当時は日本最大の劇場 大阪屋劇場が 長府のある下関にあった。
劇作家近松は 「そこ(下関)で成人した」ともいう。
佐賀県東松浦郡史によると 「唐津近松寺の遠室和尚が、下関で、少年近松と出逢い、厨房係にするために 唐津近松寺に少年近松を連れて帰ったとある。
大阪屋劇場は 下関の法華教本行寺の境内にあり、「近松は法華経普門品に云うと説いた」とある。
こうして近松が劇作家として修行 成人していった大阪屋劇場は 下関法華宗本行寺境内にあったという。 本行寺は今も下関市にある。
中央の審議会で、日本図書館協会選定図書に指定された私著で、指摘したが 「国史人名辞典」によると 舎弟 岡本一抱がうまれたのは 近松よりも 三十三年後だ。
岡本一抱は三十三歳下の舎弟である。したがって 「近松が上京して 一抱の家に寄遇して 髪をたくわた」というたぐいの話は すべて根も葉もないツクリバナシである。
しかし この近松の曾孫といわれる江戸の文人近松繊月の書いた史料「浄瑠璃作中祖近松門左衛門略伝は 「一抱は 有名作家近松翁の「弟」ではなく、「舎弟」であった」としている。
「雲上式部 地下近松」とされていたほど 著名だった純愛の劇詩人近松に 医師で三十三才下の舎弟 一抱が いたとしても 矛盾はない。 |
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山口県の近松ゾーンの一つ
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「われは田舎育ちの身なれども 今は都に住めばその氣うつり・・」近松自身の述懐 |
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永い間 振りかえる人もないままに 草むらに埋れ 朽ちかけている古い近松生誕木碑 |
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下関市豊田町江良の 神上寺入口に新しく建てられた観光案内板 |
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「われは田舎育ちの身なれども 今は都に住めばその氣うつり・・」近松自身の述懐 |
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近松屋敷とよばれている近松の産湯の地の跡と この研究の唯一の糸口になった かなり以前にたてられ 朽ちかけているが 当時は県下で唯一つ 公的行政である豊田町教育委員会によりたてられていた近松誕生の地を示す朽ちかけた木碑だ。 研究に着手したころは 長門市にあった巣林子顕彰碑は 市民に「スリンコちゃんの碑」といわれているし、ここはぼうぼうたる草むらにうずもれたこの木碑がたっているだけで、「近松とは・・・」と 付近の人にきくと 「さあ。だれのことか・・」と 小首をかしげてうしろ姿をみせて去るのみであった |
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県下唯一の「伝承」として 近松生誕の場とされてきた |
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下関市豊田町にある県下唯一の「近松屋敷跡」 |
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近松が誕生したとされる神上寺参詣(さんけい)に下馬する藩主の馬小屋のあと |
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「近松屋敷跡」と そばで朽ちかけていた近松生誕地を示す豊田町教育委員会の木碑
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もはや朽ちかけた近松生誕地の木碑(下関市豊田町教育委員会建立
)もある。「ここはおよそ二百年にわたり、村の代々の古老たちにより、通称「近松屋敷」とよばれ "人形浄瑠璃の作者
近松門左衛門が 呱々(ここ)の声をあげたところであると
伝えられている」と豊田町の郷土史家 中野盛紀氏の証言である。 |
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山口県企画部発行 定住圏ニュースより |
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近松生誕地史料・下は論文「近松門左衛門誕生地・近松屋敷」を書いた藤井善門氏の紹介
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平成十五・十五月二六日発行
| 山口県地方史学会創立五十周年記念誌「山口県地方史研究者事典」より |
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近松生誕地史料・近松長門出生説の提唱者・山崎徳三郎氏 |
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平成十五・十五月二六日発行
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山口県地方史学会創立五十周年記念誌 「山口県地方史研究者事典」より |
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わたしの山口県の近松門左衛門研究の公的認定は すべてここにはじまる
写真は まだ長門市では近松への取り組みの音沙汰もないころ、すでに草の根の豊田町民の浄財寄付により 建てられた直木賞作家古川薫氏による揮毫や筆者紹介と
解説の銅板が はめこまれている永遠の「近松門左衛門生誕記念碑
である。藤井氏は はじめから「近松は 若君につかえる長門深川村出身の奥女中が 腹に宿した子である(ふるさとこぼれ話)」としておられる。したがって「長門深川の人」ということと、逃げてきた深川村出身の奥女中が、豊田町の神上寺のふもとで近松をうんだということは なんにも矛盾はない。
事実として 長門市長の諮問機関である長門市近松懇話会が発足したのは 豊田町による近松門左衛門生誕碑建立から かなり後のことであったが 近松愛好者の一人である筆者としては 近松が豊田で誕生しようが 萩で生まれようが、遠くの街々から深川にお芝居を観にやってくる歌舞伎 文楽フアンを集客力としてもつ近松座が 長門市がまだこの世に存在せず 「大津郡深川」といっていた当時からあり、周辺町村と合併して 昭和三十年に新しく誕生した新長門市が それを継承して「近松文化推進都市を目指すことは 慶祝すべきことである}という考えには変わりはない。 |
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研究メモ
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発生順位から観た二百年の伝承と、それを原型にして
郷土史家たちにより「内日生誕説」「長門生誕説」など 後でいくつか新しく創られた周辺の街や村の「おらが町の近松出生説} |
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1992年5月8日朝日新聞 |
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筆者は豊田町民でも長門市民でも下関市民でもない。近松の生誕に関しては利害関係を離れて、客観的に観察できる第三者である。
「長門市には むかしから近松は長門であるという伝説があった・・」と 長門市の郷土史家からはよく聞く。確かに 昭和十年発行の 高浜虚子監修の三省堂歳時記の「近松忌」の項目には「近松は長門にうまれて 京都にのぼり大阪で没した」とある。「だから近松の生誕地は 長門市なのだ」というための前置きとして 長門市の郷土史家が よく用いる理屈だ。
大津郡深川町 大津郡仙崎町 大津郡通い村 大津郡俵山村といっていた各地が合流して 新地名の長門市が誕生したのは ついこの間の昭和三十年のことだ。
したがって 高浜虚子が 昭和十年発行の三省堂歳時記の「近松忌」でいった「長門」とは 当時まだ存在しなかった長門市のことではない。山口県を周防長門といっていたころの萩、豊田、下関などをふくむ 山口県の西部広域圏である長州の総称を示していて、三省堂歳時記で 近松が長門うまれと書いてあっつたからとて「昔から 近松は長門市だと語られていた」とはいえない。
長門市そのものが むかしから存在していたわけではない。時系列というのだが そういう時系列のあわないことを いっしょくたにして「長門市には むかしから近松は長門であるという伝説があった・・」などというから 中央の歴史研究者たちから 地方史家が数段ひくくみられる。
昭和三十年に 町村合併により誕生した長門市自身は、まだ市制四十年をむかえたばかりの街である。
それまでは大津郡深川町 大津郡仙崎町 大津郡通い村 大津郡俵山村などといっていた。今も平成の都市合併で 新市名を公募している。
もし 都市合併で 新市名から長門という文字がなくなれば 近松長州説はあらためられて 近松門左衛門は 長州のどこでも通用する「山口県生まれの近松」になる
防長二州とかたられてきた山口県は 周防のくにと長門のくにの二州で 形成されてきた。「むかしから 近松は長門であるという伝説があった」としても、それは「周防と長門の 長門のくににうまれた」という事を意味する まだ新生長門市は なかったころからのの伝説だ。
したがって 近松が長門の国の豊田で誕生しても 長門の国の大津郡深川で生まれても どちらも「近松は長門で誕生した人」といって まちがいではない。
長門市の近松懇話会の席上でも 「近松長州説と書かずに 近松長門説と書いて発表してほしい」という意見はきいた。
まだ誕生して やっと四十年経た長門市があるからこそ 近松長門説と書いて発表すれば 近松が長門市で誕生したことに なるからだ。
近松長門生誕説の長門市民には、このように時系列を無視した、近松長門生誕説が少なくない。
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キリシタン引地君史蹟 |
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キリシタン女性引地君を伝える豊田町史 |
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まだ現在の長門市が 大津郡深川といっていたころ 山崎実翁氏は 豊田町の藤井善門氏の論文「近松門左衛門誕生地・近松屋敷」に感動し
まだそれを裏づける、江戸時代の近松生誕史料は 見つけてはおられなかったが、山崎氏も近松長門説を提唱された。
しかし 豊田町の藤井善門氏の論文「近松門左衛門誕生地・近松屋敷」に学び 感動した山崎実翁氏の書いた近松長門説の言う「長門」も、まだ長門市が大津郡深川といっていたころの 山口県の周防長門の「長門之国」のことで、必ずしも 長門「市」ではない。
昭和三十年、町村合併により 新しく「長門市」が誕生し、長門市の郷土史家たちにより いつのまにか近松座劇場のあった長門「市」に近松生誕説がすりかえられていったのだった。
ヤスバースの「哲学十二講」によると、「いかなる実在するものも"わたしたちの自己確認にとって"歴史ほど重要なものはほかにない」という。
歴史は「自分とはなにか」を知る、自己のよってたつアイデンテイテイを確認する手かがりでもある。
市町村合併により 安易に地名変更をすると、結局は 自分のよってたつアイデンテイテイの喪失につながるという例の一つである。
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筆者は 現在の長門市が むかしから長門と呼ばれていたかのような誤解を避けるために あえて「近松長州説」で通している。
( これによく似た生誕地事件として
後には 長門市のみすずの生家に関する疑義事件がある。 毎日新聞の報道によると 事実としてのみすずの生家は 現在のみすず記念館とは関係のない浜べにあり 塩漬けにする魚の塩で 土間がカチカチになって「塩蔵」とよばれていた みすぼらしい家であったという。それをつきとめた福岡の研究者が 長門市のみすず忌に出席して 「現在のみすず記念館が みすずの生家だと 誤解されるような まぎらわしい宣伝を 長門市がすべきではない」と提言した。しかし「耳をかたむけるものはいなかった」という)。
現在 長門市という街であるからとて むかしから「近松は長門の生まれであるという伝説があった」ことを利用して、いきなり自分たちのすむ今の長門市にするという まぎらわしいことは 歴史研究を名のる人間のすることではない。
当時に立ちかえって見つめると、むかしから「近松は長門の生まれであるという伝説があったこと」と 町村合併により誕生して四十年しか経ていない長門市とは 関係はない。
一 近松の出生については 公史である豊田町史が、日本全国の学者や全国が越前生誕説に加担しようと 一貫して 十数ページをさいて 近松の出生の経緯を伝えているが 他の市史や町史には 近松の出生の経緯にふれているものはない。
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近松生誕の経緯を公史としてつたえてきた豊田町史の一部 |
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お二人とも 豊田町史編纂委員であった故藤井善門氏と 安村石邨氏は「近松は 深川生まれの奥女中と若い主君との間に生まれた純愛の子である。こんなことは 中央の文化人 知識人にいったところで とうてい信じてはもらえないだろう」と いいのこして 世を去っている。
近松が深川生まれの奥女中と若い主君との間に生まれた子であり その奥女中下がり宿が 内日にあったから この故藤井善門氏と安村石邨氏の話をきいた郷土史家たちが 藤井善門氏と安村石邨氏が亡くなられたあと 我田引水の長門市出生説 内日出生説を創作した。
しかし公史として それよりずっと以前から 近松屋敷跡があることや 近松の生誕の経緯を後世に公式に書き継いでいるのは 豊田町だけだ。結局は豊田町史の近松生誕の記録は 永久にのこるが、長門市出生説 内日出生説は それを創作した郷土史家一代だけの話でおわり すでに豊田町史の近松生誕の記録がある以上、公的な記録にはならない。
故藤井善門氏と故安村石邨氏による豊田町史の記述をベースに 国書類ほかかずかずの史料発掘により 更に近松長州説を強固にしたわたしの著作は 中央では「日本図書館協会選定図書に指定」され 全国各地の図書館に配備されたが、郷土史家により 創作された長門市出生説 内日出生説は 下関市史編纂委員会からも 長門市編纂委員会からも 相手にされなかった。
行政としては 豊田町史が孤立無援のなかでも 護りつづけている近松の生誕の経緯を 横どり 換骨奪胎して、自分の町でうまれたことには できないからだ。
したがって 山口県には 原型としては「近松は深川生まれの奥女中と 若い主君との間に生まれた純愛の子である。こんなことは中央の文化人 知識人にいったところで とうてい信じてはもらえないだろう」と いいのこして世を去った豊田町歴史編纂委員であった故藤井善門氏と安村石邨氏による「一説」しかない。
豊田町史だけが いまも近松の生誕の経緯を記載している。
人間は 石の地蔵とはちがい 動く生きものだから 生誕した場所は 一つでも 成長の過程では 長門にいたことも 下関にいたことも 内日にいたこともあるだろう。それと出生地とはちがう。
これが豊田町民でも 長門市民でもなく 下関市民でもない 第三者として調査した調査結果である。
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また長門市江良で 近松の末裔を自認されている江良岡本家の老女は 「近松を妊娠した女性が 豊田町神上寺に逃亡して 神上寺の寺男に救われたと聞いている」と 筆者に証言された。
長門市で「近松茶屋」を営業されていて 近松の末裔を自認されている岡本家も やはり 近松豊田神上寺山麓出生説である。 |
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紅葉の美しい神上寺付近 |
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不連続の連続である江戸時代から明治につたわる歴史史料 一 |
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その家は彼の椙杜という家から出たもので、椙杜というは もと三善姓の人でござりまして 毛利元就公のお子さんが
いったん行き お帰りになったというような すこぶる旧家でござりまして 周防の玖珂郡の椙杜におったために 終いに椙杜という苗字をつけられたというので 最も藩政に力をつくした、功労のある家でござります。 三隅の村田峯雨講義録より」 |
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不連続の連続である江戸時代から明治につたわる歴史史料 二 |
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近松門左衛門は 長門深川の人なり 唐津近松寺碑文 |
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私自身は 美祢郡の美東町赤郷でうまれたが 中国のチンタオにもいたし 山口市も永いし 美祢市も永い。新聞テレビでは 「美祢市の作家」と紹介されることがおおい。しかしそれは かならずしも「美祢市でうまれた」ことを 意味してはいない。{近松門左衛門は 長門深川の人なり}も 必ずしも 長門深川でうまれたことを意味しているとはいえない |
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| ・・・ 領分で生まれたか あるいは萩で生まれたか その出生地はわかりませぬが とにかく近松門左衛門が 長く居た領分地としてはそのころの長門深川村でござります |
| 「明治の東京神田にて 三隅の村田峯雨講義録より」 |
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近松門左衛門が長く居た領分地としての そのころの長門深川村
には のちに近松座があり 近松センベイも売っていた。全国各地ま人々がよまれたとおり 敗戦跡の長門市に「近松座」があり「近松せんべい」をかしりながら 近松座で 映画をみた
その近松をモニュメントした「ルネッサ長門」を 県が県民芸術文化劇場としてたてた。
長門市民の「近松座劇場」が 山口県民の近松座劇場に そして日本の近松座劇場になる
すばらしい展望だ 過去の確執からではなく そういう未来から 今を回顧すべきだ
入れ物はできた 後は中味た゜
つまりハードつくりの期間がおわり ソフト情報発信への転換である
「たましいの時代 どんな質の高いたましいをゆすぶり得る演劇情報を ここの舞台から県下に 世界に発信し得るのか」がとわれる 最高のコンビューターがあっても 発信する情報が低いレベルで ムダになるからだ
まちがっているわけでは 全然ない
そのうらづけは 近松門左衛門は 毛利元就公のお子さんが いったん行き お帰りになったという旧家で 周防の玖珂郡の椙杜家の人とある 三隅の明治の偉勲村田清風の孫 村田峯雨氏の講義録だ
しかし出生については 明治にすでに村田峯雨氏が「近松は長門深川村
で「うまれたわけではない」」と明らかに 否定されている
記録には「椙杜主殿守広品は 豊田二千石の領主」とある
ちなみに 山口県文化史年表では 豊田村に江良はあったと記載されている。このあたりは今後解明すべき謎だ。山口県文化史年表には 大津郡深川には 江良があったという記録はないからだ。
豊田の神上寺のふもとで 近松を産んだ女は 純愛という複雑な経緯であれば もどるべき実家のない女である。その後 豊田にいた カトリック二代目にして ザビエルの名をもらったフランシスコ毛利元鎮が 幼い近松を ひきとったことは、明治にすでにいまの 湯田一帯の吉敷毛利として 領地移転はしていたが 毛利元鎮の家老の松村家が 「近松の養親だった」として 県に公式に名乗りでたことでわかる。
松村家の申し立ては証拠不十分として 当時の県庁に 却下された。
近松の母親の複雑な妊娠 近松の誕生の経緯からして 「産まれた場所」と「イエとしての産まれた家」と 異なるのは 珍しくはない。
| 参 考 |
萩市史を調査してみた。
村田峯雨氏の ことばたらずをおぎなうと 当時の萩藩は 財政事情が逼迫し 藩士は一年しか 萩役宅勤務は しなかったとある。
還俗した杉森平兵衛も 萩城下町人名録にある 三の丸の椙杜役宅にいたのは せいぜい一年で あとは分家の椙杜に居た。したがって 父の広品家を喪失した近松が 「長く奇遇したのは やはり椙杜の領分地 分家のある長門深川村」である。
「江良はよいとこ近松産んで」という場合 蒼少年期にながく居たので 江良をいうのか 呱々の声をあげた豊田をいうか 日本語はきわめて アイマイである。大坂が産んだ上方作家 近松門左衛門という場合すらある。これも必ずしも 大阪で生まれたことを意味しない
すれば 生々流転を重ねたゆえに 各地にある近松の影も どれも 山口県民の誇る近松の影である・ |
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たとえば わたしは美東町で出生した近松研究者だ しかし三十年したしんでいるから 「美祢市が産んだ近松研究者だ」といつても まちがいではない。あるいは山口で中学 高校にいったから 「青春の山口が産んだ近松研究者だ」といっても まちがいではない。
「物書きをこころざすなら 英語かフランス語か 外国語をひとつやれ」といわれる わたしは表現者だから 日本語の英語表現として 和文英訳の十二巻テープを 寝ものがたりにきくことにしている
「税金があがった」とは 英語はいわない 「政府が税金ををあげた」という
文章が自然に英文型になり 正確につたわるようになるためだ
この場合も He was bornと 正確に表現する英語と 意味のあいまいな{江良がうんだ}という日本語のちがいである。
He was grown with people in ERAも日本語では「江良がうんだ」と表現している
もっと広い世界にでよう
広島県にも 当時から 萩藩のご典医で 近松門左衛門の末裔とされる いまも医師である家も健在である。
広島のその医師は 「近松は萩藩のご典医を 先祖とする自分の家のうまれだ」として ずっと以前から 近松終焉の地尼崎の広済寺に 近松の残した「養生訓」を 寄贈されている。
いわば尼崎の広済寺は 長州人近松史料を 筆者からだけではなく 著者のあずかりしらぬ その医師からも 別個に寄託されて記念館に展示されている。
そういう経緯があり 公式な近松門左衛門菩提所のお寺ゆえに 県の地方史学会に発表し、かれこれ七 八年前より 長州説検証一事にすごしている私とは 親しく情報交流があり 尼崎の広済寺は 故司馬先生にも 親しくご教示もいただいた私の論文を ずっと近松終焉の広済寺のホームページで 福井系図と並行して 世界にひろく紹介されている。
もっと広い世界にでよう
地方史家たちのわずらしい過去のしがらみには 無関係の 長州萩藩の県民の近松という 「未来から今を回顧する」新しい時代のわたしたちは 近松が長州萩藩の臣であることには みじんも疑ってはいない
長崎にも 自分の庭に 長州萩の近松のモニュメントのある末裔がおられて ここは「この家から 毛利藩の近松家に養子にいった」ことになっている。「萩藩には近松家はなかったが 長崎にゆかれた椙杜の末裔だ」と お手紙をさしあげると よろこんで 応援するとのお手紙をいただいた
唐津にも 杉森という医師が 「長州萩の近松の末裔」をなのり 庭にはモニュメントがある
ふしぎに 先祖代々医師であることが 共通している
蘭学の天才 大村益次郎を末裔にする医師椙杜家が 蘭学に キリシタンとともに手をだして つづけざまに 萩沖の三島に 二代とも島流しにされている・
近松の「なきにひとしい人に注ぐ人間愛の目」にも あきらかに キリシタンの影響がある キリスト教とともに はいってきた 洋学先駆者の家だろう
著者とともに尼崎の広済寺にいった 山口県の地方史家たちのしがらみには無関係な 伊丹市の三谷松里さん 尼崎市の北和子さんと 美祢市出身で尼崎まちづくり委員の松本満子さんのほかは まだ山口県のだれもしらぬ あらたな福音 「長州萩藩の近松の知られざる末裔の広島の医師健在」は 近松が長州萩藩の臣である事実を さらに補強し また明白に実証したからだ
「
真理こそ あなたをあらゆるものから 自由にする」 バイブル
近松は領分で生まれたのか あるいは萩で生まれたか その出生地は わかりませぬ。
しかし 発掘分析した豊富な史料とともに あらたにわかった広島県の 先祖は萩藩のご典医で 近松の末裔とされる医師のご健在は わたしたちをして 近松が長州萩藩の人であることを ますます 一歩もゆずるわけにはゆかぬように 拍車をかけてくれる
遠い尼崎での 広済寺住職石伏氏との史料にもとずく 真実の近松像探索の協力体制ゆえの賜物である
一流をなした人のアドバイスには いつも 人生の真理がある
「今からは それ一事には 歩く百科辞典のごとく くわしい 専門家が必要とされ 社会をリードする主流になる時代ですよ・・・」と 雑談の折り 篠田映画監督に それとなく示唆された。
地方の時代ということばが 過去の地方史家のわずらわしい確執をひきずる地方エゴの対立になり 同じ県民の間に 感情的な分裂と対立をまねくような作為は きびしくつつしまなくてはならないからこそ 全国一区の水先案内になる書をかいた
そして 「いろんな人がたずねてくるようになるから ブームに便乗して 「あれはこういうが これはこういうというような みっともない町にだけは ならないように」と 何回となく長門市や豊田町の講演でお願いした。
情報にお金をつかう高度情報化社会に 近松長州説は 世界でそれしかないし 著作権がうるさい時代でもあるから いかにも自分がしらべたかのような 二番煎じの盗作はしてはならない。
いずれにせよ ゆとりの世紀のほかの作家や詩人とはちがい ケタはずれに世界的な文豪のことだ
公的な巨費を投じた近松モニュメントが完成した以上 近松による町づくりも いまから一進一退をくりかえしながら 次第に洗練されてゆく
ゆとりをもった情報化のまなざしが 必要かも知れない・・・・・
いま 上のエライ人は「いつ どこで なにが起きてもふしぎはない」といわれる不安な時代だ
とうに実存の世紀
「フランス人が本当に自由で 生き生きしていたのは フランスの権力を握っているナチスどもに抵抗して たたかう時であった」という 単独者の実存哲学の巨頭ジャンポール・サルトルは これを「沈黙の共和国」と云う
上のエライ人が気がつかぬうちに 正義感の強い沈黙の共和国の住人 インタネット世代が 勝手連として かぎりなく この稀少価値情報歴史の真実のホームページを 横にひろげてくれている
宇部ちかくのゴルフ場のそばに ペイザンというレストランがあり 新鮮な人気をずっと維持 独占している
ペイザンとは スペイン語で 「異端」という意味だ
霊性の世紀とされる現代 衰退して行く既成キリスト教を尻目に ぐんぐんりびているわたしの属するキリスト教ホーリネス派も 日本基督教団から ずっと異端視されてきたキリスト教派だ
いま主流になっているいい加減エッチな大坂新喜劇も 正統演劇からは ずっと異端視されてきたサブカルチャー文化
ものの考えお方のたとえとしての「これから 社会のリードバイオリンは詩人と芸術家にわたされる世紀になる(近代の終焉を宣告したパリ世界会議から帰国した故湯川秀樹」の声明)とは 周囲に右顧左眄して 官能に否定的に対応してきた近代が あしもとからくずれて 官能の狂おしい歓喜の主体的な自己肯定 実存派ベルグソンの世紀の到来を 社会のベースとした 「これまでの異端」が 社会の主流になる あたらしい世紀だということだ
民間町史「ふるさと神崎川」という 尼崎市にある記録によると 諸法度で カンジがらめに縛り上げられ 四角四面の武家の世を呪い 刀を捨てて筆にかえた近松のいた広済寺 そこにあった近松の執筆部屋。
そこはは 上にあがるハシゴの根もとのまわりに 積み上げられた薪の中には 精神異常者たちがいつもたくさんたむろしていて だれも怖れてよりつかない 物置小屋の二階だったという
時を超えた ユングのいう自己意識下の意識の九倍もある巨大な無意識のはたらきによる 意味ある偶然の一致を 支配している 東洋的ヌミノーゼの存在を ふと感じたのだった。
いまはもう 福井生誕史料はないことはわかっていて なお頑強に福井生誕に固執している権力者の尼崎で あらためて 「歴史に忠実であった」と再評価され 登場するのも またまた 支配者も交代した 後世になるかもしれないと 独りで苦笑したのは いうまでもない
むろん 常に大きなものがたりを語りつづけてきて 自壊したマルキシズム史学ともちがう
近代の終焉とともに それまでは異端視されてきたユングの深層史学になり それまでは 社会の底辺にあり 深奥にひそんでいたが 実はそれが 歴史を動かしてきた無主無名の民衆の一人ひとりの 心身の深層 社会の深層の軸が いま表面化しているのだ
いわば一部エリートたちの歴史記述ではなく 有史以来 無名 無主 無字の真の民衆の一人ひとりが 泥棒は泥棒として 異端者として 健康で生き生きと 歴史を動かす 活力ある主人公で ありつづけた ホンモノの 民が主の民主主義史学の世紀だ
独創は常に異端である
そして異端のなかからしか 新しい時代はうまれはしない
現代のキリスト教は 異端どころか 口ではアウトサイダーをとなえながら その実 もっとも頑迷な保守に転落して 潜在的に秘めている本来の異端性を喪失 その魅力も輝きも 喪ってしまって久しい
いまでこそ 広く欧米まで 不朽の名作とされている「曽根崎心中」も 当時は 独り天下の名作とうなった荻生狙来を除くと「こんなものを上演されると 風紀がメチャメチャになる」と 権力におもねる儒教社会の道学者たちによる すさまじい酷評にり異端視されことを ここに記しておこう
西欧で「いま近松」という声望とともに 脚光を浴びている 遊女もまた こうした異常な執筆部屋で 筆をとり あらゆる意味で 狂人ににた不屈の異端の筆をとりつづける世界的な天才 近松の筆により いままでは だれもふりかえらない周縁におかれていた 色恋という名の 官能のエロスの 心身の深奥からつきあげてくる熱いうずきに狂い それゆえにこそ その瞬間 この世でもっとも美しい 世の常ならぬ愛の女神に変身 西欧では 垂涎の唯一永遠の美とされるジャポニスムとよばれる 日本的な超獄彩色の揚羽蝶がはばたくような 「異端の女たち」だ。
歴史を もっとシビアにみなくてはならぬ
当時 「曽根崎心中」にすさまじい酷評をあびせた 権力におもねる道学者たちの名は 後世には残ってはいない
いまも明星のように 燦然とかがやいているのは 権力におもねる道学者たちに非難をあびせられ 異端視された近松門左衛門であり 周縁の女として 世間から疎まれた異端視された遊女である
町ぐるみ公史として 全世界の近松福井生誕の世間にに 異端を通してきた豊田は 異端が正統にとってかわる 新しい世紀に ふさわしく 高度情報化社会に 全国一区の近松の焦点に昇り あいもかわらず 静かである
ついに発見した椙杜主殿守広品の役宅
註 |
わからないことを 推測で地方史家の権威で あれこれと推測したことを 事実であるかのように 断言してしまうのは良くない
つい先日七月二十三日 下関市の文芸誌「海虹」の編集長 瀬戸諒氏(下関市阿弥陀寺町在住)とかれんと「花恋人」の井手くみ子さんに つれていってもらった 門司の古書店で買った 安くない古書をよんでいて ふと記録をみつけた
わずが数行の遠い死者の記録がある古書を 数万冊の膨大な古書のなかから 無意識にぬきだし なんとなく無意識に購入してかえる。
一枚の記録のなかに居る死者が 数万冊の膨大な古書のなかから
おのれを探しもとめる生者を こうしてよびよせるそれを 以前は異端とされ 今は「現代人の宗教」といわれるにいたった深層心理学者 クリスチャン・ユングは モノと人間の「たましいの共振」という
ちなみにユングは たましいとは 生けるものと死せるものとの境界に在るという
「死者は形をかえて なお存在しつづける」
これは フッサールの「言語現象学」の実存のテーゼの一つである
やはり以前のように 人は「とうに死んでしまったから もう居ないのだ」などとは もうとうてい いえぬユングの時代である。
死んで もういないはずの死者の手引き 近松史料の発見はいつもこうだった
記録から目をはなし しばらくぼんやりして 白みかかって 朝の気配がしている夜開け前の くらがりをみていた
研究をはじめて 足かけ十五年目の つい先日の体験である
X X
著者の予感していたとおり 村田峯雨講義のとおり 長門市の岡本家のいうとおり 事実として若き日の近松は そのころの長門深川村に 長く居たのは居た。
しかし 父の広品の家を喪失し 杉森姓にもどされた天涯孤独な少年 近松が居たのは 分家の椙杜の家で 彼はずっと生涯「寄遇の身」だったのだ。
「まわりに 嵐をよける大木のない野中に育った たった一本の幼い若樹は もし育つなら かならず天下の大物になる」という イギリスの古来のことわざがある
心理学者アドラーの確立した定説によれば 最低 中産階級の家庭にうまれ しかしなんらかの理由で 家庭崩壊になり没落。すでに幼少期に 甘えるべき父母から引き離され 身のまわりから 生きて行く社会生活にいたるすべて 他人依存でなく 自分の直勘で判断 自分で企画して なにもかも自分の手で なしとげねばならぬ 有為転変の激しい ある意味では 苛酷きわまりない 天涯孤独な生育環境においつめられることは 天才的な芸術家をうむ 必要不可欠の生育条件である
まさに幼いときから 他人の水のなかに ほうりだされた近松だった
近松が 唐津にやられている間に 絶家した椙杜広品の屋敷が 椙杜主殿守が署名した記録の発見により ほぼ確定した
広品が署名しているその記録を 次に書いておく |
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赤間関町医村田周伯 村田三静事 療治出仕候段 令承知候 依之白銀五枚宛被遣候条可申渡候以上
申十一月十九日
時 権太夫
椙 主殿
細 宮内
熊谷平太左衛門殿
細川とか椙杜とかの 姓名は 頭文字一字しか かかなかった
この村田は 肥前竜造寺末裔で 岡の原付近に居たので この土地が萩本藩領になつたために 下関新地に属し 以後新地の庄屋をつとめた
周伯 村田三静という医師もでている
その周伯 三静が医師として治療に精を出しているので 白銀を五枚宛 被遣わすよう 椙 主殿をふくむ三人の役人が連署した上で 熊谷平太左衛門に申し渡したという下関市長崎町と長門町の記録である。
椙杜主殿守広品が長府藩役人として 申しわたしたのなら 椙杜主殿守広品の屋敷は長府である。
本藩の役人 椙杜主殿守広品として 本藩領の庄屋に 白銀をわたすべく この申し渡しをしたものであれば 椙杜主殿守広品の執務する「役宅」は 長府藩の藩庁のある長府ではない
本藩である萩観光案内図には 萩市春日神社のむこうに 椙杜屋敷跡の碑がある これは椙杜八郎の役宅の主じとして記載されている 若き杉森平兵衛のいた屋敷跡だという事実を書いておこう
毛利元就の外孫の椙杜主殿守広品は短命 四一才でなくなり 家は絶えた。
一夫多妻の当時 異母兄弟の腹ちがいは ありふれているが 近松の弟にあたる元世は 笠岡に移転して 三原正伯と名を変えている。医師であったという。興味ふかいのは 多分これもキリシタンに帰依した キリシタン黒田藩主の重臣 栗山大膳は盛岡に移転していることだ この時期 キリシタンであった高級武士は 主家を辞し一族離散 あらたに欄学医として再起 あちこちに散っていったものと考えられる すれば短命であった椙杜主殿守広品も キリシタンと無縁とはいえぬ
なぜなら 「萩藩閥閲録」によると 後に長門深川と鋳銭司を領地とする椙杜家 椙杜元嶺は 長門江良に屋敷があったが鋳銭司屋敷の椙杜端嶺も 医師である。
椙杜端嶺の子孫は 二代にわたり 萩沖の三島にながされている
当時 キリシタンは二代にわたり 監視下におかれたことを重ねると 椙杜一族のキリシタンの系譜が浮上してくる この二代にわたり 萩沖の三島にながされている椙杜端嶺の子孫の末裔に 江戸攻略の天才にして 欄学者の大村益次郎が産まれている
維新の鬼才として あまねく知られているが 萩の医師小栗孝庵とともに 日本で最初に女体解剖の執刀をし 男性とは異なる女性の内臓をあきらかにし 女性にとっては救い主 婦人科医の氏神となった功績は あまり語られていない
旧弊の作劇法をことごとく天地逆転 根本からくつがえし 周囲の非難をよそに 舞台芸術維新をあうて強行突破 後世に作者の氏神となった近松といい 周囲の非難をよそに日本で最初に女体解剖の執刀をして 女性の救い 婦人科医の氏神になった椙杜家の末裔 大村益次郎といい あえて常にタブーに果敢に挑戦し つねに旧弊を打破して 敢然と新世紀を 築いてゆく進取の気象が 新時代の夜明けとなった世界に。永遠にほこる県民性である。記録をみると 大村益次郎もまた 近松と同じように 正妻の子ではないという。孤独の運命の星を担っている。
元禄の再来である 現代のように 性が熟れたイチジクの実のように 爛熟の香りをはなち 乱脈をきわめてくる時代こそ 改革の天才が 輩出してくるゆりかごの世紀といえるだろう。
豊田で生まれ 唐津にやられ 長門深川に長く居た近松 四千石の大身 椙杜主殿守広品屋敷にいる正妻は まだ少年時代の父に抱かれ 内密裡に始末された自分をうんだ母ではない。やがて成年になった父椙杜主殿守広品が 正式にめとった正妻のいる屋敷だ
いわば少年近松にとっては無縁の屋敷である。
萩でも 周東の祖以来の杉森姓平兵衛として 分家の椙杜八郎名義の借家主として 勤務している
産まれた「場所」でなく 産まれた「イエ」となると 萩の椙杜も近松の産まれた「イエ」である
「江良はよいとこ 近松産んで」とは まさに江良は民謡のとおり 産まれたときから 自分の居場所のない あどけない少年近松を のちの東洋のシェクスピアにまで はぐくんだ良いところという意味である。ただこの民謡は絶えていて 江良の人でも せめてメロデイすら覚えている人はいない。
こうしたところに むしろ父広品豊田四千石屋敷はあっても そこを差配しているのは まだ少年時代の父椙杜主殿守広品に 日々抱かれて 自分をうんだ 広品の乳母である母ではなく いるのは正妻であるという 居場所がどこにもない 生々流転の少年の近松の姿を わたしたちはみる。
創作小説北浦乱菊ものがたりは 別にして 史実を軸に 作家近松のにんげん像を分析するならば むろん少年近松は 母を恋うあまり 父椙杜主殿守広品四千石の屋敷をたずねた
広品の乳母として そこにいる母とは 我が子 幼い近松少年をみて 肺腑をつかれながらも なお知らぬ存ぜぬで 玄関払いをくわせた母であった
「まあ して ととさまの名は」「ああい」 「まあ ア、ア、ア、して母さきの名は」。。。。いまに 人々の紅涙をさそう「丹波の与作 待夜の小室節」の親子の出会いの 底をながれる業苦を背負った近松叙情の強烈さが どうして形成されたか
生家あらそいよりも よほど興味がふかい。
萩観光地図にある春日神社ちかくの椙杜屋敷あととは そういう親子の情愛と侍社会との矛盾が 幼い少年近松に すべてしわよせされ もだえ死なんばかりの情愛の葛藤をになった若き日の近松の 寄遇の場といえる。
ちなみに「江良はよいとこ近松産んで」と 民謡にのこるのちの近松を産んだ江良は 深川正明市場の町はずれの 陸上運輸通信のセンター 馬子たちのたむろする駅逓があった集落である。
当時の階級として 藩内の社会的地位はどうであったかは別にして 茶花道に熟達し 和歌の創れる女でないと 女のあこがれ 晴れの女 遊女には採用されなかったように 無文字社会に 文字のよめる人 文字が書ける人でないと 駅逓はできない
明治以後も 複雑で宛て字の多い人の名前を 正確によみわけてゆく識字階層 村のインテリ郵便局員を中心に 村の文化サークルが あちこちに 育った理由でもある
たとえ 藩祖毛利に血筋のつらなる自分であろうと 父広品と母であるその乳母に しらぬ存ぜぬで玄関払いをされた 彼は 武門のほまれを誇るタテマエ社会システム 侍社会のルールのなかては ひとりのにんげんとして 生きてゆく場が まったくなかった。
江戸時代ブームである しかし「丹波の与作待夜の小室節」にあるのは 世俗にいう「義理と人情の板ばさみ」というような 甘っちよろいものではない
正妻と寝間にはいる広品に 日々抱かれた女 乳母として いまだにつかえながら 逢いにきた その広品との間にできたわが子を こともあろうに 知らぬ存ぜぬで 玄関払いするしかない侍社会システム
人間を石にする非人間的な武士社会の 根底への痛烈な怒りと批判が 後年の近松門左衛門をして もはやあらゆる既成宗教の聖職者を超えた聖職者として 孤独な異端者として 根底からの社会批判としての「丹波の与作待夜の小室節」を かかしめたのである。
イエスがエルサレムに はいってきたときは 「路傍の石が叫んだ」という。
ちかまつもまた「丹波の与作待夜の小室節」を描くことにより 人間を石にした非人間的な武士社会の 路傍の石をして 叫ばしめた。
それは幕府側からすれば 儒教というタテ社会の論理をつらぬく幕藩体制を 根底からゆるがしかねない 終生 監視下におくしかない もっとも危険な存在であった
そこまで監視されてもなお 孤独な異端として 精神異常者とされた人たちに階段の下をまもられて 屋根裏の部屋で不屈のペンをつらぬいたその近松を 近松たらしめたたましいの証しが 唐津近松寺にいまも三基 キリシタン碑として 神とともに屹立している
それはおなじ女人芸でも 権力を基盤とした仏御前とちがい いかなる大名にも こびへつらわず 河原にあつまる民衆を唯一の生きるよりどころにしたと 人名辞典につたわる 胸に十字架をかかげた 出雲のお国と 通じるたましいである。
人名辞典によると この世を支配しているはずの諸大名のだれにも こびへつらわぬ エロスの恋もふくむ その自由奔放な彼女の姿に 将軍をして「真に天下をとっているのは 諸法度にしばられているわれ 将軍自身ではなく あのお国にほかならぬと ただ嘆かしめた」とある出雲のお国
生年月日不明 死亡月日不明のお国は 長崎のカトリック大殉教の直前 とつぜん 風のごとく姿が消えた
大分の別府温泉にある湯源 真っ赤な湯が 煙りをあげて ふつふつとたぎる血の池地獄をみたものはだれでもおぞ気をふるう
かってキリシタンの男や女が 全裸にされてさかさにつりさげられて そこに漬けられた。 たちまちにしてゆでた赤エビのように 全身の皮がむけおちる
顔もなにもみわけのつかぬ赤身だけの人間になったという
長崎のカトリック大殉教の直前 消息をたったお国が 胸に輝かせたザビエルキリシタン十字架ゆえの捕縛 拷問死でなくばよいがと 案じるのは 独り キリストに在る文士を自認する筆者のみではないだろう 全裸にされて さかさにつるされ 煮えたぎる血の池地獄に 湯漬けにされたとしたら 救いようのない気持ちにとざれるからだ
をなぜなら彼女の胸にかがやいたキリシタン十字架こそ 島腹の乱のあと 三万数千におよぶ キリシタンジェノサイドにより ひとびとが唇にくわえて 獄吏の白刃の下に つぎつぎとたおれていった その唇にくわたキリシタン十字架と まったく同じものなのだ
最近は「自由のゆきすぎだ」という 権力が随喜の涙を流して喜びそうなことをいうオモネリ言論もある
だが 本当に最近の人は 心底からたましいは 自由であろうか
すれば ナチスとたたかい その圧制から解放された現代フランス人は 自由ではなく不幸であるとしか いいようのない「フランス人が もっとも自由で生きいきとしていたのは 圧制のナチスとたたかうときであった」と 逆説的に自由の本質を語るジャンポール・サルトルのことばをおくろう・・
禁じられた恋とは いかなる価値観からも 打算からも自由な もっとも生きいきとして輝く瞬間であるとしたら 古今東西の名作をつらぬく男女のテーマ 禁じられた恋とは 人類がまだ未解決の 本質的な自由をもとめる人間の無意識領域の たましいのものがたりなのである
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今日セックスについて語るのに 顔を赤らめる学者はもういない。しかし その人のその時の快感衝動リピドーを発動する 根源的な「たましいについて」となると だれも口をとざすのである |
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たましいの存在を凝視しつづけた科学者ユングの「分析心理学」より |
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たましいの新しい世紀である
妻の立場 遊女の立場などと なんの感動ももたらさぬ ものわかりのいい評論は 近松門左衛門においては 無意味と化す
セックスが その目的とされてきた 妊娠 出産の体系から 解放されたとき はじめて それは 「肉のいとなみ」でなく 二つの「たましいの営み」であることが分かった。
古来 いとしぼい女と 立ち居ふるまい そして床いりも抜群の 腕の人気遊女のことをいう
離婚多発の社会に もし それゆえにこそ 二人のたましいが 根底からむすばれて もはや別れることなど 思いもよらぬほどの エロスの極致が なんと 人妻ならぬ遊女たちの「いとしぼき」にのみ 有りつづけることを 世に警鐘として 鳴らしつづけた近松ゆえの 西欧キリスト教社会の近松ブームの理由の一端でもあるとしたら 「現代は愛しているから夫婦なのではない。離婚していないから 夫婦を名のっているだけなのだ」というカーネギーの 現代人がうろたえて こたえることばを失う鋭い警句に 女性の経済的自立にともなう離婚多発の しかし それゆえにこそ 声たかくかたられる「たましいの新世紀」は どういう新しい愛の文明のシステムを 回答として みつけ得るだろうか
文明論としての近松のエロスのたましいの新世紀であるからして・・・・・
でなければ 二人で購入したマイホームのローンが かろうしで 離婚を阻止する金しばりという方法になるとしたら 「モノよりこころ」とこたえる人が大多数のこころの世紀
「近松はもうふるい」どころではない
たましいの世紀に 離婚多発ばやり現代の愛どころか 逆にくるおしいエロスにより 死にいたるまで 永遠にわかちがたくむすびついてしまった二人の「たましいのできごと」して 純愛をとらえた その近松から 人類は まだ嘲笑されるつづけるだけになる
社民党フレア首相により あえて「国民の王妃」と命名されたダイアナ元王妃。
地雷撤去運動に たたしめた愛人との 美しいたましいの夜が 露見
しょせん 本質的に体制擁護派でしかないマスコミにおわれて 疾走する車のなかで ついに激突心中を決意した瞬間
ハンドルをにぎりしめ あの世界の人々の耳目をあつめた 愛らしい唇からもれたのは 曽根崎心中のお初の「この世の名ごり 世の名ごり 死にゆくわが身をたとうれば あたしケ原(墓地)の道の霜 一足ごとにきえてゆく 夢の夢こそあわれなれ」でなくば なんだったろう
近松がふるいなら 国民の王妃ダイアナの死から わたしたち人類は なにをまなびとったと いえようか
マスコミが本質的に体制擁護派でしかないというのは 王妃も皇妃も 夜ごと重ねているのは 出産のための しかも男子をうむための営みであるという押しつけを 露骨に隠さぬのが マスコミだからだ。
そうであれば 産まれぬ性をかさねるたびに むなしい営みと感じるようになる人もあらわれるだろう。
にもかかわらず 離婚もゆるされぬ帝の妻として
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ザビエル・キリタンの「影」
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殉教は どこの地も苦難の状況はおなじだ。
来年はきらら博のイベント近松国際シンポジュウムに 世界中からやってくる蒼い目の近松研究者も ここを訪れる
しかし 禁教下に信仰を貫いた彼女の 山奥の終焉の場に たどりつくには、津和野の乙女峠のように 寂しく胸をつくような細い山道の うねうねした登り坂に 長いながい鎖を 自治体に設置してもらい それを伝いながら 下から水桶をかかえて 倒れてはまたおきあがりつつ はるかな 山奥の小屋にたどりつき 蟄居させられた大友総麟の姫にうまれた彼女マジェンシャの すりむいた血と汗みどろの苦難の大地を 這いあがりつつ やっと たどりつくしかない。
以前は 下関カトリックの修道女が ときおり ミサをあげに 訪れていたという。
いまは 昇る道は荒れている |
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近松研究メモ 近松と金子みすず
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劇詩人近松門左衛門を詩論で語るなら 長門には 近松詩文の系譜に 詩人金子みすずがいます。なぜ系譜がつらなるかというと みすずの母が 浄瑠璃に心酔していたからです。
みすずの詩の深層には、母が心酔していた浄瑠璃が投影(とうえい)していて それがみすず詩の個性であるといえます。
深層意識の探求は、まだ日が浅く すべてはこれからの新しい研究世代の研究課題といえます
もし みすずの詩から 近松作品から、祭文(さいもん)の島唄に
たゆとう日本海の男波 女波を聴き取ることができたなら、香月画伯のこころの源流もふくむふるさとのこころの底層の研究が 奥行きの深い厚みのある同じ一つの豊饒(ほうじょう)の海として、発酵(はっこう)してゆくことになります
表層ではなく 深層を引き出してゆく時代です。
近松門左衛門をかたりながら みすずの詩を紹介してゆくことにします。
みすずのことばの奥にひそむ潜在意識から、長門深川の近松座の舞台で語られていたのか みすずの母が心酔した三味線と浄瑠璃の旋律を、ひきだすことができたら わたしたちはすべてを優しく包み込んでいやしてゆく、近松作品のヒロインの原型、近松の深層の女性像アニマ(ユング)が、みすずのこころの基底にも、形象されていることに 気づくことになるでしょう。 |
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長門市仙崎のみすず名所 金子文栄堂は みすずの生家ではない |
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長門市が発信するあまりにも神聖化された金子みすずと 実像の金子みすずとの違い |
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福岡文化サークル足る日の会会長 山部英達さん談(毎日新聞二OO二年十月九日号より) |
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「みすずの父親の仕事は、渡海船(今ならミニ海運業か)なので、生家は浜の近くにあったはず。長門市役所の仙崎出張所の、出生番地を現在の地図に照らして確認したら、みすずの生家は、やはり文英堂ではなく 浜の方でした。また調査にかよううちに知り合った地元の人も、「みすずの家は{塩蔵}と呼ばれるほど小さく、土間などは 魚の塩漬けにつかう塩のために、カチカチに締まっていた」と教えてくれた
一九九七年三月、長門市の仙崎であったみすず忌に参加したとき 地元顕彰会に提言した。
「文英堂がみすずの生家だと誤解をうけるような 紹介のされかたは、問題がある。きちっと 区別した上で 生家も顕彰すべきだ」と。
しかし、耳を傾ける人はいなかった。
地元が本当のことを顕彰しないとは 情けなくなりました。
また みすず忌では 「みすずと呼び捨てにはできない」とか「研究対象にすべきではない」とかの発言もあり 少しがっかりしました。
地元が発信するみすず像は 神聖視のあまり 実像とは微妙に差があり 山部さんは「もう 独りで研究する決意をした」。十月九日の毎日新聞山口版のトップ記事より
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したがって 現在の金子みすず記念館は みすずの生家というより 兄の堅助夫婦が あとを継いだ書店でした。
筆者自身は詩人金子みすずが嫌いではないが 他に維新の女流詩人菊舎もいるし、みすずもたくさんいる詩人のワン・オフ・ゼムとして、冷静な研究をして、日本文学史にきちんと位置づけないと「ただのブームで、は、一向に燃えない近隣都市民に、長門市民自身がやがて「みすず担ぎ」に疲れ果ててしまう」だろうとおもいます。というのも 長門市民はみすずフイーバーしていても 県内のほかの街にゆくと、みすずのことはまったく話題にすらならないからです。というのも「童謡詩人」というのに、「からたちの花」や「みかんの花咲く丘」のように日本中の人々に親しまれている有名な童謡が、なぜか金子みすずには、一曲もないのに、「若くして性病で自殺した気の毒な女性」という興味本位のスキャンダラスな話ばかりが、ひとりあるきしているからです。それもみすずからの黴菌の感染をさけて子どもをひきとった夫が、みすずに性病を移したときめつけられています。身体の構造上、女性の場合の黴菌は共同浴場の腰掛けなどでも感染することもあり、とりわけ色街を転々とした金子みすずの性病の感染経路は、だれにもわかりません。実弟の上山雅輔は、西条八十らとともに、作詞作曲界で活躍した人でしたが、仲がよかったはずの姉みすずの創作した詩は、童謡か歌謡曲にしてでもレコード界には出していません。みすずは私も投稿している「燭台」にも投稿しているいわば筆者の先輩です。みすずがあたかも救いの女神のような女性であったかのような聖化 絶対化をしたり「みすずさんはプロレタリア解放の戦士だった」とかの発言や評論をみると「そもそも、詩とはなんだろうか」と思うことが、少なくないので、筆者としてはみすずにはあえてノータッチにしています。近松についても、「不倫の子だとしたら、教育上好ましくない」という政治的 道徳的な議論が、長門市には長く続いたようです。芸術は作品の出来で論議するのであり、生まれた家とか、愛人の子だとかは無関係です。みすずも性病で自殺した不幸な女性でも 作品が童謡としてすぐれていれば、生い立ちや家柄や学歴などどうでもいいことで、肝腎のレコードにでもなった童謡が何もなくては、すぐれた童謡詩人とはいえません。、
一人の女性を二ヶ所でうまれさすわけにはゆかないし 長門市役所の仙崎出張所で確認される出生番地が確認された以上、「仙崎の文英堂がみすずの生家と誤解をうけるような 紹介のされかたは問題がある。きちっと区別した上で 生家跡も顕彰すべきだ」という、福岡の山部英達さんの意見に賛成の地元市民も多いから、地元感情に右顧左眄しなくてもすむ第三者、福岡県の文化人山部さんに「みすずの家は塩蔵とよばれるみすぼらしい家だった」ことなども語り継いでもらい はじめて教育関係者が創りあげたみすずの虚像ではなく、詩人金子みすずの実像も明るみにでるのでしょう
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たましいの新世紀 霊性の新世紀
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☆ 「そんなことをしたら後生(死後)がわるい」・・・
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日本の庶民には、本来、死後の世界を、視野にいれた無意識の哲学があった。物質科学は「死後はない」と、それを否定してしまった。
死後がなければ、受験競争 就職競争でも 弱いものを蹴り倒しても、この世で天国ぐらしをつかみとる功利主義しかない。しかしほんとうに、本当に わたしたちは「死後の世界などない」などと、断言してもいいのだろうか 河合隼雄「影の現象学」より。
はじめてのカラー印刷、浮世絵は、西欧のカラー印刷のはじまりより、二百年もはやく 日本さいしょのものがたり文学「竹とりものがたり」や「源氏ものがたり」は 西欧で最初のものがたり文学「デカメロン」より、数世紀も早く 世界史に登場します。
それだけ奥行きが深く、微妙で繊細(せんさい)な情感にうらづけられた言語表現が 非常に豊かな日本的心性の探求。
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・・・・現代人は、頭が物質科学に毒(どく)されていて 「モノというと物質のことだ」と理解する。「もののあわれ」「ものものしい」「もの悲しい」「困ったものだ」「そうしたものではないだろう・」「ものいわぬ浜千鳥」「ものの怪(け)にとりつかれ」 「ひとりでいると、なぜか ものすごく不安です」
わたしたちの口から、日常ふだん なにげなく無意識についてでることば「もの」とは 物質のことではない。では「もの」とは、物質のことでなければ なんのことだろう
岩波の月刊「世界」河合隼雄より :
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あいみての のちの心にくらぶれば むかしはものを思わざりけり
お正月の百人一首より
現場の時代 日々のわたしたちの くらしのことば自身が わたしたち自身にといかける。万葉の祖先からいまに伝えてる「もの」とは はたして 物質のことだろうか
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下帯といて 寝た夜からは・・(祭文(さいもん) 八百屋お七より)・ |
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「・・・・お前さまと、身も心も、なにもかも、結ばれたあの夜からというもの。もの想いにふける日々になりました。すまじきものは、恋というものと つくづく思う今日このごろ・・・」
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現代のもの言い「近松先生 ! ものとは、物質のことでなければ なんのことですか? 」
声「ものの怪(け)姫」という映画が
大ヒットしました」
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・・・「アフリカ奥地の古老の黒い予言「西欧近代文明は その下に抑圧している大地から たちのぼる祖先の霊に たましいまでうばわれる日がくるだろう」という。
これは人間のだれも さからうことのできない 世界の無意識の流れの自然法則である」 クリスチャン・ユング
世界の無意識の流れの自然法則。
{人は霊性存在である}
ついに国連世界保健機構WHO総会も新採択
たましいの新世紀 霊性の新世紀
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長門の秋のゆうぐれは 歌に詠むてふ もじ(門司)が関 下関とも名に高き 西国一の大みなと 北に朝鮮 釜山海 西に長崎 さつま潟。 唐 オランダのしろものを 朝な夕なにひきうけて 千艘でれば入り船も 日に千貫目 万貫目 小判はしれば
銀が飛ぶ 金色世界とはかくやあらむ 浪の底から 近松作「博多小女郎浪まくら」の舞台より響く うなり声・・・・・ |
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こういう場合 「近松はその作品により みすずのおかあさんの三味線の糸を通して みすずの詩情を育くんだ」と よく心理表現をしますが 詩人みすずの情感を育てた三味線の音色に親しんだみすずのお母さんは、腹の底 深層にひびく 男と女のたましいのデキゴトの世界をかたりかける近松浄瑠璃の 詩情の世界に、「たましいを奪われていた」のでした
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鯨とり 金子みすず
海の鳴る夜は 冬の夜は
栗を焼き焼き 聴きました
むかしむかしの鯨とり
ここのこの海 紫津が浦(しずがうら)
海は荒海 時季はは冬
風に狂うは 雪の花
雪ととびかう銛の縄
岩も礫(こいし)もむらさきの
常は水さえ むらさきの
岸さえ朱にけに染むという
厚いどてらの重ね着で
船のみよしに見て立って
鯨よわればたちまちに
ぱっと脱ぎ捨てすっ裸
さかまく波におどりこむ
むかしむかしの漁夫たち
きいてる胸もおどります
いまは鯨ももうよらぬ
浦は貧乏になりました
海は鳴ります
冬の夜を
おはなしすむと
気がつくと
ハルキ文庫「金子みすず童謡集より
注 みすずの深層にひそむ近松を 引き出す
近松に親しむ人ならだれでも 即座に
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この世の名残り 夜も名残り 死ににゆくわが身をたとうれば 仇しケ原の道の霜 ひと足ごとに消えてゆく 夢のゆめこそ あわれなれ
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江戸の名文家をうたわれた荻生狙来が ここをよんで 「膝をたたいて絶句した」という名文中の名文 曽根崎心中の名セリフを、思い浮かべます
寸分かわらぬ浄瑠璃名文調の 五七 五七 五七七の五七七の 五七 五七の音律です
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浄瑠璃の世界
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ちかまつのたましいにむすばれた みすずの深層を流れる浄瑠璃の旋律。
みすずを愛することは ちかまつを愛すること
ちかまつを愛することは みすずを愛すること
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