説教要旨

2001年4月15日(日)
 [説教題] 十字架上の犯罪人の救い
 [聖書] ルカ23:32〜49
「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

  イースターおめでとうございます。イースターはキリスト教界の最大の喜びの日です。
 なぜ、喜びの日なのでしょうか。それは神様が私たちのために、イエス様を十字架に
つけられることによって、罪を解決して下さって、主イエス・キリストを信じる者が、その
復活の命にあずかることができるようにしてくださったからです。これが、イエス・キリスト
の十字架と復活です。
 今日は、蘇りの主を心から感謝して、お言葉を見ていきたいと思います。

 イエス様はなぜ、十字架につけられたのでしょうか。
 外面的には、ユダヤ人の指導者たちによる妬みということは明らかです。主は、神の子
として、権威をもち、清い愛に満ちた不思議な生涯を送られました。ところが、ユダヤ人の
宗教指導者たちは、自分たちの立場がなく、既得権益を奪われると考え、イエス様を
十字架につけます。その理由は見いだせなかったのですが、人類の罪の解決のために、
主は自ら立て行かれました。
 つまり、罪に汚れ、縛られ、不幸な、そして不自由な生活を送り、やがて神の裁きを
待つばかりの人類のために、イエス・キリストが十字架をもって、救いの道を成就され
たのです。このように、十字架の本当の意味は深い所にあったのです。

 そして、イエス様が十字架にかけられた、そのさなかでさえも、同じ十字架につけら
れた犯罪人の一人が救われるのでした。それは、救われるには非常に難しい状況で
した。
 まず第1に、外面的な障害がありました。
 この犯罪人がおかれた立場は、あらゆる精神的集中を妨げる状態でした。騒々しい、
悔い改めの気持ちをもつにはふさわしくない場所であった上、十字架刑の前には、むち
打ちの刑を受けており、肉体的にも激しい痛みの中にありました。
 第2に、知識の乏しさという障害がありました。
 この犯罪人は、人から教えを受けるという状況にはなく、救いの道を一つ一つ示して
いただいた訳でもない、その知識は不十分きわまるものでした。彼の聞くことのできる
言葉といえば、兵士たちの罵詈雑言、律法学者たちのあざけりの声など、地獄へと
かきたてられるようなものではあっても、天国の道へ導くような言葉ではありませんで
した。
 第3に、罪の大きさによる障害がありました。
 十字架刑に処せられる罪とは、ありふれた罪ではありませんでした。その罪の大きさ
を思ったら、その悪行を償うことなどできないと思えるような、絶望的な状態にありました。
自らの悪行ゆえに、社会から締め出されたものでありましたが、しかし、イエス様は、
この犯罪人が到達する、永遠の世界について祝福を述べたのです。それは、主の
臨在、栄光の場所に、入れられるという約束でした。
 弟子すらも見捨てるような状態であり、激しい苦痛の中にあって、確かな導きを誰一人
与えてくれない中にありながら、神は聖霊を遣わして、この人にイエス様の人格を見抜
かせる導きをお与えになられたのです。そして、恵みを慕い求めた犯罪人に対して、
イエス様は祝福にあずかることを約束されたのでした。

 私たちも、イエス様の恵みに近づいていくために、多くの問題となるような出来事が
ありますが、しかし、そのような問題も、主が解決して、乗り越えさせて下さり、私たち
一人一人が、主との交わりに入ることができると、約束して下さっているのです。
 どうか、私たちも今日の聖言のお約束にあずかり、そして、神の言葉に信頼して
間違いはない、という経験をする事ができますように。

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