肥前佐賀県史料編
 唐津近松寺史料編
近松門左衛門は長州深川の人
           ーd
佐賀県唐津市坊主町 近松寺にあった近松の碑文


 
印海祖門上座者 長門深川之人也。従当山第十四世遠室禅師之而授業得度。学識共卓絶。後遊京師変姓「近松門左衛門」。以著作浄瑠璃業為。享保九年辰年十一月二十二(一)日卒。於浪華以遺言帰葬当寺墓

享保十乙年六月二十二日

当山六世現住鏡堂識之

中ほどに近松門左衛門と彫った文字がみえる
2004 年12月 大阪よみうりテレビにより唐津近松寺の近松の遺髪塚の地下の最深層より発掘された 旧石碑

              
             訳 文

  印海祖門という上座の者は 長門深川の人なり。
 当山第十四世、遠室禅師の授業により 得度に従う。
 学識共に卓絶せり。
 後に京師に遊び 姓を近松門左衛門と変え 浄瑠璃の著作業をもつて為す。
 享保九年 辰年十一月二十二(一)日 浪華にて卒す 
 遺言をもって当寺の墓に帰葬す

享保十乙年六月二十二日 当山六世現住鏡堂 之れを識す

 

在りし日の青年近松の記録
近松祖門上座画像讃写

声癒好 没跡道人

右洛東南禅寺派管長少林梅嶺禅師筆

 禅亦不参不知教填言倒語有余微風一脈伝千古解道近松門下児也 .識親切為人句 闇浮 即浄瑠璃応近松主盟需題洛東晩翠

右 洛東南禅寺塔中金地 院住職上甲景禅師筆

只一個一点無明焔錬出如来正法輪

  洛東三光室                  

右南禅寺派管長勝峯大鉄禅師筆

幽径近松通祖門筆 端出眼蔵言微風一曲声癒好親体謡中独称尊
東山金地石蓮曳題

右甲州永源寺派管長蘆津全禅師筆

真俗君休間 風流伝仏心 麁言兼袖語 一味是清音 麓樵浩岳

右鎌倉園覚寺派管長釈宗演禅師筆

撃竹桃花皆本有艶倚語又何古妨写来八万四千偈此老毫端是道場

     甲申三月題於唐津客館青巒

右東京大内青巒居士筆

 

戯財録より
 近松門左衛門 平安堂と号す。
 
肥前唐津近松禅寺小僧古澗、碩学によりて 住僧となり義門と改む。僧侶をあまた門人となせしが、しょせん一寺の住持となりては衆生化度の利益すくなしと大悟して 雲水に出でしが、肉縁の弟岡本一抱子という大儒の医師、京師にあれぱ、これに寄宿して、堂上方へも還俗して、勤仕の間、有職も大体記憶し、その頃、京師浄瑠璃芝居宇治加賀掾、井上播磨掾、岡本文弥、山本角太夫などの浄瑠璃狂言を述作せしが、貞享三年、大阪竹本義太夫座に頼まれ、「出世景清」という新物を書きしより、竹本の書き始めにて、生涯数百番の新物を書作して、日本に名を揚ぐる。これより看板または板本に、作者の名を記す元祖となりぬ。元来近松は、衆生化度せんための奥念より書作するゆえ、これまでの草子物とは異なり、俗談平話を鍛錬して、愚智蒙昧の者どもに、人情をつらぬき、神需仏の奥義も残るところなくあらわし、俗文は古今の名人、あっぱれ古今一派の文者というもさらなり、近松の浄瑠璃本を百冊よむときは、習わずして三教の道に悟りをひらき、上一人より下萬民にいたるまでの人情をつらぬき、乾坤の間にあらゆること森羅萬象弁えざることなし。
 家々人中の褻ともいうべきものか。
 時に享保九年甲辰十一月二二日卒す。
 法名 阿耨院穆矣日一具足居士 久々知妙見広済寺の過去帳に残る。

 辞世 それ辞世 さるほどにさてもその後に残る桜の花し匂はば


 
近松長州人説の永久保存資料
「史料・佐賀県東松浦郡史」にみる「下関にいた幼年期の近松」
 
近松門左衛門は 
十才のころ 下関観音崎の永福寺義天和尚につれらて「長州から唐津の近松寺に」やってきた( 佐賀県の東松浦郡史より)

 
唐津近松寺の愛らしい小僧さんを思わせる近松の遺髪 

 

 いくたびか 行方しれぬ母のおもかげをしたい 夢まぼろしの父をおもい ゆきばのない あどけない少年近松が よりすがって ただシクシクと泣いた このキリシタン灯籠・・・。 
 後年 禁教下の舞台で 近松が 叛乱のキリシタンの頭目 七草四郎にいわせた 鋭く しかしきわめて危険なキワドいせりふ・・・

「七草四郎 すっくとたち エエ しおらしい志 "わが法は・・広大にして 人をころさず"・・・・ 一人も仙術にすすめまつるなり・・・ 太刀打ちせずにたすけおく この情けを思い わが城郭にたてこもり 一天下をひきうけて 合戦のときには 味方にこいこい」  さても七草四郎 筑紫七草の城にたてこもり、 両大将。 数日 これを攻むるといえど、四郎が仙術に 寄せ手、たびたび敗北と・・} 
 
と 天草四郎の反乱に題材を得た" 最後に敗れる反体制の悪のヒーロー七草四郎"の 口をかりたセリフ。 
 「・・・このドラマの作家近松はなにものた。キリシタンではないか・・」
と うたがわれたら最後 残忍な拷問 火あぶりの処刑が待っている 厳しいキリシタン禁教下の 服従と抵抗の作品に 禁教下につらぬく非転向をチラと 観客に示唆する近松門左衛門の 胸に秘めたる不屈のキリシタンだましい。

・・・・"
わが法は 広大(無辺)にして 人をころさずなり"・・・・・・近松作「傾城島原蛙合戦」より・・  
 
世間の華の色香は移れども 慟哭の天草三万数千の 信仰をつたえるこのキリシタン碑は不変にして半永遠。 
 たちまちにして 観客をドラマにひきずりこんでゆく
 「近松の前に近松なし 近松のあとに近松なし 余人にはまねのでない魔力の文体と いわれる 近松門左衛門の すさまじい迫力 ラジカルな とうに宗教を超えた宗教性にたどりつく 端緒の秘密を 語るごとく キリシタン灯籠が いまも合計三基
  三位一体の神を啓示するごとく 唐津近松寺の庭に 永遠に屹立しつづける。

 

唐津近松寺のキリシタン信仰の対象
    
      

      
 キリシタン大名寺沢家の菩提寺 少年近松もよりすがった 当時はキリシタン寺唐津近松寺の庭に屹立する 天草殉教三万数千人のシムボル キリシタン碑
参考 津和野乙女峠のキリシタン殉教碑 唐津近松寺のキリシタン殉教碑
  

 人はなにも語らない 
 ただ事実が 「歪んだ歴史」の真実を わたしたちに松風とともに 静かなたたずまいの中から かたりかけてくる 
 
   

  

防長人作家近松研究ノート

 萩藩閥閲録によると 椙杜の領地は {
長門深川}と{山口の壽銭司}です。
 さらに調べてゆくと、明治維新革命の時の江戸攻略の天才と、今にいわれる壽銭司出身の
大村益次郎は、代々近松と同じ椙杜家の子でした。
 近松隠れキリシタン説は、単に唐津近松寺や広済寺に、あったキリシタン灯籠ゆえではありません。まだ少年の頃 父なる椙杜家はとつぜん家禄返還 没落した蘭医として 笠岡方面に移転しています。近松は、いわば禁止された和蘭医学を学んだことを理由に、突然、広大な所領を没収されて
没落した御典医のイエの子でもあります。
 維新回天の地下活動への弾圧が、類族におよぶを避けて、大村に改姓したのか 発想の視点をかえて 益次郎の方から、父親の椙杜家の系譜を、さかのぼってゆくと、蘭学に熱心な椙杜家の人々は 「洗礼を受けた家は、二代にわたり監視する」というキリスト教信仰禁制下の権力の監視システムにより、
二代つづけて、毛利藩本城 萩指月城の沖の、絶海の孤島に、島流しにされていました。
 このくにの先駆者の道。
「もっと安楽な地位と一生が、保証されていたのに。こんなにまでして、権力者とそれに追随する世人にそねまれて、なお・・・」
 と 私たちは、先駆者たちの血のにじむような苦難の跡に ただ、絶句するばかりです。
 {天才とは一%の素質と九十九%の努力の汗の賜物である}という至言を、大村記念舘で知ります。山口の壽銭司にある 大村記念舘にある彼の研究ノートは、当時の日本人がみたら 魔法使か 悪魔の恐怖の呪文でしかないアラビア数字が、ビッシリとならぶ、西洋数学によるおびただしい無数の諸計算のノートです、
 そして日本最初に、死刑になった女囚の死体解剖をして 生殖器官の体系の異なる くわしい女体の内蔵図を、わたしたちあとにつづく、このくにの医学の後輩に残したのも、江戸攻略の天才にして、萩の蘭医大村益次郎と蘭医小栗孝庵とされています。
 近松門左衛門 大村益次郎 「天才の家系は、天才をうむ」というほかないようです。
 意見の分かれる公害問題等の、科学分析の検証方法では、これを「クロス・チェック」といいますが、佐賀県にある史料唐津近松寺の碑文やキリシタン碑を、山口県にある萩藩史料や二代つづけて島流しにされた椙杜の史料録との二つを照合した結果 東洋のシェェクスピア近松門左衛門の うまれた椙杜家は、近親者も、山口で日本最初に伝道を開始したフランシスコ・ザビエル・キリスト教に、深く関わり、
「二代つづけて絶海の孤島に島流し」にされたあと、一切を胸中に秘めて、再び所領に復帰した家柄でした。
欧米人に親しまれる近松の国際性の秘密を解く鍵が ここにあります。ザビエル・キリスト教が、このくにで公認される明治まで、隠忍していた椙杜の末裔の椙杜親介氏が、今度は公然と、津和野乙女峠で殉教した高木仙右衛門らも公然復帰した長崎のカトリック教会にゆき、「公式に復帰」したのは 当然といえます。  先祖が島流しにされてから、気の遠くなるような、あまりにも長いながい、密やかな道のりでした。
 そして、その地で近松が生まれたかどうかは別にして 近松の所属したイエ「椙杜家の領地」は 萩藩閥閲録によっても、やはり現在の長門市深川でした。

尼崎広済寺の廃材置場に放置され 風雨にさらされ摩滅しているマリア像
1999年1月30日 尼崎市アルカイックホールでの近松講演に際して 近松を埋葬した尼崎広済寺を訪問のとき 偶然 幼子を抱いたマリア碑を発見
津和野乙女峠の殉教の聖者 高木仙右衛門の末裔 
神戸市の高木シスター(兵庫生と死を考える会会長・英知大学教授)と
 
長門市が起点 近松みすず道路  
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