説教要旨
2001年4月22日(日)
[説教題] 希望へのスタート
[聖書] 伝道の書5:10〜6:6
どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、
聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。
ローマ15:13
今日は、先週の出来事から、「死に対する希望」ということを導かれましたので、その
ことをお話ししたいと思います。
春は、入学、入社、また結婚など、希望へのスタートの季節です。が、それもやがて
五月病や、倦怠期といったように、幻滅、失望、落胆を味わうことがあるとよく言われま
す。少し経つうちに色あせてきて、人生が意味の無いものとなってしまうようです。なぜ、
そのようなことになってしまうのでしょうか。
それは、どんなに素晴らしい希望にあふれているようでも、ゴールがはっきりしていな
いため、浮き草のような事の中に、希望を見いだしていくような生き方だからなのです。
どんなに素晴らしい会社に入っても、ゴールが分かっていなければ不安ですし、またど
んなに素晴らしい人と結婚しても、そのゴールが明確でないと、その希望は良いスタート
とは言えないのです。
逆に、少々スタートが不利でも、ゴールが確かなものなら、その人のスタートに於ける
ハンディを克服できるわけです。聖書は、そのように希望にあふれた人生を送るようにと
言っています。
では、その希望へのスタートを切ることのできる、そのゴールとは何なのでしょうか。
それは、聖書には、「完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」とあり、最期
に、イエス様に喜びをもって迎えられること、「忠実な僕よ。よくやった。」と言われること
であるとあります。
日本に於けるホスピスの創始者である、柏木先生はクリスチャンですが、こう言われ
ました。「人は生きてきたように死んでいく」と。その生き方の中に、イエス様ご自身を
目標にして生きた人は、その死ぬときにおいても素晴らしいということなのです。
聖書に「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を
得ようと務めているのである」ともあります。確かに、私たちも走っているかもしれませ
ん。しかし、その場合、果たして一生懸命走っているでしょうか。それが、ジグザグで
あったり、時に腰を下ろして休んだりというような走り方ではないでしょうか。また時に、
中間目標のものを目指して走っていることがあります。そして、中間目標を得たと思っ
たら、燃え尽き症候群のように、意味を失ってしまうこともあるのです。仕事やそのほ
か様々なことを最終目標にしてはいけません。
私たちクリスチャンにとっては、最終目標は、イエス・キリストに似ること、キリストご
自身に喜ばれる生き方をすること、なのです。この世でどんなに成果をあげたとしても、
神様の目から見れば、マイナスの評価であったりします。間違えた生き方から、真実
な生き方に変わらない限り、私たちは、死において希望は無いのです。
人の存在の目的は、神様を中心にして生き、神の言葉を行うことです。
伝道の書において、筆者のサムエルは知的な生活も、有り余るお金も、快楽も美酒
もすべてを経験した後、後半において「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、
神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と書いています。
どうか私たちも望みの神様の前に、永遠に続く望みにあずかる私たちであり、「その
働きの報いは、主の前にある」という生き方ができますように。望みの神を信じ、「走る
べき行程を走り尽くし、信仰を守りとおした。今や義の冠がわたしを待っているばかり
である」というような人生を送りたい、その恵みにあずかりたいものです。