近松の現場へのご招待    

         ロマンでも伝承でもなかった ! 事実だった

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近松が二十五、六才のころの萩城下町人名記録および住所録
近松が生まれたとされる椙杜家に関する萩藩史料
萩城下町の絵図にみる人名簿および住所録
  
 
寛文拾(1670)・天和元(1681)二年対比

    杉森 平兵衛
               

    堀内追回筋 30間入り23間27間

       寛文拾(1670 国司隼人宅

       天和元(1681) 椙杜八郎宅

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  新世紀ゼロ年 二十一世紀をになう新しい近松研究の次世代の後輩へ。 先に生き 先に世を去る先輩からの「後世の日本人へのたましいの贈りもの。(内村鑑三)」 ・・・・  落ちてきたら 今度はもっと 高く もっともっと高く 何度でもうちあげよう 美しい願いごとのように・・・・・「荒地」同人 黒田三郎の詩「紙風船」より

                          

           

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嘉永年間 萩城下・侍屋敷 萩城下町地図 萩郷土文化研究会提供

報われた研究

自1929,至1736年(近松没年は1721年)当時の
萩城文書における椙杜家の記録
椙杜家の椙杜伊織周寿が1413石で、先大津深川の内江良 小郡の陶 鋳銭司浮米に

 元服前は杉森平馬といった近松は 防長の椙杜家の出身とするのに対して「長門説は伝承」とか「ロマンである」とか 「マサカ嘘ではないだろうが・・・」と、念のために しらべてみれぱ 越前杉森系図に 近松の弟としてある名医一抱は 生れたのは なんとまあ近松の生誕年より三十三年もあとの次世代 また「書き写したというが、書写する前の そのもとになる原図(古文書)はない」と鳥越文蔵博士の指摘。
 そして
越前杉森家系図の「近松門左衛門信盛という文字は 明治の終わりか 大正に、活字に似せた文字で 書き加えたもの」であるとは・・・・・  

  さすがに 近松研究の第一人者といわれる学哲の警世の名言。
「・・・法学の世界では うたがわしきは罰せずというが わたしたち学問の世界では 「うたがわしきは採らず} としている・・」
 中央の図書審議会で 日本図書館協会選定図書になった私著によせられた 現県立芸術文化劇場初代館長鳥越文蔵博士 (当時 早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長)の序文より
 

 歴史学でなくても 第一次資料をあやまると それを前提にして書いて 屋上屋を重ねて 積み上げた書物は、「親亀こけたらみなこけた」、一瞬にして、権威をうしなう。なにもかも水の泡になるのは 常識。 
 なんとも 心もとない系図を 第一次資料として 学問の名で 長期にわたり 屋上屋を重ねてしまい 近松論議が権威の名により流布される情報
により 全世界が あやまった情報を信じていました 
「論より証拠」 証拠となる当時の第三者による記録をしらべつづけてみると「ついにあった」。 
 萩城内の堀内の追廻り筋、寛文年間には 国司隼人萩城内の役宅が 天和元年には、お役目交代(当時の萩藩の現場は 一年交代の役宅勤務)で、椙杜八郎宅になり 杉森平馬 元服して、成人名杉森平兵衛がいる.
二十三間かける二十七間という 
当時の萩城下町では、最大クラスの椙杜家の大役宅の 代表者として 萩城役人という第三者により 公式に記録されています。
 萩城内の堀内の追廻筋は、堀にかこまれた萩城の内側にある
毛利藩の重臣ばかりが、勤務する役宅通り.
 まさに古老が伝えてきたとおり、萩城内の堀内の追廻り筋、天和元年当時、十九才.「椙杜家」役宅の若き代表者、杉森平兵衛 
 {私はココロ医師に あなたは作家になるべくしてなった ほかになりようはなかった}と 河合隼雄
 「千差万別のその人 その人の一生の運命の人生プログラムは その父の精子とその母の卵子が一体化した瞬間 神により 最後まで決定されている」
 種子一元論の 心理学の最高峰ユングによる 玉ねぎの皮のような 祖先から形成されて 幾十重にもかさなる複合意識体の芯になるのか あるいは遺伝子科学の実例になるのか 祖先は鎌倉政権で「代々文章博士を務めた」政権公卿の三善家.
 いずれにせよ 当時の萩藩の第三者のお役人により 公式に記録されたときの重臣、椙杜家のブリンス、杉森平兵衛こと 若き近松の姿  
 だからこそ、明治に郷土の偉勲について 講演した明治の偉勲村田清風の孫の村田峯雨氏は「戯作者は差別の底辺にいたどころか この東洋のシエクスピア世界的な文豪に近松「先生」と 敬称を用いて かたっているのでした。 
 椙杜家のブリンス、杉森平兵衛と知れば、だれでも「心中刃氷朔日」の舞台に立つ 若き平兵衛という 作家近松の分身を思いだします。平兵衛の心中相手「こかん」とは 唐津修行のころの僧名、平馬は 浦島年代記に登場させますが、五十七才の春を迎えた近松は 過去の自分平兵衛とこかんを舞台に葬り去り 文字どおり もはや逃げも隠れもしない自分の人生 一人の劇作家近松門左衛門人生を 生涯つらぬいたのでした。  全国四十八紙に掲載された共同通信記事によると「もし長門説に逆転すると、ほとんどの文学事典 百科辞典の書き直しが 必要になるばかりか、劇作家としての近松 作品の解釈に大きな影響をあたえ 生誕三百四十五年のいま 近松に思わぬスポツトがあてられている」そうで、封建的な弟子関係に束縛されている現在の大学教授たちではなく、七十年学園紛争で「造反有理」を実体験した次世代の助教授クラスの研
究に期待できそうです。

        

 元服前は杉森平馬といった近松は 防長の椙杜家の出身とするのに対して「長門説は伝承」とか「ロマンである」とか
「マサカ嘘ではないだろうが・・・
」と、念のためにしらべてみれぱ ナント 系図に近松の弟としてある名医一抱は 生れたのは なんとまあ 近松よりも三十三年もあとに生れた近松等の次世代。 
 また「書き写したというが、書写する前の そのもとになる原図(古文書)はない」と鳥越博士。
 そして系図の「近松門左衛門信盛という文字は 明治の終わりか大正に、活字に似せた文字で 書き加えたもの」すら。
 

  さすがに 近松研究の第一人者といわれる学哲の警世の名言。
「・・・法学の世界では うたがわしきは罰せずというが わたしたち学問の世界では 「うたがわしきは採らず} としている・・」中央の図書審議会で 日本図書館協会選定図書になった私著によせられた 現県立芸術文化劇場初代館長鳥越文蔵博士 (当時 早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長)の序文より
 

 歴史学でなくても 第一次資料をあやまると それを前提にして書いて 屋上屋を重ねて 積み上げた書物は、「親亀こけたらみなこけた」、一瞬にして、権威をうしなう。なにもかも水の泡になるのは 常識。 
 なんとも 心もとない系図を 第一次資料として 学問の名で 長期にわたり 屋上屋を重ねてしまい 近松論議が権威の名により流布される情報により 全世界が あやまった情報を信じていました 
「論より証拠」 証拠となる
当時の第三者による記録をしらべつづけてみると「ついにあった」。 
 萩城内の堀内の追廻り筋、寛文年間には 国司隼人萩城内の役宅が 天和元年には、お役目交代(当時の萩藩の現場は 一年交代の役宅勤務)で、椙杜八郎宅になり 杉森平馬 元服して、成人名杉森平兵衛がいる.
二十三間かける二十七間という 当時の萩城下町では、最大クラスの椙杜家の大役宅の 代表者として 第三者により公式に記録されています。
萩城内の堀内の追廻筋は、堀にかこまれた萩城の内側にある 毛利藩の重臣ばかりが、勤務する役宅通り.
 まさに古
老が伝えてきたとおり、萩城内の堀内の追廻り筋、天和元年当時、十九才.「椙杜家」役宅の若き代表者、杉森平兵衛 
 {私はココロ医師に あなたは作家になるべくしてなった ほかになりようはなかった}と 河合隼雄
 「千差万別のその人 その人の一生の運命の人生プログラムは その父の精子とその母の卵子が一体化した瞬間 神により 最後まで決定されている」
 種子一元論の クリスチャン・ユングによる 玉ねぎの皮のような 祖先から形成されて 幾十重にもかさなる複合意識体の芯になるのか あるいは遺伝子科学の実例になるのか 祖先は鎌倉政権で 「代々文章博士を務めた」政権公卿の三善家.
 いずれにせよ 当時の萩藩の第三者のお役人により 公式に記録されたときの重臣、椙杜家のブリンス、杉森平兵衛こと 若き近松の姿  
 だからこそ、明治に郷土の偉勲について 講演した明治の偉勲村田清風の孫の村田峯雨氏は「戯作者は差別の底辺にいた」どころか この東洋のシエクスピア世界的な文豪に「近松先生」と 敬称を用いてかたっているのでした。 
 椙杜家のブリンス、杉森平兵衛と知れば、だれでも「心中刃氷朔日」の舞台に立つ 若き平兵衛という 作家近松の落魄した分身を思いだします。平兵衛の心中相手「こかん」とは 唐津修行のころの僧名、平馬は浦島年代記に登場させますが、五十七才の春を迎えた近松は 過去の自分平兵衛とこかんを舞台に葬り去り 文字どおりもはや逃げも隠れもしない自分の人生 一人の劇作家近松門左衛門人生を 生涯つらぬいたのでした。 
 
 
もし長門説に逆転すると、ほとんどの文学事典 百科辞典の書き直しが 必要になるばかりか、劇作家としての近松 作品の解釈に大きな影響をあたえ 生誕三百四十五年のいま 近松に思わぬスポツトがあてられている

 となると、たちまちにして右顧左眄 自己喪失して 腰が萎え ウヤウヤにして {和をもって尊し}などいう理屈をもちだし 玉虫色の政治的な決着をしかねないのが 歴史学では 権力に弱い学名「ドブ族史観」とされる日本人 どこまでも、自分たちのよってたつ根拠を 明らかにした上での 都市間の友好は むろん賛成。
 山口県人への批評はありますが 「親思うこころにまさる親ごころ 今日のの音ずれなんときくらむ」と詠んだ松蔭「・・・・
もし同志の士、その微衷を憐れみ、継紹の人あらば すなわち後来の種子 いまだ絶えず みずから禾稼の有年に恥じざるなり 同志 それこれを考思せよ  身はたとへ武蔵の野べに朽ちぬとも とどめおかまじ大和魂             吉田松蔭」留魂録より


 たましいの世紀 おなじ意味でも しょせんは翻訳語の「一粒のタネもし地におちずは」という聖書よりも 数段たちまさる格調の高い清冽な文章でつらぬかれた 松蔭の留魂録は 第二の明治維新 今度は{天意は善にして人は善なり}と 世界のチカマツで ポストモダンの世界に 性善説伝統文化革命が 起きているのを目前に とどめおかまじ大和魂 たましいの世紀に 山口県民が永遠に 世界に誇る{
防長男児の留魂録だましい}です。 
 
「近松を福井と山口の二ケ所で、生まれさせるわけにはゆかない」と「虚実のなぐさみ」で明言され「疑わしきは採らず」として、埼玉県志木市のの自宅から 遠い山口県に あえて赴任された鳥越博士である以上、迎えたわたしたちも また、「近松を福井と山口の二ケ所で 生まれさせる」わけにはゆきません。
 同年代 同年以下の友人の葬儀につらなることも少なくない六五才 
 人はかならず いつか死ぬ有限の存在以上
 身はたとえ 中国山脈の田園美祢に 朽ちるとも とどめおかまじ大和魂  で もはや 火の手は世界のどこまで ひろがりつづけるか だれにもわからない、コビイによる貼り付けで みんなの手元にのこるホームページで 西欧をふくむ 七つの海のかなた世界中に 証拠資料の存在を 明らかにして いつ死んでも もう うやむやには されないように 世界中に永遠無限に 留魂しておくゆえんです。

 小学館日本古典文学全集によると 近松は七十一才のとき わが子、椙森多門の描いた遊女の絵に画賛を書きました」.なぜ、「杉森」多門ではなく 「椙森」多門なのか、これも長いあいだ、霧に包まれた研究者の謎でした 
 万世一系という古色蒼然とした歴史観念でなければ 椙杜家から提供された過去帖によると 事実に即して いうならば 「杉」あり 「杉杜」あり 「杉森」あり 「椙杜」あり 
 公式に届ける役場があったわけではない 当時の社会の現場ては当て字は 当たり前でした。 

京都説について  
「われは田舎育ちの身なれども 今は都に住めばその氣うつり・・」

 権威かつぎではなく あくまで事実を重視する人であれば 別に権威がいったわけでもなく 住まいの近景を描いた景色に、ふと書き添えた近松自身による近松の独白に即して 語るならば、もちろんのこと 都の現場、京都出身でないことは われわれ凡愚が見てもあきらかです

きょうもまた 心中ありて近松忌 (参照 講談社カラー歳時記) 近松長州生誕派の俳壇の巨星 高浜虚子の詠める・・・。 激増するばかりの 中高年の自殺 戦後最高を更新に 更新中。 一人心中多発。憂き世(近松の時代)の再来。 第二の戦後 見渡すかぎり 荒れ果てた精神の荒野。 せっかく 戦後半世紀 やっと ここまで たどりついた人生が「今から」と、いう時に・・・・・・・・・・。 いざ ゆかむ ゆきてまだ見ぬ山を見ん そのさみしさに 君倒るや 「時代閉塞の現状」を著した石川啄木の歌より

   

昭和五八年初版   講談社版カラー図説
日本大歳時記 座右版
監修  水原秋桜子 加藤楸邨 山本健吉
近松忌

陰暦十一月二十二日(二十一日の説あり)  浄瑠璃 歌舞伎脚本作者 近松門左衛門の忌日 門左衛門は武士の出 本名杉森信盛 通称平馬 不移山人 巣林子 平安堂などと号した。
 
長門でうまれ 京都にのぼり 坂田藤十郎 竹本義太夫と結び 脚本をつくった。竹本座の座付き作者として有名。二十数編の狂言本 百数十編の浄瑠璃をつくり。享保九年 大阪で没した。 一六五三
一七二四
 世話物「曾根崎心中」「心中天の網島」「女殺し油地獄」「国姓爺合戦」などが代表作。義理人情のしがらみにあえぐ男女の劇的心情を 世相描写と多彩な言語表現により 見事に描き 西鶴 芭蕉とならんで 元禄時代を輝かせた大作者であった (平井照敏)    

けふもまた心中ありて近松忌   高浜虚子 

ひさびさの下り役者や近松忌   中村吉右衛門 

絵すがたは誰が筆ならむ近松忌  水原秋桜子 

煮え切らぬは男なりけり近松忌   成瀬桜桃子               ほ か    

      

資料提供  長門時事新聞社 社長  中原 吉郎氏
      県立山口図書館

                  

 註。厳密にいうと これは昭和十年代の高浜虚子編纂の三省堂歳時記高浜虚子編纂のを踏襲したものでず。
 
したがって ここでいう長門とは かならずしも 唱和三十年に市町村合併により生まれた現長門市とはかぎらす 防長二州の萩 下関など 現長門市を含む通常「長州」といわれる周防長門という広域の「長門国」を意味しています。

 

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