説教要旨
2001年3月11日(日)
[説教題] 仕える愛 −主イエスと弟子たち−
[聖書] ヨハネ13:1〜17
今朝は、十字架におかかりになる前の日の出来事について、弟子たちとイエス様のお
姿を見ていきます。
1.最後の晩餐の席
イエス様ご自身は、この地上の生涯に終わりがきたこと、救いの完成に向かってご自
分の時が来たことを自覚なさり、厳粛な思いでおられました。それに対して、弟子た
ちは、3年間、共なる生活をしていたにも関わらず、ことの深さを知らず、自分たち
の中でだれが一番偉いであろうかと、言い争っていました。
主は、寂しさは感じられつつも、このことが、弟子たちを愛することの妨げにはなり
ませんでした。弟子たちの卑しさも、自慢好きも、偉くなりたいという願望も理解さ
れた上で、最期まで愛し通されたのです。主の愛の深さ、恵み深きことを教えられま
す。
2.洗足
そして、主は席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、弟子たちの足を洗
いはじめられます。当時のユダヤでは、足は最も卑しい、軽んじられていた所でし
た。主賓であるイエス様が、召使いのなすような行為をなさったことに、弟子たちは
驚きます。また、その手は、それまで多くの奇跡をなしてきた、権威ある手であるこ
とをおもいます。
それは、罪にまみれた心、それを象徴する足の汚れを洗うことが、今必要であること
をお示しになったのでした。
この時、主の愛に、弟子たちの心はとかされ、自らの高慢を恥じたことでしょう。
この様に、イエス様は、栄光の御座から立ち上がって、私たち人間の中へ来て下さ
り、衣を脱ぎ捨て、自らを低くされました。手ぬぐいをとって、下僕たちの奴隷とな
られました。そして、十字架にかけられ、脇腹をさされ、そこから水と血が流されま
した。私の足を洗うため、あなたの足を洗うために、この上なく高価な血と水を流さ
れたのです。
日々の生活のうちに、私たちの足は汚れてきます。心が濁ってきます。ですから、イ
エス様の血潮によって、清められる必要があるのです。主によって洗い清められなけ
れば、神の僕ではあっても、足の汚れたクリスチャンとなってしまうのです。
3.さんびを歌った後、オリブ山へ
イエス様に足を洗われ、パンとぶどう酒をいただいた弟子たちは、さんびを歌った
後、オリブ山へ出かけていきました。
お互いに言い争いをしながら、心に憎しみを持ち、批判をしながら、主を心からさん
びする事はできませんが、イエス様に足を洗ってもらった後は、主をほめたたえつつ
進むことができます。
みなさんもこの一週間を振り返ってみて、どうだったでしょうか。対人関係、経済的
な問題、精神的な問題、様々な問題に汚れてはいなかったでしょうか。もしそうなら
ば、主の前に告白し、その足を出すことが必要です。私たちも、足を洗っていただ
き、御手で触れていただき、汚れた思い、行為、言葉が洗われた者としていただきた
いと思います。そして、主の愛を確信し、さんびの心に満たされながら、喜びと感謝
にあふれる歩みのできる一週間でありますように。