説教要旨

2001年6月3日(日)
 [説教題] 教会を築き上げる祭司
 [聖書] Tペテロ2:1〜10
「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に
築き上げられ、聖なる祭司となって、…。」

 今日は、ペンテコステ、聖霊降誕日です。教会の誕生日でもあります。
聖書には、イエス様を教会の土台とし、私たちが「生ける石」となって、その上に神様が神の
家をお建てになるとあります。その恵みにあずかっていることはなんと素晴らしいことでしょう。
その建て上げられる教会が、本当に主の栄光を表す、麗しい教会でありたいものですし、また
キリストの教会ですから、世界にも通用する教会でなくてはなりません。
 私たちは、使徒信条というものを告白します。これは、ローマ・カトリック教会も、ギリシャ正
教会も、プロテスタント教会も告白するものですが、それを告白できない教会は、ものみの塔
や統一教会といった、キリストの名を使ってはいるが、教会ではないと認識されるところです。
世界中どこへ行っても、使徒信条を告白するのです。それは、キリストの十字架の犠牲、…私
たちの罪を背負って下さって、あがないの道を完成して下さった…そのことが成就したというこ
とを表明するものです。
 キリスト教は、ユダヤ教の中から生じてきたものですが、イエス様の時代のユダヤ教は形式
主義に陥ってしまっていて、立派な会堂や宗教儀礼を持ってはいるものの、それによって人が
救われる事はありませんでした。そういう中にイエス様が「おのれの民を、そのもろもろの罪か
ら救うもの…」として、クリスマスに地上においで下さいます。イエス様の生涯は、地上で栄華
をきわめることではなく、ご自身が自ら低くなって、おのれの民を、その罪から救うために、十字
架の道を歩んで下さいました。ですから、イエス様を主と信じる、そしてご自身が内に済んで下
さることが、本当の救いの道であり、祝福の道なのです。
 私たち人間は、神によって作られた者ですから、きよらかな場所を持ちたいと願っているはず
です。そのきよい場所、人間が人間としてふさわしく生きることのできる場所、その恵みを高い
次元で与えてくれるのが教会であり、聖書が語られることです。
 キリストの教会も悪魔に試みられ、堕落してしまうことがないわけではありません。しかし、そ
の原点は、イエス様の十字架です。すなわち、私たちの罪のために十字架にかかって死んで
下さって、私たちが「アバ、父よ。」と言うことのできる恵みの道を開いて下さった、そしてそれだ
けでなく、祈りを聞いて下さり、これからも「主の恵み深きことを味わい知る」ことのできる平安を
いただいている、その救いの道は完成していることを思うときに、私たちは力づけられ、そして
イエス様を土台として、それぞれが「生ける石」となって、建て上げられ、教会の品位を保つこと
ができることを思うのです。
 私たちは異教社会にあり、周りには立派な神社・仏閣があります。それらを非難する必要は
毛頭ありませんが、そのような神社・仏閣、…目があっても見えない、足があっても歩けないも
の…に頼ることがいかに空しいものであるか、知っておくべきです。
 私たちの主は、「わたしはよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生き
る」「信じる者は神の栄光をみるであろうと、あなたがたに言ったではないか」と聖書にあるよう
に、栄光の主であり、希望の主、望みの神様です。その神様のみことばの前に、幼子のように
なって従いたいものです。
 また、「聖なる祭司となって」とあるように、それは、わたしたち信徒の群が,キリストにおいて
神に直接結びつくことができ、この世に働きかけることができることを表していますが、この事は
私たちが、イエス様が本当に救って下さったという実感を証言することができるために、また私た
ちが神との個人的な交わりにおいて、自分自身を献げ、この世の仲介者とならせて下さること
のためです。これは、大変責任を伴う、厳かなことです。
 どうかこの一週間も、教会を建て上げる「生ける石」として、また「聖なる祭司」として、イエス
様に喜ばれる歩みを、言葉を、態度をとることのできるお互いであり、主の栄光をあらわす群で
ありたいと思います。

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