説教要旨

2001年5月20日(日)
 [説教題] 神の栄光があらわれるために
 [聖書] ヨハネ9:1〜23
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」

 ここに記されている人は、生まれつきの盲人でした。当時の人々は、「生まれつき」ということ
は、本人が罪を犯したと考えており、特にユダヤ人は問題、苦難、戦いなどがあるのは、すべ
て本人の罪のためであり、因果応報であると考えていました。
 信仰を持たないで、多くの苦しみ、悲しみ、不幸がおそってきたなら、その事に押しつぶされ、
「この世に神も仏もあるものか」といって、聞く耳を持たないでしょう。しかし、クリスチャンは、そ
の中に、神の力によって忍耐を見いだすことができ、キリストの良きかおりを放つ事ができます。
 三浦綾子さんというクリスチャンの作家がおられましたが、そのご主人である三浦光世さんの
インタビューのなかに、「神様は、失敗作の人間を作るほど愚かではありません。」という言葉が
あり、感銘を受けました。聖書に、私たちは神様の作品であることが記されています。(エペソ2:
10)神の声を聞き、耳を傾け、お声に従ってくる人は、神様にほめられる良い作品なのだそうで
す。神様が私たちを作られた、そして、人の使命のある限りは、それを全うして、そして主のお
迎えのときに「よくやった」と言われたいですね。
 たとえ、生まれながらの盲人であるなど、生まれながらにして戦いを持っていたり、人生の中で
不慮の事故にあったり、お先真っ暗と思われる事になったとしても、主を信じる者は、その中に生
きて行くときに、忍耐を与えられ、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を見いだすようになります。
それが信仰の世界なのです。
 また、星野富弘さんという方は、群馬県で体育の教師をしておられましたが、授業中に鉄棒か
ら落ち、脊髄を損傷、首から下が全く動かなくなってしまいました。一時は、自殺も考え、苦難の
人生を送っておられましたが、主イエス様の福音に出会われ、生きる希望を与えられ、口で絵筆
を動かし、美しい自然や詩を書いておられます。その星野さんと、三浦綾子さんとの会話です。
 三浦「苦しみにあったことは、私にとって幸せでしたと、色紙に書いてあって心を打たれました
けれども、苦難を良いものとして受け入れたら、もうこれ以上のことはないですね。」
 星野「その時、その時の苦しみはありますが、束になると、とても良いことに変わっちゃうんです。」
 星野さんのとても意味深な言葉ですが、たまに苦しみが来ると、喉元過ぎればで、忘れてしま
うことも多いのですが、それが山のようになって、束のようになって来る時、それらを通して真理
を知る、ということが起こるということなのです。
 私たちは、永遠の問題に対して、永遠の真理に目が開かれるのは、多くの場合、順境によって
ではなく、苦難によってであります。初めて考え、思い、そして悩むこともありますが、その中に
光を見いだすものなのです。聖書にも「苦しみにあったことは、わたしに良いことです。これによっ
てわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩篇119:71)とあります。苦しみの時
に、悲しみの時に、悩みの時にこそ、私たちは人生について考え、永遠の真理について考え、
自分のそれまで生きてきたことが価値があるものであったかどうかを考えるのです。
 イエス様は、ここでこの盲人に罪と苦難との関係を説明されておらず、その悩み苦しみを通し
て、あなたに神の御業が現れる、つまり神様の目的がありますよと述べています。神様の目的
は何か分かりませんが、その事を通して、神様があがめられるのですよと語られました。
 私たちが、悲しみに会うとき、災い、苦痛、失望、自らを失うような喪失の状態に陥るような
とき、私たちはもう押しつぶされてしまいます。しかし、私を愛してくれている神様がおられ、
その神様が私のこの事を通して、神様の栄光を表させようとして下さっているということを知る
ときに、この盲人だけでなく、イエス様に従っていった人たちがそうであったように、素晴らしい
働きをし、人々を驚嘆させるようなことができるのです。
  またさらに、この盲人は救い主に触れていただいて、目が開かれただけでなく、イエス様を
預言者であると告白、人生の主であることを認め、彼は主に仕えるようになります。
 私たちは、色々な問題を通してイエス様に出会い、救われます。しかし、その問題だけに留
まらないで、更に、イエス様こそ神様が遣わして下さった救い主であると信じ、そのお方が
人生の主としてお臨み下さるときに、自分の精神問題、経済問題、健康の問題、永遠の命の
問題、あらゆる問題に対しても勝利をもたらして下さる救い主、人生の主であることを知るよう
になります。
 このように、人生においてイエス様を知ることは本当に素晴らしいことであり、またたとえ悲
しみや苦しみが起こったときも、神様の栄光を表す、イエス・キリストの素晴らしさを表すもので
ありたいです。

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