作 宮 原 英 一
                                     県紙 山口新聞に連載
                                            

          
一 章       
                         
 本州最西端、山口県下関市。そこから十数キロおの、内日(うつい)という農村。
 ただ 田んぼと山しかない、
 日本のどこにでもある のどかな農村風景の盆地である。
 そこに近松門左衛門の親筋といわれる 長府毛利藩筆頭家老 椙杜(すぎのもり)家の菩提寺(ぼだいじ)泰栄寺がある。これもまた、農村のどこにでもあるような、とりたてていうほどもない、ひなびた小さな寺である。寺のよこの空き地には、あかるい秋のひざしの中に、椙杜家譜代の墓が 立ちならんでいる。
 歴史は、すでにここに眠る人々を、はるかな忘却の彼方におしやり、ときどき 落ち葉が ひらひらと舞いおりるほかは、誰も訪なう人もいない。   
 この墓地に、村人にいまにつたわる伝説がある。    
・・・ 椙杜の墓地には、いまだに浮かばれぬお女中の魂が眠っているげな。     
 それがどこの女であるのか、どんな不条理が、女を苦しめたかを問えば、村人の誰も首をかしげる。
 当時ご家老として、権勢をふるった名のある人々は、その存在すらも忘れさられている。
 にもかかわらず、無きにひとしい小さな生しか持てなかった、この女の魂だけが、ひとり村人の胸のなかに生きつづけて、伝説をたやさない。
 ふるさとの史書に、ただ 不倫の女というのみを記されて三百余年。
 世に得たみじかい命を断たれ、なお今にそのすすり泣きが、村人の心をはなれぬ無名の女。
 それが平馬こと、近松門左衛門を生んだといわれる おいねという女である。
 この伝承には、深いなぞがある。
 風のなかに村人は、自分たちの心の奥ざしきに、歴史の深奥にうずまいた劫火(ごうか)を世にかたりかけ、しのび泣く女の声をきくことがある。 
 そんな時には、この墓場の隅のそれらしい 小さな石くれの前に、山に咲く野菊を一輪さしそなえて、彼女の鎮魂をいのるのである。
 この無名の女の浮かばれぬ魂が、村の伝説から消えるとき、近松は 彼を生んだこの母のふところに 帰るのかもしれない。
 ここから北上すると、山陰の港町である長門に出る。
 このあたり萩、長門、美祢一帯を北浦地方という。
 秋の長門の海は、あかるいマリンブルーの、魅せられるような深く透明な色をしている。しかし、日本海に面したこの北浦地方の冬の海の、沖あいから攻めよせる波は、白い牙をむきだした狼が群れをなし、身をおどらせて走ってくるような、おそろしい形相(ぎょうそう)を見せる。
 それは女が ひとりの人間として、生きてゆくことを許さなかった時代 そのままの姿で、この浜の堤防につきあたって、くだけ飛ぶのだ。
                  二 章 
 
 浜にでると、乾いた魚のうろこと、乾燥しきった海草の匂いのまじった 香ばしい濃い海の匂いが、プーンと鼻をつく。徳川四代将軍、寛文の頃の長州藩、長門国深川は 小さい漁港である。
 中心部に、軒のひくい商店が ゴチャゴチャと、軒をならべていて、中心からは、かなり離れてはいても、江良(えら)の椙杜屋敷といえば、当時は、誰知らぬもののない権勢を誇っていたという。
 いかにも朋友の椙杜就幸に、用事があるようなそぶりをよそおい、おいねを訪ねてきた市村清三郎の、足をとめるかのように、雨が昼すぎから 深川の町なみに、ざんざと横なぐりにふっていた。だが、夕方になり、彼が帰ろうとして、椙杜屋敷の低いさむらい門を、くぐる頃には、雨音もとだえ、夜霧がしっぽりと夕闇をつつんでいる。
 さむらい門から 表ての道路まで、両側を高い杉の垣根で かこんだ長い細道が続いていて、蛇ノ目の相あい傘で歩くおいねと清三郎の姿に、気づくものは誰ひとりいなかった。
「長雨に足をとられて、ついつい長居をした。それでは、これで」
 清三郎は、おいねに軽くえしゃくをした。
「たいしたおかまいもできませんで」。
 朋友就幸の留守にきて、上がりこんだ清三郎のお膳の酌の相手をして、まぶたのあたりを、心なしか ほんのりと酔いにそめ、一歩ひいて、背中から蛇ノ目傘を さしかけていたおいねは、清三郎のうしろから、ニコッとほほえんで見せた。
「おっとと・・」
 あたりに人気のないのを、それとなくたしかめた清三郎は、酔ってよろめいたふりをして、おいねにすがり、胸もとに手をふれようとした。まだこどもを生んでいないその乳房は、ほどよくふくらんでいて、乳首がぴんと 上を向いている。
 さっきから、おいねが酌をしてうつむくたびに、それが清三郎の目についた。
「あら、ごむたいな。いけません」
 おいねの両手は、蛇ノ目傘の柄をにぎっているから、自由にならない。
 おいねはあぶなく 身をかわして、さむらい門の門柱のうしろに隠れた。
 その目はふくみ笑いをしている。
「おいねどの」
 清三郎は追いかけて、おいねを抱きすくめようとした。
「誰か、向こうから人が訪ねて来ますわ」。
「どこに」
 あわてた清三郎は、びくっとして離れたが、嘘と気づいて
「では、人に見えないところなら、いいのか」
とささやいた。
 おいねは、えくぼを見せて、クスクスと笑う。
「わたしは人妻ですわ」
「おいねどの」
 清三郎はあえいだ。
「悪いお酒ですこと。お帰りあそばせ」 
「ようし。今日は帰ってやる。今度きた時はいいな」
 それほど酔っているわけでもないが、酔いにかこつけて、清三郎はけんめいである。 
「まあ」
 おいねは、わざとあどけない顔をつくり、またクスッと笑い、まじまじと清三郎を見つめた。
 おいねは三十二才であった。
 頬のふっくらとした色白の、目もとの涼しげな美しい女である。肩から腰にかけての線が、すべるような まろやかさで流れていて、長い髪を無造作にうしろでたばね、腰のあたりまでたらしている。
 さきほどの戯れで、小袖がが少しはだけられ、もち肌の胸を、あえぐように弾ませながら、その濡れたような大きい黒い瞳が、清三郎を見あげていた。
「市村さま、かんにんして。お願い」
 清三郎が酒くさい熱い息をはきかけると、おいねは、やや傾きかげんに 身をくねらせて、門柱に身をくずすようにしてすがり、恥じらいを見せながら、哀願するように、清三郎に、じっと手をあわせる。
 それが 今にもくずれ落ちんばかりである。
 決して悪気ではないが、そんな時のおいねは、熟れきって、いまにも落ちそうなざくろである。
 それが天性なのか、少し酔うと、おいねは、清三郎にいつも そういう姿を見せるのである。かといって 清三郎が迫ると、するりと逃げてしまう。男がますます燃え上がるのを知って、誘っているとしか思えない。
 清三郎は、狂いそうになる自分を、やっとおさえた。
「では、今日のところは帰るとする」
 女の肌に漂う妖気を見やり、なま唾を飲みこみながら、清三郎は、未練げに嘆息した。
 曲がり角の多い杉垣の続く 細道の向こうの道に、馬のひずめの音が 響きはじめれば、あるじの椙杜改め志道就幸が、萩城から於福屋敷にかえる途中に、いったん この長門へ馬でやってくる。
 今は江戸屋敷詰めだと、先に調べておいたし、なにくわぬ顔で 聞いたおいねのこたえも 江戸だとたしかめている。どうせ 今夜は、だれも来るわけがない。他人がたずねてくる屋敷ではないから、霧にとざされた今夜など、この道は人目を忍ぶ男と女が、そぞろ歩くには、絶好ともいえる。
 清三郎にも、相手は正妻ではなく、囲われ女だという心安さもある。
 留守を承知で、あるじにあいにきて、酒膳をよばれては 酔いにかこつけ、おいねに近づく清三郎である。
 その心中は、おいねにもわかっている。
 だからといって、それを主人に告げるだけの証拠はないし、あるじがいないからと、むげに帰すわけにもいかぬ。主人の朋友のひとりでもある。
 おいねはあいそよく、酒の相手をして、清三郎の無聊を 慰めているうちに、ずるずると いつの間にか、きわどい戯れに引きずりこまれていた。 
 しかし、あれは酔ってのほんの冗談だと いわれれば、それだけのことでもある。強いて角を立てるほどでもないといえば、そうも言えた。  
 志道就幸は 長府藩家老椙杜家から、本藩家老志道家に養子にきたが、妻はやはり萩本藩家老の口羽家の堺の縁者から招いての養子である。だから正妻はここから 中国山脈のおくにはいった美祢は、於福の志道屋敷にいた。
 幼い正妻は結婚すると しばらくして病死した。
 その妻の実家の堺から、再び妻の妹を後妻としてむかえている。
 関ケ原合戦に、やぶれて領土をうしない、防長二州にとじこめられるまでは、中国の雄藩毛利とよく語られたが、戦国武将記(中公新書)によると、毛利は徳川家康のような大名系列の武将ではなく もともと公家系列いである、
 広島県の国人領主たちが集まり、いっさいを共同解決、共同扶助をしながら、のしあがっていった。俗にいう一揆大名であるとある。
 その連判状は、傘(からかさ)連判といわれ 有名だが、まんなかをあけて、それぞれが 円陣署名をしている。筆頭も末尾もない。敗北したときには、連判状の責任者がいなくて、連帯責任である。逆に勝った時も特権者はいない。
 志道家はその毛利十家のひとつであり、代々本藩家老 口羽家から嫁をとる。これは志道家のしきたりである。だから志道就幸の妻が 他界すれば、後妻はまた 口羽家の血縁から嫁いできた。 
 就幸が養子にむかえるまえの、志道家於福屋敷の当主は体がよわく、ずっと病床にあり、志道家をつぐと すぐ他界した。こどもはいなかった。部屋住みであったその弟が、いつの間にか、兄嫁の寝室を独占していた。未亡人が妊娠して、生まれた子がおいねであった。むろん正式には誰の子でもない。認知されず、父親のない家女というあつかいで、育った。
 とうじは、女は十三才になれば、もう結婚適齢とされる。前の妻もそうであったが、後妻も幼かった。堺からいきなり、山陰の山おくの、志道家に連れてこられる。そこは金山(かなやま)といい、毛利のドル箱である銅が産出される。志道はその於福が領地であった。自然がうつくしい、山にかこまれた農村である。
 堺からきた幼い後妻は、一日中、自分の部屋で、堺から連れてきた付き添いの女中と、カルタをしたりして くらしている。
 床入りも形式的で、妻とは名ばかりのあどけない少女である。
 おいねが娘盛りになったころ、長府藩家老椙杜の長男である青年就幸が、志道の後継者として選ばれ、口羽家からきた嫁とともに、養子夫婦としてやってきた。その嫁とおいねはおなじ年であった。
 ふすまの陰で、ときどき、就幸と前妻の しどけない寝間の声を聞き、男女のまぐわいを 目のあたりにしながら 眠られぬ夜は、自らをただ慰めて 眠るだけの日々であった。
 突然、就幸の妻が死んだ。
 あわただしい葬儀がすんで見れば、堺からきた後妻は あどけない少女である。
 おいねは二十歳にちかい。
 いきおい、就幸の身のまわりの世話や、台所はおいねの差配になる。
 前妻が生きている間、彼女のすることを いつも見ていたから、むつかしくはなかった。 
 就幸は、能吏である。
 それまでの長府藩家老職は 次男の椙杜元周に譲っている。一生 部屋住みと思って、のんきにくらしていた弟元周に、とつぜん舞いこんだ長府藩家老職は、大変な重荷である。実は萩本藩と長府藩は 親類ではあるが、藩主どうしがなにやかと仲たがいが多く、両藩の家老は心痛していた。 
 長府藩家老の就幸が 本藩家老として、スカウトされた理由でもある。中間の長門は 萩藩の直轄地である。萩本藩家老になった就幸は、そこに別の椙杜屋敷を置いた。長門の郷土史家によると そこは 長府藩家老になった弟 椙杜元周と両藩調整のための、非公式の談合の場所であったという。
 於福の志道屋敷から萩城へのゆきかえりに、長門の屋敷にたちより、それから帰る。寝るのは毎晩おそい。
 たいてい夜の十二時を過ぎ、風呂に入る。おいねはそれまで起きて待っていて、就幸の風呂をわかした。
「おいねさん。すまんのう」。
 就幸はときどき風呂から、焚き口にいるおいねに、やさしい声をかける。
「いいえ。旦那さまこそ、遅くまでしごとされて、体をこわされんように」。
 この家では、家来は殿さまと呼ぶが、家人は誰でも 就幸を旦那さまとよぶ。こうして二人きりで話していると、夫婦の語らいのような気がして、暗がりで、おいねは頬を赤らめていた。  
 ザアッと音をたてて、就幸が風呂からあがるころ、おいねは洗濯をした下帯を出して、そのうしろにまわる。
「あれ。旦那さま。そんなところに傷が」
「うん? ああ、ここは馬の鞍で、こすれてのう」  
「痛いでしょうに」
「いや、これくらいを痛いなどといっては、侍はつとまらない」
「まあ」
 そんな会話をしながら、うしろから、就幸に寝巻きを着せる。
「・・・?」
 着物をきせられた時、就幸はふと気がついた。
 彼の癖で、袖を通す時、かならず、左の袖からでないと腕を通さなない。
・・・変なくせ。大抵のお人が右からなのに
 死んだ妻が、よくそういって、背中から着せながら、クスクスと笑ったものである。
 そういえば、妻が亡くなってからも、風呂からあがって、後ろから着せられる時、袖はこっちからだと注意したことがない。
 おいねが、黙って左うしろからさし出して、着せていたのである。
(あれからずっと、おいねが、うしろから。)
 就幸は、手柄顔ひとつみせぬおいねに 妻のおもかげを感じた。
「おいねさん」
「あい」
 おいねは返事をするひまもなく、就幸にいきなり抱きすくめられて、あおむけにされた
 男の手が、からだにふれるたびに、おいねは恥ずかしさで、息も絶えだえになり、両手で顔をおおった。
 就幸の熱い息が、おいねの目の前に迫った。
「あっ」
 小さい叫びをあげ、瞬間の反応で、腰を少し浮かすようにしながら、おいねは、いやいやをするように、上気した顔を横にふる。そのしぐさが、初々しくて、就幸はおいねの唇を荒々しく吸った。
 庭の木立ちで、夜蝉があたりをはばかるように 静かに鳴いていた。
 やがて夜蝉の声が ぷつんととだえると、おいねは就幸をみあげて、その胸に顔を埋め、すがるようにつぶやいた。
「奥方さまに、なんと」
「お前は長門の椙杜屋敷に置くことにしよう。あそこなら、志道家の女は、立ち入りができない」
「まあ、あそこなら海がある」
 おいねの子供のようなことばに、就幸は白い歯を見せた。
「そうだ。いやかな」
 おいねはかぶりをふった。
「うれしい」。(ずっと前からこうなるような気がしていた)
 それは口に出さなかった。しかし、おいねは、もともとはじめから、就幸を慕っていた。
・・・・殿様の茶飲み伽ぎ(ちゃのみとぎ)に
 そういう名目で、しばらくして、おいねはこの深川の椙杜屋敷に越してきた。
 志道のものは、妻は無論のこと一切立ち入る事はできない。
 萩城からここなら、海べを馬でひと走りである。おいねを側女にした就幸は、政務多忙を口実に、妻のいる於福の志道屋敷には帰らず、ほとんどを、ここで過ごした。
 もともとおいねは、女として日陰の苦労をして育ったから、愛想よく、まめまめしく仕える。
 志道家の妻である母親の姿と顔だちをついでいて美しい。
 その上、おいねは、小さい時から暇にあかせて、志道家の土蔵から蔵書を出しては、読みふけっていて、詩歌をよくした。だから、深川町では、その気品と気立てのよさとすぐれた知性で、「みなと小町」と呼ばれるほど 評判を集めていた。
 こうして就幸の側女になって、かれこれ十年をすぎ、おいねは女ざかりを、むかえていた。
 あるじの就幸は、ひさしぶりにうまれたあどけない藩主の跡目相続を 家老として幕府への根まわしをしなくてはならない。江戸屋敷家老になった。
 三ケ月に一度くらいしか、こちらには帰らない。
 ずっとひとりで待ちわびるおいねには いつ果てるともない空しい日々ばかりが続く。
 元禄は、当時の世相記によると 
  

・・・夫の職により他国づとめ留守の内、又は在所逗留の留守を考え、召使のうち心おきなき女子をかたらい、ひごろ心にかけし男を引き込み、また夫の朋友などと馴染み、あるいは色々の手管をまわし・・・中略・・・手前の身の皮をはいでも蜜夫(まぶ)にこれをあたえ、家にて会いがたきは、寺参りよ、物詣でよとかこつけ・・・また兄嫁の身として、夫の弟と不義をし、姑の身として、婿を寝取りて、実の娘をにくむなど・・・後略・・・(宝歴のころ書かれた、法忍「続人名」より)

 とある。       
 江戸は幕府の政策により つくられた新興都市である。人口百万の内、比率でいうと 男七に対して女が三くらいしかいない。そこへ参勤務交代の武士たちが、三年間、単身赴任で集まる。江戸では遊廓が急速に発達したが、反面、地方では 妻女のほとんどが、空閨のまま残されるという 生活のゆがみをうんだ。     
 元禄は、現代にも通じる性の爛熟の匂いがする。
 寺参り、物もうでや観劇は、愛人と忍び逢う人妻の 口実でもあった。
 おいねの愛敬のよさと善意のまめまめしさは、なまじっか、おいねが美しいだけに、男につけこまれる隙にもなった。
 就幸が留守勝ちであれば、おいねが何くれとなく、身の上の相談を寄せる人も要る。
 就幸の朋友の市村清三郎という侍が、ときどき就幸の留守の、椙杜屋敷を訪れてあがりこんで、酒食のもてなしにあずかり、おいねの相談にのっていた。しかしそのうちに おいねに別の感情をもつようになっていた。おいねも、快活で、男らしく あごが張っていて、苦み走った清三郎を、心中では憎いわけではない。一歩まちがえば、愛欲のきずなが、結ばれんばかりの 危険な距離に接近してくる清三郎を焦らして、秘かに楽しんでいるという一面もあった。
 ずっとひとりでめったにこぬ就幸を まちわびるおいねが、清三郎から官能を快く、揺すふられ 心中ひそかに楽しむのは、三十をすぎたばかりの女の身に ごくしぜんななりゆきである。
「かんにんして。それは今度にして。お願い」。
 ひろい長門屋敷は女ひとりである。夕霧が立ちこめるもやの中で、ふたたび迫る市村清三郎の前に、逃れるすべもなく、頬ずりをされ、唇を求められたおいねは、懇願するように、身をもがいた。
「そうか。それなら、今日はこれで帰る。就幸どのには悪いが、次は おいねさんの本心を見せてもらう」
 ついに、冗談の域をこえた。
 どうする事もできず、ずるずると、この次にと、その場逃れにやりすごしているおいねを、じっと見つめた清三郎は、おいつめられたネズミを いたぶる猫のように、目のおくにあざけるような笑いをうかべ、それでもあきらめ切れぬような 高笑いをしながら帰っていった。
 侍門まで大きい道からはだいぶかかる。
 大きい猫がおいねの顔を見上げながら、足もとを横切る。
「いやらしい猫」。
 おいねは眉を逆立て、蛇ノ目傘をとじて、柄の方を下にしたかと思うと、いきなり傘の柄で、その猫をたたいた。その剣幕のはげしさに、猫は驚いて飛びはねて 暗やみの向こうへ走り去った。
 おいねの胸には、ふと燃えさかりかけた火を、むりやりに消した 残り火がくすぶり続けている。
 遠くで馬のひずめの音が聞こえる。
 清三郎が帰っていく馬の足音である。
 おいねは大きくため息をついて、乱れた着物をただし、小雨に濡れ、額にほつれたびんをかきあげながら、そっと心臓に手を当て、遠ざかっていくひずめの音に、じっと耳を傾けている。
 パカッパカッというその蹄の音は、おいねの胸の鼓動と、ふしぎに一致して、その音が遠ざかるにつれ、困惑したおいねの鼓動も 鎮まってゆくのであった。        
 
               三 章
 
 なにかいつも考えごとをしていて、いつ帰っても むっつりとして、入ってくる就幸が、今日はきげんよく、何か玄関で声高く話している。客を連れてきたに違いない。おいねは 着物の裾をつまみあげ、こ走りに急いで、玄関に出た。
「お帰りなさいませ」
 手をついて頭を下げたあと、見上げると、つれは美少年である。
 まだ元服がすまないので、きちんと結いあげた前髪が初々しい。
「あら自然丸さま」
 おいねは目をまるくした。
 就幸の弟長府藩家老元周の次男、自然丸である。
「しばらく、お世話になります」。
 前髪の美少年は涼しい声で あいつさをして、頭を下げた。複雑な事情があって、どこへ行っても、じゃまもの扱いをされていて、すこしうれい顔の細おもてであるが、切れ長のキラキラ光る目もとをした 十四才になる少年である。
 なにごとかと、おいねは就幸の顔を見あげる。
 就幸がいった。
「そろそろ、こいつも武士の作法を身につけんといかん。しばらく、ここで預かることになった。よろしく頼む」
 まもなく元服である。おいねは頭をさげた。
 自然丸は、長男の椙杜広中とはふたごである。
 当時は双生児を生むと不吉とされ、一人は、生まれた直ぐ、命を断たれるのがふつうであった。
 それは産婆の心得であった。
「その子の命を断ってはなりませぬ」。
 産みの床から母親の命令である。産婆はうろたえた。当時は産床の女のいうことなど 相手にされない。しかし、墓を見ればわかるが、椙杜元周の妻、つまり自然丸の母親の墓は、夫元周のそれよりも格別に大きい。彼女は防府の毛利直系の娘であった。
 産婆ははっとして、産床の女の目をみつめ、頭を下げた。
 数年前に、本藩の世子が生まれている。松平の娘で、本藩藩主の妻は、どうしたわけか、生まれる子が弱く、つぎつぎに早逝する。だから今回生まれた世子も、内心は誰も成人を危ぶんでいる。
 もし本藩の藩主に後継者がなければ、毛利の血筋のどの子かに、白羽の矢が立つ。
 大名の血族には、常にそうした意識がひそんでいた。
 幼子は自然丸と名ずけられ、ひそかに育てられる事になった。
 かなり経ってそれが江戸屋敷にいる就幸の耳に入った。
 本藩藩主の跡目相続の最中である。
 藩主には目にいれても痛くない世子がいるのに、複雑な問題になりかねない。
 だが防府毛利の血を引いて成長している以上、いまさらどうするわけにもいかない。
 双生児を残した父親椙杜元周は、本藩と妻の防府毛利とのせめぎあいに耐えかね、家老を辞職したいという。ついに就幸秘密裡に 自然丸を引き取ることになった。
 そういうしがらみを背負っているから 自然丸は、どこへいっても、敬遠され、自然に書物や海に親しむ少年になっていた。長府屋敷でも、毎日浜べに行ってばかりいる。
 下関は 源平の滅亡を賭けた壇の浦合戦の浜があり、遠浅の日は、広い砂浜を 小さい蟹が走る。平家武士の顔をそのまま、腹に模様に刻んだ蟹である。なぜか 人の足音を聞くと、小さい板ぎれやかわいた海草の切れはしを、頭にかぶり、こそこそと隠れる。それがいかにも 逃げおくれた平家の武士のようで、平家蟹と人々は呼んでいる。
 ほんらい産まれてはならぬ不吉な子、などといわれながら成長することは、少年の誇り高い魂を、何重にも傷つけた。
 自然丸は浜べで、行き場のないわが身を、平家蟹に見るようで、棒切れで、かたっぱしから蟹の甲らをたたき潰した。
「この子は、いったい、何を考えているのやら、わらわにはさっぱり解りませぬ」
 と自然丸の母親は、そうつぶやいて嘆いた。
「椙杜の家督は 広中がつぐとしても、この子には椙杜の領地の ほとんどをやらねばなりません。おいねなら 詩歌の書にに通じている。長門屋敷につれてゆき、あれに教育させましょう」
 普通の部屋住みの次男ではない。
 防府毛利を背にした奥方のお声がかりで 生き残った子である。
 就幸は愚痴も何もいわず、この防府毛利からきた女の顔を じっと見つめ、もてあまされた自然丸を 長門につれて帰った。
 
「先日。市村さまがこられては、お待ちでした」。
 玄関をあがる就幸に、おいねは切りだした。
「おう、清さんが来たのか。たんとご馳走をしてやったか。」
「はい。お酒をめしあがられます。」
「ははは。それがあれの目的じゃ。たんと飲ませてやってくれ。頼んだぞ。おいね」
「はい。」
 おいねを囲うているとはいえ、真面目一方。男女関係には、淡泊な就幸は、清三郎の心を疑うことを知らない。それ以上は、もういいようもなかった。
 就幸はふりかえり、自然丸にいった。
「あがれ」
 玄関にあがると、まるで自分の家のように、すたすたと自然丸は奥に歩いてゆく。
「あら、若様、足を拭かないと。まあ、まあ。早く袴を脱がないと、砂ほこりで」
 傍若無人の自然丸。袴についた砂ぼこりを、払うこともない。自分のはきものをそろえることもしない。世子に万一の時は、毛利の殿様になるといいきかされて、育てられたのか、それとも 全く野ばなしのままなのか、おいねは、はかりかねた。
 ふと、いつかの夜、たわむれたあげく帰っていった清三郎の うしろ姿が、何の脈絡もなく 胸に浮かんだ。
 自然丸がいれば、もう一人は女中もいる。
 女のひとり身につけこまれることはなくなる。
 そう思うと、明るい気持ちになった。
「まあ。たいへんな若様だこと」
 おいねは、いつになく、晴れ晴れとした声で、自然丸の下駄を ていねいに、そろえて、少年の後を追いかけた。