[

近松生誕のあらまし
椙杜家の源流 玖珂郡周東町 椙杜郷の古地図
 
 近松門左衛門藤原信盛  幼名を杉森平馬という。不移山人、平安堂とも巣林子ともいう。  
 長州萩藩ご家老の志道兵庫就幸の側室と就幸の甥の少年、椙杜広品とのピュア・ラヴ、純愛の子としてうまれた。  
 鎌倉政権公家三善氏を源流とする椙杜家は、藩祖毛利元就より 感状が数回におよぶ、代々武勲の家である。
 当時の男権法により、純愛により二夫にまみえた女は、刀で両手の十指を、すべて切りはなされた上、追放される。
 豊田にある保護寺の神上寺に、にげこんだ女は、山寺のふもとの馬小屋で、のちの近松門左衛門こと平馬を産んだ後、「苦界に身をしずめた」とも「自殺」または「殺害された」ともいう。
 みなしごになった少年は、キリスト教禁止により、閉門蟄居させられていたキリシタン大名の、毛利秀包の嫡男て、いまは亡き柳庵の老妻、洗礼名マジャエンシャやキリシタン武家四十九人の類族とともに、毛利藩隠密大将としてくらす、フランシスコ毛利元鎮こと、柳庵の手もとにひきとられた。
 しかし、まだ五才にならぬころ、毛利元鎮ことフランシスコ柳庵が他界。
 それよりまえに、毛利元鎮の世継ぎは 蟄居を解かれ、吉敷毛利といわれる山口の吉敷毛利藩主として、吉敷に転居していた。  
 柳庵に他界され ふたたびみなしごとなった少年は、当時は四千石椙杜広品の長府藩領、であった長門深川のギリシア円形劇場楽桟敷の管理職の家にひきとられた。  
 母親の意志により フランシスコ柳庵の立ちあいのもとに、幼児洗礼をうけたのか、「佐賀県東松浦郡史」によれば 少年近松は十才のころ、下関から唐津近松寺の和尚につれられて、天草キリシタン反乱の終焉の地、これも もとキリシタン大名の 前肥前唐津藩主寺沢家とその一統の 前キリシタン菩提寺、唐津近松寺にひきとられた。
 そこで修業中、今度は父なる椙杜広品の家が崩壊して、笠岡方面に四散した。  
 うしろだてをうしなった少年 平馬は、近松寺門前にて、懲罰を受けて、ふたたび寺も追われ 杉森姓に還俗した杉森平兵衛は 重臣達の役宅のある 萩藩追回筋に住んでいたと 萩城下町人名録に記録されている。。
 のちに現代西欧にまで、文筆の天才を、あまねく賞賛されるにいたる 文豪近松門左衛門の少年時代は、不運が、十重二十重にかさなり、はてしない生々流転の、なみだだけが、ただひとりの道づれという孤独な少年の日々であった。
 還俗して元服,旧姓の杉森平兵衛となる 。 
 京都にあらわれた彼。
 三塊九卿(三攝政関白家と九晴華家のこと)の膳をまかなう大膳太夫 こと毛利家京都藩屋敷では、信盛という釈六位の公家さむらいである。
 京都から みなと越前の杉森家を経て、萩や下関では、日本最大の劇場をかまえる屈指の豪商大阪屋を、北前船で往復。  
 京都を尋ねてきた杉森家を、山岡元隣の句席で接待している.
 萩城下町人名録によれば 萩では 指月城内の三の丸の豪邸 椙杜屋敷の主、杉森平兵衛として、その名をとどめている。  
 やがて鬱屈する日々をおくるこのわかものは、下関大阪屋劇場をおとずれた十才うえの井原西鶴とであう。  
 そして二十をすぎたころ、舞台芸術に人生ひとすじを賭けた、純愛の劇詩人として自立。「雲上式部。地下近松」と、世にうたわれる上方の天才作家となり、不朽の名作の数々をのこし、のちの世に、作者の氏神、民衆の純愛の劇詩人、現代の西欧では「東洋のシエクスピア・チカマツ」として、世界中の市民に、あまねく親しまれている。  
 標準語のない当時ゆえ、彼の作品は、二百数十語におよぶ防長なまりで、染めあげられている。  
 近松寺と長門の門を、ペンネームにする彼のペンネーム平安堂とは、萩平安古にある彼の異母兄弟が、僧としてつかえた毛利家の菩提寺、天樹院の別名である。(参照 隠密寺社記)  
 ふつう棄教したものは、散所におくられる。
 だが近松は、あえて「不移山人」をなのり、みずから、非転向であることを世にしめした。
 近松門左衛門の作品をつらぬくものは、「汝らのうち、おのれに罪なきもの、この女に石をなげよ」という 聖書信仰の、このくににおける現実の舞台化である。  
 江藤淳著の「近代以前」によれば、それをかぎつけていた幕府を ささえる哲学、儒学者の筆頭林羅山は、幕藩体勢をゆるがすもっとも危険な思想思想として、人形浄瑠璃への監視の目を、終生ゆるめなかったという。 
「大内家実録」によると、かれの名信盛とは、落城とともに、わが子亀王丸をつれて落ちのび、民家にのがれて、亀王丸をそだて、死後、「栄誉信盛」という法名を、あたえられた大内の女性の名である。
 それは純愛により妊娠し、民家に逃亡して、近松をうんだ彼の母を示唆している。  
 大内は、足利政権時代の京都大名で、長門深川の大寧寺で、滅亡した。  
 その大寧寺は、椙杜主殿守広品の領地、長門深川の椙杜屋敷のすぐちかくにある。
 なお 岩国錦帯橋のちかく、女流作家宇野千代のうまれそだった屋敷がちかくにある椙杜家発祥の地、周東町の椙杜郷には、いまも ちいさな祠宮「椙杜八幡神社」がある。               
             
 平成十年十月一日                                 近畿地方山口高等学校同窓会新聞に掲載

    山高第五九期生 宮原 英一 作家・歴史研究者
                     「目次ページ」にもどる。