|
 |
江戸史料編 |
 |
|
|
|
新史料による近松門左衛門の江戸の再現 3 :研究メモ 宮原 英一 |
|
|
|
|
なぜ こんなゆがんだ近松像になったのか。
江戸には縁ののうすかった近松ではあったが 柳島の妙見さま(墨田区業平五の七の七 妙見山法性寺) の境内から
昭和三五年に近松の石碑が発掘された。その後ながい間 本堂のそばに安置されてきた。最近 修復して東京にも近松石碑をいう話もあったが 立ち消えになったので、この近松の碑を紹介しておこう。石碑はかなり痛んでいて、欠けた箇所もうあるので「京摂戯作者考日本名所図絵により 碑文を写しておく。 |
|
|
|
|
研究者宮原のメモ |
|
|
|
|
もっとも学会として「近松の生誕地は福井県鯖江と決議したのは大正期」で こんな石碑が
地下に埋没れていたのを知つたのは 発掘された昭和三五年だ。
普通は 史蹟が発掘されればそれにより 記述をあらためるのに 学会の権威にかかわると考えたのか 訂正しなかったというだけの事だ |
|
|
| ☆ |
☆ |
|
近松門左衛門ハ長州萩之藩臣也
江戸本庄柳島妙見菩薩境内所在石碑所在左如 如
|
|
日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖 曾祖近松門左衛門藤原信盛文碑 曾祖近松門左衛門信盛 長州萩之藩臣杉森某男也.後登京師奉仕一条禅閣兼良公.賜笏六位因老病致仕而遊摂浪華.享保九年甲辰十一月二一日七十有二歳而寂.則葬於摂州久々智山広済寺 法号阿耨院 日一具足居士.当百回之遠諱収所遺草稿.而於北辰尊前納千石下以樹文碑且臨終辞世之狂歌一勤千石面者也 文政十一年戌年 十一月 洛東山 曾孫 近松春翆軒穢月
戯名心庵蝶々子誌
自足堂信尚書
|
| 県立山口図書館蔵書「国書類 」より |
|
|
曾祖近松門左衛門藤原信盛文碑
曾祖近松門左衛門信盛 長州萩之藩臣杉森某男也.後登京師奉仕一条禅閣兼良公.賜笏六位因老病致仕而遊摂浪華.享保九年甲辰十一月二一日七十有二歳而寂.則葬於摂州久々智山広済寺 法号阿耨院 日一具足居士.当百回之遠諱収所遺草稿.而於北辰尊前納千石下以樹文碑且臨終辞世之狂歌一勤千石面者也
文政十一年戌年 十一月
洛東山 曾孫 近松春翆軒穢月
戯名心庵蝶々子誌
自足堂信尚書
|
| 県立山口図書館蔵書「国書類 」より |
|
|
|
|

この石碑は文政十一年(一八二一年)十一月に 江戸で近松の法要を執行した近松繊月により建てられた。近松繊月は 三代目竹本筆太夫とともに、「浄瑠璃大系図」を著わした人物である。狂言堂、春の屋、春翠などと書名もしたり 門三郎とも称した人
連名に大阪近松千葉軒とあるのは 身寛政から 天保時代の大阪の浄瑠璃 歌舞伎役者の代表作に「絵本太功記」がある。近松繊月は 門左衛門の曾孫と自称するだけに 近松門左衛門への思いいれは厚く、深く妙見堂の石碑建立つの五年前に文政六年十一月二二日には、近松百回忌を営んでいる。前もつて 同年の九月には近松門左衛門略伝を添えた百回忌法要のパンフレットを配布する念の入れようだった。近松繊月は近松の思いから発して法要をいとなみ 自費を投じて 墓碑の修築や建基肥に石碑につくしたのだった。 |
|
|
浮世絵かぶきシリーズ 五 中山幹雄「近松物語」の「近松の生涯七」より |
|
|
☆ |
☆ |
|
|
|
|
|
|
|
|
江戸時代史料 京摂戯作考 |
|
|
近松門左衛門
長州萩の産にして、同藩の臣杉森某の男なり。名は信盛俗称平馬という。平安堂、巣林子 不移山人等の数号あり。卯花園漫録には越前の人とす。おそらくは誤りならんか。少なくして肥前唐津近松寺に遊学して、後京都師範にのぼり、或る堂上方に仕え奉りて、爵六位を賜ふ、錦小路頼傭朝臣の五五記に一条禅閣に仕るよしあり、また江戸柳島法性寺境内に建てたる近松翁が事跡を記したる碑石にも、一条禅閣兼良公に仕るよしを、記しあれども、兼良公は文明中に崩御ありて、近松より二百余年の昔なり、もしくは此の公に奉仕へし人の子孫にやあらん。いぶかし、尚柳島の石碑文を先にだす。併せて考ふべし。元禄のころ仕官を辞して、退いて浪人し近松門左衛門と名のり、歌舞伎芝居、都万太夫が座の狂言の作をなし、また宇治加賀掾井上播磨掾等がために、浄瑠璃を作る。その後、元禄三年、庚午正月、京都より浪花え下り、竹本筑後掾がために浄瑠璃を数多く著述し、その名を世上にとどろかせり、元より、和漢の書籍に学び、博識にして、しかもよく時世の人情を察し 下情けを穿ちて数百番の浄瑠璃を作れり、なかにも國性爺合戦、此の狂言あたりて、三年打ちつづけたり、名誉といふべし、雪女五枚羽子板、曽我会稽山等もっつともその妙を得しぞ、享保九年辰十一月二一日、種員曰く 西沢一風子が外題年鑑にには平安堂の物故同年同月二二日とあり、七二にて身まかりぬ。大阪八丁目、寺町法妙寺に葬る。辞世のの文左に記す 代々甲冑の家にうまれながら武林を離れ、三塊九卿に咫尺し奉りて、寸爵なく、市井に漂いて 商売を知らず、隠に似て隠に非らず、賢に似て賢に非ず、物知りににて なにも知らず、世のまがひもの 唐の大和のをしえある道々伎能雑芸滑稽のたぐいまで、知らぬなげに口にまかせ、筆に走らせ、一生を囀りちらし、今はのきわにいふべく思うべき真の一大事は一字半言もなき倒惑心に心の恥をおほいて、七十余りの光陰おもえば、おぼつかなきわが世経畢 もし辞世は問ふ人あらば
それ辞世、去るほどに、さてもその後にのこるさくらの花しにほはば
享保九年中冬上旬入寂名
阿耨院穆矣日一具足居士
不俣終終焉期予自記 春秋七十二才
のこれとは思うもおろかうづみ火の
けぬ間あだなるくち木かきして
江戸本庄柳島妙見菩薩境内所在石碑所在左如
日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖
近松門左衛門藤原信盛文碑
曾祖近松門左衛門信盛 長州萩之藩臣杉森某男也.後登京師奉仕一条禅閣兼良公.賜笏六位因老病致仕而遊摂浪華.享保九年甲辰十一月二一日七十有二歳而寂.則葬於摂州久々智山広済寺 法号阿耨院 日一具足居士.当百回之遠諱収所遺草稿.而於北辰尊前納千石下以樹文碑且臨終辞世之狂歌一勤千石面者也
文政十一年戌年 十一月
洛東山 曾孫 近松春翆軒穢月
戯名心庵蝶々子誌
自足堂信尚書
|
|
|
碑陰文
辞世
それ辞世、去るほどに、さてもその後にのこるさくらの花しにほはば 八十八翁倹斉
大阪 近松千葉軒
京都 同 門 蝶
江戸 同 門 三
大阪金屋橋銅吹千能登屋彦九郎所蔵懸物美人の賛
紙中縦二尺横一尺 計画は土佐絵のごとく見ゆる由
楽天が意中の美人は夢のむつ言
僧正遍昭の詠中の恋は絵にかける女
とりかたにはそれかこれか作魔去
物いはすわらはぬ代にりん気なく 衣装表具にものこのみせす
平安堂近松子七一歳狂讃
近松門左衛門肖像略之
|
|
|
県立山口図書館蔵書 |
|
|
|
|
|
|
「研究者の近松ノート」
|
|
|
|
|
一 |
|
|
|
|
大阪の大田蜀山人による近松モニュメントの錦江は ちまたでは 妻とか妹だとありますが 調べてみると 松本幸四郎の名でした.当時は鹿児島湾 明石湾が錦江湾とよばれ 明石城が錦江城と呼ばれていました.(参照
人物往来社{日本の名城」)
錦江とは中国の成都を流れる川で 錦をさらすと、ひときわ美しく染め上がるので そういう名がついたとのこと 京都の染色の川にちなんだ俳諧名といえましょうか
ありがとうございました。
匿名の京都のホームページ読者からの情報でした
|
|
|
|
|
二 |
|
|
|
|
「近松は妙見の人」とされています.妙見は このくにで最初にザビエル・キリスト教を公認 長州山口に西の京を築き 長門市の大寧寺で滅亡した大内氏の、北辰を占う守護神です
キリスト教禁止下の江戸時代に とつじょ、妙見講という名の「災難よけ」とされる信徒のグループが 全国各地に澎湃としてうまれたことは よくしられていますが、後に日蓮宗の道場になったこれは、伊丹市に住む三谷松里合同研究員からの連絡によると 妙見参りとして、尼崎広済寺の妙見とともに、全国にしられ 無数の庶民が参詣して拝んでいる能勢の妙見菩薩は キリスト教十字架が、秘められている仏像であることが.発見されています.
妙見堂が新しく再建された兵庫県尼崎市の広済寺でも、本年一月末、キリシタン石碑が発見されます.キリスト教が弾圧された江戸時代 滅亡した大内氏とともに、ほろびかけていた妙見は 災難をよけた信徒グループにより 禁止されたキリスト教の別名の信仰の「講」として復興、
関ケ原合戦で敗れた豊臣の残党武士たちによる 幕府社会への異議申立ての中核勢力として 新たに誕生した舞台芸術家集団の演舞場として、隆盛をきわめたのでした.
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
# 詳細は、研究書「若き日の近松門左衛門」(叢文社発行)をご参照ください.
(註・ご希望の方は 郵便番号7592213 山口県美祢市大嶺町祖父ヶ瀬 宮原英一T&F
0837521424
まで 二千円を同封 お申し込みくだい)

|
|
|
|
|
-d
|
|
|
|
|
クリックしてください 「目次」にもどる |
|
|