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| 化学的永久保存措置の上 再現された江戸期の文人近松繊月建立の東京墨田区業平五丁目 柳島妙見山法性寺で発掘された宮廷詩人長州近松門左衛門の供養碑区寺の宮廷詩人長州近松供 | |||||||
| 写真撮影 宮原 利恵 (山口県宇部市宇部興産勤務 ) | |||||||
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| 早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館長の鳥越文蔵氏は 「なにを隠そう。このわたしこそ 近松長州生誕説の最右翼である」と明言された序文を 私著「近松門左衛門の謎」・発行関西書院・(中央で日本図書館協会選定図書に指定、全国各地の図書館に配備) に よせられている。 その鳥越文蔵氏によると 「近松が越前うまれと決定されたのは 大正の学会であった」という。 ところが 昭和三十六年。 東京都柳島の妙見山法性寺境内の地下から、「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛。長州萩之家臣杉森某の男なり。賜笏六位云々」という、江戸時代の石碑が忽然と地下から現われた。 「近松の文章には 公卿の血が流れているのを感じる」と 高名な女流作家が書いていたが、この江戸時代の碑によると 近松は朝廷から笏六位を賜った宮廷詩人だった。 この発掘のことを 鳥越氏に報らせたら {早稲田大学の足元から 近松の長州生誕を証しする石碑が 発掘されたとは・・・・」と ビックリ。大いによろこばれ 「こうした研究には お金がかかる。研究費の足しにしてほしい」と 即座に現金二万円を送ってこられた。 ところで この「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛。長州萩藩之家臣 杉森某の男。賜笏六位云々・」という「近松略伝」を 大量に木版印刷で発行して配布、江戸で近松門左衛門の大法要をしたのは、江戸の文人で 近松に心酔していた近松春翠軒繊月だった。 鯖江市の史料館では この近松春翠軒繊月の実印のある近松追悼文を 近松越前説の証拠にして展示してきたが あにはからんや、当の近松繊月が、近松法要の席で参列者に「近松は賜笏六位野公卿で長州の人」という近松略伝を配布していたことが この供養碑の発掘であきらかになった。 自然科学の世界では「定説は新しい定説までの仮説である」というのが 科学者の常識だがら 新しい史料が発掘されても 冷静にうけいれられるが メンタルな世界に没頭している文学のセンセイは そうはゆかぬらしい。 発掘当時は「われわれは大正の学会決議どおりに 近松は越前うまれと講義してきた。そのわれわれ文学者のメンツは どうしてくれるのか」という 自己保身に汲々としている学者ゆえの 迷惑論のような抗議が殺到し、発掘された近松春翠軒繊月の近松供養碑は、長い間 妙見山法性寺の駐車場の隅に 放置されていた。 柳嶋妙見山法性寺の鈴木住職は「このまま 近松供養碑を放置していては 地下の近松さんに申し訳けない」と 自力で「近松門左衛門は 長州萩藩の家臣の子」と 出自がきざまれた近松春翠軒繊月の原文を 復刻した近松供養碑を建てられ いままで近松碑のなかった東京にはじめて「作家の氏神」「宮廷作家」。「長州うまれの近松の供養碑」が 復活した。 近松春翠軒繊月による原文も 復刻済みである。
近松が長州萩藩之家臣 杉森某の男で 賜笏六位のお公卿さんであれば 天皇の直系の親戚である三摂関家と九晴華家「三槐九卿につかえ 咫尺したてまつった(天皇のそば近くででくらし「咫尺した)}という 近松自身の遺言と実像が なにもかもが一致符合する。 身分制度のきびしい当時 越前藩の失業武士の子では、いかにあがいても「三槐九卿につかえ 咫尺したてまつる身分や地位」にはなれない。 能 文楽が世界無形文化遺産になり ついで歌舞伎が世界無形文化遺産に指定された。 東京には 作者の氏神。純愛の劇詩人、東洋のシェクスピアとされている近松の碑が いままでは存在しなかっただけに このニュースは大きい。 妙見山法性寺の、作者の氏神の供養碑にあやかろうとする中央芸能人、近松関係大学人、山口県出身の人たちが ここに詣でるようになる。。 この近松春翠軒繊月の原文は 国会図書館に保存されていて このホームページにも 保存史料の一つとして 早くから掲載している。 系図屋が繁盛した明治に創作された越前説系図や ツクリバナシとはちがい 江戸時代という長い歴史の洗礼をへているから 史料的な価値が高く 東京名物の一つになり 作家の氏神近松は、在京文化芸能人のメッカになり 東京近松会の 東京都での恒久的な拠点にもなる。
某有名女流作家は 「文章からしても 近松には公卿の血が流れていると直感する」と 書いているが 山口県では 明治の偉勲村田清風の孫 村田峯次郎氏による「防長史談会雑誌の講演記録」明治四十三年一月号でも 近松は村田峯次郎氏により「正義の人近松先生は・・」と 最大級の敬称をつけて呼ばれいて 俗論にみる「戯作者として差別の底辺にいた」とは断定し難い。 これは いままでの「誤った階級史観による誤った近松像」を 再構築すべき大切なナゾだ。 近松の戒名は「阿耨院」だ。「阿耨多羅」とは、無上を示すサンスクリット語の漢訳だ。 奈良本辰也・高野澄著の「忘れられた殉教者」をよむと なんと 皇室にもっともに近い近衛家に「阿耨院日行」という僧が 備前にいる。 阿耨院日行は、近衛熈孝という公卿で、園藤斎と号していて 三宅島に流されて、日妙上人をしり、教義をまなんで 直弟子になった。 備前法華の祖大覚僧正は 近衛経忠の息子であった。 公卿は公卿でも 近衛家と同じ 戒名をもつ近松は「徳川武士政権と戦う中世の天皇家(網野善彦史学)」の側にいた。 パリフアッションをはじめ 二十一世紀は 世界的な伝統回帰の世紀とされている。 東京には ほかには江戸時代の近松の石碑はない。 したがって 東京の「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛は。長州萩藩之家臣 杉森某の男。賜笏六位の公卿だった」という繊月のことばが 東京都民を通じて 「江戸時代からの日本人の近松常識」になる。 伝統回帰の時代の世紀の夜明けは 東京からだ |
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| 供養碑についての詳しくは 下記にご照会ください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 東京墨田区業平五丁目 柳嶋妙見山法性寺 鈴木住職 Tel 03-3625-3838 FAX 03-5608-3025 |
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| 江戸に幕府が築かれた当時 上方を本拠としていた野田醤油等が 洗練された消費者が多い江戸に本店を移転したように 「今度は歌舞伎が 世界文化遺産になろうか」という時、歌舞伎をふくむ各劇団の事務所や本部はいつのまにか 自然に東京の下北沢あたりに 集中移転している。 近松は大阪天満の仮住まいで亡くなったのに、死没した近松が「近松は京洛で死没した」と死没地まで麗々しくウソが掲載されている「近松越前説系図」を根拠にした京都の近松一家の墓は いつのまにか撤去され 陰もかたちもなくなっている。 昨年末 宇崎竜堂さんらとともに 大阪よみうりテレビの近松番組ロケに出演したとき 撮影のために 近松の遺跡を探索した大阪読売テレビの小野デイレクターたちによると 「近松越前誕生説の根拠になっていた京都の近松信義の墓ほか 近松一家の墓は とうに撤去されていて 影も形もなくなっている」という。 姿を消してゆく越前説全盛時代 あたらしく長州近松として作家の氏神の碑が 東京に出現。 既成の常識が足下からくずれてゆく現代は「いつ どこで 「まさか!」と思わず絶句してしまう、既成の常識が一瞬に崩れるようなことが いつ どこから どんなことで起きても 不思議はない」といわれている 生きるよりどころを喪失した自殺者 年間三万人を超える自殺大国 いままで 確乎不抜の真理と確信して その上に立脚していた自分の足場が くずれてゆく「死に至る病い、不安」(第二の宗教改革者・キルケゴール)による 第二の宗教改革期だ。 |
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