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七 章
ふくろうの鳴き声が、一だんと激しく、やしろの森にひびいた。
そのふくろうの声をききつけたのか、むこうから、息せききって、かけてくる別の侍の下駄の音がした。
下駄の音は、ふせている、おいねの頭のそばでとまった。
「おいねさんか。よかった。私は寺侍の木川だ。まにあってよかった。さあ、私の家で休みなさい。」
おいねがもうろうとした目で 見上げれば、寺にあがる階段の、門前にある家の、寺侍である。
おいねは自然丸のことばを思いだして叫んだ。
「追われております。救けて。」
「おう。聞いておるぞ。」
抱きかかえられるようにして、大急ぎで、女は山門わきの道ばたの、木川の家に運びこまれようとする。
「待て。」
人目につかぬように斬れという密命を受けて、まるでクモのような黒装束に、目だけ出した身なりで、逃亡者を追ってきた刺客たちが、ゆく手をさえぎり、木川とおいねを、半円形にとりまいて、いっせいに、白刃を抜きはなった。
道の右がわには、低い石垣が続いている。ジリッジリッと、その方においねを寄せながら、木川は白刃の数を数えた。
六本ある。木川は下駄を脱いだ。
相手たちの刀から目をはなさず、木川はおいねに言った。
「安心めされい、お女中。ここは保護寺神上寺の寺侍木川の家じゃ。よって神上寺に逃げこんだと同じことじゃ。神上寺が預かった以上、もはや誰も指一本ふれさせるわけにはゆかない」。
そして、腰の大刀を抜いて、正眼にかまえ、とりかこんだ覆面たちに、静かに言った。
「おのおのがた。この掟をおかすのなら、木川が藩公から拝領した、この来国貞の銘刀でお相手しよう。寺社奉行配下の寺侍を、相手にするものは、すなわち、藩公にさからうもの。いかがかな。」
そのことばが終わらぬうちに、左正面から、一本の白刃が襲いかかった。
正面からは、もう一つの白刃がひらめく。
おいねを石垣のそばに立たせて、身を低くかわした木川の刀は、左正面からおりてくる刀を、下からチーンとはねとばしておいて、輪を描くように、正面から斬りかかるもうひとつの影の右肩に、ななめに振りおろしていた。
布をはたくような、鈍い音がして
「ううっ」
とうめく声がした時は、右正面から、おいねの背中めがけて、ほかの影が、刀を振りあげている。
一瞬、木川の体が大地を蹴って、風のように舞いあがり、石垣の上に立つかとみえた。
木川の来国貞は、舞いあがりながら、その黒い影の刀を、横になぎはらい、同時に、左ななめ正面から、木川の足をねらって、横に斬ってきた四人目の肩を、上から、ズゥンとたたいている。
二人の刀をはねとばし、もう二人を斬るのに、三秒もかからぬ、まばたきをする間の早わざである。
瞬時の間に、カチッ、チーンと、二本の刀が、音を立てて、一本は数メートル左脇の小川に、一本は石垣の上の草むらに、飛んで落ちた。
刀をたたき飛ばされた二つの影は、あわてて小刀を抜いて構えているが、ろうばいは隠せない。
肩を斬られたもう二人は、うめいて地に倒れている。
再びヒラリと、道に降り立った木川は、息も乱れず、石垣に身を寄せるおいねを、背にかばい、残る二人の影に、正眼の構えにもどっていた。
相手の刀がかすったらしく、木川のひたいからも、血が一筋、スッと左のまぶたの上から頬を伝って、えりもとに流れている。
大刀を構える黒い影は、あと二人しかいない。暗殺者たちは、隊形を再びととのえている。
大刀をおとされ、小刀にかえた二人は、道の真ん中に出てしまった木川の、両わきにまわる。
二本の大刀は、木川の前うしろにわかれ、左右と正面と背中から、四人が同時に襲う態勢をとり、間あいをつめ、ジリジリとせまっている。
(だめだ。救けにきてくれたお侍が斬られる。)
絶望したおいねは、目をかたくつむった。
とつぜん 木川が口を開いた。
「斬られたお二人は、肩先を浅く斬ってあります。死体を残しますと、藩公のおきてに背いたあるじの椙杜家のお名前が、表てに出て、お家はお取り潰しになりますから」
木川はあくまで、冷静であった。
だが、そのことばの重い意味に、黒い影が たじろいでいるのがうかがわれた。
正面の影が、急に刀を引いて、うしろに退がった。
背後から迫っていた影は動きをとめ、両わきのふたりも小刀をおろした。
殺気を失っている。
「引かしてもらいたい。倒れた二人を連れて帰りたいが、ご無礼の段、見逃してもらるのか。」
つぶやくように、低い声でたずねている。
寺侍として、何回もこういう修羅場に直面してきた木川は慣れていて、来国貞を構えたまま、かたち通り答える。
「万事承知。そうするがいいですよ。あんた方だけじゃない。この寺に駆けこむ者を追う人は、誰でもおきてを忘れて狂う。殺生はこの際、むだだ。」
「すまぬ。ではご好意に甘えさせていただく」
四人の影が、それぞれに、刀をおさめるのを見とどけて、木川はゆっくりと大刀をさやにおさめた。
「さあ。お女中。こちらに参られい。」
ひたいから流れる血を、そででぬくいながら、おいねをともない、木川は石垣の向こうからあがる家の 入口のほうに歩いた。
ふりかえると、四人の影は、倒れた二人を、両方から抱えるようにして、しょんぼりとして、トボトボと道を引きあげていく。
木川はそれを見送りながら、おいねに笑いかけた。
「やれやれ、この神上寺のご門番ときたら、命がいくつあっても、足りやせんわい。天下泰平というのに、今だに血刀を振りまわすのは、このわしくらいのもんじゃ。あの六本の刀に取り巻かれた時は、こりゃあ。安いお給金じゃ、もう引きにあわん。今度、寺社奉行さまに申し出て、お給金を倍にしてもらおうと決めた。わしゃ、こりゃあ、キュウリ膾(なます)のように、切り刻まれると、きんたまが縮みあがったわい。・・・。お女中。これで安心。心静かに養生され、よいお子を産みや。」
たった今、目の前にくりひろげた死闘を、終えたばかりというのに、まじめな顔で、本気とも冗談ともつかぬ、不敵なことばを言いはなつ木川に、つられてほほ笑みながら、これで救われたのだ、という安どの気持ちが、おいねの気をゆるめた。
今でも、数百にのぼる石仏が、一番下の山門から山頂まで、ズラリと並ぶ神上寺の長い長い石段に、木川の石仏は、最上段に位置して座している。
藩公のお成り門をあずかる保護寺の山門は、寺社奉行の管轄であり、寺侍の権威は、すなわち藩公の権威であった。
「ありがとうございます。あの・・・自然丸どのは」
どうなるのかと、息をひそめて、一部しじゅうを、見守っていたのだろう。
暗やみの中から、山の向こうの方へ去っていく、あかるいふくろうの鳴き声が響いた。
その方角をながめながら、木川はニッコリと笑った。
「昼間から連絡を受けていましたよ。自然丸どのには、あんたを私がおあずかりすると申しあげている。」
家の中に運びこまれたおいねは、気丈な木川の妻に、絞った手ぬぐいで、全身の血をふいてもらい、あちこちの傷に、ハミ焼酎をすりこんでもらっていた。
「なんとまあ。体中が傷だらけじゃのう。この体で、夜のあのけもの道は、わしら男でもよう走らんわい。」
拝領の来国貞に、刃こぼれがないか、明かりにすかして、調べていた木川は、ふりかえって、傷だらけのおいねの全身を、しげしげと見ながら、感動したように、つぶやいた。
ほうたいのかわりに、手ぬぐいを、ひたいにまいている。
「あんたは、あっちを向いて、座っとらんにゃ。男がものめずらしそうに、はだかの女のどこやらを、ジロジロと見るもんじゃないよ。あそこなら、わたしのを見なれちょろうに。ねえ。おいねさん。」
妻にどなられて、木川は、苦笑して、首をすくめて、体をあちらを向いて、刀を灯にすかして眺めている。
「けんどまあ。亭主の言う通りですよ。ようまあ、夜の夜中にあの道を越えて。」
ぼくとつな木川の妻は、おいねにはやさしい。
「道案内たちのお陰でした」
「ほう。道案内たちとは」
「それは」言いいかけたおいねは、木川の鋭い制止の視線にあい、口をつぐんだ。
「申しあげるわけには、いかないのです」
駅逓で働くわかものたちのことは、相手が木川の妻といえども、洩らしてはならぬ。
まっくらな、あちこちのやぶに立って、暗殺者をよそに誘導し、おいねを神上寺に、誘導したわかものたちは、おいねが無事に助かったのを見とどけ、さわやかに笑って、夜のけものみちを、長門駅逓の詰め所に、帰っていったのであろう。報しゅうはおろか、そのてがらを、みとめられることさえ、彼らは求めなかった。
そのやさしい思いやりを、おいねは、暗やみの向こうに、じっとかみしめていた。
「よほど、ええ案内人でありましたでしょうね。はい。この着物は地味じゃけど、しばらくがまんしてな。そうそう。その案内の人たちのためにも、丈夫なややを産まんにゃ」
自分の地味な着物を着せながら、木川の妻は、笑っておいねをはげました。
「あい」
おいねは、ただ、うなずくだけである。
あらかじめ事情をきいていた木川は、女房にせかされて、翌日から、子を産むこのおいねのために、山門のよこの草原に、にわかづくりのお産小屋をつくった。
やがて、にわか屋敷ができあがるころ、寺侍木川のうしろ姿を、おがむように手をあわせ、おいねは産室に入った。
このときを待ちかねたように、まもなく陣痛のうめき声が、お産屋敷の中から、間断なく続く。おいねが平馬、のちの近松門左衛門を産んだその夜は、血のように真っ赤な色をした三日月が、中空にのぼり、村人たちは、それを見て、天変地異かとおびえ、雨戸を閉ざしたという。
産室からは、銀の鈴をふるような 産ぶ声がひびいた。
おいねは二人の命の恩人の木川に、あらかじめ命名を頼んであった。
男の子と聞いて、木川は喜んで、木川家に代々伝わる 平という一字を与え、平馬という名前をつけた。
あれから交代で、やぶの中に、毎晩ひそんで、監視して、おいねが男の子を産んだことを 見とどけた暗殺者たちは、次の指示をあおぐため、ひそかにそこを引きあげた。
今は写真だけ現存しているが、おいねが平馬を産んだ家は、近松屋敷として、神上寺山門わきの草原に、ごく最近まで、白壁の小さな建造物があった。
おいねは結局、逃散とされた。
もともと正妻ではない。
はした女の逃亡として処理され、人別帳から外されてしまうのである。
もはや、どこで野たれ死にをしようが、公けの場では、はじめから この世に存在しないものとして、取り扱われるのである。
貧しくはあるが、母と子の二人だけの、ささやかな日々がはじまる。
すぐ近くには、毛利元就の九男で、キリタン大名の、毛利秀包の長男 フランシスコ毛利元鎮がくらしている。
その母親マジエンシヤ引地の君は、日本史にキリシタン大名として名をとどめる 大友宗麟の娘である。元鎮はキリシタン禁教とともに、大名の身を引いて、家老の松村伝之進を連れ、柳庵と称して、花鳥風月の日々を楽しんでいる。
伯父毛利輝元より 一万石の加増の話があったが、非戦と弱き民への慈愛は、キリシタン信仰。病弱をたてに、それを断ってしまい、甘んじて野にくらすという、腹のすわった生きざまをしている。
「この世に生まれたは、父なる神のみ心じゃ。のう平馬よ。」
広品の子なら、この子の祖母は、防府毛利家の女になる。
柳庵には、他人ごとではない。母の引き地の君も世を去り、天を仰いで祈る柳庵は、そういっては、わが孫のように、平馬の頭をなぜるのだった。
八 章
あるとき、木川の家の前の屋敷に、暮らしているおいねのところに、椙杜の使いと称する小者がきた。就幸が内密な用事があるから、そっと抜けだして、自分が連れていく先まで同行せよという。
おいねは、それを聞いて、鏡の前で、長い間身づくろいをして、置き手紙と、椙杜の家紋のついた品物を、鏡台のそばにそろえた。そして、殿居というとこの柳庵の家に、遊びに行っている平馬に、会いに行った。
あどけない平馬は、木屋川の浅瀬の流れに、尻をからげた柳庵とともに、チンポコを出したまま、無心に魚をすくっている。
おいねは、しばらくその平馬の姿を、じっと見つめていたが、やがて、キッとした顔で出かけていった。
それから数日。おいねは帰らない。
どこかへつれ去られたのである。
村人はいろいろとうわさをしたが、どこへ連れていかれたのか、見当もつかなかった。
おいねは、案内にきた小者に連れられて、山の中をまる二日間歩いた。
あちこちの山道を、ずっとのぼりながら歩くと、突然、そこから上は、視界がひらけて、空だけしかなくなる。そこは、中国山脈の、とある山の山頂である。
そこだけが、たたみ三十枚くらいの空き地になり、きちんと手入れされているが、一面に落ち葉が、散りしいていて、その上に、ござが一枚ひろげられている。
空き地のそばには、小さな地蔵尊が建てられている。
下を見おろせば、すそ野にかけて、静かな林が続いているが、おいねの周囲に立つ木々の、むこうに見えるのは、雲の下に、走馬の群れのように走る山脈の、山々の頂きばかりである。
その上を渡る風は、山あいを吹くそれではなく、陸地の全体を見おろして、雲を動かしている風である。
さえぎるもののない空を、風はただ、ひゅうひゅうと、音を立てて渡っている。
ずい分、高いところへ連れて来られたと、おいねは思った。
空き地には、就幸らしいふく面をした侍が、ひとりで待っていた。
連れてきた者のたもとに、小判らしきものが渡され、ふく面の侍は帰れと手で合図する。むろん、あたりに他に人はいない。
小者は無言のうちに、人さし指を突き出して、刀をにぎる手の形をつくり、上からななめに振りおろす 処刑の動作をして見せて、ヘラヘラと笑った。そして、おじぎをして、ふりかえりもせずに、山を降りていく。
ここは処刑場であった。
ついに、おいねが椙杜就幸の手で、斬られる日がきた。
地蔵尊は斬られた死者の めい福を祈って、建てられているのである。
おいねは、顔が青ざめてこわばった。しかし、平馬を生んだ日から、自分がうらぎった主人就幸の手によって、斬られる時がくることを、心のすみのどこかで、待ちのぞんでもいた。
・・・今日までの、いのちであったのか。
おいねは、自分の胸が、冷たくなっていくのがよくわかった。
「おいねか。」
ふく面の侍はそういった。
声は就幸ではない。
あっと思った。
どこかで聞いた声であったが、思い出すゆとりは、おいねにはなかった。
「はい。いねでございます」。
おいねは悪びれなかった。
「ひさしぶりじやのう。わしが、お前を斬る役を買うて出た」。
侍はふく面をとった。
「ああ。」
おいねは青ざめた。
だまされたのである。
ふく面の下は、かってしつこく、おいねに迫った市村清三郎であった。
おいねは、あたりに、就幸の姿を探した。
「就幸どのの話はうそじゃ。私がおまえの命を、金を出して買うたんでのう。」
ゾッとするような、冷たい目であった。
「お金を渡されたのは、いま、見ました」。
「ただし、女としてではない。すえもの斬りの材料として買うた。ふん。就幸どのの甥ごにすりよったのか。おまえのわがままゆえに、就幸どのがどれほど苦しまれたか、おまえにはわかるまい。斬りすてるのさえ、けがらわしいが、特別のなさけをもって、私の刀のさびにしてやる。きれいに死にたいだろうが、そうはいかんのう。お前が死んだあとは、すえもの斬りの腕だめしに、ズタズタに切りきざむことになる・・・。」
死を覚悟してきたとはいえ、そのことばに、おいねの心臓は凍りついた。
「そのござに、うしろを向いて正座せい。」
おいねは、ござの上に正座しようとした。
しかし、両ひざがブルブルと、大きくふるえ、今にも大声をあげそうな衝動が、体中をめぐる。
恐怖で、のどから洩れる息が、カスカスと、かすれた音をたてるが、ことばにならず、おいねは、ただ、すがりつくようなまなざしで、清三郎の顔を見あげた。
その顔を見て、ニヤリと笑った清三郎は、なわを、おいねの胸に十文字にかけて、うしろにまわし、両手をうしろ手にくくりあげた。
罪人の首をはねる時は、まず、うしろ手にくくりあげ、うつむいて正座させる。
次に、うしろにまわり、正座で重ねた両足の親ゆびを、動かぬように、強く踏んでおいて、背中をドンと突く。
両親ゆびをしっかりと 踏みつけられているから、思わず腰が浮いて、身体が空中に泳いで、その拍子に、前にあごを突きだしてしまう。
その瞬間、いっぱいに のびている首筋めがけて、刀を振りおろす。
これが首をはねるコツである。
どうにか、正座だけはしたが、おいねは、体がガタガタと揺れうごき、青ざめて血の気を失った顔に、悲しみを浮かべている。
すでに灰色に変じた唇がふるえ、それでも体をせいいっぱいにひねって、哀願のまなざしで、うしろの清三郎の顔を見あげようとする。
清三郎は、形通り、背後にまわり、正座しているおいねの両足の親ゆびを、うしろから、ギュゥと踏んだ。
(あと数秒にして、この世と断ちきれる)。
みるみるうちに、おいねの生気が、全身から消えうせ、目の奥から、光がだんだんなくなっていく。
うしろから、じっと そのおいねの様子をながめていた清三郎の目が、とつぜん、ギロッと光った。
清三郎は、おいねのうしろから、どんと背中を突いた。
その瞬間、おいねの意識は、生のむこうのやみに散った。
「ヒェーッ」
なんともいえぬ叫びをあげて、おいねの腰が、うしろ手にしばられたまま、宙に浮いたかと思うと、一人の女の全重量が、落葉の上に、ドサッと、くずれ落ちる音がした。
その異様な声に、あたりの林の木々に、とまっていた鳥たちが おどろいて、バタバタッといっせいに、空へ飛んでいった。
清三郎は、その鳥の姿を、しばらく空にながめていたが、やがて、足もとに倒れている おいねの姿を見おろして、ちいさな笑い声をたてた。
「まだ斬ってもおらんのに・・・」
刀は抜いていなかった。
意識をなくしたおいねは、顔をござにすりつけて気をうしない、うしろ手にくくられたまま、前にのめって、腹ばいになり、腰を高くあげている。
あたりを見まわし、清三郎は、はかまの帯をゆるめ、おいねの着物のすそをめくった。
落葉のカサカサという音にまじって、けだものの唸り声のような、はげしい息が、ひとしきり、あたりにひびく。
やがて、林の間から、木々にまだ少し残っていた烏が、再び大きな羽音をさせて、飛びさり、あたりは、急にシンと静かになる。
死んではいないが、おいねの意識は、もどらなかった。
彼が両手でつかまえていた、腰をはなすと、おいねはドサッと横に倒れ、落葉の中に埋まった。
清三郎が、顔をゆがめて立ちあがった時、おいねがふと動いた。
意識がもどったのである。
彼はひきつったような、いやしい笑いを浮かべた。
女が気を失った間に、はずかしめを加えた虚勢である。
顔が、自分ながら、ヒクヒクとふるえるのに、いらだっている。
しばられたままのおいねは、清三郎の顔に、ぼんやりと、透きとおるようなまなざしを向けた。頬に涙が一筋つたい、唇がふるえた。
清三郎は、はっとした。
姦通ゆえに、この女を斬る役目を買ってはでた。しかし、親友の就幸の想い女であるという事実に、変わりない。
処刑する前に、こんなことをしたとなると、ただではすむまい。
もともと、就幸には知らせずに、内密のうちに、椙杜家の家来と、相談したことなのである。
憔悴しきった就幸が、激怒して、刀のつかに、手をかける姿が、清三郎の頭いっぱいに浮かんだ。
清三郎は、自分の罪におびえ、急にひざがブルブルと、ふるえはじめた。
彼は突然、刀を抜いて、刀身を横にして、左手で懐中紙をそえて、切っさきを、おいねの左乳の下あたりにあてて、ぐっと力を入れた。刀の先は、おいねの乳房の下に深く入り、見る見るうちに、鮮血が噴き出しはじめる。
おいねの両眼が驚いたように、パッチリと開いて、物を問いたげに、彼の顔を見た。
黒真珠のように、よく輝く涼しい目である。
顔をそむけて、清三郎はグイグイとえぐる。
おいねの体は、全身に力が入り、しばられた体を、清三郎の体に、すりよせるように反らして、固くなり、けいれんしている。しかし、やがて力をうしない、ぐたっとしていく。
「・・・」。
ふと、彼は息をのんで、動きをとめて耳をすませた。
どこかで、ピシッピシッと、落葉を踏む足音がしたような気がした。
清三郎は鼻の先でせせら笑った。
背徳を問われた上に、代金まで払ってある女を、どのような殺し方をしたからといって、非難するものは、この世に誰もいないはずである。
・・・どうしたのか。市村清三郎ともあろうものが
つぶやきながら、彼は、かた足で、おいねの体を踏みつけて、力まかせに刀を抜いた。そして、そばのササの茂る深みに、おいねの体をけりころがした。
ふたつに折れたおいねの体から、血が赤汐のように、大量に噴出し続けている。
懐中紙で、刀の血のりをふいた彼は、さやに刀をパチッとおさめ、うしろも見ずに、山をかけ降りていった。
「むごいことをしやがる。」
やぶの中から、老人があらわれた。木こりである
さっきから、陰にひそんで、ことの始終を見ていたらしい。
おいねのそばに歩きより、乱れた着物を、ていねいにあわせてやっている。
「まだ息がある。」
息も絶えだえな体で、横たわるおいねは、口を動かして、なにかを言おうとする。
老人は、白い眉の下で、じっとおいねの口もとを見つめた。
「何か、言いいのこしは」
老人は、その耳に鋭く叫ぶようにしてたずねる。
そしておいねの唇に、耳をぴたりと当てて聞いていたが、低く叫ぶような声で、おいねの耳にたずねる。
「へ、い、ま、か。平馬じゃのう。まちがいないか」
おいねの目が、うれしそうに輝いたかと思うと、見る見るうちに、その顔は、土の色に変じて、血の気を失っていった。
数分の後、おいねはこと切れて、木こりの老人の腕の中にいた。
老人は、かた手おがみに、女のめい福を祈った。そして女の髪を切って、紙に包んでふところに入れた。
老人は、まわりの枯れ木を集めて、火をたきはじめた。
山の頂上からは、おいねの死をいたむように、細く長い煙りが、空に静かにたちのぼってゆく。
老人は煙りをみあげながら、上着を脱いで、たき火の上に、かぶせたり、のけたりしている。
ノロシの信号である。
遠い山で、木を伐っている他のきこりが、この煙りの信号を読んだ。
そして手をあわせた。
・・・おらが見たで。女人が今、侍に犯されて、命を奪われた。この世に残した子の名は、平馬というた。
ノロシは、ことのあらましを、山から山へと伝えた。やがて、木こりを通して、ことのすべては、豊田や内日の農民に伝わった。
「おいねさんの魂は浮かばれぬ」。
人々は、低い声でそう語った。
数日後、市村清三郎は、また、のこのこと、この山にのぼってきた。
・・・どうもまずかった。やはり、俺も腰ぬけ侍になったな
片頬をゆがめながら、ひとりごとをつぶやいて、山道を歩いている。どうてんして、おいねをおかした形跡が、ひとの目にわからぬように、しまつをしなかったのが、ひどく気になっている。
平和が世につづくと、刀を買いかえた時、新刀の切れ味をためす材料がない。また、ふだんから、すえもの斬りという剣の技を、たんれんするが、いくら上達しても、これも腕だめしができない。当然、犯罪人に目がゆく。
犯罪人の処刑は、刀かじの、鉄をやいた匂いも まだ消えぬ新刀が、侍の陰の依頼で、すえもの斬りの実験に、よく使われるのは、なかば公認されていた。
清三郎は、新刀を買ったこの際、試し切りがしてみたいと思っていた。
裏の社会には、そういう世界があって、頼めばひそかに殺すべき人間を、抱えている屋敷もあって、話は成立した。
夫に隠れて、不義密通を働いた女で、名をきけば、おいねであるという。
近ごろ鬱々として、楽しまぬ就幸の顔が、目にうかんだ。
侍社会に、背徳を問われたおいねが、幼な子に乳をふくませる、ささやかな日々は、しょせん、新刀ができあがり、試し斬りに提供されるまでの、期間を待っていただけの事なのである。
市村清三郎にとって、一番の関心は、かげろうのように、淡く短かすぎるこの女の生涯では決してなく、買い求めたその刀が、その高い価格にふさわしく、一振りで、人のこうべを切りおとせるかどうか、ということであった。
自分の欲望にまどわされ、まったく失敗して、無駄な結果におわってしまったことに、清三郎は、自分にひどく腹をたてていた。
頂上の地蔵尊の、そばの空き地には、ころがっているはずの、おいねの体がない。
清三郎は青ざめた。
・・・あの連れてきた小者が、かたづけたのだろう。まさか、生きかえるはずはない。
無理にそう考えたが、清三郎は、何かひどく不安になった。
彼は細い山道を、息をはずませながらかけおりる。
何かいやな予感がして、えり首に、ソオッとするような、黒い戦慄に襲われ、彼は走りながら、うしろを振り向いた。
いきなり、横のやぶの中から、氷のつららのような、鋭い細身の刀のやいばが、キラッと閃いて、清三郎の足もとを狙って、すくいあげた。
むこうずねを、真正面から斬りはらわれた清三郎は、足がもつれたまま、二、三歩前に走った。
すかさずその背中に、重ねて二の太刀、三の太刀が、浴びせられる。
一瞬のできごとであった。
木洩れ日の、光りに反射して、細い刀身が、音もなくきらめいた。
「ウワッ。」
清三郎は、自分の勢いで、二メートルくらい下まで、よろけながら走った。
道のそばの、背たけほどもある笹が、ユサユサと揺れ、右手に細い抜き身の刀をぶらさげたまま、やぶの中から走り出たのは、元服をすました青年椙杜主殿守広品(ひろかず)こと、自然丸であった。
おいねがいなくなったと知った時、彼女が就幸の名を聞いて、見えない糸に、ひっぱられるように、ふらふらと、出かけて行ったことまでは調べていた。だが、まさか、それが伯父の名を使った清三郎の おびきよせとは気がつかなかった。
木こりのしらせを聞いて、かけつけては見たが、自然丸が見たのは、口きかぬおいねの、冷たい亡きがらである。
彼が涙をぬぐっていると、ふもとから 清三郎がのぼってくるのが見えたのだ。
つんのめって、道ばたの木にすがりつき、大きい息をしている市村清三郎に、広品は声をかけた。
「せっかく、保護寺にかくまったものを。だましておびきだして、はずかしめをくわえた上、あまつさえ、さしころすとは・・・。」
今にも、泣きだしそうなまつげに、涙をためながら、青年の憤りの唇が、わなわなと震え、清三郎を見つめている。
相手が自然丸と気がついて、清三郎は刀を抜いた。いや、ただしくは抜こうとした。
その瞬間、清三郎のきき腕に、広品の細身の刀が、また、木洩れ日を受けてきらめいた。
「きさま」。
右腕を手首から失った清三郎は、広品をにらんで、歯がみをしてうめいた。しかし、こうまで、さんざんに敗れては、もはや立ちむかうことは、不可能である。
清三郎は、覚悟をしたのか、くずれるように、その場に座りこんだ。
「自然丸。就幸どのへのおわびだ。せめて、侍らしく、ここで腹を切りたい。すまん。首をはねてくれ」
と、声をふるわせて広品に頼む。
腹さえ斬れば、すべては美化される。清三郎の手首を落として、侍としての一生を奪った広品は、この姿に武士のむなしさを見た。彼はいきなり清三郎の顔に、つばをはきかけて言った。
「伯父上にではない。殺したおいねさんへのおわびをするのだ、ばかもの。わたしは、お前のきたない首などはねんよ。命はたすけてやる。このまま脱藩して、二度とその姿を見せるな。こんど、私に刀を抜かせたら斬るぞ」。
といいすてて、刀をおさめて立ち去ろうとした。
「おっ。それは、かたじけない。市村清三郎、生涯、恩は忘れぬ」。
喜色を顔に浮かべた清三郎は、かた手でおがんだ。
顔をそむけた広品は、うしろを向いて、山道をおりようとした瞬間、木霊(こだま)に「危ない」と叫ぶ、おいねの声を聞いて、ハッとしてふりかえった。
おがむふりをして、左手でぬいた清三郎のわきざしが、まっすぐに飛んできた。
危うくかわした広品は、腰の刀をぬいたその勢いざま、清三郎の顔のまっ正面にふりおろした。
・・・ウワァッ
眉と眉のあいだにおろされた、広品の光る刀身を見たのが、清三郎のこの世の最後であった。みけんがふたつに割れ、口から鮮血があふれ、清三郎の息が絶えた。
「こんど抜かせたら、斬るというたのに」
殺すつもりはなかった。
自然丸は、まだひくひくしている清三郎を見ながら、刀をさやにおさめた。
数日後、清三郎の死体が見つかり、大さわぎになった。
武士の惨殺事件である。
同心たちが周囲を調べた。
近くに女の死体が発見された。うつぶせの顔を起こして見ると、先日から、保護寺神上寺から、捜索願いが出されている女であった。侍の刀には、その女の血のあぶらが、ベットリと浮いている。女に理不尽(りふじん)を働いた侍を、誰かが斬った。誰にもそれが一目でわかった。
(言うに言われぬ哀しみがあって、せっかく、神上寺に逃げこんだものに、何ということを。斬られてとうぜん)。
義憤が、その場にいあわせた同心たちの 胸に燃えた。
犯人は問われぬままに、結局、おかまいなしの不問に付された。
九 章
それから数年あとの、長門深川。
豊田で、柳庵こと、フランシスコ毛利元鎮が昇天した。
平馬には勉強をさせよというのが、そばに付きそった家臣松村への、柳庵の申しつたえである。
平馬は、唐津の近松寺にやられる。
その近松寺を経由して、椙杜家とは無縁の、自由な民として、新しい生涯の旅だちをしてゆく。
今は元服して、椙杜主殿守となった自然丸が、この長門の港まで連れてきて、見送りに立つ。
近松寺の和尚に、腕をつかまえられ、港を出る船のへさきから、不安げに、こちらをふりかえる小さい平馬。その姿が、海の向こうに見えなくなるまで、広品は岸壁に立って、手を振っていた。
かえりに、あの駅逓にあいさつにより、馬子たちにかこまれて、思い出ばなしに、しばらく時を過ごしたあと、広品は、おいねと親しんだ袖ケ浦の浜に足をのばした。
浜べの波は、あの日のように無言で、ただひたひたと、浜に押しよせている。
かっての少年自然丸はそこに立った。
彼は唇をかんで沖あいをながめている。
ついにおいねを、救けることはできなかった。救われようのない愛であった。だが、その禁断の恋ゆえに、彼は孤独の日々に、たったひとつ、愛にはぐくまれ、感傷に満ちた思い出を残したのである。
海原のむこうを、彼はじっと見つめていた。
水平線のむこうの、やわらかい雲のかたちに、彼はおいねのふくよかな姿を、思い出している。
小さい波が、沖あいから、つぎつぎに押しよせてきて、広品の足もとで、いったん引いて、ザアッと音を立ててくずれ消え、そしてうしろの波にゆずる。
彼は松林の小屋のとびらをあけて、中にはいり、そっと中のくらがりを見た。
あの日、ここで起きたできごとは、うそであったのかと思うほど、そこには思い出のかけらもない。
広品は足もとの砂をけった。
その瞬間、あのおいねをだいた時の、ひいやりとした砂の感触がよみがえった。
彼はしゃがんで、砂をすくって、両手ににぎりしめ、あたりをみまわす。
あの日、ていねいに、たたんで置いてあった、鹿の子しぼりの帯や、女の熱い吐息が、記憶の中に、しだいにあざやかによみがえり、息がつまるような、したわしい思いが、広品の胸をつまらせる。
砂をにぎりしめる指さきがふるえ、砂がパラパラッと、下に落ちた。
少しうるんだまつげをしばたかせて、広品はたちあがる。
とつぜん、ガラッと音をたてて、小屋の戸があいて、女が入ってきた。
「まあ。」
一瞬立ちすくんだ愛くるしい女の声がした。
「おいね!。」
彼はぎょっとして立ちすくんだ。
逆光線に照らされて立つのは、この小屋の持ちぬしの漁夫の娘であった。
娘のうしろには、日本海の沖あいの 無数の波がきらきらと光っていた。
(第一部・おわり)
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長門市湯本温泉に 近松生存当時からある僧俊寛(平家女護島の主役
)の墓 |
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山口県豊田町神上寺のふもとにある旧い近松生誕碑と 二百年にわたり 「ここは人形浄瑠璃作者近松がうまれた聖地であるろと 古老によりつたえられてきた近松屋敷跡 |
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「参考文献」 戦国武将記(中公新書)。
元禄畳奉行日記(中公新書)。
豊田町史(提供豊田町民センター)。
近松故郷に帰る(故宮野馨作・提供開作一明氏)。
続ふるさとの伝承人物内日村(山田春男著)
志道家資料(提供美祢市立図書館土屋貞夫氏)。
近松山口県出生説研究資料(提供・長門市郷土文化研究会、羽仁雅助氏、同 利重忠氏、同 堀勇氏、同 中野良彦氏、長門市教育委員会、豊田町社会教育課)
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