文化庁の公式文書による

「近松の故郷指定」にいたる経過と略歴

著者近影 2004年9 月29 日撮影・大阪読売TV放送
      宮原 英一 みやはら えいいち (作家 歴史研究員)
                        ペンネーム  北村 晶

☆ 現住所 759 2213 山口県の軽井沢 美祢市大嶺町祖父ケ瀬 
◎  1935年1月16日 O型 山羊座 最後に笑うもの 
◎ 山口県美祢郡美東町赤郷 宮原酒造(銘酒「美祢鶴」「宮乃露」)の 次男として産まれる(長男死亡)
 まったく偶然の一致で 
維新革命の最初の衝突 高杉晋作ひきいる奇兵隊がいまの美東町、太田絵堂の戦さのはじまった一月十六日の、ちょうど七十年目の同じ夜 宮原酒造に誕

 
日本劇作家協会(本部東京 設立井上ひさし 筒井康隆氏ら)所属 歴史研究会(本部東京神田)所属、
 山口県地方史学会 文芸山口ほか 
 長門市近松みすず街づくり懇話会 学識者委員 
 美祢市生涯教育推進 企画委員。
 ほか役職。
 山口高等学校美祢郡市同窓会・美祢鴻峯会を創立(会員343名.会長 美祢市医師会中元克巳医師)幹事長。
 
 郵政省金融部門につとめるかたわら、日本社会党美祢市総支部長(解散)や美祢市労働者福祉協議会会長。美祢地区労連議長を経て 全逓信労働組合山口県本部業務対策部。
 連合への発展的継承をめざして 山口県労働組合総評議会解散準備大会の大会議長として登壇。
 正しい歴史的評価は 一世紀後にゆだね、総評労働運動の栄光と伝統とともにあゆんだ歴史を閉じる。
 連合山口美祢地協顧問として引退。
 ほかに日本キリスト教団美祢基督教会筆頭理事、美祢市青少年補導委員、保護司、市民合唱団指揮者(二十数年)として 市の文化を高める会を創立、 同副会長十一期。美祢市青少年健全育成会議を創立 副議長 美祢市子連三役 大嶺町子連会長八年 小中高各PTA三役などを歴任
 美祢市総合都市計画審議会委員 美祢市公害対策審議会委員 美祢市三役報酬審議会委員 中央公民館運営審議会委員 ほか 美祢市商工会商業調整協議会委員などを歴任
 病いを得て退職。

 
 青年期より 詩人として 謄写版による不定期刊個人詩誌「にんげんのみね」主宰 
 角川短歌人賞候補の檜隈幸子と 短歌と詩誌「わら人形」を創刊 主幹 
 総合文芸「みね文芸」事務局ほか
 「文芸山口」会員 
 関西文学同人などとして 日曜二千字エッセイ「秋吉台造山運動」を山口新聞に四十回連載 
 短編集「現代の民話」ほか 草分けの山口高等学校文芸部「無蓋車」以来の
「もう一人の本来の自分」に立ちかえり 歴史研究の作家として 本来の念願であった詩による小説を志した中勘助をつぐことに専念
 関西文学同人
 
朝日カルチャーセンター下関 創立二十五周年記念事業「防長人作家近松門左衛門講座」の講師 二年 
 県教育委員会主催 県民大學成人講座講師 
 毎日ペンクラブ山口顧問
 などを歴任
表彰歴

ニ十四回 山口県芸術祭文芸の部 随筆文芸賞受賞 
第ニ十五回 山口県芸術祭文芸の部 随筆文芸賞入選 
昭和六三年度 毎日新聞郷土提言.山口県最優秀作品賞受賞       
第ニ三回関西文学賞 最終候補にノミネート.関西文学同人に参加 
「近松門左衛門の謎」(関西書院発行・倒産)が 一九九四年度日本図書館協会選定図書に指定さる
 そのほか 郵政省事業論文賞(在職中)
 法務省依嘱 保護司として、法務大臣より感謝状。引退 
 美祢市青少年補導委員。   
 美祢市小中高校PTA三役として 県PTA連合会より表彰 
 美祢市子ども会連合会三役として 県こども会育成連合会より表彰   
 

    

    
 民族の伝統と文化遺産を「発展的に」継承し 世界一 平和で、美しい文化大国日本を創造しよう
              
横浜市長クリスチャン飛鳥田一雄弁護土の遺言


                                         時代閉塞の現状

            産業文化第二の維新 転形期

    
   近松史料の発掘と検証にかんする主な経過

ことのはじまり
1986年
 
「あなたが調べてダメなら もう可能性はないから この資料箱をドブにすててください」と ボール箱をわたされる
 近松の防長生誕を、誰にも相手にされない羽仁雅助老人(もと美祢市桃の木小学校の校長さん)の 涙まじりの要請により、調査と検証を引き受ける。
 みすずでは知名度も低いので 世界的な文豪近松を再興することにより 金子みすずもセットで全国にひろめたいとする氏の内心なり。直後 羽仁老人 集中治療室に入院 面会謝絶。
 ボール箱をかかえて 途方にくれ 立ち往生す
19991年7月 

 約五年間にわたる 自分の目と自分の頭による 事前の慎重な近松生誕現地踏査。 
 この年
「近松長州説研究随筆「迷路のノート」第一号を、十五部ほど発行。早稲田大学演劇博物館館長鳥越博士ほか 希望者に贈呈 

1991年7月 5日 近松長州説研究「迷路のノート」第一号・・
・・ 
それはタッタ十五部の この粗末な手製のプリントからはじまった
1993年 5月  山口県地方史学会大会において 最初の衝突 「近松門左衛門長州生誕説を研究発表 
 ショッキンクなニュースに テレビ新聞各紙が大きく報道
1992年,10月 1近松研究の第一人者 早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長鳥越博士が「全国に数ヶ所ある近松出生地のなかで"軍配をあげるならば長門だ"(1992年11月6日 地元紙長門時事報道)と 長門市で講演
1993年 県紙山口新聞に 書き下ろし四百三十枚 近松出生秘話 「北浦乱菊物語」を連載 執筆
1993年7月
豊田町 町民の浄財により 神上寺ふもとに近松生誕碑を建立 
  除幕式  碑文揮毫 直木賞作家古川薫氏
 新人物往来社の歴史読本」八月号に定説をくつがえす長州生誕説・近松門左衛門出生地の謎」を発表 
 歴史研究会(本部 東京神田神保町)に参加 以後 
歴史作家とされる
 
1993年7月  近松情報維新を 日本全土に拡大。
 

 硬軟とりどりの市外電話が、鳴りつづけ、世情にわかに騒然.天動説一色の世に 地動説をとなえたガリレオ.ガリレイの心境
 孤立無援.
「大望を抱く者に 毀誉褒貶はつきもの也(山高大先輩岸信介氏の座右銘)」あり
 馬耳東風にて 
GOING ON MY WAY
☆1993年12月1日  藤田長門市長さん来訪
 長門市に「近松イン長門」を開催するための、近松懇話会が発足。長門市より同懇話会委員に委嘱
 
近松の法要をした尼崎市広済寺(椙杜家記録)が いちはやく、山口県地方史学会大会での近松長州説論文を 広済寺のホームページで放映放開始 現在放映中  
☆1994年 5月10日  単行本にて、関西書院から「近松門左衛門の謎」を発行
 早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長鳥越文蔵博士が「学問の世界では、疑わしきは採らずとしている。わたしが長門説の最右翼である」と激励の序文。

 
当時の長門市は 郷土の高校教員出身の力士登場で湧いて居た。
 それより数年前から「近松研究ノート」を、毎号送っていた近松研究では 西欧で「世界のトリゴエ」といわれる国際的権威の、早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長の鳥越文蔵博士 当時体重八十キロ 身長一メートル七十センチ余の巨漢の著者を 近松学界の東西相撲の土俵で、ガップリ四つにとりくんだ郷土出身の西の横綱にたとえてとして紹介
 
        
迷路のノート」第一号より三年目1994年10月
☆ 中央図書審議会が 私著{近松門左衛生門の謎}を 日本図書館協会選定図書に指定 
 硬軟さまざまなる市外電話 一段落す
1993,年3月 県教育委員会主催 県立図書館において 県民大学の講師
1997年3月 KRY山口放送発行観光誌「YAMAGUCHIを旅する」に「竜宮城の乙女たち」「響き灘に近松を尋ねて」の二編を執筆  
1996年11月 財団法人西日本文化協会の機関誌「西日本文化」に「毛利藩出身天下の浪人作家近松門左衛門の生涯と全容」を執筆
  
 詩 秋吉台讃歌・アメージンググレイス NHKTVにて 全国に放映

歴史研究も文学も「永遠なるものへの祈り」        秋吉台讃歌の文字をクリックしてください
 アメージンググレースにのせた青春の日々をうたった
「わが青春の秋吉台 讃歌}を発表 歌・東京町田の声楽家西村信子さん 制作は米沢市興譲聖霊教会の牧師さんの徹夜作業。秋芳町に寄贈 NHKテレビ全国放映ととともにくりかえし くりかえし放映・教会の持ち歌にされた秋吉福音キリスト教会三根さんによれば 「自由にコピーにコビイを重ね いま韓国や中國大陸において、自然に自主拡大中」とのこと とどまるをしらず  テープご希望は 山口県美祢郡秋芳町秋芳キリスト教会 ボランテイア 三根よし子さん(電話Fax 0837 62 1215)にお問い合わせください 

1997年6月 KRYラジオ山口放送で 四十分構成「響き灘恨みの近松」を執筆  関西書院破産。
同人として所属していた第一次「関西文学」も解散
 
1997年6月1997年より二年間1998年

 朝日カルチャーセンター開設二十五周年記念事業特別講座「長州生誕近松講座」の講師

%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%1998%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
 文化庁が「近松の古里づくりのみに限定した予算支出」を決定
 あらためて
公式に 国から長門市が「近松のふるさとの地」として 指定
され 
ここに公式に国、文化庁指定、県。市 行政が 上から下まで一体の 「ちかまつの故郷の地」が不動となる%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%

 

1998年8月


あらためて東京の叢文社より資料追加二版「若き日の近松門左衛門」発行

1998年11月27日  小郡
1998年12月17日  亀山ザビエル公園
1999年
1月30日 
 近松終焉の地 尼崎市アルカイックホールにて講演
 同市潮江に「若き日の近松門左衛門」に触れて共鳴した、広済寺のある久々知生まれの女性 はなみずき代表
北和子と事前に打ち合わせ「さわやか近松北宮原工房TOMO」を発足.長州近松阪神地方タウン誌「はなみずき近松たより」を同日創刊、
 編集室兼務合同研究員として 同市関西ベイントの
三谷松里(伊丹市平松六丁目在住)が勇躍 参加                      


 故司馬さんのお遺言のとおり 「わたしは近松終焉の地久々知生まれの女だ」は ちかまつの街あまがさきにくらす 北さんを支える自尊心
歴史の真実の怖さ  勇気づけられた尼ヶ崎講演のあと
 
 よせられた「われわれはもとから"近松門左衛門は 本来は防長人だ"と 思っていた」という不信の、尼崎市民の無数の声

 
リサイクルとリニュウアル (再生)の世紀
「いまも日曜は尼崎市民の参詣が絶えない」とされている再起リニュウアル人生「再生jの救済を約束する救済神「長州藩士残念さん」への 合掌の祈りをとおして 無意識にたましいの深層が かたく結ばれている 近松の終焉の地尼崎と生誕の防長との、有史以来のつながり 
 

 
 
根っこが最初からつながっているちかまつ終焉の地尼崎と ちかまつ生誕の地防長
・・・・いまも日曜は、線香や美しい花で お墓を飾る学生や家族連れの 尼崎市民の墓参で 人出がいつもにぎわっている」尼崎市の三好美佐子さん著「尼崎の民話」より

 受験、就職 失恋 事業の失敗など 残念なことがあれば 残念さんにお参りして 手をあわせると運命が好転すという リニュウアルの世紀にふさわしい失意からのやり直し、再生の神 長州の残念さん 
 案内してくれた人も そこまで深くは 気がつかなかったけれど「死んだ人は姿かたちをかえてなお 存在している 実存のテーゼ」 
 こともあろうに、はるかな尼崎で「美祢」の維新名物来嶋又兵衛隊の防長男児、残念さんこと.山本文之助の墓にであう
 死者が姿かたちをかえてなお 存在していて る死者が わたしたちをむすびつけたというほかない まったく予期せぬ意味ある偶然の一致でした。
  
 維新の夜明けをはるかに望みみて 無念にもはまぐり御門の攻撃で倒れた、草莽屈起のたましいが はるかなる尼崎の市民だましいとなり 代々意識の底層に うけつがれているというお話をした1999年7月 山口高等学校長門萩地区同窓会で 
 
 ちかまつが生をおえた本来の尼崎は「防長の浜に蒙古軍襲来」ときいただけで、米価が騰貴 餓死者まで出したほど 有史以来、主食を中國地方産米に依存してきた 「もとをたただせは本来の祖先は反骨の長州」の尼ヶ崎市民が無数のまち 
 長州のちかまつが 最後をすごすのは、あたりまえ
 史上最強といわれた毛利水軍の支援のなかで、本願寺決起で闘った本来の尼崎の町の衆
 毛利武士とともに 天下の織田信長の軍勢とたたかい 摂津平野に闘う修羅の鬼となり 四回の会戦とも、四回とも相手を軍門に降し、織田信長についに不敗であった 「もとをただせはわが家の本来の祖先は反骨の長州人」という尼ヶ崎市民無数のまち  
。江戸時代 勃興してゆく新興都市江戸の勢いに 反比例して 沈下してゆくばかりの天下の台所 三百年の関西の 混沌と混迷を 懸命に支えた本来のまちの根っこ衆たち

 ちかまつの特徴は なきにひとしいものへの 鎮魂の詩人魂をつらぬいたこと そこここにはすでにたくましく成長した、阿鼻叫喚の地獄を凝視しつづけ ついに鎮魂の詩を歌う筆を 生涯つらぬいた文豪近松、さまざな人生への不条理の現場を舞台に再現。鎮魂のドラマをとうして あらゆる宗教を超え「人間とはなにか 人生いかにあるべきか」を 世にといつづける吐息があります。

 世の中は不条理です。その不条理の残酷さは 人の力や智恵では どうすることもできません。

「シェクスピアを超えている」とすらいわれる近松の 日陰にいきるにんげんへの宿命の不条理への深い洞察 にもかかわらず 愛し合うものこそが 真の夫婦なのだとする 憂愁の哀しみと 絶望をふくんだ、ドストエフスキーににた 宗教をこえた重層的な宗教性の 深層に鎮魂の響きをつらぬくまなざしが 国境をこえ 人種を超え 宗教を超え 時代を超えて 宗教のちがいをもすでに超えた 本来の男と女の世界「人間とはなにか」という永遠にかわり得ぬ男と女の本来の姿を 人々のたましいに 永遠に語りかけます
 たとえば、尼崎市には 足利の末裔 まんざら著者と他人でもない、
本来は藤原系である宮原家が二十一軒もあります。
 有史以来 ともにたたかい 血を流し、この山野に 尊いいのちを捨てた、輝かしい不屈と連帯の歴史を のちには維新の時代の長州残念さんとして 尼崎民話衆によると「いまも日曜は、線香や美しい花で お墓を飾る学生や家族連れの 尼崎市民の墓参で 人出がいつもにぎわっている」ほど 長州の無名戦士を 大切にしている尼崎の町の衆は 心の底に 一貫してちかまつを含む長州との共感を 誇り高く深く刻みつけています。

山高応援歌二号「熱球」をうたう生涯現役主義者たち 写真はむかって右から 濃紺スーツの筆者 二井山口県知事(フランクな開放スタイル・ノーネクに青いYシャツ) 佐々木山口高校同窓会全国会長 萩長門地区会長)

 次のつぎの週 二井知事は「あれからすぐ、大阪の山口県事務所にゆき、残念さんをよく調べて、尼崎と山口県の友好の絆を、さらに強めるように指示しましたよ」と、語りながらほほえんだ。  いささか、おどろきました。
 「聞いたらすぐ実行」の公約どおりの名山口県知事です  

劇作家協会(当時井上ひさし代表)の旗あげに参加
1999年8月 山口高等学校同窓会記念誌「熱球」に「防長生まれの世界的文豪近松門左衛門」を発表 
1999年6月17日  1999年6 月17日 インターネット購入 ホームページによる「西洋史とは異なる本来の日本の歴史と本来の近松の祝祭空間」を企画.マニュアル片手に、インタネットの独学を開始 .
 はじめてみる難解な専門用語に 何回も「もう やめようか」と七転八倒
      
同年9月15日 (シニアデイ) ホームページ開設に成功 毎月15日 部分更新「史料・霧のなかから現れた近松門左衛門 NO1」の開設、近松作品を通じての 日本研究熱のさかんな欧米諸国の百数十の各大学のインタネットに情報発信スタート 
 「ホームページをみたから」と海の彼方オーストラリアの研究者が 海を渡って わが家にたずねてこられるにおよび 近松文学の世界性と 地球規模のインタネットの広がりに いまさらのように驚愕しました 

1999年12月  航空会社日本エアシステムの旅客機内雑誌「アルカス」12月号に「純愛とエロス文学にひそむ反骨精神・東洋のシェクスピア近松門は隠れキリシタン?」(この「長州生誕近松文学研究講座ホームページ記号番号URL」を記載)
 年末年始の帰省ラッシュに焦点をあわせ 十ニ月一日から いっせいに同航空路線の乗客席の 欧米人をふくむ
学識者や有名無名人の不特定多数の全乗客に 一ヶ月間 一人一冊づつ配布   
 もはや 燎原の火のごとく、欧米を含む世界中の「インターネツト新世紀」に「リンクはご本人の自由」の勝手連方式でひろがりつづけ とどまるを知らず
☆1999年12月25日 直木賞作家古川薫氏等らによる編纂 火野葦平創設の全国誌「燭台」復刊ニ号に「近松史疑(一)」を掲載 新日本教育図書株式会社により 東京から全国書店に発売

00年2月27日
   
 深夜 腸閉塞にて意識混濁 救急車にて 美祢市立病院に入院


2000年3月
 
%%%%%%%%%%%%%% 2000年3月4日 %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
県立県民芸術文化劇場劇場「ルネッサ長門」竣工式

           
           主催 山口県知事 二井 関成氏
           長門地区広域市町村圏振興整備協議会会長 藤田 光久氏
     %%%%%%% 
著者 美祢市立病院四階の病床にて竣工式を迎える %%%%%%%%%%
 「ちかまつの終焉の街尼崎」からも 多数列席
 
   
古い上着よ サヨウナラ さみしい夢よ サヨウナラ  
   「長門国うまれの近松の時代」のスター
 
  
 
著者に託した羽仁雅助氏の悲願達成
 長門が世界的な近松の故郷の街として復活すれば 羽仁雅助氏のこころざしどおり 詩人みすずの声望も 今後自然にたかまる
 
    
菊つくり 菊見るころは陰
2000年3月27日
 腸のポリープを数ヶ除去 残り多数のポリープは 半年あとに切除の予定 術後の経過順調( 美祢市立病院 竹尾内科部長談)
2000年5月2日
 姉 木谷礼子 ガンにて 主に召される
 
大津高校きっての秀才 姉の勝利
 胎内わずか七ケ月にて 世にあらわれた愚弟にふさわしくなく 姉は通信簿に いつも全優の上に秀のある 長門市大津高校きっての秀才なりき
 敗戦 引き揚げのどん底ゆえに 念願の大學に進学できず 前の松の幹にすがり三日間 泣きあかせる 長い髪の姉の十五才の乙女のうしろ姿 いまだ 愚弟の網膜にあり
 マスコミ歓呼をもってむかえし「教育の機会均等」などいう新憲法 金のある人間にのみ通用する ただの空文なるを 肌身をもって知る。
 姉 山口の中学に少年をひきとる 少年 フランス共産党初級教科書ほか マルクスを毎日よみふける 貧困はなはだしく 姉まだ二十才なるも 後河原の川さらえ作業など 囚人とともに働き 弟にハーモニカを買いあたう 
 腹ぺこ少年 椹野川の土手で 終日 ハーモニカふく 
 少年のたからなり 
 山高にはいるも 送金とだえ勝ち 一枚百円の謄写版の筆耕アルバイトにて生活 布団をかぶり徹夜多し 真冬の謄写用鉄孔板 鉄筆もつ手 凍ゆ 
 校門の黒板には 授業料未納として しばしば名を掲出さる  
 「教育の機会均等なり 金の無いもの払う必要なし 元気だしてガンバレ」と 励ましてくれたのは 当時共産党国会議員 弁護士田中堯平氏のみ 
 少年みるみる左傾。メガホンをもちて まるでデッカイ親父のような気がした あったかな田中堯平氏の 選挙運動に終夜走る高校生なり。
 校長室によばれ こんこんと説諭さるも退かず 逆に校内を共産党のビラで埋める 
 飯にことかくときは 部落解放同盟山口県連委員長 金本謙次氏の食堂や在日朝鮮人党員の家庭に招かれ 遠慮もせず モリモリ食う少年 我が子のようにかわいがられし 
 「われわれは目の色がちがうからと差別される」という金本謙次氏に 猛然と食ってかかる。
 いくら観察しても 絶対に目の色はちがわぬゆえなり。
 金本氏あきれて沈黙す。その後 同和地区の家庭にて 寄食 新品の学生服も買ってもらい ここでも 地域の人々に 共同のわが子のように かわいがれる 貧乏オハコの明かるい少年なり。
 されど 個人の自由と主体性論争で 思想の壁に当たる 
 人間論が欠落したマルクス著作の致命的な欠陥に絶望 
 実存心理学ヤスパースを論じる初代美祢キリスト教会堀口勇牧師と出会い 激しい論争つづく 
 パウロ的転回 
 一九六四年八月二日洗礼 
 キリスト教に たどりつくまでの「私の大學」なりき      
 友人の産婆の子進藤宅にころがりこみ ピカピカにして 不可解なる女性下半身用器具を横目に かけこみ勉強 受験一発 山口大学に合格
 演劇かたわらの 文科の学生のころ 長門市の近松座の前で 貸本屋「あかね書房」をいとなむこの姉のところで アルバイトの愚弟 
 まんまえの近松座に「十代の性典」なる映画の 若尾文子による数秒のキッスシーンにしびれ 毎晩みにゆく。見るに見かねた秀才にして 清純派の姉にといつめられ「なぜ 近松座というのか」と愚問を発し アキレタ姉に「劇作家をこころざす文科の学生のくせに おバカさん ここは近松の生まれたところよ」と 教えられる。
 知らぬこととはいえ こここそ 自分がこころざす劇作家の氏神「チカマツの町なりき」とは・・・・ガーンときた衝撃のこの一言以来 ずっと「長門は近松の街とばかり思いこんでいて」 あらゆる本が 「近松は越前福井のうまれ」になっているとは しらざりき。 
 PTA三役時代に面識ある 長門市藤中に住む もと美祢市桃の木小校長羽仁雅助老人に それを知らされ 学生時代の姉の一言を想起し 義憤 
 以来 研究と検証 「愚直一徹」の情熱と発端になる。
 
 末期ガンの病床のテレビに 待ちに待ちかねた「ルネッサ長門の完成風景」を観て 
姉 おのが一言のついに勝利をしる 
 「英一さんが」「英一さんが」と 愚直一徹の弟の成功を わがことのように歓びつつ 病苦を押して はや頭髪さえまばら 病苦に衰えきった顔に Vサインをした笑顔の 葬儀用の太顔写真を 愚弟に残し」すっかり安堵して昇天  
 まだ七十才に数ケ月ありき 
 愚弟 もはや 物さえいえぬ末期ガンのおとろえきった病躯を押して 「おめでとう この姉と弟の二人して ついに世界に勝利したね 英一さん」と Vサインをした笑顔の葬儀用顔写真を 主とともに在る弟にのこし あえて無宗教葬儀を指定した姉の 死にいたるまて 弟をおもう心のやさしさに ただ声をあげて泣く 
 涙 半日流れてやまず

 いのち 泉にあふれて
 
 姉と別れての四畳半の高校下宿生活 
 両横は占領軍兵士相手の娼婦の部屋なり 
 紙屏風にすぎぬフスマをへだてたとはいえ 勉強机の横五十センチの場は 毎晩 重なる兵士の下に全裸にて 喜悦の声をあげ のけぞり ころげまわる女の肢体 すぐそば 濡れた局毛のすれあう音 常時勉強机のそばにあり 
 平常なら ノゾキ魔 痴漢として逮捕されるよりまだ近接距離なり 
 一メートルたらずの場に高校生居ることを 熟知の性の営みなれば 交合のため 肌着をおろす かすかなきぬずれの音きこゆるや フスマ一重のそばにいて 気兼ねで セキさえならず 鉛筆をけずる音もたてられず 見動きならず
 おなじ四畳半なるも われ部屋代月に四百円 アルバイトの日雇い肉体労働ニコヨンといい 日給二百四十円の時代なり しかるに娼婦は その肉体労働により 一日に部屋代千円払い なお衣食ぜいたくをきわむる 
 おそらく働く人としては 最高の収入なり 
 わずか一時間たらずの仕事に支払われるその高報酬におどろき 日々なれてしまうと 性事 日常茶飯事になり 「人これを賤業というも あるいはこれ 至高の聖業ならずや」と ときおり疑念かすめる 「夜になれば おバチャンもオジちゃんとしてること。 世界中の男と女がいつもしていることヨ」と 下宿のお内儀 かんたんにかたる 
 「下宿のこのオバさんも!} 植民地官僚のぼんぼん育ちの少年は そのことばのあまりにも簡単 明瞭さにおどろく 
 未知の不可思議なる世界なり 
 かたや一ケ月三万円 かたや一ケ月四百円。懸隔はなはだしき部屋代の差 家主に肩身せまきことこの上なし
 ことばかわせしことなき仲なれど フスマ一枚の隣りあわせの中 いつのまにかできた あうんの呼吸の無言の合図 「われいま情事終われり」として 女 気をつかい 勉強机にきこえるように さくら紙を しきりにもむ音立つる
 数回つづく夜もあり それまではただ黙座。 
 ある日 縁側にて語る 肢体成熟せるも まだ 少女なり 
「これわたし」
といいつつ 高等女学校の修業写真をみせる 
 沖縄首里女子高等学校なり
 少年まなざしを あげ まじまじとあどけなき 少女をみる 戦さなくば 貴賓の妻の道が保証されていし エリートの生まれの乙女なり
 ああ この娼婦 映画「ひめゆりの塔」にては 海底に沈みしはずの 姫百合部隊の乙女なり。
 されどいま 少年の勉強机のそばにて 毎晩 白人兵士のはげしい体運動に つらぬかれし下半身をゆすぶられ 快感の歓びにその都度 するどいさけびと すすり泣きのまじる愛らしき声を あたりにふりまく。
 映画の「姫百合の塔」とは反対の生の現実なり。 
 少年 黙然として 日々のとなり部屋の 娼婦の歓喜きわまれる時の すすり泣きに 耳をかたけむける
 
 二十歳すぎのブロンドの兵士 朝鮮動乱にて死ぬ。
「数十万投入 死者数万」のなかに くみこまれし たたの虫ケラのような死の員数なり。
 女 二夜泣きあかしし後 ほかの兵士にだかれる日々開始 
 またその兵士 朝鮮平野にて死ぬ
 故国アメリカをでて 姫百合の少女の 胎内に精をながしこみ 朝鮮の原野に血をながしして死ぬ
 それで一度しかないアメリカ青年の性と生おわる。 
 
「汝ら おのれに罪なきもの この乙女に石をなげよ「とイエスたった一人たちて 世に抗議す  
 犯罪青年に ひたすら心身をささげつくす ドストエフスキーの「罪と罰」の乙女 娼婦ソーニャなりしか 
 いくらさけび すすり泣きにもだえようと あまりにもの哀しき 明日切れるやもしれぬ ほそきいのちのえにしの糸の からまりあう交歓なり 
 
 金ボタンの少年 すぐそばにいるをしりつつ 明日の命しれぬ兵士に 両足をひろげて からだで 体内にくわえこむ日本のソーニャ 
 同世代の かってエリートの妻を夢みし 前沖縄首里高等女学校の乙女の 娼婦の営為をいとなむとき 同じ金ボタンのこちらを おもんばかる少女ソーニャの思い いかぱかりなりしか 
 
 人生後半 近松に接近 いくら燃えても外人部隊の 買われたいのち 
 それゆえにこそ 「これが最後の夜かもしれぬ」という 切迫した戦乱の思いにかられ 逆にいやましにもえさかり すすりなく 遊女のエロス 死別を覚悟せるエロスには 日常的な夫婦の営みの惰性なし 
 「わたしも一度でいいから 亭主にあんなにかわいがれてみたい」
 障子のなかから その都度もれる 感きわまれる女のすすり泣きに 下宿のお内儀 ときどきため息まじりにつぶやく  
 それ 近松の極致のエロスなり 
 その交歓の現場を ありざまにえがく 物書きの社会的責任として 「汝ら おのれに罪なきもの この乙女に石をなげよ」と世に抗議せる神の独り子イエスが 自己の人生後半を しらぬ少年に あらかじめ用意して あたえし日々なりしか 
 黙座せるも 思春期の 一人部屋の少年には その強烈さは 年齢にふさわしくなく 苛酷にすぎしなり 
 「神は耐えられないほどの試練は あたえぬ」とバイブルにあり 
 さればそれも神の はるかな未来は かならず物書きにするため 少年に 主が あらかじめ用意せし試練なりき 
 現実を文字記号に転換して表現するする作業を ロシア・フオーマリズムでは異化という 
 エロスの現実を文字記号により 詩的言語表現に転換する
 遊女をえがくは未経験にして 主体的視座 いまださだまらず また壁につきあたる 
 汝ら おのれに罪なきもの この女に石をなげよ 
  
 社会主義神話 キリスト教会神話ともに根底から崩壊してみれば この国の文化の歴史の中心 地女にあらずして いつも
優雅にして 自由な日本の遊女のエロスの極致とともにあり すれば 女とうまれてついに生涯 エロスの極致をしらぬ地女らとともに 遊女になげる石 われらにありしか 
 「フロイドをまつまでもなく 日本のことわざ 「英雄色をこのむ」は おおきなことをなしとげる原動力の 異常に高揚せる男をいうなり」と 性欲旺盛をたたえる 保健医療にたずさわる女性の論文が 掲出される時代なり
 もはや「英雄色をこのむ」を
神に背く原罪なとど荒唐無稽をいい エロスを否定 禁欲主義のキリスト教教理をシンホルする教会は それを正面からくつがえした フロイド ニーチエの登場いらい 日増しに「たそがれの偶像」になり世界中で末路にむかう。 性の歓びは生きていることの歓びのの証し すなわち 創造の原動力とする ESP 霊感派 ロンドン心霊学協会会長にして 愛の讃歌 人間肯定の実存哲学 大脳生理学者ベルグソンが 全世界の主流の座にある 第二の宗教改革 第二のルネッサンス いわれなき性の抑圧から解放された第二の人間復興 人間讃歌への あらゆる改革の世紀到来す 「このままなれば エロスに否定的な禁欲主義キリスト教は 二十一世紀 百年のあいたに 消滅する」とせる神父もすくなくなしとか
 男と女にとって 「創造力のエネルギー」、官能のエロスの讃歌は 永遠の不思議なり
 ひとしきり近松に 性を学ぶ 

 

 
「単独登頂 ただ無心」
 
 
人に教えるどころか こうして 日々書きのこしし通信や 公開の雑文により 後継者のうまるるを祈るのみ
 完成なき されど息をひきとるまで 完成をめざす 生涯学習の あらたな文学登山の道なり

  
ほか 近松発掘にまつわるエッセイ多数  
各地の市民大学講座で 講演、テレビ 新聞に登場多数
 右だろうと左だろうとひたむきに過ごしたわが人生に悔いはなし

 すさぶ世の嵐のなかの青春の六O年安保共闘世代


 
あたかも労働運動半生を後悔しているといった「かのごとく」書いた 新聞もありましたが ウソ 
 世界の評論家佐高信は 月刊「世界」で われわれサラリーマン 会社ニンゲンを 家畜に比して
「社畜」と呼びます・
 日々の仕事が ライフサイクル金融プランコンサルタント
 定年後は 濡れ落ち葉人生の むかしとはちがい ライフサイクル ユング心理学講座できたえた 中高年の病いを「創造の病い」とする最新心理学 
クリスチャンユングの 解放された自由な 後半人生に豊穣の比重を置く人生八十年時代
 
いずれは、カイシャニンゲンでも クミアイニンゲンでもなくなる そのあとの、長い第二の人生の日々 
「去るものは日々に疎し」で ヌレ落ち葉ですぎてゆくなら 自殺くらいしか、思いつくことのない灰色人生になります。
 
アメリカサラリーマンの四つの夢は カイシャニンゲンがおわる定年退職後の 自由な後半人生に おとづれる人生の黄金期にそなえ、人生前半は 子育てをしつつ 「黄金期の後半人生」の基盤づくり
  ビッグビジネス社会で モリモリ働き
一 マイ年金 
二 マイホーム 
三 マイカー
四 マイ農場
 を確保すること
 だれも人生は 平均八十万時間 
 いつ果てるか保証のない 一回かぎりの ほかにはかけがえのない自分の人生という点で 医師も牧師もローマ法王も無名の民も神の前の有限な人生としての条件は 平等 
 どんな人も この広い宇宙に、唯一無二の ほかにかけがえのない それもいつの瞬間おわるかもしれない自分の人生は、たった一回しかない以上 どういきようと 自分の選択と決断の自由 
「自分の人生の主人は自分」です 
 わかものに人気のエンデにいわせると 飽きあきするようなヘタクソな説教をする牧師など 「一度しかない他人の人生の、帰らぬ貴重な刻々を盗む時間泥棒」とする時代
 

だれにも人生は一度しかない以上 それぞれの自分にとって 自由で最も有意義な創造的な刻々を すごさせる」というのが 「労働時間短縮 個人の自由時間の拡大」を法律化した政労使代表の三者合意」 

 一応 自分としては 作家として、後半人生を生涯現役で生きるために 他人の計画ではなく 「自分個人の計画」どおりに その基盤を築いておく前半人生を 着実に推進してきただけのこと 
 それで満足するわけではありませんが 作家として 中央で日本図書館協会選定図書に 指名される栄光なんて 文学青年なら だれでも得られることではありません。
 一応自分の計画どおりに ライフサイクルが進行中 
 五年先はわかりません 「
主がわたしのために あらかじめ用意されている成るべきものになっている」ということだけは 唯一絶対です。
 それが天国だろうと 全知全能の愛の主が ほかならぬわたしに用意されているわたしの居場所だから なによりもわたしにとって それが最善で最高の未来です。
 右だろうと左だろうと その時 その時を ひたむきにいきていて わが人生に後悔なし   
 美祢基督教会のたちかえる原点 
白亜の聖堂は 基督教ホーリネス派の 近江兄弟社の好意により設立されました。
 連合軍一色の敗戦後のドイツでは
「連合国は連合国 ドイツはドイツ」と発言しつづたヤスパース、ハイデッガーは しばしば「ナチズム」と攻撃されます。
 敗戦後のアメリカニズム一辺倒の日本で 天皇の戦争責任追及一色のなかで GHQに抗議 戦時下の信徒への弾圧と投獄をゆるし 当時の天皇の戦争責任追及と廃止の国内世論に 真っ正面から対決。
孤立無援を承知で 天皇制擁護を申しいれた硬骨漢 ホーリネス派メンソレタームの近江兄弟社
「仲は良き されどアメリカはアメリカ 日本は日本」と 自尊の旗風を吹きなびかせた ヤスパース派基督教ホーリネス派も「日本軍国主義者の手先か」と こともあろうに 当時の日本人により白眼視。
 
有史以来の 日本独得の 長いながい歴史と伝統に培われた日本人の アイデンテイテイ 自分のよってたつ独自性を、どこまでも貫く道でした。

 魯迅に傾倒 劇作家をこころざしつつ 「きけわだつみの声の会」の青春の全学連。
 紆余曲折 
早すぎた「第二の宗教改革者
 「わたしたちの望むものは 決してミーンナではなく わたしたちの望むものはわたしでありつづけることである」とする単独者の前の個 神の前の単独者 エロスの肯定を孕む 憂愁の愛と美の神学、単独者の哲学 「第二の宗教改革者キルケゴールにつらなる ヤスバース 言語現象学のフッサール ハイデッガー フロイド ユング ベルグソン(西田幾多郎) サルトル ポーボワール ローレンス カール・バルトら 人間肯定の実存派。
 日本の風土と歴史から形成された 固有の言語体系日本語の精神構造と日本の固有の習俗を 身につけている日本人であるという現実存在から 逃れることはできない以上 
日本主義的国際人 国際主義的日本人(九鬼周造の人間と実存)派
 

第二の宗教改革 実存的投企の哲学
 世界の全体像は人間にわかるとするマルクスの正反対 未解明だらけの世界の全体像など 全知全能の神ならぬ人間には だれにもかつ 永遠にわかるわけない 
 したがってわたしたちは 
周囲のことばに 右顧左眄するのでなく 自己の内奥の声に耳をかたむけ 自分が個として 最善にして最高「と信じる道」を選択し その自己の決断にしたがい 神に与えられた たった一度しかない自己の人生を 牧師や神父など しよせんはタダの人に よりすがるのではなく 神を信じて 自己を全知全能の神に委ね 個人として 自由に しかしいつも最善にして 最高の自分を 生き生きと生きてゆく 実存の世紀。
 「こうこうしないと 悪くなるゾウと 左翼くずれの牧師は 神を知ってるかのごとく 信徒を脅迫しますが そのためにこそ 救済の神が存在しているのであり わたしたちは 福音の主とともにある以上 よりよくなることはあっても 悪くなるということは あり得ません。 


 伯父は 元山口県市町村長会会長故森沢雄治 
 もう一人は、山口県郷友会(旧山口県在郷軍人会)会長 故宮原藤吾(天皇の親衛隊 近衛師団将校)
 もう一人は 中原義正海軍中将 海軍省人事局長 海軍出身米内首相とともに非戦派であったが 開戦決定となるや 参謀として 第二次世界大戦の戦端となった最小の損害による最高の打撃を与えた真珠湾攻撃作戦を企画 指揮
(敗戦直前 責任をとり 海軍新司令部偵察機に。「祖国よ 永遠なれ」と流す発信に「ナカハラ自決}を いちはやく探知した連合軍護衛機の いっせいに返信する葬送行進曲に護られ 単独一機 太平洋を悠々と横断 メルボルン沖で海底に自爆。
 敗戦後は 戦犯を呪う日本人暴漢の襲撃から 遺族を護るため 邸宅の周囲を 数人のMPが 常時立哨して護衛。
 少年 昨日までともにたたかった同胞を 肝心の自己の戦争加害者責任は タナにあげ 軍国主義者と天皇制のセイにして 自分はイイ子 ヒガイシャになりすまし 戦争放棄を誓い またまた
ほかならぬ自分のその誓った非戦の誓いを 簡単にうらぎるご都合主義 無責任日本人を熟視 )   

「実存主義もいいけれど こともあろうに 旧家の本家のしかも家とりなのに あなた不肖の子だワヨ」
と 文士としてほめたつもりの 伯母美佐子のことばが あたっていると ときおり苦笑
(この伯母 森沢美佐子(旧姓宮原) 中原中也の父が 保証人になり 湯田の中原屋敷から県女に通学 同じ屋敷から 山口中学にかよう中也の二歳下のお下げ髪の女学生。いまも文学好きで一番理解)      
                             

他に伯父。萩市全真会病院創立者 外科医故宮原進 
 美東町に県下最高齢九二才の現役眼科医 榊静子。昨年ついに廃業届 平成17 年94才にて死亡
 美東町に 伯父婦人科医 故村田 荘

趣味   
音楽(好きな曲 夜ひとりで聴くメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトほか、バイオリンソロ 
 カラオケで唄うのが好きな歌謡曲「白い花の咲く頃」「出船」ほか) 
 油絵を描くこと。
 すさぶ世の嵐のなかの 青春の六O年安保共闘世代

   

家 庭
 妻と一男二女と自動車事故で足の不自由な猫と 犬と九羽の卯骨鶏
 浮き世時節は かわろうとママよ。地震カミナリ火事おやじの標本。


 アメリカの校長している妹の姿に、教えられました。
 話してわかるようになれば。暴力はもちいないが 四 五才
 親のいうことが理解できる年齢までは ヒイヒイ泣く子に 処罰のベルトをふるい しては成らないことには 無意識に手がでないように徹底的に身体にしつけます。
「良き中流市民に育てるのは アメリカのミドル市民の親の義務だ」
 と・・・・例にによって例のごとく「カテエナイボーウリョクだワ」と「こどもさんがカアイソウ」への批判。
 こどもを創るくらい 三秒あればできる。親になるくらい たかだか 出産に一時間あればなれる。
 むつかしいのは「親でありつづける」こと。
 目の中にいれても痛くないほど、かわいいからこそ 良い市民に育てるのは 親の義務。
 愛するということと コドモのご機嫌とるのとはちがいます。

 チンタオから引き揚げ小学五年 毎晩 六十キロのヤミ米を、背に七、八キロあるきました。 五人の弟妹は小さいし 父は病床 母と小学五年は「自分がかつぐしかない」と腹をきめると 小五で よろけながらでも 六十キロの米は もちあがります。
 毎晩 墓地もところどころにある真夜中の暗闇の田舎道を ときには一人で七 八キロあるきました。
 本を片手にして歩くなら 
自分にその気さえあれば 勉強部屋も机もなくても、勉強はできます。学校は結構一 二番でしたし たのしい少年時代でした。
「ジドーギャクタイだア」
 なんていう大人がいたら、ぶんなぐる。そんなホンコンフラワーみたいな とってつけたような安物の思考じゃなく 小さくても 自分にできることで 一家や幼い兄弟たちをまもり 一所懸命にささえることで 少年は大人に 成長してゆくのです 
 
 もっとも金子みすずのような 画にかいたような 優秀で品行方正な子ではなく 背中のヤミ米を 物価統制令違反で警官に没収された小学六年生 
「その米がないと とうさんや妹や弟たちが飢えて死ぬ」
と激昂 
「あの無礼な警官を、一刀のもとに斬りすててやる」
と 家宝の日本刀 山城守を 小わきに 派出所をめざして 二キロの道を疾走
 元近衛師団将校の伯父ら、大人たちにつかまり 大地におさえつけられて 日本刀をとりあげられ まだ下から 伯父の手にかみついて。あばれる小学六年でした。
 天皇の親衛隊将校である帝国軍人気質の伯父は 少年をつれて帰り 座敷の上座にすわらせ 自分は下座にひれ伏して「われわれ職業軍人が つまらなかったばかりに 本家のあととりに こんな苦労をさせます。腹がいえるまで この伯父をなぐるなり 蹴るなり どうでもしてください」
 と 頭を畳に伏せたまま ただホロホロと泣きつづけました。
 おさえつけた伯父等により さいわい あやまちをせずにすみました 
「警官を斬ったらどんなことになるのか」 
 あたまがパニックになり それさえもう わからなくなった小学六年生 
「その米がないと 病気で寝ているおとうさんや妹や弟たちが飢えて死ぬウ・・・・」
 日本刀を小脇にして オンオン泣きながら 走っていて なんにもおぼえていません。
 危険な十七才に にて なにをしでかすか わからない すえオソロシイ少年でした。
 神戸の殺人少年を思います 
 でもそのような暴走もしながら 大人に成長してゆく少年も いるのです
 
 母方の伯母など 小さい細いからだですが 十四 五才のころは 一俵の米を かついでいましたし、農村では当たり前の風景でした。その子や孫が 今のわたしたち日本人です  
 県は「たくましい防長っ子」を スローガンにしています。
 今もノモや 「もう周縁からしか 異彩はあらわれない」とされるのも 周縁の地は いまも ブロイラー教育でなく クリスチャンであろうとなかろうと 親も子も 戦前とかわらぬくらしかたで 「本来の人間」らしく 全力をだしあい たすけあい 支えあいながら 成長するからです

「to be or not to be That is Qestion」というハムレットの 実存をとうセリフがあります。
 戦後のわたしたちもまた 「to be or not to be That is Qestion」と つぶやきながら 銃なき戦線を戦いつつけています 
 人間なんて 永遠に世界の全体像はわからない 
 真珠湾攻撃のときもそうです 
 だれだって 一寸先は闇 にもかかわらず いつも「その時は」 「それが最善にして 最高の選択」だ「と信じて」 全力を投入して たたかうしか ないのです 
 自分は 白い手袋をしていて 参加もせず 後から結果論で 批判する人種ほど卑劣な人種はいません 
 結果が 予測できるのなら 戦争なんて千年前になくなっています。
 敗れたという結果論で 自分はあたかもそうでfなかったのように 日本人を非難するくだらん日本人にだけは なりさがりたくないもの 
 

 いまでも わたしたちは 結果がわからないままに それが最善にして 最高の選択だ「と信じて」 全力を投入してたたかうしかなく 戦前の日本人と わたしたちはちっとも変わってはいないのです

 いまでも わたしたちは 結果がわからないままに それが最善にして 最高の選択だ「と信じて」 全力を投入してたたかうしかない 
 戦前の日本人と ちっとも変わっていないのです
 なんにもできないくせに 結果論で とりくんだ人を さばくくらい サルでもできますす  
 
 「戦前の日本人が悪い人たちだから 戦後 どん底に落ちて苦労したのだ」という戦後教育がわの論理もあります。
 しかし 戦前の日本人も今の日本人も なんにも変わりはしないし むしろ敗戦後の日本こそ 最悪だったから 最悪のときの少年が 最悪の苦労をしたと 実感しています。
 なぜなら 
戦前からの日本人は 悪い人たちではなく 戦後も戦前とおなじように この戦犯一族の少年に ただ優しかったからです。
 
 法政大大原社会科学研究所出身の父や伯母森沢美佐子は 戦前の東京で 大山郁夫の選挙運動をした懐旧談を、たびたびしていたし 当時の記録をみると 民政党百七十九人 政友会 百七十五人 
社会大衆党は 華々しい言論戦により 国会第三党として 三十七人も当選しています。
 たしかに 選挙という政権を得る正当な方法があるのに 「選挙によらないで暴力革命により 一党永久独裁の政権をつくる」とする 反議会制民主主義の 暴力革命をめざす地下活動主義の共産党は 合法政党と認定されませんでした。
 「事の善悪は別にして」 みずからも 暴力革命を組織する非合法主義政党として 地下活動をする以上 議会制民主主義政府の 取り締まりの対象にはなったのは 自然のなりゆきです。
 ほかの議会制民主主義政党は 同じマルキスト労農党でも 明治以来 総選挙による華々しい言論戦で 当選もして 議会政党政治をしてきました。
 なにもアメリカ占領の戦後 突然 議会制民主主義になり 総選挙による議会政党政治が はじまったわけでは ありません。
 明治総選挙以来の 日本の議会制民主主義の歴史と伝統も知らぬ まったく無知無学な学校教員が 教壇から「戦前の日本は 言論の自由のない真っ暗な国でした」などと教えると 代々官選村長をつとめた祖父 「ならば戦前 県議に立候補したわが祖父宮原英武などは 言論の自由がないマックラな日本なので ネズミ小僧次郎吉のように 頬かむりなして 屋根から屋根をわたりあるき あっちでヒソヒソ こっちでヒソヒソと選挙運動したとでもいうのかよ」という 反感がわき 
「アタマがおかしいのではないか こいつら」という まっったくシラケタまなざしで 教員と教壇を眺めました。
 教壇からウソをおしえる学校が おもしろくないから 結局は 自分なりに勉強して ほかの体制の学生運動にのめりこみます。
 
 
敗戦前まて「アジアの救い主日本軍」をさけんだ教員が 自己保身のだめに「アメリカ占領軍が 白い馬にのった王子さまとして 真っ暗なくに 日本を救いにきた」という 連合国製造販売のねつ造した神話を うのみにして まるで踏み絵をふんで 死ぬなばもろともと誓った仲間を裏切ったユダの 裏切りの証しみたいに 今度は「アメリカが世界の救い主」だと 教壇から教えたにすぎないからです。
 
 「仲は良き されどアメリカはしょせん アメリカ 日本はどこまでいっても日本」 
 そういうことをいうと 保守反動か赤といわれる敗戦後の最悪でした。 
 
 
世界先進資本主義西欧列強同志が 植民地の再分割を要求して 「戦争という手段」により 植民地争奪戦をして どの国も無数の兵士の血を流した時代に 「たまたま」敗れた」のが 新興資本主義国日本であるからとて なにを連合軍みたらペコペコ卑屈になるのだと 
 家柄をいうのでなく 歴史を証ししているのです  
たまたま」その日本の中心 天皇の親衛隊将校や真珠湾攻撃の作戦中枢の海軍中将を 伯父にもった少年 その運命は 「アメリカと連合国は善 日本人は悪」という わけのわからい変な図式の支配下で なにもも誇りをきずつけられ 精神的に最悪のなかで 隠忍自重をしいられ ときどきは ガマンにたえかねて 日本刀をもちだして ふりまわして 最悪の戦後日本に プロテストした
というのが本当です。
 今は「戦争という手段による他民族支配の継続」なんてハカらしい「国連あげて軍縮の世紀」 
 ところが こともあろうに「核兵器をもて」とかいう「アホカ」というしかないセエジ屋もいて ただシラケ、
 
 もっとも「政治家は自分の言うことを信じてはいないので 他人が信じてくれていると びっくりしてしまう」というフランス大統領ドゴールのことばを参考にしながら 政治家の発言をきけば よいのかもしれません゛ 
 われわれ作家の世界では
「人生にしかけられたワナ」といいます 
 
にんげんは いまも たとえば歴史のあるとき ある場所にいたばかりに戦争や「たまたま」殺人現場にでくわし 自分の予期せぬ事件の渦中に巻きにまきこまれ そこで生まれる 新しい人間関係にひきずりこまれ 結果として「たまたま」そうなってしまう どうしようもない生き物なのではないかと 想います 

 

 
「男は強くなくては生きてゆけない。でもやさしくなくては生きてゆく資格がないワ」・
 
                     ハードボルド作家  チャンドラー

 とうとう 「日本の男は 精子がなくなり このままでは もう数百年のうちに 日本が滅びてしまう」と 医師界で憂慮されているとか。
 
かって十四 五の中学生がしていた分数計算すらできない大學生がいるとか
 徹底的に去勢されました。
 だれがどうだというのでなく  よってたかって 日本と日本人をつつきまわして つまらんくに にしたもの

   好きなことば  
    愚直一徹 賢い人にならず バカになりきること
    
あせらず あわてず あきらめず 人生を愉しむ
 
 
世間がなにいおうと よりよい明日にむかい流れる歴史の大河の流れ
インタネット通信は高度情報化社会の第三の世界的メテイアと 先進国首脳会議
 
よりよい明日にむかい 二千五年 インタネット人口は国民の六割 七千九百万人になると推定
                   郵政省通信白書
 用紙パルプのため 森林を伐採する量が少なくなる省資源 光線活字のインタネット 
 知事によると 県は インタネット網で網羅する 光フアイバー計画をまもなく実施 
 より すてきなことに それが完成したら 文化庁と山口県公的指定により すでに長門市に完成した県の近松大橋 近松公園 近松みすず道路 県立芸術文化劇場ルネッサ長門など 数々の巨大近松モニュメントを背景にした 「近松門左衛門の故郷山口県」の 研究周知ホームページは もれなく 県民家庭の個人こじんのインタネットに伝播します。
 それまでに この唯一無二の「近松研究」ページも あせらず あわてず ゆっくりと完成すればいいという ゆとりある創造のタノシミ
岩も在り木もありされどサラサラと たださらさらと 歴史の大河は流れる
 
 森林資源をなくしてしまう森林伐採の元凶 パルプ産業の紙による活字から 「光合成活字のインタネット」へ 自然保護、省資源にきりかえてゆく社会 
 インタネット利用度はほとんど白人 黒人はまだ二割弱 ヒスパニック南米系はまだわすが 高度情報化社会のインタネット世界から 落ちこぼれる層の知的格差が どんどん開いてゆくことが 問題視されているとか 
 にもかかわらず 歴史は決してうしろにはさがりません インタネット化は 前に前に進みます
 
 
むしろ頑強に拒否していて 気がさついたら 「インタネット社会から落ちこぼれていた」ということが ないようにすることの方が大切 
 
そのおちこぼれが インタネット社会や他人には「森林資源をまもれ」だの「自然保護」などと叫ぶ 「語るもミジメナ茶番劇の主人公」にはなりたくないものです・ 
なにが起きても 人は早晩 おちつくべきところに おちつくようにしか できてはいない」   チェスタートン

 浮上する人は力をぬいていても 浮上するし 浮上出来ない人は あがけばあがくほど水底に沈む。
 成功するまで やめさえせんにゃ いいだけのこと 
 こうして世界中に発信さえしておれば、いつのまにか この唯一無二の稀少価値情報は 不特定多数に浸透して 無限にひろがり 結果としては 全知全能の主が 未来にあらかじめ 予定されているレベルまで 浮上するだけのこと。
         つらぬきとおすということ
   去年(こぞ)今年(ことし) つらぬく棒のごときなり  (高浜虚子)  

 
右顧左眄すればするほど なにが本モノがわからなくなる。他人がなにいおうと 一度しかない自分の人生を どうすごすか それは他人が決めることでなく 自分が決定すること 
 ほかにはかけがえのない大切な自分の 人生の主人公は自分です  
 人間にはどうすることもできぬ領域がある それはその人のもってうまれた運命という領域である ユング
 種子一元論のユングによれば 受胎の瞬間 神により 大樹の種子か 灌木の種子か 自分にはわからぬが 神にあたえられた一回かぎりの自分の人生の 全プログラムが 完成である終わりの瞬間まで 設定されています。
 泣いて過ごしても 二度ともどらぬ人生の一時間 わらって過ごしても もどらぬ人生の一時間なら 泣いてすごしたり ケシカラニストで 腹をたてて すごしたら たとえ それがわずか一時間でも 成長するために 神にあたえられた時間のロス 
 ほかならぬ自分が選んだ 息をひきとるまで 生涯をつらぬく一事が あればそれでよし

 なにごとによらず 結果として 十年つづいたら それはホンモノだ」  
 十数年前 愛娘とウドンを食べた宇部の、食堂にあった大本教カレンダーより
 
近松検証とその文章化 文学の道は「結果として」それから十数年以上つづいています                     
山口高等学校の恩師 尾崎秋信先生に
われ神を知らず。されど神を愛するとする人 神に知られ 神に愛される人なり」・・・・・学生時代 山口高等学校の恩師 尾崎秋信先生に いただいた 無神論と一線を画す実存の書。 「善の研究」西田幾多郎より

 
戦前教育の「なせば成る なさねば成らぬなにごとも 成らぬ派は人の為さぬなりけり」  生来の 「一事を思いさだむるや つらぬくこと愚直一徹」 ついに死ぬまでなおらず。 
 

 創造的少数派の平等  お前たちのエライ人の平等主義者は 他人を自分たちの高さまで ひきずりおろしても むりやり平らに みせかけようとする 
 自分たちよりはるか上の高さまで 他人をもちあげるのは ガマンデキナイ
らしい  
                            サミュエル ジョンソン
ホームページに リンクを張っていただいた宮原英一先生は、あらためてご紹介するまでもなく、近松門左衛門研究の 世界的権威であられます。
『近松門左衛門の謎―長州生誕説を追って』(関西書院、1994)、若き日の近松門左衛門』(叢文社、1998)が、近松研究に コペルニクス的転回を もたらしたといっても けっして過言ではない不朽の業績 であることも 周知のとおりです。
 還暦を過ぎても 近松の学術研究を 指導的お立場から リードするにとまらず、多忙な日程の合間を縫うようにして、市政文化事業に 精力的に参画されている姿勢には 端倪すべからざるものがあり、さらにそればかりか、浅学の後輩世代に対しても つねに機会を提供してくださる度量の大きさには 敬服、感嘆するばかりですが、そうであればこそ 貴重なお時間を、更なる知識の地平の拡大へ向けて 傾注していただきたいというのが、「東洋のシェークスピア」をわれらが誇りとするすべての人々に 一致共通する思いであろうと存じます。
 公的に鼓吹された大義によらずとも、権力的弾圧に 屈することなく、自力で初心を貫き通し、文字どおり 生死を賭した戯作活動の中から、民衆が躍動する世界を 描き出した作品群 を送り出した近松の生きかたは、それ自体、体制に盲従しがちな現代人の軟弱な生、とりわけ 日本人に対する もっとも 根底的な批判と いえるのではないでしょうか
                                                                                                                                       敬 具
                                                                                                             東京  権田  潤(フリーライター、44歳) 
 長生きの時代とはいえ かんかえてみると いつ もう永遠に 目がさめない朝がきてもフシギはない{還暦はとうにすきさった}身 そうであればこそ 東洋のシェークスピアを 自分たちの誇りとするすべての人々に 一致共通する思いにこたえて {のこりすくない貴重な時間を、更なる知識の地平の拡大へ向けて 傾注してゆくべきか}
と 鳥越文蔵前早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長とも親しい この後輩のことばに いまさらのことく しみじみと教えられました
 
 
近松門左衛門長州生誕説の唯一の決定版
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著者 山口県美祢市大嶺町祖父ヶ羅 宮原英一  (T&F 0837 52 1424)

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