大阪大東市法妙寺にある蜀山人の巨大な近松顕彰碑
写真提供・大阪地域文化誌「まんだ」編集部佐能千恵子さん
近松は長門萩藩の人
 大田蜀山人が碑文を書き残した
大阪谷町六丁目  法妙寺の「近松の生涯」
大阪市教育委員会による「大阪 近松門左衛門の墓」
 作家の氏神とあがめられた文豪近松門左衛門の二百五十年忌にあたり 墓地域を改修して ここにその偉業を追慕顕彰する
昭和五十五年十一月 大阪市教育委員会
 
石碑文は下記
写真提供 大阪枚方市 地域文化誌{まんだ}編集部 佐能千恵子さん
碑  文
 平安堂近松翁。以善戯文聞海内。後之作者其体裁以師法。蓋此方李笠翁也。中略 按翁本姓杉森諱信盛字平馬。長門萩之人父諱母某氏。以慶四年辛卯生。翁享保九年甲辰二一没歳七十四。伯出家為相国寺宗長老。仲善医称岡本一抱子叔為翁。委女錦江俳諧師各壇其名。翁幼遊学唐津近松寺。入京事普紳家。為雑掌。後辞任居浪華変姓名称近松門左衛門号平安堂巣林子。                                後 略     

                     文政四年辛巳仲冬  

                       江 戸  蜀 山 人  

                        浪 華 梅園主人 建  

            
            
訳 文
 

 平安堂近松翁は。戯文を善くするをもって海内にきこゆ。
 後の作者 其の体裁をまなび 以って師法と為せり。
 けだし これまさに中国の大詩人李笠翁杜甫なり。
 その墓はその配をあわせて 浪花谷町法妙寺にあり、いま断碑をなす。
 梅園主人により、予をして ここに 一喝を記すものなり、
 按じるに 
翁の本姓は 杉森諱信盛。字平馬。長門、萩の人なり
、父の諱某 母の某氏の家に 慶安四年辛卯をもって生まれる。
 翁は齢い七十四才にして 享保九年甲辰の二一日に没す。
 伯は出家して 相国寺宗の長老となる。
 仲善きを医岡本一抱といい。翁を叔と為す。
 季女錦江 俳諧師 各れぞれ 壇に 其の名をほしいままとす。
 翁f幼くしく 唐津近松寺に遊学す。京にはいり 普紳家につかえ 雑掌をなせり。
 後に辞任し 浪華に居て 姓名を変え 近松門左衛門 号平安堂 巣林子と号す。
 宇治加賀大掾のために 戯文をつくる。
 いわく団扇曽我と、その友おおいにおこなわる。
 演劇百日 題を致して百日曽我 実に元禄十二年なり。
 また国姓翁つくる。
 これを回演すること三年なり。
 人口に膾炙す。
 翁の 情景事における宛然の口気 感動、人意を尽くさざるなし。
 その孝 悌 忠 信 礼儀 廉恥の風儀 人をして喚起せしむ
 その功績 偉大なり。
 ただ曽根崎の一齣 匹夫匹婦のまことに失死して 倶に斃るる。名づけて心中という。秋風におおいにはやる 功は罪を掩わずというべし 
 園夫子 ひとたびこの文をみる その夫婦の死に赴くにいたるや曰く 一歩霜消え 一歩霜すと 五更三点。
 ただ 予ひとえに喟然として 嘆じて曰く 
 彼の妙 花のあるところは阿堵の中なり しかし一功一罪 善くこれを聴くもののあるは 翁においてはたして何人ぞ             
    

           文政四年辛巳仲冬  

                  江 戸  蜀 山 人  

                   浪 華   梅園主人 建

近松に関する江戸時代の古文書史料
近松の生誕地と刑を逃れた作家のドトエフスキイ体験
              大田南畝「仮名世説」より
 
 前略 
 のこれとや 思うもおろかうづみ火の けぬまあだなる朽ち気木がきして
 先のとし。浪花にありて。銅吹哉熊野屋にて゜。みし事ありしが。これと同文なりや。近頃浪花の梅園主人のために。近松の碑文を書きし事ありしが。
近松は長州萩の生まれにて。兄は名誉の医師なり。門左衛門近松寺といふに遊学して。其の寺の僧、罪有りて。寺門の側にて刑せられしをみて。自らいましめの為に。近松門左衛門と称せしとぞ。ある時 兄の医師近松が、よしなき浄瑠璃本を作る事をいましめし時、そこには和語の薬名などをつくりて、一字一画の誤りあれば、人の性命にかかる大事のことなり。我らが作る所は。狂言綺語にして。人の害にならずといひしかば。あにもその理に服し。さあらば中直りのため。伴いて大和めぐりせむとて。つれだちてめぐり。世に伝ふる寺子供の。手本の龍田詣といふものを書きしと。櫨橘庵の物語なり。近松の碑文にはその事は洩らししなり。近松の法名穆 旦具足居士とするものあり。その法名あやまれり。摂津大阪谷町法妙寺中に、平安堂の墓あり。おのれ其の墓碑の石摺りにしたるを蔵す。それにも旦を日一の二字につくれり。思うに近松は法華宗ならば。さもあるべし。且つ年代記に。十一月二十二日とするもの。あやまれり。墓碑の裏かけて 終に残るところこれあり。

山口県立山口図書館所蔵 大田南畝「仮名世説」より
二OO四年二月十二日  近松研究メモ
近松は長門萩の人。近松は法華宗?    
幕府旗本太田南畝こと江戸時代の狂歌の達人、太田蜀山人の書にみる近松像
杏花園蜀山編、文宝堂散木補 仮名世説  上
{言語}◯ 近松門左衛門(杉森氏・長門萩の人なり)の文。
 代々甲冑の家に生れながら、武林を離れ、三槐九卿(
筆者注解・三槐九卿とは、近衛家 二条家 鷹司家などの「三摂家」と、三条家、西園寺家、久我家、徳大寺家、花山院家、大炊御門家、菊亭家 広幡家、醍醐家などの「九清華家」をさしている。毛利家は、家康の命令により 大膳太夫に任命されて これら三摂家と九清華家の公卿たちを賄う台所役につけられていた。)につかへ、咫尺し奉りて、寸爵なく、市井に漂ひて商売しらず、隠に隠にてあらず、賢に似て賢ならず、物識に似て、何もしらず。世のまがひもの。からの大和の教あるみちみち、伎能雑芸滑稽の類まで、知らぬ 事なげに、口にまかせ筆に走らせ、一生囀り暮らし、今はの際にいふべく思ふべき真の一大事は、一言半言もなき倒惑。心に心の恥をおほひて、七十あまりの光陰、思へばおぼつかなき我世経畢んぬ。もし辞世はと問ふ人あらば、それぞ辞世さるほどに扨もその後に残る桜の花し匂はば
 享保九年中冬上旬
    入寂名阿耨院穆矣日一具足居士
    不俣終焉期像自記春秋七十二歳□□
 
   残れとは思ふもおろか埋火の消ぬ間あだなる朽木書して
 
 先の年、浪花ありて、銅吹屋熊野屋にて見しことありしが、これと同文なりや。近ごろ 浪花の梅園主人のために、近松の碑文を書きし事ありしが、近松は長門萩の生れにて、兄は名誉の医師なり。門左衛門 近松寺といふに遊学して、其の寺の僧、罪有りて寺門の側にて、刑せられしを見て、自ら戒めのために近松門左衛門と、称せしとぞ。ある時兄の医師、近松がよしなき浄瑠璃本を作ることを戒めし時、足下には、和語の薬名の書などをつくりて一文一劃の誤りあらば、人の性命にかかる大事のことなり。われらが作る所は、狂言綺語にして、人の害にならずと 言ひしかば、兄もその理に服し、さあらば中直りのために、伴いて大和廻りせんとて、連れたちてめぐり、世間に伝ふる寺子供の手本の、龍田詣でといふものを書きし、と盧橘菴の物語なり。近松の碑文には、その事はもらせしなり。
 
{補}近松の法名。穆矣旦具足居士とする者あり、その法名あやまれり。摂津大阪谷町法妙寺中に、平安堂の墓あり、おのれ其墓碑の石摺りにしたるを蔵す。それにも元旦を日一の二字につくれり。思うに近松は法華宗なれば、さもあるべし。且操年代記に十一月二十二日とするも誤れり。墓碑の裏欠けてわずかに残る所に如此あり。
 
 近松戯文評(膸農子著)
 
◯「曽根崎心中」徳兵衛、おはつ 
上 巻、徳兵衛縁の下に忍び居、おはつ足にて喉を摩づる所は妙々、可断腸。
下 巻、此世のなごり夜も名ごり。死にに行く身をたとふれば、ぁだしケ原の道の霜、一足づつに消えて行く。夢のゆめこそあはれなれ。あれ数えてか、暁の七つのときが六つなりて、のこるひとつがこんじょうの、かねのひびきの聞きをさめ。寂滅為楽とひびく也。
 徂来先生言、近松が妙処、此中にあり。外はこれにて推しはかるべしと、宇佐美恵助(名は恵、字は子迪)の話也。
 
 摩訶十夜にいう。
 
 曽根崎心中の道行の中に、何々として何々と死に行く身の道の霜、一足ごとに消えてゆく、というところまで作りしが、言葉つきて心足らず、ぃかにいかにと案じほけたる。其頃、伊勢の涼菟壤に来合はれけるを悦び、いかがして取り続けんや、御助言し給へと投げかけたり、菟夐聞きながら、外の咄して酒飲み、物言ひて笑い遊ぶ。門左衛門ひたすらにすすめて頼めるにぞ、菟何やかや雑談しながら、夢のゆめこそはかなけれとなりともやり給へと云ひしに、近松おおいに悦び、ゃがて作り入れしとなり、まことに詞情の尽きたらんに、いと佳く転じたる文体、すらすらとして行跡のいかようにも取りつけやすき、元彼決前生後の文法。涼菟は奇異の作者。
 
       明和二乙酉年八月板
 
 右は古素堂五十周忌追善之俳書、右小石川紅束自書
 
◯ 躯山姥 (五百番之内全編)頼光の逡巡引退避を以て文をなす。
 第一段。惜しむらくは敵を討つこと早し。
 第二段。姫の奥にはいるところ、散しの妙を得たり。不如此則山姥となることあたはず 第三段。美女御前以怯割愛。読髷中書而始識、其志。一哀深於一哀。
 第四段。山姥必ず奥を見まいぞといふ。是安達原の怪胎也。
 第五段。無味
 
「百合若大臣野守鏡」後世義太夫本の名に似たり
 第一段。第二段。さして評すべき事なし。
 第三段 有馬湯処、此老本色。子窺父刀使人感泣。別符殆死於浴室。忽如脱兎奇々怪々。第四段、島中事妙々。鷹化為女妙一層。母子の情態、宛然如嗜。俊寛島物語及道満。大内鑑子別等、不能出於此範囲中、
 第五段、偽盲女余波可笑。
 
「淀鯉出世滝徳」(小言そんそんたる者)
 上 巻 名 言
 ここぞうき世のだての大木戸、あけぬは銀のとがしの関、それつらつらおもんみれば
 狂 文
 大じん客衆の秋の月は、小判の雲にひかり、小伝よびましや長へんじ。おどろかすべきよはもなし。
 滑 稽
 新町橋のはしのうえ、橋弁慶が長刀のさや落年樽ごとくにて、うろうろとして立たりしが。
 下 巻 妓東殺客藤五郎之条下
「ヤアこりゃ、なんで殺さう刃物がない。帯をといてしめ殺そうか。いやゆるりとする間はあるまい、煙草でふすべ殺そうか。酔うてさきへ此方が死なう。
 評 伝
 痴態 妙々
                             以上、
昭和三年十二月発行 有朋堂書店・非売品「太田南畝集(全)」より抜粋    宮原文庫・所蔵・
参考 研究メモ
 太田蜀山人は 当時は「想うに近松は法華宗なればさもあるべし」と書いている。若き日の近松は下関で、当時日本最大であった大阪屋劇場で、劇作家修業をしたと、広くいわれているが、その大阪屋劇場を境内に持つ本行寺こそ、今もなお法華宗の寺であり、東北の法華宗などは 「隠れキリシタンの総本山」であり アニマなどのキリスト教セレモニーを、今に伝えている。

  
宮原研究メモ

 巷間には、近松は名医一抱と兄弟の間柄(参照 福井の杉森家系図。吉川弘文舘発行 河竹繁俊著「近松門左衛門」)とされ、ほかにも「上京した若き近松は、弟の医師一抱の家に寄宿して蓄髪して・・」などと、まことしやかなものがたりが、伝えられています。
しかし、
国史人名辞典をしらべると、名医岡本一抱がうまれたのは 近松門左衛門より 三十三年もあとです。
 ただ毛利家は、代々福井松平と重婚関係にあり 付き人として 萩の杉森家の一部も 福井に移転しています。
 したがって 碑文にあるように 三十三歳も年下の岡本一抱ではあるが、もし一抱が、萩から福井に移転した杉森家の子であれば 長州椙杜家の近松門左衛門と、
叔父甥の関係にある可能性まで否定する史料は まだ見つかっていません  

錦江について
 なお巷間には、「錦江は近松の妻だ」、「いや妹だ」といわれていますが 筆者がしらべたところでは、錦江は松本幸四郎の襲名披露以前の名 また、鹿児島湾が 当時は錦江湾とよばれていました    
 また近松門左衛門は、福井うまれとする福井県鯖江の近松の系図は 「近松門左衛門は京洛で 死亡した」と書かれていて 早くからそのまちがいを、大坂市大の森教授という学者により 指摘されています。
 きびしい指摘をうらづけるかのように、もと一条邸のあった尼崎市潮江の、さわやか近松、
北宮原工房TOMOの主宰、北和子研究員からの報らせによれば、近年 京洛の地てはなく ちかまつ終焉のまち「尼崎広済寺のちかまつの墓から」 ちかまつの遺骨があらわれたことは、近松の現場 尼崎の市民には、ひろくしられいています。防長の椙杜家は、はじめから一貫して「尼崎の広済寺で 近松門左衛門の本葬儀をおこなった」と終焉の記録を、公開していますが 筆者が知るかぎりでも 唐津近松寺の近松の遺髪塚、長崎市内の杉森家の庭、唐津市内の杉森という医師の家にも 「近松門左衛門の墓」と刻まれたモニュメントがあります。
 仏教には「分墓制」という追悼システムがあり、尼崎広済寺のちかまつの墓は日蓮宗信徒の近松供養の墓であり、唐津近松寺は禅宗ててであり 追善供養の意志があれば どの宗派のだれが どこに 供養のためのモニュメントを建てても良いということに なっているのではないかと 愚測します。


 
 
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