門左衛門藤原信盛長州萩之臣杉森某男也 後登京師一条禅閣兼良公賜笏六位因老病致仕而遊之摂浪華享保九年甲辰十一充月二十一日七十有二歳而寂則葬於摂州久々知山広斎寺法号阿耨院穆矣日一具足居士当百回之遠諱収所遺丱稿而於 北辰尊前納于石下以樹文碑且臨終辞世之狂歌一首勒于石面者也
           文政十一戌子年十月
                 曾孫
                   近松春翠軒穢月
          洛東山      戯名 心庵蝶々子誌囗囗
                     自足堂信尚書O
      碑陰文辞世
 それ辞世さる程にさてもその後にのこる桜のはなしにほはば  八十八翁倹斎囗囗

O 按ずるに、錦小路頼康朝臣の五五記にも、この碑文の如く、一条禅閣兼良公に仕ふる由みたり。然れども兼良公ハ文明十三年に薨去ありて、近松とハ二百余年の昔なり。もしくハこの公に仕へし子孫にやあらん。不審し。また近松門左衛門ハ元肥前国唐津近松禅寺の小僧にして、古潤と号す。積学によって住僧となり義門と改む。徒弟あまたありしが、しょせん一寺の主となりてハ、衆生化度の利益うすしと大悟し、ついに行脚に出しが、その頃内縁の舎弟岡本一抱子といふ儒医、京に有りけれバこれに寄宿し、還俗して堂上方に奉仕し有職の事をも大概記憶し、その後浪人して京都浄瑠璃芝居、宇治加賀掾、井上播磨掾、岡文弥、角太夫等の浄瑠璃狂言を著述せしが、竹本義太夫に頼まれ、浪華に下り出世景清といふ新作を書けり。これ近松が義太夫本戯作のはじめなり。これよりして百余の作を著ハせり。凡てこの人の作ハ勧善懲悪を旨として、衆生済度の方便を文中にこめたり。これ初めよりの願望なり。また近松氏と名のることハ。近松寺に在りしいにしへを忘れざる微意なるべしと。近松寺の僧の説話なりと、並木五瓶が戯財録に見へたり。
 ちなみに云う。浪華妙法寺に建るところの石碑ハいたつて麁にして微小なるをもって、知己某これを再建せんとて、東武の蜀山人に文を乞ひて、すでに其稿なりしかども、ゆえありてついに成就せず、其の人もまた没せり。しかるにその草稿、予が手にあるを以て、その志を世にあらわさんが為にここに写せり。

 平安堂近松翁以善戯文名于海内。後之作戯文者。学其体裁以為師法。実其方名漁清人也。其墓併配。在浪華法妙寺。歳月遷。断碑僅存。里長囗囗氏。(長州諱。宮原註・参照仮名世説二巻)悼其湮没。重収一碣。使予紀事予嘗好読翁戯文上自縉神武弁。下至倡優隷卒宛然口気。如逼其真其孝悌忠信。礼義廉耻。可以裨世教矣其所著国性爺。演劇三年。可謂妙矣。唯曽根崎一齣。夫匹婦之諒。誓死倶斃。此風大行。有害其俗。可謂功罪相半矣。然徂来子嘗読此文。嘆至曰。近松妙処在此中矣。然則一功一罪。在善聴之者。於翁乎何病焉。
             文政四年辛巳秋日江戸 蜀山人識

O 門人近松半二、門左衛門が遣うところの硯を伝えて遺品とす、その蓋に漆して。
 事取凡近而義発勧懲九字を記す。これは立翁伝奇の序に。
 昔人之作伝奇也、事取凡近而云々といふ語をとれり。近松が小説に心寄せし事此れ知らる。此人ハ、実に本邦の李笠翁なりといふ。
 
 並木五瓶は、近松門左衛門のすぐあとから現われたが劇作家で、近松の「天神記」を改作した系列として「菅原伝授手習鑑」と並木五瓶の「天満宮菜種御供」は、双璧をなしているといわれる。
 唐津近松寺には「近松は祖門となのった」とあるが、並木五瓶は義門と書いている。苦笑してしまう。筆者も聞き書きしながらノートすると、ときどき、似たようなことしてしまう。まして当時は筆に墨である。こういう写しミスや判読ミスがあるからとて、わざわざ唐津までゆき近松寺の和尚から、ていねいに聞いて、現代のわたしたちに書き遺してくれた江戸の奇才、並木五瓶を批判するほどの資格はわたしたちにはないだろう。
 鳥越博士の「虚実の慰み。近松門左衛門」をよみ、明治に椙杜家の末裔の椙杜親介氏が、唐津近松寺の住職とともに、東京で、近松門左衛門の末裔としてなのりでたところ、ねつ造をうたがわれ「近松をかつぎまわるものと、中央紙により」さんざんな罵倒をあびせられたという。長門市できくところでは、嘲笑する世間を恥じた親介氏は、ついに故郷長門深川におられなくなり長崎までゆき、カトリックに帰依して、孤独な最後を終えたという。
 これを見てわかるように、近松門左衛門が長州萩藩の臣杉森家の子であるというのは、江戸時代から自明のことであり、親介氏が明治になり、捏造した話ではない。武門の家柄の末裔として、嘲笑する世間に恥じた親介氏が、逃げるようにして日本列島のさいはての地までゆき、悲嘆にくれながら、やさしい修道女になぐさめられ、すべてを神にゆだねて、寂しい終末をむかえたことを思うと、おなじように、すっかりさびれてしまった唐津近松寺を目のあたりにしたものとして、この稿をもはや読むべくもないいまは世にない椙杜親介氏とその時の近松寺住職を思うと、ただただ、痛恨の極みといわなくてはならない。 ただ鎮魂である。

 初版発行ののち、慰労するとしてドライブにつれだした娘たちと息子や妻との山陰の家族ドライブの途上、萩の郷土資料館にたちより、展示販売のために陳列してある郷土資料をあれこれとめくっていた。
 あった。
 萩城の堀の内である萩城三の丸といわれる追廻筋に、城内の重臣たちが執務する役宅の区域がある。三十間入りの二十三間に二十七間という、当時の萩では広大な屋敷が椙杜八郎の役宅である。
 元服前の近松は杉森平馬といった。その椙杜八郎の屋敷の主として、天和二年(一六八二年)という、年代からすれば、元服して二十数才にはなっている杉森平兵衛が居る。
 山口県の伝承のとおり、そして江戸や大阪の石碑にあるとおり、江戸時代の随筆家暁鐘成の随筆にあるとおり、「長州萩の産にして、同藩の臣杉森某の男」・杉森平兵衛が、ほかならぬ「椙杜家」の役宅に居た。
 唇をかんだ。ホケットの財布の中をさがしたが、わずか千円そこそこの本代がない。あわててそばの妻の顔をみた。わたしがしっかりつかんで、離そうとはしないその薄っぺらい小冊子「天和二年から三年における萩城下町の絵図にみる人名簿、および住所禄」をみて、妻はわたしの顔を軽くにらんで、それでも、これも底をつきかけている自分の財布から、千円札をとりだした。
 書かれざる歴史の深層をさぐりつつ、ライフ・ワークになってしまった近松研究が、第二の飛躍、ユングや近松をものさしにした文学と日本史の深層にむかう、この研究をはじめて、きっかり十年目の、できごとであった。

 まだ海のものとも山のものともわからぬ初版発行のとき頂戴とした早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、早稲田大学教授鳥越文蔵博士の序文を、併記しおく。
 
初版の序文
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館長、早稲田大学教授 鳥越 文蔵
 
 
出自不明の文豪は、近松門左衛門だけてはない。近松と同時代の小説家井原西鶴とて、同様である。が、わたしは近松は西鶴以上に、謎があると思う。武家出身者が芸能者になった例も珍しくはない。しかし堂上方にまで仕えた者が、芸能集団にのめりこんでいったところに、なにか大きな謎を感じるのである。近松の出生については、越前説が有力である。彼の地には近松の本姓「杉森」を名乗る家かあり、明治期に書写されたと思われる、系図がつたえられている。それゆえに有力とわたしも発言してきた。
 この書の著者宮原氏には、決議文に反対意見も併記する時代であるから、越前説と長門説を並記するぐらいの、配慮があってしかるべきで、それをしない学者は勇気がないと、お叱りをうけたこともある。また大学の先生は、世間がせまいともいわれた。宮原氏のこのような発言は、近松門左衛門長門説に熱中するゆえの、ことと気にはしていない。長門の土地には、わたしの知るかぎりでも山崎徳三郎。羽仁雅助両氏のような、宮原氏の先輩がおられたが、長門以外の者としては、
「私が近松門左衛門長門説の最右翼にいる」と、確信している。ただ遠い地にいると、目にふれる資料が限定されるので、土地の人の研究に期待するのである。
  まだ系図の次男と三男、近松とその弟岡本一抱の間には三十三年もの時代差があることや江戸に石碑があったことなとを、あきらかにはしていないころで、近松防長説が、海のものとも山のものともわからない段階で、いただいた序文である。
 いらい文化庁、山口県、山口県教育委員会や園田女子大近松研究所なとが後援して、毎年、吉田蓑助師匠の文楽などがやってくる「近松イン長門」。国、県、市が一体になっての、長門市の近松大橋、近松公園の新設、近松みすず道路が開通した、その後は近松のふるさとづくりがめざましくすすんだ。
 イギリスに飛び、駐英日本大使館を介して、シェクスピアの故郷ストラッドフーオ市長と懇談、永遠の友好を約したりして、文化都市長門にすると日夜奔走される傑物市長を、先頭にする長門市には、まもなく西日本有数の歌舞伎、文楽の劇場ができる。二井県知事とは昵懇であるこの市長に委嘱された長門市懇話委員は、早稲田大学演劇博物館長で、近松門左衛門防長説の最右翼を自認されている鳥越文蔵博士。NHKチーフティレクター大井徳三氏、宇田川東樹東京メデイアコレクションズ代表取締役、大阪の地域計画研究所長の中平和伸氏、長門時事新聞社主の中原吉郎氏、活躍中、昨年急逝された作曲家大津あきら氏とわたし宮原である。
 東京には、鳥越博士を名誉顧問、大井NHKチーフティレクター、高宮まちづくりデザイナー、藤田光久市長を顧問として、賛同者は、河野良輔山口県立美術館長、吉田建勲雄TYSテレビ相談役、松永隆阿部事務所、山田禎二ケミッイクスインタナショナル副社長、中原長門時事新聞社主。東京長門会会長山根宏氏、上田俊成飯山八幡宮宮司、荒川石油会長とわたし宮原を賛同者とする近松会が、長門市の江良に近松茶屋を開く岡本家の人である事務局小野美佐子さんを中心に、朝枝正、重村徳夫、岡戸聡之、三好英之、横田祥子、藤田建三、小内良明、永井孝允、長瀬正彦、天野努、林五世夫 西村武揚、荒川美幸、赤間晋治、岩崎昭夫、山根光恵氏など、各界で活躍するひとたちが旺盛な活動をしている。東京のこの「近松会だより」によると、全国の近松フアンの柱となるそうだ。
 その西日本有数の歌舞伎、文楽の劇場がコケラ落としに、中村雁次郎師匠の近松座が「関八州繋馬」を上演する予定という。
 ところが偶然とはいえ、長門市に和紙人形を制作しつづけている、これも国際的な人形芸術家内海晴美氏も「関八州繋馬」の制作中である。それを話した同じ長門市懇話委員のNHKチーフデイレクター大井氏が、なんともいえぬまなさしで「偶然にしてもできすぎてます。変ですよ。ぼくら長門の近松にかかわったものは、みんな自分ではないなにものかに、みちびかれているような気がしてる・・・」と、小さい声でボソッと、ひとりごとをつぶやいた。
 もう飯山八幡宮の楽桟敷のうえにたつ巣林子碑を、スリンコちゃんの碑という市民はいない。しかしスリンコちゃんとは、どこかで近松をひそかに慕いつづけたにちかいない、キルケゴールの愛の女性レギーネを思わせて、いつまでもとどめたい、ほほえましい名である。
               ☆
 わたしたちが自分の余暇を、もっとも上手に利用する方法は、過去の華々しい事物と親密になり、あらゆるものが滅びてゆくというような不幸を、熟視することである。わたしたちが現在、経験することは、歴史の鏡により、一層よく理解される。歴史がつたえるもの。それはわたしたち自身により、生きたものになる。わたしたちのくらしは、過去と現在との相互の照明によって進歩する。接近して、身をもって観察しよう。個々のものごとを注視することによってのみ、歴史はほんとうに、わたしたちと関わりをもつようになるのだ。
 いかなる実在するものも、わたしたち自身の自己確認にとって、歴史ほど重要ではない。歴史はわたしたちに、人類のもっとも広大な地平を示し、わたしたちの生活の基礎となっている伝統の内容を、わたしたちにもたらす。歴史は現在的なものごとへの基準を、わたしたちに教える。歴史は、いま自分が生きている時代の、無意識のさまざまな拘束から、わたしたちを解放してくれる。そして人間を、その最高の可能性と、その不滅の創造性において見ることを、歴史はわたしたちに教えてくれるのだ。
                           ヤスパース「哲学十二講」 


 
椙杜家系図
                      おわり
  
 、文中のほか、次の書を参考にさせていたたきました。お礼を申しあげます。
 日本名著全集江戸文芸之部近松門左衛門集(日本名著全集刊行会)・大日本文庫文学編近松浄瑠璃著作集(春陽堂蔵版)・日本風俗史(大東出版社)・「国文学解釈と鑑賞」近松関係各号(至文堂)・日本文学一九七五年七月号(日本文学協会編)・人文研究第十二巻第六号近松門左衛門の幼少年時代について(森修著)・国語国文第二七巻第十号、近松門左衛門と杉森家系譜について(森修著)「近松門左衛門と鯖江」(福井県鯖江市資料館)・近松門左衛門の出自について(福井県生涯学習リーダー・バンク丹南地区研修会資料)・古老物語(復刻マツノ書店)・「近松故郷に帰る」(故宮野薫著 提供開作一明氏)・近松長州説資料(提供長門市郷文研 羽仁雅助・利重忠氏)ふるさと内日村の人物伝承(山田春男著)豊田町史(提供・藤本貴司氏・船石陸雄氏)・浜玉町史と唐津市史(提供唐津史談会富岡行昌氏)・美東町史・山口県の方言(山中六彦著)・防長方言(新井無二郎著・山口県地方史学会)虚実の慰み近松門左衛門(鳥越文蔵著・新典社)・近松門左衛門(河竹繁俊著・吉川弘文館)・時代考証事典上下(稲垣史生著・新人物往来社)・近松と円機活法について(高橋宏著・至文堂)・日本史史料(児玉幸多、菱刈隆水著 吉川弘文館)・倭冠史考(呼子丈太郎著 新人物往来社)・徳川時代の文学に見えたる私法(中田薫著・岩波)・近松門左衛門という人(田中澄江著・NHKブックス)・小倉日記(森鴎外)・志道家資料(美祢市立図書館蔵)・江戸時代の国書類ほか古典関係書。(県立山口図書館蔵)

  研究にご教示や資料をいただいた方々。ありがとうございました。
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 県立山口図書館
 山口大学図書館
 山口県立大学図書館
 市立美祢市図書館
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 山口県地方史学会
 山口県史学会
 尼ケ崎市市民局近松係
 園田女子大学近松研究所・尼ケ崎市
 長門市 
 長門市ライオンズクラブ 
 長門市郷土文化研究会
 近松応援団近松会東京
 豊田町
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 下関市教育事務所
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 山口新聞
 宇部時報
 長門時事
 関西文学編集部
 文芸山口
 歴史研究会・ 東京新人物往来社
 毎日ペンクラブ・山口
 山口地区全逓信労働組合
 鳥越 文蔵氏・早稲田大学演劇博物館長、
 福田 百合子女史・中原中也記念館長(当時山口女子大学教授)
 竹野 静雄氏・山口県立大学国文科教授 
 篠田 正浩氏 映画監督
 大塚 博久氏・親友・山口大学教育学部教授(当時) 
 三上 雅武氏・大阪・関西文学
 古川 薫氏・作家・下関市
 牛尾 一氏・美祢市市長
 伊能  雑誌「まんだ」編集部
 小林 唯男氏・美祢市・友人
 故吉兼 弘二氏・山口市・友人
 藤本 貴司氏 豊田町・友人
 船石 陸雄氏・豊田町公民館
 吉井 朱美氏(地方史研究)
 有沢裕紀子氏・短大生 
 坂田 文江氏・詩人・美祢市
 長門市郷土文化研究会
 村田 華舟氏・画家 宇部市
 堀  勇氏・古文書研究者 萩市
 椙杜アヤコ氏・徳山市
 富岡 行昌氏・唐津市唐津松浦党研究会
 中野 真琴氏・作家・阿知須町
 
 唐津近松寺・唐津市坊主町
 赤間神宮
 亀山神宮
 神上寺・山口県豊浦郡豊田町
 泰栄寺・山口県下関市内日

 沢 忠宏氏・海事史研究会・下関市
 藤田 寛治氏・下関図書館
 渡辺 一郎氏・美祢市・主治医
 進藤 狂介・親友 東京
 小林氏     県水産
 近松応援団近松会東京事務局 小野美佐子氏(東京)
 山口県下各市町村の教育委員会
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    宮 原 英 一 (作家・歴史研究者)
      一九三五年一月、山口県美祢郡美東町赤郷に生まる
      現住所 山口県美祢市大嶺町祖父ケ瀬
      山口高等学校卒業後、山口大文学部中退

 関西文学同人
 文芸山口会員
 毎日ペンクラブ山口・顧問
 山口県地方史学会会員
 歴史研究会会員
 長門市委嘱、近松懇話会委員
 ほか下関朝日カルチャーセンター講師、県民大学講師、ほか各地の市民講座の近松に関 する講師ほか、文章づくり講座などの講師として各地に招聘。

  おもな文学経歴

昭和三十二年 日本キリスト教団美祢教会誌「角笛」に日本資本主義と国民文学」を執        筆中「角笛」廃刊
昭和三十四年、手刷り謄写印刷で個人詩誌「にんげんのみね」発行・二十三号にて終刊。昭和四十年 桧隈幸子(角川短歌人賞候補)と短歌・詩誌「藁人形」主幹
昭和六一年 市民の戦争体験「四一年目の証言」編集
昭和六十年 「美祢文芸」編集
昭和六二年 山口新聞に一回約二千字日曜随筆「秋吉台造山運動」四十回・不定期寄稿「      現代の民話」ほか創作短篇多数を発表。
昭和六十一年度 山口県芸術祭随筆部門受賞
昭和六十二年度 山口県芸術祭随筆部門入選
昭和六十三年度 毎日郷土提言賞山口県最優秀作品賞
        ほか郵政省事業論文など。
第二十三回関西文学賞最終候補作品になり、同文学同人に参加。山口新聞に小説「北浦        乱菊物語」を連載。以来近松長州説研究に没念。
平成五年八月 歴史読本八月号に「近松門左衛門出生の謎」定説をくつさがえす長州生誕       説」を発表。
平成六年五月 関西書院より「近松門左衛門の謎」を発行
平成六年十月 「近松門左衛門の謎」が、日本図書館協会選定図書に指定さる。
平成八年七月 文芸誌「関西文学」に、若き日の伊藤俊輔「悲しいのう」を発表。
平成八年十一月 西日本文化十一月号に「江戸の随筆にみる毛利藩出身天下の浪人作家、       近松門左衛門の生涯の全容」を発表。
平成八年三月 KRY山口放送編集発行「YAMAGUCHIを旅する」に「竜宮城の乙       女たち・遊女発祥の地下関」と「響き灘に近松をたずねて」を発表
平成八年六月 KRY山口ラジオ放送にて四十分構成「響き灘うらみの近松」を発表。「平成八年七月より十月まで、KRY山口ラジオ放送にて、毎週水曜「長州浪人作家近松門       左衛門」を放送。
   そのほか、テレビ出演、各市町村の市民大学や成人講座の講師、多数。