ついに東京に!
演劇人と文人のメッカ 作家の氏神 長州人近松供養碑が再現
祝 人形浄瑠璃・歌舞伎の世界無形文化遺産指定
化学的永久保存措置の上 再現された江戸期の文人近松繊月建立の東京墨田区業平五丁目 柳島妙見山法性寺で発掘された宮廷詩人長州近松門左衛門の供養碑区寺の宮廷詩人長州近松供
写真撮影 宮原 利恵 (山口県宇部市宇部興産勤務 )
「東京の新名所にする」と墨田区長さんも協力
東京近松会が 恒久的に拠って立つ「永遠の拠点
」のひとつ 
3発掘された石碑に永久保存化学措置化粧が完成。
江戸時代の近松供養碑、東京柳島の妙見境内に再現さる
やはり霊験あらたかだった日本三大妙見
 昭和三十六年。地下の土に埋れていた江戸時代の旧い近松の碑が 上記写真のごとく 東京墨田区業平五丁目の柳嶋妙見 法性寺境内の地下から 忽然と姿をあらわした。(下記写真)
 石碑に
は「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛文碑。曾祖近松門左衛門藤原信盛。長州萩之家臣杉森某の男。賜笏六位・・後略」とある。
 関西書院(解散)発行の私著「近松門左衛門の謎」( 日本図書館協会選定図書に指定)には 当時 早稲田大演劇博物館長の鳥越氏が
「なにを隠そう。このわたしこそ 近松長州生誕説の最右翼である」と明言された序文をよせられたが その鳥越氏によると「近松が越前うまれと決定されたのは 大正の学会であった」という。
 江戸時代に「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛文碑。曾祖近松門左衛門藤原信盛。長州萩之家臣杉森某の男。賜笏六位・」と 近松略伝を発行して 近松門左衛門に心酔して なにもかも自費で 大法要をしたのは 江戸時代の文人 近松春翠軒繊月である。
 もっとも福井県鯖江市史料館では この近松春翠軒繊月の実印のある近松追悼書を 近松越前説の証拠資料にして展示していたが 近松春翠軒繊月は近松の生誕は長州としていることがわかり 発掘当時は「近松は越前うまれと発表してきたわれわれの立場は どうしてくれるのか」という学者の自己保身のための抗議が殺到。発掘された近松春翠軒繊月の石碑は 法性寺の駐車場の隅に保管されてきた。
 敗戦後、教員の指示で 教科書中の天皇、神兵、皇軍、日本軍神などの文字を 一字のこらず墨で塗り消し、まるで朗読できない教科書で授業を受けた戦後民主主義世代としては、自己保身に汲々として 右顧左眄した軍国主義下の当時の売弁学者らの醜態が想像され ただ苦笑いするしかない。
 この度「近松さんを粗末にしては罰があたる。発掘された史料は どこまでも歴史的価値をもつ史料である」という日意和尚さんの意思により 東京で発掘された近松門左衛門藤原信盛の供養碑が 風雨にさらされても 永久に保存できる化学的措置をされた上で 「
霊験あらたかな日本三大妙見」として古代より有名だった東京柳島の妙見山法性寺に再建された。
 彼が長州萩之家臣杉森某の男で 賜笏六位のお公卿さんだったのなら 「三槐九卿( 天皇の直系の親戚である三摂関家と九晴華家のこと 宮原調べ)につかえ 天皇のそば近くで過ごしたくらしたという「咫尺たてまつった」という 近松門左衛門自身の遺言に なにもかも符合するし あるいは近松春翠軒繊月による「近松略伝」や大阪大東市法妙寺にある「江戸時代に太田蜀山人が執筆 建立した近松伝記」の「岡本一抱は仲善き弟子として 近松門左衛門に私淑したゆえの歴史人物事典の 
近松門左衛門と岡本一抱の生年差が三十三年もあることも 整合性を帯びてくる。
 また近松門左衛門が、
賜笏六位の宮廷公卿であったのなら 「近松門左衛門の流麗な文章に 近松門左衛門は公卿の血筋であることを直感する」という 某有名女流作家の作家としての直感ガ正しかったとなる。 
近松門左衛門 長州萩之家臣

杉森家の男なり 
賜笏六位
 下記写真は、近松繊月により建てられた江戸期の石碑の 発掘当時の写真
 近松の曾孫といわれる近松繊月は 三代目
竹本義太夫とともに「浄瑠璃大系図」を著わした人物である。狂言堂、春の屋、春翠などと署名したり、門左衛門にちなんで 門三郎とも名乗った。
 連名に 大阪近松千葉軒とあるは、寛政から天保時代の大阪の浄瑠璃 歌舞伎俳優の代表作に「絵本太平記」がある。
 近松繊月は 
門左衛門の曽孫と称していただけに、近松門左衛門への思い入れは熱く かつ深く、江戸の妙見堂の石碑建立の五年前の文政六年十一月ニニ日に、近松百回忌を営なんでいる。
 前もって同年九月に
「近松門左衛門略伝」を添えた百回忌法要のパンフを配布するという 念の入れようだった。近松繊月は近松への思いから発して 法要を営み、自費を投じて墓碑の修築や建立につくしたのだった。
 この石碑が地下に埋もれていたばかりに 福井県鯖江市は 気がつかずに この近松繊月の印のある書を 「近松鯖江生誕説の証拠として」 飾っているが、なんと当の近松繊月は 「近松は長州生まれ」としていた。
資料提供
東京都立中央図書館・早稲田大学演劇博物館・国立劇場・演劇出版社・近松座・小学館・集英社
 東京柳島妙見寺境内の地下より発掘され 今回 風雨にも耐えるよう化学的保存措置がされ、再び陽の目を浴びた「近松の曾孫にして江戸時代の文人近松繊月」による長州がうんだ作家の氏神にして世界的文豪「近松略伝」をきざんだ江戸時代の石碑。(埋蔵文化財・東京墨田区業平五丁目 妙見山法性寺 電話 03-3625-3838)
 昭和三十六年。地下の土に埋れていた江戸時代の旧い近松の碑が 上記写真のごとく 東京墨田区業平五丁目の柳嶋妙見 法性寺境内の地下から 忽然と姿をあらわした。
 
「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛。長州萩之家臣杉森某の男 賜笏六位云々」と刻まれているという。
 萩市内で 市販されている郷土史料 「
天和2年(1682年)当時の萩藩城下町の絵図に見る人名録および住所録」には 萩藩城下堀内追回り筋の椙杜八郎家に 杉森平兵衛が住んでいたと記録されている。近松門左衛門藤原信盛の幼名が 杉森平馬であったことと重ねあわせると この杉森平兵衛は杉森平馬元服以後の名であり 興味深い。その上に、「近松略伝」によると、近松門左衛門藤原信盛は 明治以後の学者たちがでっちあげた「失業武士の子」どころか、位階身分のきびしい朝廷から「笏六位を与えられていた公卿」純愛の宮廷詩人であった
 妙見境内の地下から 忽然と姿をあらわしたのは、近松の曽孫を自認する江戸時代の文人近松繊月が 近松門左衛門の法要の席で配布した「近松略伝」が彫りこまれた「近松門左衛門の供養碑」だった。
 
上の写真 江戸時代の近松供養碑の現物は 現在 東京墨田区業平五丁目の柳嶋妙見山法性寺(TEL03-3625-3838)に保存 この度アクリル製よりも 硬質で 透明度もたかく 風雨にさらされても 傷まぬよう永久保存の化学的措置を施され 土のついたままの 発掘された現物を 参拝客が直接拝覧できる場所に 大切に再現供養されている)
 
「はるの春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が」・・・と 唱歌にまでうたわれた隅田川。かっては「浅草の観音さまに参詣した人は 必ず柳嶋の妙見さまに参詣 。さらに亀戸天神にお参りすると霊験あらたかである」とされていた。
 歴史の真実は 長い間、地下に埋もれていた。
 こうしてみると、大内氏の守護神 妙見さまは やはり「霊験あらたか」だったわけだ。

 
国立国会図書館に所蔵されていた!
近松門左衛門藤原信盛 長州萩之家臣杉森某の男なり
近松繊月が江戸時代に配付した「近松門左衛門略伝」原本
国立国会故図書館所蔵
 近松門左衛門 毛利の家臣で長州萩藩の杉森の男 舎弟岡本一抱とある。
 一抱が「
近松を師とする
舎弟」であれば 国史人名辞典の近松と一抱が 三十三年の年齢差があっても なんら不思議はない。、
柳嶋妙見山法性寺の鈴木日意先代住職
「東京の新名所にする」と墨田区長さんも協力
東京近松会が 恒久的に拠って立つ「永遠の拠点
」 
3発掘された石碑の永久保存化学化粧が完成。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
柳嶋妙見山法性寺 ご住職からの手紙
 冠省
 今般 当山近松碑の再建にあたり、其界の第一人者といわれている宮原先生とのご縁をいただき、深謝しております。
 また このたびは ご研鑚の貴重な果実である論文書などを 多数ご奉収いただき ありがとうございました。世界的文豪の近松には、いささか疎かったのですが、拝読させていただき 力強く スタートを切りたく存じます。
 まずは お礼と先生のご健康をご祈願申しあげます。

                 
合  掌
    平成十七年四月二四日
     鈴木 日意
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
 早稲田大学内逍遙記念演劇博物館長の鳥越文蔵氏は 「なにを隠そう。このわたしこそ 近松長州生誕説の最右翼である」と明言された序文を 私著「近松門左衛門の謎」・発行関西書院・(中央で日本図書館協会選定図書に指定、全国各地の図書館に配備) に よせられている。
 その鳥越文蔵氏によると 
「近松が越前うまれと決定されたのは 大正の学会であった」という。
 ところが 昭和三十六年。
 東京都柳島の妙見山法性寺境内の地下から、「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛。長州萩之家臣杉森某の男なり。賜笏六位云々」という、江戸時代の石碑が忽然と地下から現われた。
「近松の文章には 公卿の血が流れているのを感じる」と 高名な女流作家が書いていたが、この江戸時代の碑によると 近松は朝廷から笏六位を賜った宮廷詩人だった。
 
この発掘のことを 鳥越氏に報らせたら {早稲田大学の足元から 近松の長州生誕を証しする石碑が 発掘されたとは・・・・」と ビックリ。大いによろこばれ 「こうした研究には お金がかかる。研究費の足しにしてほしい」と 即座に現金二万円を送ってこられた。
 ところで この「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛。長州萩藩之家臣 杉森某の男。賜笏六位云々・」という「近松略伝」を 大量に木版印刷で発行して配布、江戸で近松門左衛門の大法要をしたのは、江戸の文人で 近松に心酔していた近松春翠軒繊月だった。 
 鯖江市の史料館では この近松春翠軒繊月の実印のある近松追悼文を 近松越前説の証拠にして展示してきたが あにはからんや、当の近松繊月が、近松法要の席で参列者に「近松は賜笏六位野公卿で長州の人」という近松略伝を配布していたことが この供養碑の発掘であきらかになった。

 自然科学の世界では「定説は新しい定説までの仮説である」というのが 科学者の常識だがら 新しい史料が発掘されても 冷静にうけいれられるが メンタルな世界に没頭している文学のセンセイは そうはゆかぬらしい。  
 発掘当時は「われわれは大正の学会決議どおりに 近松は越前うまれと講義してきた。そのわれわれ文学者のメンツは どうしてくれるのか」という 自己保身に汲々としている学者ゆえの 迷惑論のような抗議が殺到し、発掘された近松春翠軒繊月の近松供養碑は、長い間 妙見山法性寺の駐車場の隅に 放置されていた。
 柳嶋妙見山法性寺の鈴木住職は「このまま 近松供養碑を放置していては 地下の近松さんに申し訳けない」と 自力で「近松門左衛門は 長州萩藩の家臣の子」と 出自がきざまれた近松春翠軒繊月の原文を 復刻した近松供養碑を建てられ 
いままで近松碑のなかった東京にはじめて「作家の氏神」「宮廷作家」。「長州うまれの近松の供養碑」が 復活した。
  近松春翠軒繊月による原文も 復刻済みである。

     
 
「三槐九卿につかえ 咫尺したてまつった」という近松自身の遺言の 近松の自伝と一致
 

 近松が長州萩藩之家臣 杉森某の男で 賜笏六位のお公卿さんであれば 天皇の直系の親戚である三摂関家と九晴華家「三槐九卿につかえ 咫尺したてまつった(天皇のそば近くででくらし「咫尺した)}という 近松自身の遺言と実像が なにもかもが一致符合する。
 身分制度のきびしい当時 越前藩の失業武士の子では、いかにあがいても「三槐九卿につかえ 咫尺したてまつる身分や地位」にはなれない。
 能 文楽が世界無形文化遺産になり ついで歌舞伎が世界無形文化遺産に指定された。
 東京には 作者の氏神。純愛の劇詩人、東洋のシェクスピアとされている近松の碑が いままでは存在しなかっただけに このニュースは大きい。
 妙見山法性寺の、作者の氏神の供養碑にあやかろうとする中央芸能人、近松関係大学人、山口県出身の人たちが ここに詣でるようになる。。 

 この近松春翠軒繊月の原文は 国会図書館に保存されていて このホームページにも 保存史料の一つとして 早くから掲載している。
 系図屋が繁盛した明治に創作された越前説系図や ツクリバナシとはちがい 江戸時代という長い歴史の洗礼をへているから 史料的な価値が高く 東京名物の一つになり 作家の氏神近松は、在京文化芸能人のメッカになり 東京近松会の 東京都での恒久的な拠点にもなる。

        
皇室にもっとも近い近衛家も 近松の戒名院号と同じ「阿耨院」

 
 某有名女流作家は 「文章からしても 近松には公卿の血が流れていると直感する」と 書いているが 山口県では 明治の偉勲村田清風の孫 村田峯次郎氏による「防長史談会雑誌の講演記録」明治四十三年一月号でも 近松は村田峯次郎氏により「正義の人近松先生は・・」と 最大級の敬称をつけて呼ばれいて 俗論にみる「戯作者として差別の底辺にいた」とは断定し難い。
 これは いままでの「誤った階級史観による誤った近松像」を 再構築すべき大切なナゾだ。
 近松の戒名は「阿耨院」だ。「阿耨多羅」とは、無上を示すサンスクリット語の漢訳だ。
 奈良本辰也・高野澄著の「忘れられた殉教者」をよむと なんと 皇室にもっともに近い近衛家に「阿耨院日行」という僧が 備前にいる。
 阿耨院日行は、近衛熈孝という公卿で、園藤斎と号していて 三宅島に流されて、日妙上人をしり、教義をまなんで 直弟子になった。
 備前法華の祖大覚僧正は 近衛経忠の息子であった。
 公卿は公卿でも 近衛家と同じ 戒名をもつ近松は「徳川武士政権と戦う中世の天皇家(網野善彦史学)」の側にいた。

 
パリフアッションをはじめ 二十一世紀は 世界的な伝統回帰の世紀とされている。
 東京には ほかには江戸時代の近松の石碑はない。
 したがって 東京の「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛は。長州萩藩之家臣 杉森某の男。賜笏六位の公卿だった」という繊月のことばが 東京都民を通じて 「江戸時代からの日本人の近松常識」になる。
 伝統回帰の時代の世紀の夜明けは 東京からだ

 

 曾祖近松門左衛門藤原信盛文碑
 
 
曾祖近松門左衛門信盛 長州萩之藩臣杉森某男也.後登京師奉仕一条禅閣兼良公.賜笏六位因老病致仕而遊摂浪華.享保九年甲辰十一月二一日七十有二歳而寂.則葬於摂州久々智山広済寺 法号阿耨院 日一具足居士.当百回之遠諱収所遺草稿.而於北辰尊前納千石下以樹文碑且臨終辞世之狂歌一勤千石面者也

     文政十一年戌年 十一月  

       洛東山 曾孫 近松春翆軒穢月   
                          戯名心庵蝶々子誌
              自足堂信尚書

 近松春翆軒穢月によるこの近松門左衛門略伝碑は 「近松が越前福井県で誕生した」としてきた人々には ショックかも知れない。
 近松越前誕生説の福井県鯖江市資料館発行のパンフレットには 「近松春翆軒穢月 の印鑑のある近松への追悼文」や「追悼の歌」が、近松福井越前誕生説の史料として 麗々しく掲載されているからだ。
 供養碑についての詳しくは 下記にご照会ください
東京墨田区業平五丁目 柳嶋妙見山法性寺 鈴木住職 
 Tel 03-3625-3838
 FAX 03-5608-3025
 江戸に幕府が築かれた当時 上方を本拠としていた野田醤油等が 洗練された消費者が多い江戸に本店を移転したように 「今度は歌舞伎が 世界文化遺産になろうか」という時、歌舞伎をふくむ各劇団の事務所や本部はいつのまにか 自然に東京の下北沢あたりに 集中移転している。 
 
近松は大阪天満の仮住まいで亡くなったのに、死没した近松が「近松は京洛で死没した」と死没地まで麗々しくウソが掲載されている「近松越前説系図」を根拠にした京都の近松一家の墓は いつのまにか撤去され 陰もかたちもなくなっている。
 

 
昨年末 宇崎竜堂さんらとともに 大阪よみうりテレビの近松番組ロケに出演したとき 撮影のために 近松の遺跡を探索した大阪読売テレビの小野デイレクターたちによると 「近松越前誕生説の根拠になっていた京都の近松信義の墓ほか 近松一家の墓は とうに撤去されていて 影も形もなくなっている」という。
 姿を消してゆく越前説全盛時代 あたらしく長州近松として作家の氏神の碑が 東京に出現。
 既成の常識が足下からくずれてゆく現代は「いつ どこで 「まさか!と思わず絶句してしまう、既成の常識が一瞬に崩れるようなことが いつ どこから どんなことで起きても 不思議はない」といわれている 
 
生きるよりどころを喪失した自殺者 年間三万人を超える自殺大国
 いままで 確乎不抜の真理と確信して その上に立脚していた自分の足場が くずれてゆく「死に至る病い、不安」(第二の宗教改革者・キルケゴール)による 第二の宗教改革期だ。
     マイコンよりの「一口情報」
  
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 ● 著者 宮原 英一:2点
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 1. 「若き日の近松門左衛門」
            宮原 英一 著 叢文社 版
            1,890円(税込) 1998年09月 発行 ISBN 978-4-7947-0295-1
            書棚は、文楽です。 池袋本店 1冊 「在庫僅少」

  2.
日本図書館協会選定図書「近松門左衛門の謎」
            宮原 英一 著 関西書院・関西文学の会版 2,039円(税込)
 
 1994年06月 発行 ISBN 978-4-7613-0168-2
  書棚は、近世文学です。 池袋本店 1冊 「在庫僅少」
      ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
     最近になり 近松長州生誕宮原説の株があがるとはタイミンク外れですが 日本図書館協会選定図書になった私著 関西書院発行の「近松門左衛門の謎」(絶版)は 1994年6月の初版発行時は 二千円で発売しましたが、現在は古書で販売価格2039円の高値に ハネあがっているようです。日本図書館協会選定図書ですから 全国各地の図書館で購入されていますが、貸し出しをして もし紛失されたら 多分もう入手不可能の
「まぼろしの書」になるでしょう。
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