説教要旨
2001年4月1日(日)
[説教題] いっさいの事を愛をもって
[聖書] コロサイ3:12〜17
2ヶ月にわたって、イエス様の愛の態度をみてきましたが、今日はその締め
くくりとしたいと思います。
聖書に「いっさいの事を愛をもって行いなさい」また、「これらいっさいのものの
上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」とありますが、
これは、考えられる一切のことに対する私たちの態度・聖書的原則をあらわし
ています。聖書にこうある以上、その中から何か除外して良いという権利は、
クリスチャンにはありません。 それは、例えば、誰かに訓戒しようとする時、忠
告する時、訪問するとき、電話をかけるとき、何かの計画をするとき等々、考え
られる一切の事において、愛をもって臨まなくては、神様の祝福はないことを
示しています。私たちの言葉において、態度において、どうでしょうか。私たち
の一切を、愛を持って受け止めて下さったイエス様に、愛をもって答えているで
しょうか。
これまでのメッセージでみてきた、イエス様の愛のお姿を思い起こしてみて下
さい。 マルタへの愛、ザアカイへの愛、弟子たちへの愛・・・。一切の事を愛を
もってと言われたイエス様はその事を貫かれました。クリスチャンは、その聖書
的原則を自らに当てはめなくてはなりません。
しかし、この事は果たして可能でしょうか。それは、自分自身の考えや生き方
に従っていたのでは、無理です。イエス様は、新約聖書全体を通して、ご自身
に属する者に聖霊を与えて下さると、約束して下さいました。それに従うとき、
私たちは初めて、一切の事を愛をもって行うことができるのです。その時々に
何を語るべきかは、聖霊ご自身が教えて下さいますから、聖霊におゆだねして
いれば、安心して良いのです。 世の中の様々な事に対して、怒りの感情が起
こることも時にあります。聖書の中にも、イエス様が怒って神殿から商人を追い
出す出来事が出てきます。
(マタイ21:12〜17、マルコ11:11〜、ルカ19:45〜46)
けれどもたとえ、そのような怒るような事の中にあっても、イエス様がともなって
下さっている中にあるなら、その理が通るように、筋が立つように、恥をみない
ように、訴えられることがないようにと神が守って下さるのです。
これまでみてきたように、イエス様は、一切のことに愛をもって臨んで下さって
います。愛に飢えた、神なきこの世界に、ごく小さな事、気持ちの良くないこと
でも愛をもって行う人がいたら、どんなに主の栄光を現すことでしょうか。
私たちの口を通して、行動を通して、愛のあふれる者となることができるよう
に祈りましょう。