六 長州萩・世に言う越前家一門
 
 明治につくられ、さまざまな矛盾もある越前説の系図は別にして、二章の石碑のところで述べたように、江戸期の巷説の書には、「越前の人・唐津近松寺遊学説」と、「長州の人・唐津近松寺遊学説」と、二つの流れがあるという事実は、掘り下げて考えてみる必要がある。
 唐津近松寺に、長州の人とあったではないかといっても、「越前の人・唐津近松寺遊学説がある以上、「近松を福井と山口の二ケ所で生まれさせるわけにはいかない」(鳥越文蔵著「虚実の慰み・近松門左衛門」)という意見がまだ残るのは、無理もない。
 これは近松門左衛門の生誕地を考えるものには、根を断ちきっておかねばならない問題である。
 一人の人間の出身地に、越前と長州との二つがあるという謎もあろう。しかし、逆に一つの土地に、ふたつの呼称、長州と越前があるということもある。それが資料として、解明ができたら、長年の越前説・長州説の対立をくつがえす決定打になる。
 秘密をときあかす資料は、意外なところにあった

   注・この早稲田大学演劇博物館長で、早稲田大学教授の鳥越文蔵氏は、わたしの近    松長州説研究に賛同され、一番さきに、ご寄付をいただいた。その二年あと、長門市に講演にこられ、
「鳥越個人としては長門説に軍配をあげる」(週刊長門時事にその談話が掲載)と断言された人である。氏はそのとき、わたしには「越前説は、父親の失業による近松難儀説。従来の長州説の貴種流離譚としてでなく誕生そのものが、業苦を背負った近松としてとらえた近松業苦説(後述)を、鳥越個人として支持する」といわれた。

    
世にいう長州越前家・萩毛利藩

 萩指月城下の土産品店に、江戸時代のベストセラー、東海道中膝栗毛の付録、全国道路地図である「諸国道中大絵図」の日本行程絵図が、七百円で大量に売られている。
 その日本行程絵図には、支藩の徳山、長府、防府藩は、毛利とある。しかしただ一ケ所萩本藩だけは「松平宰相三六万二千石」とあり、毛利の姓がない。
 当時の江戸や浪華のだれでも「長州萩は、越前宰相松平越前守さまのおひざもと」したがって、「近松は長州とも、越前の人とも」書くのが当然だ。
 いかに商人の実力が強力になったとはいえ、大名の名を誤って印刷した上、全国に販売したとなると、獄門打ち首はまぬがれない。ならばこれは、決して誤って印刷したものではなく、正しい地図だ。
 奥付けをみると、版元は江戸・大阪・京都の出版商である。これは維新直前の慶応まで、ベストセラーの旅行行程図として、版を重ねて、堂々と全国で売られている。
 目でみる地図では、近松の出身、当時の長州萩藩は、明治直前まで、なんと越前松平宰相の国であった。
 これにはわけがあるはずだ。以来ずっと、資料の探索が続いた。
 たまたま、山口市の街角の、古書店で手にいれた古書「古老物語・防長古今見聞集」(三坂圭治監修・マツノ書店)に、その由来を書いた、次のような記録があった。
 輝元子長門守秀就、五歳の時権現(家康)様より御袴御契約。御長袴拝領。御使者榊原式部大輔、右の御袴当家為重宝。大膳大夫綱広嫡子吉就幼少の時、袴着は依古例、右の御袴用之、慶長四年秀就五歳、侍従叙従四位下寛永三八月十五日任右近衛少将、慶長五年十月十日権現様より 周防長門両国を賜り、権現様より輝元父子え対し御誓詞被成下。併井伊兵部少輔直政神文有之、慶長十三年越前中納言秀康公姫君を秀就室に縁組被仰付、其後権現様上意を以任長門守、松平の称号を被下。同十五年婚礼の時従
 慶長四年、五歳であれば、十三年は十四歳。毛利輝元の子、長門守秀就は、十四歳のとき、家康の命令で、越前松平の娘(喜佐子姫)と結婚した。その席上、彼は家康(権現さま)の命令で、代々松平姓を名のれと命ぜられた。これはその記録で、萩藩はそれ以後は越前松平家の家中になったのだ。
 毛利十一代史を調べると、まさに萩本藩毛利家が公式に発した文書はすべて、「松平長門守」になっていて、長府、防府などにある支藩の毛利家藩主の名はない。すべて松平一族の藩主数人が、保証人として署名している。朝廷の官職、大膳大夫でさえ、松平大膳大夫になっている。
 NHKブックスの田中澄江著「近松門左衛門という人」では、高野正巳氏が「父親は木村長門守の部下として、たたかったとされている」とあるが、事実は木村と松平の二字ちがいであった
 御当家を越前家と云事は、結城中納言秀康公松平の御家御惣領也。御子・様万一伯様松平越後守様御城御入興。越前宰相松平越前守様御家、竜昌院・様松平長門守様秀就公御廉中、松平出羽守様、松平大和守様、松平但馬守様、右の通り、段々御重縁につき、御当家と(を)御一門越前家と世に云 ・ 

  関ケ原敗北以後三百年、毛利の名を復権させた倒幕まで、俗世間の絵図まで、萩本藩は松平宰相の地とされ、「世に越前一門といわれ」たという事実を、この古書はあきらかにしていた。
 また、萩藩の世子交代のときは、幕府に誓紙をさしだす。すると幕府より新しい藩主に対して「万事は松平に相談してからことをなせ」という絶対命令が、萩藩にくだされる。その幕府文書も、毛利十一代史に掲載されている。
 萩藩は越前松平一門に組みこまれてしまい、その支配下にあったのだ。
 わたしはこれを「松平しばり」と、ひそかに名づけている。
 それを松平しばりというのは、明治維新の時さえ、吉田松陰が捕らえられ、死刑にされたのは、わざわざ遠い越前鯖江の松平候と、接触したためであったからだ。
 薩摩藩と違い、維新のとき、萩藩の上層部が二つにわれて、抗争したり、藩としての行動が何もできなかったのは、この松平しばりが、強力に働いたからだ。
 三百年もあとの明治維新まで、越前松平一門にくみこまれた松平しばりの効力のすさまじさを、この記録から思う。そしています。徳川家康という人の、先の先までみとおした深謀遠慮の、とてつのないスケールに、おどろいてしまう。
 また萩藩に、勤王倒幕の志士が輩出した理由もわかる。主君の名誉を命よりも第一にする当時の萩藩の武士にとって、倒幕をしないかぎり、毛利の名は永遠に公式につかえず、神君の命令である「松平をなのれ」は、永久に不変であるからだ。
 このあたり、対外的には、攘夷論、開国論とくるくるかえながら、結局倒幕の一線だけは、絶対に譲らなかった高杉等萩藩出身の志士と、ただ攘夷のみを信じた志士との間に確執がたえなかった理由もある。高杉等萩藩出身の志士にとっては、攘夷であろうと、開国であろうと、それは倒幕のための政策手段でしかなかった。
 この松平しばり、「世に言う長州萩の越前家」という呼称は、長州萩藩出身の近松を、福井県の越前にまで、拡大解釈させてしまった原因でもあった。
 「一人の人を二ケ所でうまれさせるわけにはいかない」のではなく、一人の人の出身地が、二つの呼称をもっていた事実を、この資料は語っている。
 別にめずらしいわけではない。萩のすぐそばの須佐町には「唐津」という名の集落がある。この唐津で生まれる人も、事実は「長州萩藩の人」だ。しかし今後も終生、出身地を佐賀県唐津とまちがえられるだろう。
 長州萩、越前、それは当時、一つの地名のふたつの呼び名で、越前家とは、長州萩藩の別名であった。
 また肥前は江戸時代、水野越前の配下であったこともある。そういうことから越前の地の人という呼称も、うまれただろう。
 越前は、かならずしも福井県をさすとはかぎらない。
  「注」
 この「松平しばり」による人事介入のすさまじさは、記事としてやはり「古老物語・防長古今見聞集」にのっている。二千字をこす漢文体だが。そのあらましを紹介しよう。 
 一六九九年の元禄十二年、毛利の江戸屋敷に、越前大守の使者があらわれる。
 そしてむかえた毛利市正、国司広直らに、「毛利綱広の六男監物元重は、登城これ無い。松平大守は、監物元重は四ケ年前に乱心なされた。いまはよくなったが、とても家が続くことはあいならずと、内々こたえておいた。二十五万石は一代かぎりでおわってしまう。監物元重は病身にて、相続はあいならず、松平内匠頭の次男伊織をつかまつりたいと、願いでたら、その通りにすべしと、内々おおせつけられた」という。
 うろたえた毛利江戸屋敷の家臣たちは、綱広二女の品子や、ほかの関係者と、夜半まで相談した。次の日の二六日は幕府の高官柳沢出羽守吉保にも相談にいった。ところが二十六日には、越前大守から使いがあり、刀陣を多数そろえ、麻布屋敷から鳥越屋敷に移れと、越前大守から毛利市正に使いがある。
 こちらは「監物元重は病身にて相続あいならず、越前へおひきとりの件、承知しましたが、いましばらく日延べしてほしい」と連絡。
 むこうは「承知した。早くご老中にそう届けよ」という。
 こちらの家中は「わが家は徳川と肩をならべた時代もある。たしかに時代はかわったが、越前大守のしかけは、われらをふみつけたやりかた。そのままさしおけば、われらの主君の家のきずになる。」と怒る。
 ついに「この度の処置、合点がいきませぬ。江戸の当地では上様に対してつつしんでまかりおりますが、万一これが国元にきこえたら、国元は当世の時代の流れなどは、一向に存じませぬ。監物元重を越前にひきとられれば、大勢をもって、越前に押しよせ、つれかえることもあるでしょう」と、暗に武力衝突までほのめかした。
 おどろいた越前大守は「監物元重の乱心はいつわりであった。松平内匠頭次男伊織を後継者にという話は、なかったことにする」とわびてきた。
 大膳吉広から「合戦にかけても」と、お家の安泰をまもった国司与三兵衛に、褒美に新開地八十町歩をあたえるという文書でこの物語はしめくくられている。
 これが元禄のころだ。こんな抵抗をしながら、越前松平家にくみこまれていく過程がよくみえる。

 あえてくわしく紹介したのは、越前家とよばれていたということを、越前大守と長州萩藩江戸屋敷との、結びつきと確執の記録によって証明するためだ。
 そしてもうひとつの理由は、松平しばりは、明治維新史観に別の視点を提供するからでもあるからだ。
 逆臣として切腹を命じられ、今、萩の寺のかたすみに、ふりかえられることもない小さな墓に眠る長井雅楽。航海遠略策といい、明治以降の開国政策の根本を考え抜いた人だ。結局、歴史は、彼を逆臣として痛罵した下級藩士の志士の攘夷路線ではなく、開国、国際化にすすみ、現代日本の隆盛を築いた。にもかかわらず、彼の墓に線香をあげるひとさえない。
 この長井雅楽は、藩主の養育を担当した長州切っての英傑である。かれはその航海遠略策をかきあげ、江戸城に登場。将軍を床の間にした大広間で、とうとうとこの航海遠略策をのべたとき、居並ぶ大名ちからは、ただ感嘆のためいきがもれ、誰一人質問することさえ、できなかったという。
 しかし、彼にはまた、しょせん下級藩士らにはわからぬ、松平藩との苦悩に満ちたしばりがあった。ついに彼は、藩主を藩主たらしめるために、おのれの命を切腹という形で犠牲にした。すさまじい魂迫というほかはない。
 おとなう人すらない彼の小さな墓をみるたびに、この松平しばりの実態を、もっとしらべて、新しい史観により、今まで単純に逆臣とされている多くの人々を、名誉復活するのは、ほかならぬ山口県で、ペンをにぎるわたしたちであると痛感する。
 また美祢の伊佐売薬は、明治まで、越中富山の薬売りとならんで、西日本の市場を支配していた。越前松平との相互対立と相互の繁栄の歴史がもっと研究される必要もある。この伊佐売薬の町の背後には、同じ町にすてに、松下村塾以前に「倒幕を目的とした藩校」(まぼろしの草稿とされる・昭和初期のみね郡史草稿)友善塾の設立がある。吉田松蔭全集をみれば、だれでもわかるが、設立宣言は吉田松蔭の起草である。このみね郡史草稿によると、撃剣を教えつつ、算盤や商いも同時に教えていて、藩公がしばしば閲兵にきている。久坂玄瑞ら志士が、京都では薬売りに変装しているように、ここで撃剣をならった人々は、売薬商人として、全国に旅にでた。そして奇兵隊も、この付近のみね市郡出身が、もっとも多い。倒幕を旗印にした語られざる藩校であった。吉田松蔭の飛耳長目論が、脚光を浴び、維新倒幕は実は武力の成果ではなく、すぐれた情報戦略にあったと、県史学会の人々にによって語られるようになった現代である。維新にさきだつ情報戦略の先兵として黙々とはたらき、もじどおり草もうの人として生き、ついに無名のまますえおかれたこの人々こそ、維新の陰の功労者だといえる。維新のさきがけとなった太田絵堂のいくさは、この藩校の目と鼻のさきの地である。
 この藩校の存在は、歴史に登場しない。維新達成のあと、功績は松下村塾出身の下級藩士らに帰し、下積みのなきにひとしい人々には論功もなく、逆に人員整理をされ、むしろ反逆者とされたからである。彼らはやむなく、諸隊騒動という乱をおこし、結局、官軍として進撃中には、ともに夢みた新政府の指導者の指示によりが捕らえられ、切腹、斬首され、その首は往還にさらされたという。
 この付近は石をなげれば、地蔵にあたるといわれる。
 そして倒幕のため、そろばんを撃剣にかえ、商人に姿をかえ、各地の探索にはしった情報戦略の主役、この藩校の学生の記録はない。
 この倒幕の藩校の設立当時の藩の上層部、長井雅楽などは悪人として記録されている。 また改革の要は情報戦略にあることを見抜き、この藩校の設立に奔走しその冷徹な知性を示している来嶋又兵衛は、現場知らずの中央史家により、猪突猛進の男と、誤記されてしまった。
 そんなことのため、あえて松平との関係を、ここに記録として掲載した。
 松平については、故司馬遼太郎先生に懇切な御教示をいただいた。この改訂稿を執筆しているとき、未亡人の福田みどりさんから、今は故人になられた司馬先生の「このくにのかたち」に登場する銘酒「菜の花の沖」が、遠く大阪からはるばると送られてきた。
 無言のはげましに深い感謝を記録しておこう。