昭和ニ七年五月二十日山口県知事公室文化広報課発行
山口県文化史外編 編集者 山口県文化史編纂委員会
長方言考 防長民謡集
当時駒沢大学教授 故新井無ニ郎氏執筆
防長語と近松の浄瑠璃
 
 
近松の書いた浄瑠璃を読んで、その文句に防長語が満ちているのをみて 近松は必ず長州人であると私は考える。近松門左衛門の本姓は杉森、名は信盛、わかい時に 九州唐津の近松寺に入って、僧となった。後に還俗して 一条家に仕え、致仕したのち 大阪に住んで市人となり、多くの浄瑠璃をつくった。そのときに 近松寺に居た縁で、近松となのった。長門萩の人ともいえば、また長州深川の人ともいひ、あるいは 長州深川の人ではないともいふ説もあって、生国があきらかでない。しかしながら、もしも 防長以外の生まれであったなら、あれほど多く、そっくり防長語が用へるものでもなく、また用ふ必要もないのである。近松はわざと用ったわけではなく、長州うまれであるから、自然に出るのは当然である。且つ門左衛門の「門」の字は、恐らくは長門国の門を とったのであろう。
 近松門左衛門以外の作者、竹田出雲とか、近松半二 その他の作と比べてみると、近松の用語とは 雲泥の差がある。浄瑠璃作者は、大阪が根拠地だから、近松も他の作者も みんな京阪語を用ふ。大阪語と京都語はだいたい同一である。この京阪語の使用は、どの作者も共通であって 防長語も関西の関係上 京阪語との共通は 勿論あるけれど、防長特有の語は 他では見られない。その他では 見られないところの語を、近松は微細に用っている。これは 長州人でなければできぬ芸当である。今、近松の世話浄瑠璃のなかから、防長語を挙げて防長人でなければ、かうは用へないと思ふ語を示し、近松の長州うまれを立証しようと思ふ。
(
筆者駐、
 長門市は昭和三十年代に新生した都市で、この昭和二十七年発行の山口県文化史外編にある長門とは、長州をさしていて、かならずしも現長門市をさしてはいない。しかし 日本が第二次大戦に敗北した後の 昭和二十七年当時、戦前の軍国主義者たちの権力に阿諛して、悪名高き大正の国定教科書を創った学者たちの戦争協力責任を問い、大正の学会で決議した「近松越前説」を、山口県知事公室が 敗戦後の昭和二十七年に再び根底から 
越前説を否定して長州説を公刊していることは 興味ふかい。)

あのようにほついては、やンがて 身代は、とくさ色でおろすようになって。
札買やる銭やろふか、ただしなんぞ、余のものがほしいかいの。
アノ銀もらふてか。
この、をなごしゆを お内儀さまかと居這うほどにかならずいいやといふなえ。
だんなさまは、たった今、湯屋へといへば、オオ オオ どうで湯か茶か飲みにであろふ。
着る物着かへんと、押し入れあくれば、こりゃ なんじゃ。
おまへは何しにお出でといへば、いやコレただはこぬ。たった今、そなたが帰ったそのあとへ。
四百目という銀を、なににするとて借ったぞ。
四百目は何にした。いきはを聞かうときめらるる。
いっそ いうてのけうか。いやいや それもむごいこと。
ことにわしと他人なれば、なほしも義理は欠かれず。
またくらひ酔ったか。
なう徳兵衛殿。むごうござる。つらいぞや。
元日から元日まて、よう行き処もあることぞ。
大儀ながら隠居へいて・・・これはわたとしが御むしん。恩に受けう。
まちっとしてから、来てくだされ。むしんながら、まそっとしてから ま一度 寄つてくださんせ。いかうつまらぬ銀なれども、さだめし、いんまにこう程に、まそっとしてから来てくだされ、いや。もはや来られませぬ。来てから(来タ所デ)こんやは 出されませぬ。
此中カラうかうかしやる。ちっとこころをしめやや。
ふさ(女の名)それは何しやる。何じゃやら びっくりとしました。
おとといのすす掃きに たんと肩がつかへた。
一門中の憎しみうけ、そなたを鬼よ、蛇じゃといふ。又・・・ごけ同然に暮してもこれがなんの手柄ぞや。
よい、客もがな出世させ、下女の一人もつれさせたう。思うはこちとばかりかは。
サア身じまひして、早う行きゃ イヤ 夜もいかなんのうふけまする。
なんの無理にしんぜませう。茶でも一ツ参りませ。
サアろくにゆるりといや
まそっと話しゃと、とどめられ、
こたつに火をたんと入させて、とまってござれとしひければ。
いやいや寒いにいなうよりも あたたかにしてとまったが・・
小六もねつろ、さよもねつらん。
中ようしてして下さんせ。サアサアもどってくださんせ。
あれ おかさま 火はいらぬとおっしゃる。
からすが いかう鳴くわいの。
あすたづねようとは、いはれぬ。
                      
以上 「心中重井筒」より

ムムそれは聞き及うだぶげんしゃ ずんと若い人ぢゃげな。
じゃうじゅ(常住)酒で足ひょろつき。なんと いずれもだんなのはば。(ハバキカス ハブリ)をご覧じたか。
此の惚兵衛とくじのみや(宮)のとぬかすげな。
それを新七めが、つかひつぶすの、身持ちがわるいのと・・ふれあるいて。
袖乞ひ非人の命と成りても、手もふたり一所にいる上は、たんのうではあるまいか。
悲しむことも、なんにもない。けく(結句デ)でうき世がおもしろいと 笑うてみせてちからをつけ。
みみを揃えて懐中した 是の袖ぐちから。
とがなき天にも難をつけ。
アア泣くぶんは 夕霧にまけはせまいと。
あきらめつつ 慰めつ こころで埒を空けたるが。
夜中すぎ またござんせ。はやういんでござんせとせがめば。
                   
以上 「淀鯉出世滝徳」より
アアしんどうやと腰うちかけ。
呼びにしんぜた。さすがおなじみの喜左衛門。いやおうなしの御出 
喜左衛門
、喜左衛門と鼻に扇の大へいなり。
惣嫁のようなけいせいめに、みじんも心は残らねども。
仕合せのわるい時はなんで、損をせうもしらぬ。
わしゃ煩うて、とうに死塗るはずなれど、けふまで命長らえたは ま一度あわせて下さるる 神仏のひかへ綱。これなつかしうは、ないかいの。顔が見とうはないかいの。
御家中のほめもの。さぞ 見るたかろうし、見せたし
さてはいよいよ止めになされますか。はてやめにせいで、なんとせう。
その身に逢いたいというべい所 竹を呼び出してくれとは のぶとい者だ。
ずいぶん 弓馬のけいこせい出し申そうぞ。
なんのおのれをととといはう。おりゃ とっ様にいうてこう。
傾城の子には なりともない。とと様の子じゃいの。
いざおじゃと だき寄するを 引きはなし。
むすめとも思う夕霧が 臨終の心がたんのうさせたい。早う逢うてくだされ。
                           
以上「夕霧阿波鳴渡」より
 なお 本書には防長方言辞典のように、防長方言が あいうえお順に使用実例とともに まとめられているが、あまりにも多数で煩瑣にわたるので省略する。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 以下は 新井無二郎駒沢大教授のこの著述に触発されて、筆者宮原が、
近松門左衛門集の作品から摘出した防長方言
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
標準語がなかった時代 現代の防長っ児より、もっと防長人的
防長方言からみた近松門左衛門という作家
; 
 歴史の下半身 深層の裂け目からチラとあらわれた近松門左衛門という人の姿


「・・・明治の女のわたしの母は、くりかえし同じ戯題を、噛んで含めるように語る人を {まるで近松先生のような人」と表現していたものだった」 
 この人の母上は 近松をうんだ母の生まれそだった志道家のある於福の生まれ育ち。
 なぜそういう人を「まるで近松先生のような」と 
近松に例えるならわしが於福にあるのか。長門市の近松文学講演後の座談会で 聴衆の口から洩れた語られざる歴史の下半身。深層の裂け目からあらわれた 近松門左衛門という人の姿の一面。
 そのなぞを 近松門左衛門自身のことばから 検証してみた・ 
 
      「標準語のない江戸時代」 

 自分のことばで語り 書くしかなかった時代」に 作品に無意識に使用した東洋のシエクスピア近松の、作品にあらわれた無数の土地ことば「防長方言」
「曽根崎心中」にみる近松門左衛門の作品の防長なまり
 徳さまではないかいのう。俺はあとからいのう(帰る)ほどに。徳兵衛もあとからもどるといや。   やはり着て居さんせい。ハア (もう)だれやらが。聞きともないかいの 。病気になるわいの。 見さんせえと。何しようぞいの。何じゃやら。ようも ようも(よくもよくも)段かいの。 いかい(大きい)ご苦労。 一文借った(借りた)おぼえなし。かえたいや。そのまま どうど ハア(もう)こういうても。死なんしたげな。縛られてのう。どうで(どうせ)野江から飛びでたものと。惚れてじゃげな どうで(どうせ)徳さまいっしょに死ぬるわしも  はしごよりどうど落ち 縁じゃやら いんだら(帰ったら)寝ようかいなあ どうで (どうせ) 女房には持ちさんすまい 縁じゃやら 兄弟へ これから(ここから)この世のいとまごい
 ほれてじゃげな ・・・・実例 「大阪に行ってじゃげな」 大阪に行かれるらしいの意味 「遠くに引っ越してじゃげな」 遠くに引っ越されるらしいという意味 「田を売ってじゃげな」 田を売られるらしいという意味 「すぐ来てじゃげな」 すく来られるらしいという意味 てじゃげな」は いまでも、山口県では、日常的につかわれている独特の敬語的いいまわし 
「一文ったおぼえなし」 山口県独特のいいまわし 標準語で「かった」は「買った」という意味だが 山口県たけは 「少したらんから金を借った」「となりでクワを借ってきた」と、借りたことを意味することばとして 現代も主として老年層には、日常的に使われている。
 現在も 「借る、借ろう 未然 借らん 過去形 借ったとき 連体形 借る時 命令形 借れ」という
 防長なまりの接尾語 OOOじゃの OOOのう OOOといや OOOしなさんせえの OOOじゃげな
「卯月紅葉」に見る近松の作品家の防長なまり
よっぽど(よほど)  ようおいでなさりました (よくいらっしゃいました) 。大阪の衆でござりますか(ございますか) だれぞいの 世の憂きふしはのう うれしやのう  親子じゃないかいの ふすべる(くすぶる) いなせい(帰らせろ) 言うても(言っても) 使わりょうはずはない。(使われるはずはない) 口惜しいわいの しもうてのきょうか(しまって のけようか) 切りょうか(切れるだろうか) かそえたよのう たとえかや くださんせえ 往んだ(帰った) 断りが言うてきた(言ってきた) ドウド伏し こしらえさんせえ 拝んでや 出るぞや 骨を拾うて(拾って) もぐさがふすぼる(くすぶる) どうでも(どうしても) じゃげな 死にはせまいか(しないだろうか) 盗人そうな(らしい) なにやらが 違うた(違った)
「堀川波鼓」にみる近松の作品の防長なまり
いやのう 奉公しいや(しなさいよ) じゃわい くださんせえ 飲みや たいぎじゃのう わじわじと ふるえる。知らぬかや。入ったるかや。 いなせる(帰らせる) のう その悔やみが。お客そうな あったげな  ござります
「心中重井筒」にみる近松の防長なまり
やってじゃげな。なるわいのう。かかってか。欲しいかいの。そうやらかして。なんぼ行こうと(いくら行こうと)。どうで(どうせ)。借ったぞ(防長では 買ったも 借りたもすべて かった。かってくる。かってくる。と同じ発音をする)。ごむしんをする(お願いをする)。ようござりました。徳兵衛そうな。いこう冷える(たいへん)。ようぞ。ようぞ(。よくもよくも) 山口屋。ここにかいの。ようしてくださんせえ(よくしてください)。まくしだす。切れぬげな。まぶられて帰る。のう、世間をきけば。のう。待ってくだんせえ
「丹波与作待夜の小室節」にみる近松の防長なまり
大内桐 どうでもいやじゃ あれ見さんせえ うたうのを聞きや お目にかけなされませ 呼うで あるげな あれを見や お通しじゃげな わしじゃわいの ようよう馬を追い習う 大きゅうなりやった これがなにになること 生まれやら 出た人そうな 物ではないかいのう ゴソゴソが過ぎた バクチの友じゃげな じたい八めは なされまい 往なんせ のう 八蔵どの よかろうが よいわいの こぶしでくらわせた ようよう(やっと)往なせた 襦袢が一枚なそうな 吸わしょうか 成ろうやら 成るまいやら かけて居やいの あぶのうて きやきやする とうなりとこうなりと どうでもいのちは助かるの 引くまいか 死ぬまいか いっそ 言うて 上手じゃげな のきょう こける
「心中万年草」にみる近松の防長なまり
うそつきじゃ お日待ち(防長農村の宗教的習俗)に なったやら しやるやら 逢いましたい 罰をうきょう それもそうじゃが なにかなしに ぬいておけえや のう ようきてくださんせえ 有るわいのうわ うれしゅうないかいかい 進ぜられまいか ぶち払い 往ねば ばっかりでえ ほうからかいて イジムジいうて 寝ようでの 往なしやれ 動かずにござんせえ
冥土の飛脚」にみる近松の防長なまり

のうては 渡さぬのう じたい はいらしょう 目をねぶって どうじゃいや いっそ殺せ じょうなら(たくさんなら ) いかい 見せや いろうて見る のう堂島の なんとなんと 田舎のうてず せびらかされる いかい 浄瑠璃にせまいか したげな 往なされたげな 渡したげな ぶちつけ よっぽとの 言うわいやい くださんせえ 金をかやす せってくる なおしいや 見いさんせえ げさくな 来たそうな 似たわいのう なんぼうか嬉しい どうどひれ伏す 逢うてやってくださんせえの 狂乱に成ってじゃ
「心中天の網島」にみる近松の防長なまり
文字(門司)ケ関 しるしかや 気色がわるい 送らぬの のんこ 見かけわさわさ ござんしょうの うてぬ顔 往なんして ひっかずく 土まぶれ どうと座し 兄ごさまかいの 捨てどころがないわい どこでやら 落として 飲みたかろうの 二つづつくらわした ないわいのと 何がさて よいわいの 打ちみしゃいで 岩国の紙の仕切銀 拝むことかいの いこう更けた ぬけて往ぬる はあ(もう) それよ それよ ようござりま 待ってか 二人いの おうそれよ それよ 死ぬる  
「女殺し油地獄」にみる近松の防長なまり
のんこ まがなすきがな はあ 気にいるやら返事がない おかさま どうど腰かけ どうつよく ないわいの 弁当かたげ べべへ脱ぐ よそのことはほうからかして あれら ぶちたたく よっぽと゜に  聞くことでない 腹を借ったうみの母 ウジウジ よいわいの おうこ よいわいの そんなら いかいお世話に 往なしやれと ゆりる 借って 借った銀は 足をあげさんせえ なんじゃの おのれらまでも 往んでくださんせえ
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
唐津近松寺で修業中に、佐賀なまりが身についた近松の作品「博多小女郎浪枕」にみる九州なまりと佐賀なまり
参考史料 小学館「日本古典文学全集・近松門左衛門集の二」より
テキスト「博多小女郎浪枕」
コリャうんたち 「うぬ」の転化したことばで、現代も長嵜 熊本 宮崎では日用語
三蔵が船は、見えいろ ・・・たのとか・・やらの助詞で 現代も佐賀、熊本なまりとして日用語
心もとなかばい 話し手の主張をふくむ柔らかい断定末詞 佐賀、福岡 熊本なまり
筑前さなへ 筑前「の方へ」という肥前唐津地方の佐賀なまり
しょう、しよう 遊女の意味
表の乗り衆 呼うでわたい 「来い」という長崎方面のなまり
茶だし 土瓶のこと。佐賀、福岡 長崎地方のなまり
おんどもが、二十七のとき。 「われら」という意味、佐賀、長崎宮崎 山口のなまり
見事な事ばん 「ばん」は感動をふくむ語尾詞 佐賀、長崎方言
諸白をいつかけた薩摩に才 ぐっと一息にのむこと。「いつかくる」は長崎、大分では「人にみずをかける」ことをいう
ふとか男であったばん。 大きいのをフトイというのは、中國、四国から九州にかけて分布する日用的表現
諏訪へ踊りみがいにゆく 「見にゆく」の九州方言
たかが、踊りのコジリくさの 念をおしたりする 九州なまりの助詞 
ほたゆる ふざける。つれけあがるという九州方言
頭抱えて雇い人にかろわれ かつがれる。背負われる。からうでゆく 筑紫方言。
九州はいまも、 かつぐことをカラウまたはカロウという
無慚らしげに 九州なまりで むごい。不憫の意味で ムゾカ ムゾウカ ムゾウナゲにという
気がよけん  「けん」は、原因や理由を示す助詞。「気がよいから」という意味のなまり
真っ黒になって 「まっつしぐらになって」のなまり
絞め殺して海へほたりこめ ほたるは投げる 投げ倒すの九州なまり
ちくら手くらの どちらにもつかぬことを、ちくらと言い、人をだます手くだを手くらという。対馬の沖にちくらが沖というのがあり 韓国でも日本でもない 日本韓国と日本の境界の潮である
 以上、方言辞典ほかからみるかぎり、近松の作品には もし越前生まれなら 出身地を無意識に示すはずの越前方言や福井方言等の 東日本の方言が まったくありません。無意識に使用した防長と佐賀、九州方言からみても 西日本方言と九州なまりでしか数々の作品をかけなかった近松は 西日本文化圏の出身の劇作家でした。

短編新聞小説 いがやり作兵衛

防長なまり 参考
宮原 英一
一九八九年十一月ニ十六日 県紙山口新聞に掲載
「みんなのう 寺にあつまれといや」
「なんじゃ この寒いに」
「奇兵隊の足軽衆じゃげな」
 まっくろな雲が 野牛の群れのように そらを走ってゆく。不気味な天候が続いている。
 歴史はある終末をむかえていた・
 
 いがやり。 
 関西では「いけず」ともいう
 この地方の方言である。
 反骨といえば きこえはいいが このなんでも一応反対するという野党だましいは どこの村にもかならず一人や二人いて みんなもてあましたらしい・
 作兵衛はこの村の「いがやり」である。
 生理的にはうまれつき 腰椎骨のひねりという ごく単純なことだが どんなことにも かならずつっかかるという 性格をつくっている。
「うるさいやつらじゃのう」
「いや まったくじゃ どねえな無理難題をふっかけてくるか、わからん お前さんは ゆかんほうがええ」
 「ゆかんほうがええ」のひとことに、たちまち作兵衛のいがやりだましいが目さました。
「どれ いって みちゃろうかい」  
 開墾をしていた畑の雪の上に、クワをたたきつけて、作兵衛は歩きだした・

 寺のえんかわに、足軽たちの大将がたっている。
 天然痘をわすらった跡が 顔にのこり 小豆をぬりたくったような あばた面である。
 叛乱軍の頭目らしい。
 決起叛乱はしたものの奇兵隊は いわばよせあつめである。
 その夜 雪がふりつもるのに 寝ようにも夜具がない。 
 布団の供出を 地もとにもうしいれた。
 実はそのあつまりである。 


「のうや 今夜ひとばんだけじゃいの たのむでや」
 農民たちはさっきから みんな沈黙してたっている・
 みんな貧しい
 わら布団がひとそろいはあるが 着てねることすら滅多にない。
 野良着のままいろりばたにごろ寝だ。
 それが暮らしというものである。
 「民百姓のために決起する」と、さっきから妙に大言壮語するこの侍を みんなは 内心はうたがわしい目つきでじっとみている。
「返事せんかや こりさい みんな。われらは今日あって 明日なき命 今夜くらい ここのみんなの布団をのこらず借って ぬくもらせて寝してやりたいんじゃ。わしらのたってのご無心を きいちゃあもらえまいかいのう」
 今日あって 明日なき命。
 アバタのさむらいは 自分のことばに酔っていた。 

「おことばを 返すようじゃがのう」
 農民の群れの一番うしろから しわがれた声がした。
 いがやり作兵衛だ。
 みんなは ドキンとした。
 いがやりの虫が はいだしてきたのである。
「なんしゃい ゆうてみい」
「いま 今日あって明日なき命と そこでいうてじゃったの」
「いかにも そうじゃ」
「わしらはのう 明日どころか 十年さきも生きて 藩政府のために 稲つくらんにゃならん 大事なからだじゃ」
「うむ」
「それでも みんな ふとんは着んようにして コロ寝でありますいの。 明日なくなる命なら こんや一晩くらい ふとんはいらんいの」
 みんなは、かたずをのんだ。
 道理はたっていて みごとないがやりである。
 この調子で ふだん 村の相談ごとのあつまりは いつもひっかきまわされる。
 だが 今夜のいがやりは 農民たちには 背中から後光がさしているように思えた
 侍の顔はみるみる紫色にふくれあがった
「くそしじい。叛乱軍をあいてに ねんごうたれやがって。ドウづきあげられるど。わりあ ただではすむめえぞい。うぬの名をいえ・・・」
 根が黒い異形であった。
「いがやり作兵衛・・・」
 作兵衛は肩をそびやかして名のったた。
 さむらいは かれをにらんだ 
「な、なにや。い、いがやりとや?」
 作兵衛の顔は 雨風にたたかれて 渋柿色てある。
 
 いがやり 
 京都のほうまで 倒幕ではしりまわっていた勤皇志士のこの侍には なつかしいふるとのことばだった。
{ハッ ハッ ハハハハ」
 とつぜん 侍は明るい声でわらいころげる
「・・・・・」
「おれ、おれものうや。長州のいがやりに産まれたで。おまえさんのような。いがやりのおせ(オトナ)等ばかりにかこまれて、そだてられてのうや とうとう いがやりのなれの果てが、この大叛乱じゃ 」
 みるみるうちに、苦虫をかみつぶしたような、作兵衛の顔かゆるんだ。

「ものわかりが ええばかりじゃあのう。世の中は。ちいともようならん。いがやりは大切なことじゃ」
 
 寺に招かれて、あばた面の高杉晋作と語りあかしての かえりみち 作兵衛は晋作に「おとっちゃん」とよばれて 心地よげであった。
 太田絵堂のいくさの 数日まえのことである。
                      終わり                                                         
近松研究者にとっての焦点は 近松門左衛門の言語脳を支配している 椙杜発祥の土地 周東町椙杜郷である。
 放送ドラマの共同制作のために 足しげく拙宅iこられた、さすがにことばのプロ。徳山市の
テレビ山口兼ラジオ山口放送本部の制作部次長さんの竹下尚子デイレクターによると 「なまりに着目した炯眼には敬服しました。こうして近松の作品の中の、防長なまりをピックアップして一覧表にされると、まさしく、大島郡のなまりに山口地方のなまり、そして豊浦郡地方のなまりの、三種類の防長なまりが混在している岩国錦帯橋の近くの玖珂郡周東町の、椙杜郷一帯の方言が 歴代の親たちによる無意識の家庭教育として、まだあどけない近松門左衛門の言語脳にもインプットされていることが よくわかります」という。
「近松先生の家の源流は
、玖珂郡周東町の椙杜家であり、毛利家から養子にいったというほど、藩に尽くした功績のある由緒ある家です。」と 明治に講演された村田峯雨氏の教養講座は、歴史的真実であることが、近松みずからが筆を執った数々の作品の方言の分析によっても明らかになった。
 ことばのブロ、竹下尚子デイレクターのこのことばは、百万言にまさるはげましだった。 
 わかくて健康なら、一年間とまりこみでしらべあげたい。ことば研究のプロ。アナウンサー出身のラジオ山口放送本部の竹下尚子さんが、なにげなくもたらした嬉しくて背筋がゾクゾクする福音である 
 最初の頁にもどる