説教要旨

2001年5月13日(日)
 [説教題] ここに愛がある
 [聖書] Tヨハネ4章
「わたしたちは、神がわたしたちに対してもっておられる愛を知り、
かつ信じている。神は愛である。」

 このTヨハネの手紙の中には、「愛」という言葉がくり返し、くり返し出てきます。「神は愛
である」とあるように、神様が愛の神様であることは、わたしたちはよく聞いて、知っています
が、案外「知っています。」で終わってしまうことがあります。けれども、パウロやヨハネが
力説した神の愛であり、またイエス様が「よくよくあなたがたに言っておく」と言われたように、
「神は愛である」というのはすべての原点である大切なことなのです。それは、人間では
とうていはかり知ることのできないものですが、神様とはどんなお方か、聖書の中から見て
みましょう。
 まず第一に、神様は完全・善意のお方です。
 人間でさえ、親の愛があるのですから、神様ならなおさらです。聖書にヨブという人が出て
きますが、多くの不幸に見舞われながらも、神様を信じ抜きました。その信仰に対して、神様
はそのはじめよりも終わりを豊かに恵まれました。私たちが汚いとき、貧しいとき、罪人で
あった時、神様はどうだったでしょうか。聖書には「わたしたちがまだ罪人であった時、神は
わたしたちを愛して下さった。」とあります。神様は私たちのありのままを受け入れてくれる
愛なのです。人間の愛には限度がありますが、神の愛は永遠から永遠まで変わることのない
愛なのです。
 聖書に、神を信じる者に迫害を加える王の前に、「わたしのつかえる神は、まことの
神お一人」という信仰により、自分の身をも捨てて、生ける神に仕え、ついには王にも感動を
与えたシャデラク、メシャク・アベデネゴという人たちの話があります。(ダニエル3:16〜29)
それは、私たちが地上での様々な出来事は大したことでなく、生ける神様に今お仕えしている
かどうかを教えてくれています。 神様は私たちが罪人であった時から、私たちを愛して下さった、
そして、その一人子さえお与え下さった神様です。その神を「知っている」だけでなく、この3人
のように「私の神」「私の王」として、お迎えしているかどうか。お仕えしているかどうか。私たち
も永遠をみそなわして、今の生活を送らなくてはなりません。永遠の御国に行って、イエス様
と顔と顔を合わせた時、堂々と立ち上がることのできるような信仰でありたいものです。
 第2に、神様の愛は犠牲の愛です。
 神様は、ひとり子イエス様を、私たちの罪のために、十字架におかけになりました。その
目的は、「神は,そのひとり子をお与えになるほどにこの世を愛して下さった。それは、御子
を信じる者が一人も滅びないで永遠のいのちを得るためです。」と聖書にあるように、私たち
全人類の救いのためなのです。そして、事実イエス様は、十字架の上で死んで下さいました。
(ヨハネ19:35)神のひとり子という犠牲が払われるほど、そこまで愛して下さったということ
なのです。神は広い視野で永遠の目をもって、私たちの人生の一こま一こまを動かされます。
たとえ、その中に理解できないようなことがあっても、それは「後知るべし」なのです。ひとり
子を犠牲にしてまで、私たちを愛して下さる神様は、私たちに最善以外なされないのですから。
  第3に神の愛は一体の愛、キリストと一つになる愛です。
 神様は私の愛する者と一体となりたいと、そう願っておられます。(ヨハネ15:5)
 イエス様が、ご自分をぶどうの木にたとえられたお話の中で、イエス様と一緒にいて、実を
結ぶようにと、それが神様を喜ばせる麗しい状態であることを教えて下さっています。

 このように神様の愛は、私たちをありのまま受け入れて下さる愛であり、犠牲を払ってまでも
愛して下さった愛であり、そしてあなたと一体化したいと願っておられる愛なのです。このよう
な、大きな神様の愛を、私たちは日毎に確認しなくてはなりません。
 そして、心からの感謝をもって精一杯のことをしてお返しすることのできるように、神様の愛に
全幅の信頼を持って、(分かってからではなく、分からなくても)お仕えしていきたいです。
そして、良い実を結ぶキリストの枝として、生ける神の証人として用いられたいものです。

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