説教要旨
2001年4月29日(日)
[説教題] 神の力であるキリスト
[聖書] Tコリント1:18〜31
「このキリストは、ユダヤ人には つまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
召された者自身にとっては…神の力、神の知恵たるキリストなのである。」
今日は、パウロがキリストの十字架、キリスト論について語った箇所、すなわち神の力である
キリストに関して語っている箇所を見ていきたいと思います。
このところには、「神の愚かさ」であるとか、「弱さ」であるとか時に奇妙な言葉といえるような
ところがあります。(Tコリント1:25)信仰が働かなければ、矛盾している言葉であるようにも
思えますが、それは、神が救いを人に与えるときに用いる方法は、人間的な面から見れば愚か
にも見える、不利にも見える手段を用いて、救いを与えようとされるということなのです。
当時、ローマを支えていた文化はギリシャ文化であり、哲学者により知の世界が開かれて
いました。現代にも名の残る多くの哲学者たちが、知恵において、人生を探求していました。
また、ユダヤ人は、東洋を代表する、宗教を代表する民族であると言われていました。その
ユダヤ人たちの宗教観というのは、熱心に神を信じている人には、しるしが与えられる、奇跡
が起こるというものでした。
しかし、パウロは、これらのことによっては、神の救いに至ることはないと宣言したのです。
ギリシャ人のような学者の知恵や、ユダヤ人のような宗教的しるしを求める生き方によっても、
人間の救いは達成されない。私たちが救われるのは、神がご自身を通して現して下さった、
神の知恵であると言えるキリストご自身である、と。
では、その神の知恵であるお方はどこに示されたかと言うと、キリスト教会が2000年来
行っている宣教、伝道ということの中に限りなくあらわされています。宣教する、伝道すると
いうこととは何か。それは、イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えることです。パウロは、
次の章において、宣教の中心とは十字架につけられたキリストを明らかにすることであると
宣言しています。(2:2)
イエス様の生涯は罪のない、きよい生涯であり、憐れみと愛のお方でした。そのイエス様の
目的は、十字架において人類の救いの道を備えること、十字架の上で身代わりの死を遂げる
ことでした。ですから、永遠の神の怒りを十字架の上で一身に受けて下さって、滅亡に落ちて
いく人の道を閉ざして、救いの道を完成して下さった、そして復活して、人類の敵である死に
打ち勝って下さったのです。また、その復活はイエス様だけに起こることではなく、イエス様を
信じて一つとされた者は、復活の栄光の命によみがえることができるのです。これが福音、
グッドニュースです。
救われていない人にとっての死は、人生の終わり、愛する者とも引き裂かれ、一切のものが
無になってしまう恐ろしい出来事です。しかし、イエス様が私たちの罪のために死んで下さった
事によって、その命にあずかっている私たちは、イエス様が初穂としてよみがえって下さった
ように私たちもよみがえりの命にあずかっているのですから、たとえ人生において、四面楚歌
のような絶体絶命状態になっても、天が開かれて御使いが遣わされるから、絶望ではない
わけです。素晴らしいですね。
この十字架と復活は、神を信じない人にとっては愚かなことに見えます。ところが、神は、
人間の知恵で人間が救われたら、人間はその知恵を誇るから、愚かに見える十字架と
復活という神の知恵をあらわされたのです。人はそれ以外の方法を求めますが、私たちの
救いの原点は十字架であり、復活であり、人はそれ以外の方法では救われないのです。
どうか、その福音にあずかっていることを喜び、お互い十字架の主を見上げて、神の知恵
たるキリストを感謝し、十字架にあることの恵を感謝しましょう。そして、神の力、神の知恵で
あるキリストを誇る者でありたいです。