説教要旨
2001年5月6日(日)
[説教題] クリスチャンの希望 −再臨−
[聖書] Tテサロニケ4:13〜18
「主ご自身が天使のかしらの声とラッパの鳴り響くうちに…、キリストにあって死んだ人々が、
まず最初によみがえり、…いつも主と共にいるであろう。」
テサロニケ人への手紙は、パウロが初めて記した書簡であり、大変素晴らしいものです。テサ
ロニケの人たちは、かつて偶像に囲まれた生活の中にありました。偶像とは、目があっても見え
ない神様、足があっても歩けない神様であり、私たちの必要を満たすことは、できません。その中
から、生けるまこと神に立ち帰って、主に仕えるようになったのです。ですから、パウロも同労者
としてテサロニケの教会の人々を賞賛していました。そのような素晴らしい教会でありましたが、
「救われていながら、すでに死んでしまったクリスチャンは、主の再臨にあずかれない」と考えたり、
働くことをやめてしまうという人があらわれるようになり、信仰から離れてしまう人もでてきたので、
パウロは、この手紙を通して、主イエス様の再臨を強調し、どういう姿勢でキリストの福音を伝える
か、再臨を待ち望むべきかを記しています。キリストの再臨を聞いて、間違った生き方をすることの
ないようにと、語っています。
クリスチャンは、人生というこの世の旅路においては、旅人であることを自覚しながら、その最終
的な希望は、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。」(Tコリント
15:55)とあるように、主の再臨であります。私たちがイエス様の御前に迎えられるその時に、全く
きよい栄光の身体をもって迎えていただく、その事の希望に輝いていなくてはなりません。そのため
にも自分の今の仕事に身を入れ、務めて落ち着いた生活をしながら、キリストにあって品位ある秩序
正しい生活をし、その日を待ち望むべきだとしています。
日々、祈りは聞かれ、一つ一つの事が実現していきますが、これは、再臨においてもいえること
です。どうか、「望みを持たない外の人々のように」ならないように。「望みを持たない外の人々」とは、
神様なき人々であり、何を食べるか、何を着るかと内に貯め込む、外を着飾る事をもって栄光とする
人たちであり、その人々の行き着くところは滅びであると聖書は語っています。(ピリピ3:19)私たち
は、主の前に望みのある生活、喜びのある生活をしたいものです。
では、再臨とはどのようなことでしょうか。
現代の多くの人は、イエス様の人格者としての歩みそのもの、つまり、道徳的、倫理的な面に
ついては価値を認めていますが、主の再臨に関しては、そうではない人が多くあります。しかし、
「主が再びおいで下さる」という再臨ということに関しての記述は、驚くべき事に、新約聖書の内
391カ所にものぼるのです。
また、イエス様はこのことを命がけで宣言されていました。ご自分はキリストであり、一度死んで
そして蘇り、天に帰って、再びもう一度この地上に臨まれると宣言した事によって、十字架刑が
決定したのです。(マルコ14:62)
再臨の様子ついては、いくつかの立場がありますが、私たちは聖書をそのままに解釈し、
見てみましょう。
まず、再臨の始め、空中再臨といわれるところですが、それは「主ご自身が天使のかしらの声と
神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(Tテサロニケ4:16)とあり
ます。そして、先に召された人たちがまずよみがえり、それから生き残っている私たちが空中で
主に会うことができると記しています。それはイエス様のお言葉「わたしはよみがえりであり、
命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、
いつまでも死なない。」(ヨハネ11:25)ということの成就です。私たちも、この地上にあるうちに
主がおいで下さり、「マラナ タ」(愛する主よ来たりませ)という信仰生活を送っているなら、
一瞬にして栄光の身体によみがえらされ、イエス様の前に出ることができるとあります。本当に
すばらしい事です。この再臨を待ち望む信仰にある人は、この世のレベルでも目が開かれており、
見るべきお方を見、信ずべきお方を信じている生き方をすることができます。主と主の教会の
ために、主に喜ばれることを喜び、天に宝をつむことのできる信仰をもちたいものです。
空中再臨ののちは、どうなるのでしょうか。地上再臨といわれ、大きな患難時代となるいわれ
ています。クリスチャンが天にあげられてしまっているので、聖霊の働きが止められ、信ずること
のできない不法の闇の時代が来るといわれています。なまぬるいクリスチャンとして地上に
残されることのない様に。
そして、そののち、キリストと共に教会が再臨し、千年の間、恵の支配をすると聖書には
しるされています。(黙示録2:28)その恵にあずかる事のできるクリスチャンとなりたいものです。
厳粛な再臨の出来事を見ていきましたが、イエス様にお出会いするときに、イエス様と歩める
ように自らをきよくすること、それが救われた私たちに対する、主の御心でありますから、地上での
歩みの間、そのことに心を砕いて生活できますように。
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と
心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところ
のない者にして下さるように。」(Tテサロニケ5:23)と、パウロも記しているように、その事に
かなうようにと祈り、聖霊の助けをいただきながら、御心にかなうようにイエス様に造りかえて
いただきつつ、信仰生活を全うしたいものです。