四 章 
 
 長門の椙杜屋敷の近くには、馬子たちのドライブイン駅逓がある。そこには自然丸と同じ年令くらいの馬子たちが集まる。
「新しくこられた椙杜屋敷の自然丸どののために、馬を一頭お貸しするように」という伝達があった。  
 馬子たちのほとんどは、近くの農民や漁民の家に次男坊として生まれたいたずらざかりの少年たちである。      
「椙杜の殿様の家に、もてあましものの若様がきなさったとよ」
「馬を一頭貸せといや」                             
「くそたれ。この忙しいときに」
 ぶつぶついいながら、屋敷に馬が連れ出された。               
 翌日から、自然丸はその馬のたてがみをひっつかまえ、はだか馬のまま、背中にまたがろうとする。 
 馬という動物は、神経質な生き物で、なかなか新しい乗り手の手さばきには慣れない。まして、出会ったばかりの背に、鞍もおかずに、いきなりたてがみをつかまえて乗るなどとは危険そのものである。
 見ていると、何回も振り落とされる。だが自然丸は少しも気にしない。振り落とされると、またたてがみをつかんで飛び乗ろうとする。馬はいやがって、また振り落とす。根くらべである。その内に、とうとう馬の方が負けて、自然丸の手の動きを覚えていく。
 あいかわらず、自然丸の手綱さばきは下手くそである。
 何回も転落しては、這いあがりながら、しかし自然丸はケロッとしてとびのり、馬上から、馬子たちに声をかける。
「よう」。
 とたんに 馬が背中から揺すり落とす。
 また這いあがって、馬子の少年たちに手を振っている。
「あれを見ろ」。
 そのしぶとさに、馬子たちはあきれた。
「下手くそで荒っぽいが、あの根性に負けて、馬のやつ、とうとう 自然丸さまに慣らされるわい」。
 あちこちすりむいて 血がにじむ膝小僧を忘れて、馬のたてがみをつかまえては 這いのぼる自然丸の姿。もてあまされものの若さまから、野良ばえの若と、駅逓に親しみまじりの通称が広がり、自然丸は、いっぺんに馬子たちと親しくなった。
 ついに自然丸は、馬を鞍なしで慣らしてしまった。
 深川の町を、はだか馬のたてがみを、鷲づかみにひっつかまえ、馬子たちに手をふり、馬の背にまたがり、走りまわる自然丸の姿が見られるようになった。
 一年の月日が過ぎた。
 自然丸は相変らず、海が好きである。ひまさえあれば、海に出かける。
 彼方は朝鮮半島までひろがる長門の袖ケ浦は、外海だから、砂浜もなく、防風林の松並木と、ゴツゴツした岩しかない荒い海辺である。
 おいねは そんな自然丸の後を追いかけて 海に行く。浜べにおいねを置いたまま、自然丸は 沖合いの方に泳いで出ていく。波間に時には 姿が見えなくなる。おいねは ハラハラして見ていると、突然、とんでもないところから 頭を出して、ふぅつと息をついて、青くなって きょろきょろと探しているおいねの方に、手を振る。おいねが胸をなぜおろしていると、また見えなくなる。
 そんなことを繰り返していると、いつのまにか おいねは着物が濡れるのも忘れて 浅瀬に入っていってしまう。
 おいねは、自然丸が あちこちにたらいまわしにされるのを見て、自分の成長期を思いだしていた。おいね自身も、母親の背徳ゆえに、父親にあたる男がいるのに、父と呼べる人を持てない 少女時代をすごした。他人に物を言う時、一歩も二歩もさがって、物をいう屈折した性格をもっている。
 自然丸はそういう自分の生い立ちについて 何もいわない。いわないから 余計に自然丸の心に思い至る。おいねはそんな自然丸がいとしく、今日も着物を腰までからげて、腰巻きのまま、夕暮れの海に腰まで浸かりながら はしゃいでいる。おいねの肌着は 波のしぶきでびしょびしょに 濡れてしまっていた。 
 自然丸は海からあがって 濡れた体を、浜にあげて乾してある舟に横たえた。沖合の水平線に 真赤な球のような夕日が今にも着きそうだ。空はもう暗く、海は一面赤く光る波が キラキラしている。舟ばたの板が 太陽熱をいっぱいに吸収していて、おぼろぬくい。
 浜に近い海の中にいる 黒い影のおいねが声をかけた。
「若さま」                                  
「なんじゃ」
 自然丸は元服が近い。元服の後は主殿守広品と 姓も決まったている。嫁になる娘も 決められているが、当人はまだその娘にも一向に関心がない。 
「いいえ、なんでもありませぬ」
 おいねは何か語りかけてやめた。
「ふうん」                                   
「若さまあ」
 波の間からまたおいねが語りかける。
「なんじゃというたら」                             
「南原寺の祭りをご存じでしょう」
 自然丸は、飛沫があがる波の音に、男らしい眉をしかめながら、おいねの声に、耳を傾けた。
 於福屋敷の近くの伊佐南原寺。さくら山という 小さい山の頂上に寺があり、その昔 政権争いに敗れた花山院が、ひそかに身を隠したと伝えられる。秋祭の夜は、それを待っていた男女が 晴れて逢いびきをする。この夜は 若い男と女が、普段の堅苦しい礼儀作法を超えて、睦みあうことが認められている。こういう祭りを経て、少年少女たちはごく自然に 青年期をむかえていくのであった。
「おう、あの昔、花山帝が落ちのびたというお寺か」
 おいねは海から、まぶしそうに自然丸を見上げ、ほら貝のように、両手をメガホンのかわりに口にあてて叫ぶ。   「おいねが、お嫁さんになる娘さんを呼んでおきますから、お二人であのお祭りにいって見られたら」
 少年はいささかひるんだような顔をした。                    
「・・・」
「おいやです?」
「いってもいいが」           
「まあ」。
 困惑している少年を見上げ、おいねは軽い嫉妬を感じて、わざと笑い声をあげた。(こういうことになると、まるで赤んぼみたい。もう、そろそろ元服というのに)。
 裾をたくしあげた着物を片手でもち、もう片手で、海水をうしろにかきわけ、かきわけして、岸にむかって じゃぶじゃぶと歩きながら、おいねはつぶやいた。
 おいねが 海からざあっとあがると、腰巻きから海水がしたたり、濡れた緋色の布が、ぴっちりと おいねのふとももにはりついた。
 逆光線とはいっても、おいねの腰からしたが、そのままに透けて、黒い茂みなどが現われる。
 少年は、まぶしげなまなざしで、目をそらせた。
 おいねは自然丸のまなざしには気づかない。       
「あの娘さんなら、若さまに立派な花嫁ご寮さんになりますわ」。
 このひとりぼっちの少年にも、もうすぐ青春がくる。何を想うのか、いつも遠くの海をみているような自然丸を見て、いじらしくて、おいねはわけもなくいじらしく、この少年を思わず抱きすくめてやりたいように 胸がうずいていた。
 おいねはたかぶる心をおさえながら、砂浜にたって、濡れた肌着の裾をていねいに絞っていた。
 袖ケ浦の浜べは、海べからいきなり 丸い石ころの多い浜になっていて、そこには松林の中に、漁師が網を置く小屋があり、漁の季節外れの時は、誰もこない。二人はいつもそこに乾いた着物を置いている。帰りには その小屋で着かえて帰るのが常である。
 太陽が沈み 赤い光りだけが空をそめあげている。
 夜が迫っている。
 自然丸は、船ばたから跳ねおきて、その小屋に入った。中はうす暗い。彼はいつものように、そばの手提げ行灯の灯をつけた。ふとおいねの着物に目がいく。
 自然丸が脱いだ着物のそばに、ならべ、おいねの肌着が丁寧に畳んで置いてある。
 自然丸は鹿の子絞りの帯の下の紅色の小袖を見た。
 瞬間、彼のからだに春の潮のような 切ない衝動がかけまわった。
 最近の自然丸はここで、おいねの着物を見ると、青臭い欲望に駆り立てられ、そっとひとりで 性を果たしてしまうくせがついている。
 潮がだんだせん大きくなり、ついに奔流のように 彼をつき動かして、身体の中から外へ、一挙に噴出しようとするのをとめられなくなる。それにあわせて 手を動かすのに没頭している少年は、きむづかしげに 眉をしかめている。宙空を見つめる目は、さっき見たおいねの 白い太ももあたりの黒々とした茂みを 幻想に描いていた。
 ・・・きらめきが一瞬、頭の芯を くるったように貫通して、溶岩のような 熱い奔流が体外に噴出する瞬間が近い。少年の下半身で 激情が狂ったように荒れ、白熱の輝きが 脳にかけ昇り、彼は息を詰めて体をこごめた。
 ふいに、小屋の戸がガラガラッと 音をたてて開いて、おいねがはいってきた。
「あら。どうかしましたの」。
 おいねは、荒い息をしている少年の姿に勘違いをして、驚いて駈けよった。
「まあ」。
 背中をかがめた自然丸をみつけ、おいねは びっくりして息を呑んで、両手で顔をおおった。
 自然丸の顔は険しく緊張して、全身がふるえている。
 みるみる白い飛沫が うめくのくりかえしのたびに、あたりに飛び散る。
 おいねは茫然として、ことばを失ったまま、大きくひとみをひらいて、じりじりとうしろに退がった。
「ごめんなさい。若さま」。
 少年は唇をなめ、乾いた笑顔をちらと見せ、謝まるおいねの顔を見たが、頭の中は めくるめく幻想と現実の境界線で混濁していた。
「うしろの戸をしめて」。
 自然丸の声は しわがれていた。その目は、思わずうしろ手で戸をしめるおいねの 下半身を凝視している。おいねの両手は、反射的に腰巻きの上から そこあたりをかくした。
「お願い。ゆるして。変なことをなさらないで。若さま」
 おいねは頬をひきつらせて、小さい声をあげて 懇願しながらうしろへ退がる。
「・・・?」。
 おいねのことばが、まだ大人の世界に未経験な自然丸の頭を ますます混乱させた。
 肩で息をしながら 苦しげに眉を寄せて、少年はおいねをぎこちない目で見つめ、こちこちの笑顔をつくり、自分より少し低いおいねの肩に、手をかけようとした。
「いけませんわ。若さま」
 おいねは、その手をふり払おうとした。何がいけないというのか、自然丸は おいねを見つめた。おいねもまた自分で何をいっているのか わからないままに、泣き声になった。
 そしてつっ立ったまま、下腹をかくしていた両手を離して、上気している赤い頬を包んで 少年をみあげた。
 自然丸の顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。それを見たおいねは、もうどうしたらいいか 判らなくなった。
 おいねは、矢もたてもたまらず、自分の方からいきなり 自然丸の唇に、わなわなとふるえる自分の唇を押しつけた。 こうするしかないような 切羽つまった気持ちであった。
 二人は唇をふれあったまま、しばらくじっとしていた。やがて 自然丸のゆびさきが、おずおずと女の下腹にふれた瞬間、おいねはびくっと からだをふるわせた。
 おいねは目をつむったまま、しばらくじっとしていたが、やがて大きく ため息をついたかと思うと、急に大きくあえぎはじめた。
「若さま」。
 かすれ声のおいねの息は 火がついたように火照っている。
「一度だけなら・・・早くしてね・・・お願い早く・・・今直ぐ」。
 すっかり度を失ってしまって、聞こえないような小さい声で、意味のわからないことを つぶやきながら、おいねは熱っぽい目を、自然丸の瞳に釘づけにしたまま、からだを離し、腰ひもをほどいた。そしてもどかしげに、濡れた肌着を脱ぎ捨てた。成熟した女のすべすべした肌の 上半身があらわれる。ふと おいねは手をとめてこびるように 小首をかしげ、自然丸を見て少し笑った。そして濡れてくっいていた腰まきをとって、両手をひろげる。
 裸身は行灯に照り映えて、陰影に満ち、火の女の塑像のように赤く輝いた。
 自然丸の両眼がヒョウのように金色に鋭く光った。
 いつだったか、おいねは噴火口に、身を投じた女の話を 聞いたことがある。煮えたぎる溶岩の坩堝(るつぼ)に、一瞬に全身が溶けてなくなる。それを想像した時、なぜか恐怖とは別の、ふるえるような快感が、背中を走り抜けてゆくのを感じた記憶がある。今、その坩堝に身を投げた女の 燃焼がよみがえった。それは自分を瞬間の輝やく死に、溶解させていく恍惚であった。
 弾む息の洩れる唇を薄く開いたまま、目を閉じて 女は全身を自然丸に委ねた。
 漁期をはずれているその網小屋には、荒波が寄せて返す音が響き、そこは時間はとまっていた。
 砂床にあおむけになっている女の細い指先が、砂をはいまわり、床を這いまわり 握りしめて かすかにふるえる。指の間から 砂がぱらぱらと落ちる。突然 手が開いたかと思うと、また砂をかたく握り、しびれるように ふるえたりした。
 袖ケ浦の浜辺は、防風林の太い松が 何百本と並んでいて、潮の響きは、その松林に静かに寄せる。小屋の中は、しなやかな呼吸が交差している。しかし、小屋の外では、ただ轟々という海潮音と、松林に吹きつける 日本海を越えてきた風の音が混じりあい、ひそやかな二人のひめごとを かき消している。
 やがて足を閉じ、流れ去った愉悦のあとの、けだるい想いに 身を任せているうちに、いつとはなく 二人は離れ、無言のまま、それぞれ身づくろいをはじめた。
 ふと、おいねの顔をみつめた自然丸の目が、苦しげにまたたいた。おいねは少年の顔を見つめ、両手で少年の頬を包んで、目をのぞきこんで言った。
「若さま。今夜のことは誰にも言ってはなりません。口にしたら、二人は破滅です」。
 自然丸はおびえて小さくふるえている。
「ああ、どうしましょう。若さま」
 おいねはいとしさにどうしようもなく、再び少年を 抱きすくめ、唇を重ねた。
 自然丸は薄眼を開けておいねを見た。閉じたおいねのまぶたは ぴくぴくとふるえ、皮膜には細く青い血管が 縦横に走っている。おいねは自分を見つめている少年に気づき、指先で、少年のまぶたを押さえて また目を閉じた。二人は抱きあったまま、砂の上に転がり、互いの目を見つめて、またまさぐりあう。
 情事は離れる時を忘れさせる。
 気がつくと、小屋の外は いつのまにか月がのぼり、夜が更けていた。
 体をはなした自然丸がささやいた。                       
「おいねさん。先に帰って」
「・・・・?」                                 
「わたしは時刻をずらして、後から帰る」
「いけません。若さま。そんなことをしたら、かえって怪しまれます」        
「しかし、こんな夜更けに二人で歩いて帰れば」
「昨日まで、二人で仲良く歩いて帰っていたではありませんか」        
「しかし、昨日と今では」自然丸はためらった。       
「一回だけという約束でしょう。誰にもわかりはしません。そんな事では、すぐに世間にわかってしまいますわ。何事もなかったように、平気で歩かないと」         
 自然丸は頼りない顔をしておいねを見た。
「あんなことをしたあと、平気な顔で、いられはしないではないか」         
「若さま。そんな気の弱い事では、いねは困ります」 
「解った」
「どんなことがあっても、今夜のことは秘密にして、忘れていただかないと」     
「やって見る」
 少年は不安な目で約束した。
「では一緒に帰りましょう」                           
「いや、今夜だけは、別々に歩いて・・・観月橋のたもとで落ち合うことにしよう」 
 長門から萩への往還の大道路に沿って、大きい川が流れていて、江良に入る分れ 道には橋がかかっている。観月橋といった。
 おいねは、さきに行き、その橋のたもとで、自然丸を待っていた。
 やがて自然丸がやってきた。
 二人は黙って 橋の上に並んで川の水を見下ろした。
 下を流れる川面に、季節はずれの蛍が二匹。チラチラと戯れている。
 消えたかと思うと、しばらくは光りが見えない。
 目をこらしていると、やっと向こうに、今にも消えそうな、小さい光りがあらわれ、ふわふわと飛んでいく。いかにも頼りない恋の蛍である。
「今夜のことは、すまなかった」自然丸はぼそりといった。
「いいえ、あの時に、いねがいきなり戸をあけなければ・・。」
 もうこどもではない。自然丸がもう男としての力を 備えていることに、おいねも想いがいたらなかった。
「いや、わたしも、おいねさんにあこがれて、今夜のようなことになりたいと」
 浜辺からここまで歩きながら考えた自然丸の、苦渋に満ちた告白である。
(昨日まではこの月見橋までの道を、おいねと肩をならべて歩いて、ひとに見られても何ともなかった。今夜から、離れて別々に歩いてゆかねばならない)。
 自然丸はそんなことを考えながら、その蛍を眺めていた。
 おいねはそんな彼を横に感じながら、浜辺の短い体験を経て、わかものに脱皮していく苦しい魂を見た。   
(今朝までの若さまなら、ばあっと、大声を出して、背中に抱きついて、驚く私を見て、幼い子供のように喜んだ。もうあの屈託のない少年にもどることはない)
と思うと、おいねは 帰らぬ日々が 無性になつかしかった。
 それぞれの想いを胸に案じながら、夜の椙杜屋敷に帰りつく。
 侍門が、おいねにはなぜか 高い城の門のように いかめしく思える。
 後悔はもはや無駄である。
(旦那さまの寵愛が深ければ深いほど、浜辺のことは二度と許されない)。
 元服まえとはいえ、まだまだ少年のあどけなさを 脱していない自然丸の顔を見て、おいねは 後悔の唇を噛んでいた。  
 その夜、おいねは寝つかれず、布団の中で、寝返りを打ってばかりいては、あけがた近くまで、ため息をついていた。 突然、ふすまが開いた。そこにはおいねと同じように、眠れぬ自然丸が立っていた。
「おいね」
「若さま」。
 おいねは布団をひろげた。
 自然丸は、もぐりこんでおいねにすがりついた。
 青春に足を踏み入れる不安に、激しく動揺している彼の姿に、いとしさを押さえきれず、おいねは自然丸を抱きすくめた。
「今夜だけは離さない」。
もう浜辺の誓いはやぶれた。
 禁断の実を食べた男女に、今夜だけという弁解は、地獄へのキイワードである。(わたしは地獄に落ちた女だ)おいねはそう思いながら、少年を強く抱きしめた。
 やはり背伸びをしているだけで、まだ少年である。おいねの寝床にきて、急に安まり、やがて 自然丸はすやすやとねむる。
 半日の間に起きた急変に耐えられなかったのか、少し熱がある。にもかかわらず、何か楽しい夢を見ているように、かすかにほほえんで、自然丸は眠っている。 
 数日後、おいねは自然丸の召使として雇い入れたおしまという女にいとまを出した。侍屋敷といっても、部屋はふすまばかりで仕切られていて、別棟で休む女中部屋には、屋敷内での人の動きは、手にとるように、筒ぬけである。今夜だけという夜が、ずるずると続いて、気づかれるのは早い。
 おしまは、上目づかいに、ちらとおいねの顔を見あげて、何もいわずに、頭をさげて引き退っていった。
 
 市村清三郎は、ときどきやってきた。しかし彼が座敷に上がると、おいねは必ず自然丸を呼んだ。清三郎はおいねと二人だけになる機会がもうないことを知った。機会が永遠に去ったことを直感して、清三郎の足がだんだん遠のいた。
 おいねがとつぜん妊娠した。
 すでに正妻に後継ぎが生まれているから、就幸は特に関心がない。生まれたらすぐ寺にやろうという。それ以上の追求はない。おいねはほっとしながらも、はやく自然丸との間をうち切ろうと思っていた。 
 
              五 章        
 
「ただいま」
 久しぶりに長門屋敷に寄った就幸のさしみをつくるために、昼から魚市場に行ったおいねが、屋敷のうら口から帰ってきた。
 返事はなく、玄関の方で、はしゃいだ女の声がきこえている。
 就幸に用事がある女なんて、誰だろうかと、おいねは、そっと外から玄関の方へまわって見て、ハッとした。いつかいとまを出したおしまである。いつから、就幸とそんな親しげな間柄になったのか、いかにもなれなれしげに、声高に話している。それも話題はおいねと自然丸のことである。
「お殿さま。おうたがいでは、なかったのですか。」
「なんだと」。
「あれまあ。お忙しいとはいえ、あれほどの仲になっているのを、少しもお気がつかれぬとは。」
「ちっとも気がつかなかった・・・。」
「何回も、おしまは・・・。まっ昼まから、元服まえの自然丸さまと、二人だけで、海に行き、小屋で、はだかになってと・・・。もっぱら、深川の町の評判でございます。お殿さまのお茶のみ伽ぎでありながら、今ようの女って、だいたんなものだと・・・」
「うかつであった。あれも元服がちかい。もう色気づいてはいると思ってはいたが・・ウム。そうじゃ。腹の子は自然丸の子であろう。そうに違いない。」
 就幸は、ときどき寝床の中で、政務を思いだすと、もう中断する自分を、思いだしている。
「そりゃあ。濡れ場を見たわけではありませんよ。でも若さまは、お若くてお元気ですから」
 就幸を見つめるおしまは、就幸の嫉妬を見ぬいている。
「うぬ。ゆるされん」。
「どう。おしなさいます」。
「重ねて成敗してくれよう」。
「まあ。かりにも弟ごにあたるお殿様のお子。それもお母上は、毛利家のおん血筋。証拠もないのに。お言葉がきつすぎるのでは」。
「ええい、うるさい。」
 おしまのいう通りである。相手はかんたんには、手のふれられない少年であった。
 就幸の目が、血走っている。
「オホホ。たいそうなご立腹で。たんとあの女とお楽しみ遊ばされたことでしょうに。」
 笑いながら見つめるおしまの目は、おいねと就幸の姿を思い浮かべて、嫉妬が蛇の舌のようにチロチロと燃えていた。「また、あしたからお殿様が、お留守になられるのをいいことに、自然丸さまとおいねさまが、このとなりのお部屋で、仲よくお顔をよせあい・・」
「ええい。やめんか。」
「オホホホ。ご自分で、何もかも正直に言えとおっしゃっておきながら・・・。まあ、おいねさまも、ひとり身をもてあましている女ですもの。」
「ならぬ。ならぬ。ええい。すぐおいねを成敗してくれるわ。」
 狂ったように怒る就幸の顔を、おしまは、ぶきみな目で、チラと見て、話題をかえた。
「それよりも旦那さま。こんどはいつ。」
「うむ。そうよな。いずれまた。」
 就幸はうわの空である。
「いやです。そんなナマ返事は。」
「なかなかに忙しくてな。」
 就幸は口ごもる。
「ううん。いやっ。」
 おしまは、鼻をならして、就幸に寄りすがり、身をくねらせている様子。
「これこれ。人目もある。いいかげんにしなさい。」
 あたりをはばかる就幸は、あわてて、声をひそめた。
 おいねが自然丸に、気をとられているうちに、いつのまにか、就幸をたらしこんでいるおしまへの怒りに、頭にカーッと血がのぼり、おいねは足がふるえた。
 彼女はそっと台所にもどり、
「ただ今帰りました。」
 と大きな声をあげた。
 果たして、玄関の方は、シィンとして、
「では、帰りますから、まあ、お邪魔いたしました。」
 と、急に他人行儀にもどったおしまの、すました声がして、細い道をツンツンして帰っていく、いまいましげな下駄の音が遠ざかった。
「おいね。」
 おくに入った就幸が、座敷からおいねを呼んだ。声がきびしい。
「あい。」
 おいねは高い声をあげて返事をした。
「ちょっとここへきてすわれ。」
 就幸の声がとがっている。自然丸とのことを、あのおしまがどこまでしゃべったのか。おいねは考えながら、まえかけを外して座敷に行く。
 男の不品行は問われない。就幸の部屋には、おしまの残り香が、きつくただよっていた
「そこへ座れ。」
 就幸はうしろを向いて座っている。
 おいねは、おずおずと座った。
 就幸は顔だけふりむいて、おいねのおどおどとした姿をみすえた。
 おいねは目をふせた。
(やっぱりこの女は。何ということだ)。
 と就幸は腹のなかで絶望した。
 目をあわせることができず、うつむいて、そわそわしているおいねの態度に、それが現われている。
「そちの腹にいるのは、自然丸の子だな。」
 むきなおって、就幸は短刀直入に問いつめた。
「・・・・。」
 いつかはこうなると、予期していたとはいえ、とつぜんの問責に、おいねは、こたえようがなくて、うろたえた。
「わしのるすに、こともあろうに、年下の自然丸と乳くりあったのか。」
 おいねは唇を噛んで、しばらく黙っていたが、やがて返答をはぐらかした。 
なんのお話でしょうか。」
 おいねの視線は、畳のふちをさまよっている。
「なに、知らぬことだと」。
 ことばを失って、ぶるぶるふるえる就幸の頬。
 おいねは主人の顔を、まともに見ることができず、目を伏せたままである。
「なんという、みだらな」
 おいねは、急にうつぶせた。その背中がふるている。
「いねは、存じませぬ」。
 おいねは声をあげて、ひたすら否定した。情事は現場に踏みこまれぬかぎり、証拠はない。
 おしまに負けてたまるもんかという気持ちもあった。
「シラを切る気が。不義の子をはらみおって」。
 就幸はあくまでおしまのことばを信じている様子である。
 おいねは顔をあげて言った。
「いったい、なんの証拠があって、そんなことを・・」
 これはほんねである。そしておいね自身の悩みでもあった。腹の子は、就幸のものとは断言はできぬ。しかし、自然丸のものとも限らないはずである。
 就幸はぐっとつまった。
「証拠だと。しらじらしい声を出すな。」
 鼻じろんだ就幸は、立ちあがって、背を向けた。ふと、おしまの意地悪いまなざしを思い出して、疑念が胸をよこぎる。おしまにだまされたのかも知れぬと思った。
「お前に言いいたいことがあれば、言うて見い。」
 おいねのいい分も、聞いてやらねばならぬとも思う。就幸は政務に立つ武士であった。
 おいねはその就幸に、はらはらと涙を流した。ふだん、弟元周の政務まで引きうけて、みごとに本藩の職務もやってのけている就幸に、おいねは、夫として最大の尊敬を払っている。それは信仰に近いものであった。今もその気持ちに全然変わりはない。
 あれからも、自然丸とはときどき、床を重ねてはいる。これほど愚かなことはない。うつむくおいねの頬に涙がこぼれた。
 瞬間、おいねの頬が鳴った。
「ばかもの。涙でこの就幸の心が、とろけるとでも思っているのか。」
 太い声がふるえて、おいねの胸をうった。それはおいねを愛しんでいた男のかなしみがこめられていた。
「これほど旦那さまを、おしたい申しておりますのに。いったい何といえば。」
 自分のことばにいつわりはない。しかし自然丸との関係もまた、あらためて己れに問えば、愛しさとしか、いいようがない。けれども、それは死んでも、口にすべきことではない。おいねは必死に、就幸にとりすがろうとした。
「ええい。そばに寄るな。」。
 困惑に冷静さを失い、あたまが混乱してしまった就幸は、おいねをはねのけて、けりとばした。いきなり蹴られて、おいねは畳の上にころがった。(旦那さまは混乱している)。転がりながらも、おいねは直感した。
「旦那さま。」
 起き上がれぬほど、蹴られたところが痛みながら、おいねは、就幸にけんめいに叫んだ。
「なんじゃ。居なおったのか。くそっ」。おいねの背中で、今度は刀のさやが数回鳴った。あまりの痛さに、おいねは息がつまり、失神してあおむけに転がった。
「どうせ、母親が亭主の弟とつるんでできた女。椙杜家にたたりを持ちこむ性悪女。死ね」。
(結局、これだ。なにかあると、産まれた時のいきさつにまで、さかのぼって、責められるのだ)。おいねは、死ねという声を、かすかに耳の遠くで聞いていた。(そうだ死のう。私を愛した男が二人いる。わたしが死ねばいい。)たしかに、母親の姦通ゆえに生まれ、父の愛に飢えた半生であった。だから、父親のような就幸を、したいながらも、その甥にまで心をうつし、身を与えてしまった。おいねは死のうと思った。
「死にます。死なせてください」
 おいねは口走った。
 ギョッとしたように、就幸のおう打がとまった。
「なんだと。」
「わたしは、旦那さまにかあいがられました。いねはいつ死んでも悔いは残りません。」 
 起き上がり、手をついて、肩を落として泣くおいねを見ながら、就幸の顔は、絶望にゆがんでいた。
 おいねと自然丸は、この屋敷で、たった二人だけで暮らしている。当事者の二人が、口を閉ざしてしまえば、情事の秘密は、永遠にしかも誰にもわからない。それはいつの時代でも、同じである。
 疑えばきりがない。さりとて、おしまの話もまんざら嘘とは思えない。おいねの態度にも 信じられないなにかが感じられる。
 就幸は、逆上したものの、立ったまま、どうしようもない立場に、おいこまれてしまった自分にくるしんだ。
 おいねに自殺されては、ほまれを重んじる武門の恥になる。
 鞘(さや)で、おいねをなぐっていた刀を投げすてて、就幸はうめいた。
「やはり自然丸は、生まれた時に、命を断つべきであった。」
 お家と主君こそ第一と、ひたすらまじめにいきてきた就幸にとって、身におぼえのない不運というほかない事件であった。
 おいねは正妻ではない上に、自分の養子先、志道家の家女である。
 自然丸は、弟椙杜元周の子とはいえ、長府藩家老の次男である。こんなことが公けになれば、両家のお取りつぶしは目に見えている。
 
 就幸はひとりで苦しみ、城中の侍たちが、何か萩藩にむつかしいことが起きたらしいと、ひそひそと、陰で心配してささやくほど、頬がげっそりとやつれた。
 深川の町はせまい。腹が大きくなったおいねが通ると、人々がうわさをした。
・・・あれは自然丸さまと乳くりあってできた子らしい。
・・・あのおいねさんは、父親の弟が母親の寝床に、忍び入ってできた女らしい。いんらんじゃ。
・・・まあ。いやらしい。では、あの腹の子は、元服まえの若さまのお子か。
・・・そうでないという証拠も何もない。しかし、めったなことを口にしてはいかんよ。 
 こうなると、みなと小町の評判は、裏目である。噂は、いったんひろがりだすと、枯れ草の野原に、火をはなつようなもので、嫉妬とともに燃えひろがって、手がつけられなくなり、おいねの背徳は、町では今や、公然の事実のように、語られている。このままで置くわけにはゆかない。
 自然丸は、元服のためという理由で、長府屋敷に帰し、おいねの身がらは、椙杜家の墓地がある泰栄寺に預けられ、そこで産み月を待った。噂で左右されるわけにはゆかない。あくまで志道就幸の子として、生ませるのがたてまえである。女が養子先の志道家につながっているから、就幸はしまつを自分の実家の椙杜家の手に委ねた。
 椙杜家の菩提寺が、おいねに与えられた住み家であった。
 長門屋敷を去る日がきた。おいねの部屋のたたみがとりかえられる。
 おいねは、さいごの思い出にと、この間までの自分の部屋に立ちよった。女がその部屋でたたみ職人のさしずをしていた。
 おいねのけはいに、その女がふりかえった。おいねはうめいた。それはおしまであった。
 
            六 章 
 
 自然丸の耳もとを、すさまじい風が走りぬける。長府屋敷に、つないであったはだか馬に飛びのって、たてがみをつかんでいる自然丸は、おいねのいる泰栄寺をめざして、馬を走らせている。
 おいねの命が危ない。少年には、大人の世界のしがらみはわからない。しかし、少年の胸に刻まれたおいねの愛は、出生そのものを不吉といわれ、のけものにされていた孤独な少年の魂を、はじめて包んだやさしい人肌の、ぬくもりであった。
 長府の椙杜屋敷では、議論がふっとうしていた。
 元服前の自然丸を非難するものは、誰もいない。侍たちの攻撃はすべて、おいねに向けられている。 
・・・めんどうを見てくださる就幸さまの、大恩をふみにじっておいて
・・・としはも行かぬ自然丸どのを、たぶらかしおったいんらん女め
・・・だが、腹の子は、はたしてどちらの殿の子なのか。
 おいねの腹にいる胎児が、もし男として誕生したばあい、やがて四千石の大身になる自然丸こと、椙杜主殿守広品の子になるのか、それとも本藩家老志道就幸の子としてあつかわれるべきか。侍たちはここになると、重い沈黙に至った。
 侍たちにとって、まずは自分が仕える主家が第一である。
 わけのわからぬ存在の、幼い児が増えるのは、迷惑せんばんな話である。 
・・・斬れ、斬ってしまえ。女を生かしておくと、お家が乱れるもとになる。
・・・そうだ。斬ろう。子が腹にいるうちに女を斬れば、わざわいはすべてなくなる。
 家長は、侍たちのこの議論を知っていて、聞こえぬふりをよそおっている。この種の事件は、世間の事情につうじた家来たちが、万事をのみこんで、殿様のために、一番良いように、秘密裡にしまつしていく。それは殿の身分を保全するためであり、同時に家来ひとりひとりの地位を守り、ひいては、個々の侍の家庭をも、守ることなのだ。それこそが、忠義なのである。このばあい、家来としてどうするのが、真の忠義の道なのか。そういう無言の期待を受けての議論である。
 話題は、すでに暗殺者の人選にはいっている。
 だが侍たちは、さすがに背徳の女の血で、自分の刀をけがすのを誰も好まない。総論の場では、斬るとなったものの、さて現実の問題として、誰が斬るのかということになると、誰もそっとその場をはずれていくのである。
 こういう議論のくりかえしが続くと、どこの藩にも、短気な侍の一人や二人がいて、事態が進まないのに、いらいらして、斬りすて役を買って出るものだ。内心それを誰もが待っている。現に「xxが斬るらしい」「いや。斬るなら、00だろう。あの人は、もともと殿にご恩がある」とか、いろんな人事にからんだ人選 の話題が出ている。もはや斬るのは確定的という空気になっていた。
(おいねさんが危ない。)陰で、じっとそれを聞いている 自然丸の想いは、泰栄寺にいるおいねに まっすぐ向けられていた。
 
 自然丸をのせた馬は、長府から田舎道を一路、砂けむりをあげて、内日村に向かって走っている。
 大きな道の右側の山手に、こんもりとした杉林が見え、その林のなかに、寺の屋根が見えかくれする。泰栄寺である。
 石段のしたに、馬をとめ、自然丸がおりようとしていると、中からおいねが走りよってきて、自然丸にかじりついて、声をあげて泣いた。
「もう、会いにきていただけはしないとばかり、思っておりました」。
 わずか数ケ月の間に、見ちがえるように、たくましくなった自然丸を見て、おいねは、自然丸の胸に顔を埋めて、ただ泣いた。
 やがて自然丸は言う。
「おいねさん。近くといっても、五里(二十キロ)はあるが、そこに保護寺神上寺がある。俗にいう逃げ込み寺だ。今夜、そこへ逃げなさい」
 と、身の置き場のないおいねを見つめながら、逃亡をすすめた。
 そこから神上寺まで、約二十キロの道のりは、けものみちである。
 やぶの中で、道は網の目のようにわかれている。
 一歩、道をまちがえると、山の中を、ウロウロと迷わされ、出られなくなる。ふだんは、けだもの以外は、だれも通らない。彼は駅逓の馬子たちに、おいねの逃亡の手助けを頼んだという。野良ばえの若の頼みならと、馬子たちが侠気に燃えた。ただし、追う侍にばれると、駅逓がお取りつぶしになる。夜なら、わからぬように、おいねの通る道のさきざきで、案内をしようということにしたという。
 自然丸のことばに、おいねはうなずいた。
 自然丸は、先に神上寺に行き、木川という寺侍に頼んでおくという。
 神上寺のある山は、長府屋敷で育った若殿自然丸が幼い日、夏になると、カブトムシをとりにいった寺である。中腹にお成門という大きな門があり、そこには殿様専用の茶室もある。カブトムシを追い、夢中になり、遅くなった時は、ないしょで、この宿舎によく泊めてくれた。自然丸にとっては、この保護寺は親類のように親しい。
「善はいそげだ。きまったら、今夜のうちに逃げなさい。やぶの中の道案内はこれだ」。
 自然丸は唇に両手をあてて「ホー、ホー」と、ふくろうの鳴くまねをして笑った。
「おいねさんの、ゆくさきざきのやぶで、この声がする。おいねさんは 一人のように思えても、けっして一人ではない」。
 何の見通しもない逃亡であるのに、こういう計画に 熱中している自然丸の顔は、いかにも楽天的であかるかった。
 おいねは、そのあかるさに、賭けてみようと決心した。
 野性のカンは鋭い。自然丸の予感は、みごとに的中していた。
 自然丸が馬で長府屋敷を出たあと、屋敷では、誰からともなく言いだして、ついにおいねを斬る暗殺団が、その夜、出発することに決定されていた。
 
 人気の少ない村に、夕やみがおりて、とっぷりと暗い夜が、内日村を黒一色で塗りこめている。
 寺のうしろの山々は、墨で描いたように、空にただ黒々とそびえている。
 昼間は寺の下のほうに、何軒か見える農家も、夜はとぼとぼと燃える いろりの火のまわりに、家族が寄りあい、わらじづくりなどにいそしむ。だから外からは、灯はほとんど見えない。ただ、暗やみだけが村を支配していた。
「ホーホー」
 ふくろうの鳴き声が、裏山できこえた。 
「ホーロ、ロ、ロ、ロ」
 もう一度、寺のすぐそばで鳴いた。
 寺の周囲を、手さげちょうちんを持った黒装束の群れが、とりかこんだ。
 暗殺者たちである。
 一人がおいねがいる部屋を示した。
 ちょうちんの灯が、いっせいに吹き消された。
 暗殺者たちは手はずをととのえ、静かにその部屋を取りまいた。一人が音もなく、ヒラリと、縁がわに飛びあがった。そして部屋のまわりに伏せる仲間に、合図をしたあと、刀を抜いて、半身に構え、部屋のふすまを蹴りあげて飛びこむ。部屋のまん中には、布団が敷いてあり、人のかたちにふくらんでいる。
 そのふくらみのそばに立ち、鋭く光る切っさきを 下に向けた刀の柄を、右手で逆手に持ち、左手でさっと、かけぶとんをめくる。めくるのと、刀の切っさきが そこをグサリと刺す動作が、無言のうちに一瞬に行なわれた。刀は空をつらぬき、下ぶとんを刺した。もぬけのからであった。
(用を足しに出たのか)。暗殺者はあたりを見まわして、暗やみに耳を凝らした。
 しいんとしている。
 女の歩く足音も、厠(かわや)で、小用を足す音もしない。
 彼はふとんに頬をつけた。
「ちいっ」
 人はだのぬくもりがない。(しまった。)彼はヒラリと、縁がわの外に飛び下りて、片手で丸い輪を描いて、指をかなたにさして見せた。ターゲットが逃げたという手信号である。
 黒装束たちは、寺の縁の下に集まる。逃亡者を追せきするためである。
 この寺から下手に行く道が一つある。
 それは馬関に通じていて、その先には九州がある。
 寺の上には、山陽のここから、山陰の日本海沿岸に抜け出る道もある。長門の椙杜屋敷に至る道である。
 もうひとつは、けものたちの通るやぶの中の道だ。まっくらの夜のやみの中を、女が抜けるには、あまりにも複雑に錯綜(さくそう)している。しかし、これは保護寺神上寺に抜けられる。
 暗殺者の集団は冷静である。一部は馬関方面、一部は山陰長門方面へ、そして残りは、やはり、そのけものみちに、手わけをして、音もなくすばやく、それぞれが分かれて走っていく。
 彼らが去ったあとは、まったく何事もなかったように、静まりかえった寺と山々が、夜のとばりの下で、ひっそりとしていた。
 
 ・・・。もう、どれぐらい走っただろうか。
 まっくらなやぶの中を、おいねは走る。歩くつもりであるが、足もとは見えないうえに、まわりはやぶである。ただ自分の足音だけが、やたらにガサガサとひびくから、胸がどきどきして、自然に走ってしまう。
「ホロロ。」
 ふくろうの声は正確である。ところどころのやぶに、馬子たちが隠れているらしい。駅逓に働く彼らわかものも、また雇われる身である。暗殺者の侍と、どこで鉢あわせするかもしれぬこの争いには、正体はいっさい見せられない。   
 疲れの感覚がまひしたように、おいねはときどきつまづいては、また起き上がって歩いていた。
 道といっても、けもの道は、巾は五十センチもない。ただ、背たけほどもあるやぶの中を、けものたちがここを歩いて、自然に踏みかためたというだけのものである。
 おいねの両足は、笹ですれて、傷だらけになっているし、うっそうとした やぶをかきわけるたびに、両腕は、木の枝や笹の葉で、切り傷だらけになり、あちこちに血が流れ出ている。
 よろよろしながら歩く、そんなか細いおいねを、はげますように、ふくろうの声が、向こうの行く手から おいねをさそう。
 ふと、ふくろうの鳴き声が ピタリとやんだ。
 はるか山の下の方だが、ガサガサとやぶをかきわける音がして、ちょうちんの灯が、チラチラしている。
 暗殺者たちである。
「おい、あっちだ。あっちでなにか音がしている。」
 小さく叫んでいる。
(見つかった。ああ、どうしよう)
 おいねは身内が 凍るような気がしてしゃがんだ。やがて、足音は だんだん遠のいてゆく。
 やぶに潜んでいた別の馬子が、反対側の方に音を立てて、暗殺者たちを、そっちへ誘導したらしい。しかし、暗殺者を見た以上、もう安心はできぬ。彼らは保護寺の入り口に、先まわりして、待ちぶせするに違いない。
 急がねばならぬ。
 すぐそばのやぶで、ガサッと音がした。おいねは飛びあがった。
 ふくろうが小さく鳴く。(急げ)といっている。
 おいねは妊娠七ケ月の腹を、いたわるように抱え、ふらふらと立ち上がった。
 あちこちの薮の小枝に、ひっかかって、ほつれては、かきあげていた長い黒髪は、汗で濡れてほどけ、さんばらになり、乱れて、おいねの顔や半身をおおっている。
 走るおいねの肩は 左右に揺れ、あえぐ息が 火のように熱い。まるで池の中からあがってきたように、着物は汗でぐっしょりと濡れている。
 ハッ、ハッと、のどから出る息の音が、あたりの暗やみにひびく。やぶには いつ終わるともない山道が、まっくらな夜の中を続いている。
「しばらく、休ませて」。
 おいねは、小さい声で、ふくろうがいる向こうの暗やみに 投げ出すようにささやいた。
 ふくろうの声が止まった。
 おいねはそばの道ばたに、全身を投げだして あおむけになり、顔をぶるぶるとふった。流れる汗があたりに散る。妊娠しているから、呼吸はすべて肩に集まり、はあはあと吐く息で、乳房が大きく揺れている。
 上を見あげると、月はないが、黒い木々の枝の間から、星がたくさん出ているのが見えた。
「ああ、お星さまが。」
 おいねは目をつむった。
 ずぅんと地底にひきこむような 倦怠感が襲った。
 おいねはうとうとと眠りかけている。
 夢の中で、自然丸があかるい笑顔で、袖ケ浦の海べを走っている。
 (若さまあ
 )おいねは呼んだ。
 松の林の下で、おいねは自然丸に追いついた。自然丸はふりむかない。
 (若さまあ)
 と、おいねは泣きそうになり、もう一度叫んだ。
 
 耳もとで、鋭くふくろうが鳴いた。
 おいねはハッとして目をさました。
「夢か」
 とつぶやいて、あたりの暗がりを見まわした。
 行かねばならぬ。 
 体は綿のようにつかれきって、足が痛い。
 おいねは、ふくろうが鳴く方を、まるでのろうように、ギロリとにらんで、よろめきながら立ちあがった。
 女はもはや、暗やみにうごめく幽鬼であった。小そでも着物も、その下の皮膚も、やぶの小枝に引っかかかり、ズタズタに切れ、血が吹きだして、白肌をつたい、何本も血の筋になり、たらたらと流れている。
 おいねは、時にはおいおいと大声で泣き、時には歯をくいしばり、泣き声をころして走る。
 着物は破れ、ぼろのように垂れさがり、ばらばらにほどけた黒髪を、口のはしにくわえている。
 目がつりあがり、顔といわず、胸といわず、足といわず、傷だらけの皮膚からは、血がしたたる。
 それはふた目とは見られぬ、顔をそむけたくなるような、おぞましい姿であった。
 いつまでも、逃げおおせられるはずもない。腹の子を生んだ後に、待ちうけているのは、殺害か自殺しかない。それはおいね自身が、一番よく知っている。しかし、この道をひた走りに走った。
 この腹の子だけは、生んでおかねばならぬ。
 まさか、この腹の子が、将来、天才作家近松門左衛門になろうなどとは、女は夢にも思いおよばなかった。
 それは、ただ本能の予感であった。産んでおけば、いつか、何かが、誰かにわかってもらえる日がある。ただそう信じればこそ、真夜中の暗やみの中、このうねうねした、二十数キロにおよぶ道を、女は歯をくいしばって、走りつづけた。 やがて元禄にいたるこの泰平の世が、支配者にとって、どうであったかは別にして、逃走だけが、最後に残されたこの女の、はじめて得た哀しい自由であった。
 夜が白む前、おいねは、やっと豊田の保護寺の、入り口の山門の下の階段に、たどりついた。しかし頼みの神上寺は、そこからは、階段の上の山門をくくり、さらに見あげるほど向こうの、何百段を数える階段の、はるか上にある山寺であった。
 もはや、階段をのぼる気力はない。かけこみ寺は、わらじを投げて、そのわらじが敷地に入れば、それでも手を出すことはできないとされている。
 斬られてもいい。せめて山門の向こうに、わらじを投げこんで、自然丸に、自分がここまではきた身の証しを、残しておきたい。おいねはそう思って足を見た。すでにわらじは破れて、素足で歩いていた。追っ手の様子では、もう帯をといても、間に合わぬ。かんざしをとろうと、髪に手をやるが、髪はほどけて、かんざしはない。絶望的な目で、おいねは、うしろをふりかえった。刺客の提灯が、向こうからこちらに迫っている。
「ああ。一足早かったのに。」
 おいねは、そこにへたへたとくずれふせながら、やぶの向こうから、迫ってくる刺客たちのひたひたという足音を聞いていた。