説教要旨

2001年6月10日(日)
 [説教題] 偉大な大祭司イエス
 [聖書] へブル12:1〜11
「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争
を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」

 今日からしばらく、ヘブル人への手紙を学んでいきたいと思います。
 この手紙の中心テーマは、「イエス・キリストの卓越性」、すなわちイエス様は素晴らしい、
優れたお方だということです。それは、「大祭司なるイエス」(3:1)という言葉で表されてい
ます。大祭司という言葉は、現代の私たちには馴染みにくいものですが、主イエス様の福音
の中心は、人間の贖罪です。人間の罪が取り除かれて、神に近づかせる事のできる業…こ
れが贖罪です。宗教というものは、神様に近づくことであり、それができるお方は大祭司キリ
ストである、というのが、この手紙のメッセージなのです。
 宛てられたのは、紀元1世紀のクリスチャンたちです。当時のクリスチャンたちは、内面から
も外面からも大きな脅威にさらされていました。外部からはローマ帝国の権力者たちからの
強い迫害にあい、また内部では、そのあまりの困難さと、はっきりとした教理の定まらない中
にあって、棄てたはずのユダヤ教に逆戻りするようなことが起こっていました。そのような状況
のクリスチャンたちに対して、この手紙は「慰めのことば」「すすめのことば」を語っています。
 それは、直面している問題にばかり気を取られて落ち込んだり、自分自身の弱さに絶望し
てしまってはいけません、ということです。悪魔は直面している問題ばかり見せます。そして、
自分自身の弱いところをついてきます。そうすると私たちは、絶望して先に進めなくなるので
す。そうではなくて、それらのことから目を離し、イエス様を見上げて、信仰の道を走りましょう
ということなのです。
 イエス様は、最高にして完全な大祭司です。つまり、イエス・キリストは真の神であり、真の
人ですから、真の意味で神と人との橋渡しを達成することができるのです。神の声を人に伝え、
臨在を示し、また、神の元へ人を導くことのできる仲保者なのです。これが、大祭司という意
味です。イエス様はあの十字架において、人類の罪を背負って死に、黄泉に下られ、けれど
も全きあがないを完成させた証拠として、3日目に死人の内よりよみがえられました。これが、
救いの道の完成であり、それは現在においても、未来においても、永遠に存在するものなの
です。
 私たちも、様々な信仰生活の中で、問題や戦いがありますが、どうかその生涯を「わたした
ちの参加すべき競争を、耐え忍んで走り」ぬくことができますように。
 では、その信仰の馳せ場を走り抜くために必要なものは、何でしょう。
 まず、第1に信仰の証人、友が必要です。11章には、たくさんの信仰の証人がでています
が、それらの人と共に過ごす必要があります。また、私たちには多くの信仰の友がいて、祈っ
てくれており、時には犠牲を払ってくれていることもあります。主がこの教会に導かれたお互い
を、慰め合い、高め合う群れでなくてはなりません。
 第2に、「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、」とあるように、重荷を背負って
走るような事をしてはいけません。経済的なこと、対人関係のこと、将来のこと、様々な重荷
があります。けれども、それらに対して、神様は私にとって最も良きことをなして下さるお方で
あることを信じて進むべきです。それは、なかなか困難であることもあります。けれども、そう
いうときにも、あらゆる問題を主の前に持ち出す時に、イエス様は懇切丁寧に、時機にかなっ
た、その人に最もふさわしいものをお言葉と共に示して下さいます。イエス様は、私たちの弱
さを思いやることのできないお方ではありません。そして、そのみ言葉を信じて進むときに「御
言には、あなたがたのたましいを救う力がある。」ことを経験することができるのです。イエス様
とのその様な関わりを持つことが必要です。ある精神科の医師は、「現代は社会全体が舞台
の様になっているため、自分自身の楽屋裏が必要である」と書いています。私たちにとって、イ
エス様との関わりは、その楽屋裏での本当に赤裸々なものでなくてはなりません。
 第3には、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、」とあるように、
いつもイエス様を仰ぎ見ることです。人間に無理な事でも、イエス様を信じる信仰、それに伴う
神の業によって解決されることがあります。イエス様も、私たちを見ていて下さり、「今もとりな
して」下さっています。真心を持って、イエス様に仕える時に、主はその何倍もの実をもって、
信仰生活を導いて下さいます。私たちの信仰が全うされるように責任を持って、私たちのため
にいつも祈って下さっている方が、いつも傍らにあるのです。
 私たちは、神様の子どもとして取り扱っていただいています。ですから、問題を乗り切り、克
服し、勝利するための試練は与えられますが、私たちの信仰の導き手であり、完成者である
イエス様が、楽屋裏まで下りてきて、導いて下さいます。それは、きよさにあずからせるため
であり、平安な義の実を結ばせて下さるためてす。たとえ、応答できないときがあっても、一つ
一つ申し上げるときに必要な知恵、お言葉、それに伴うしるしを与えて下さり、クリアしていくこ
とができるのです。
 どうか、主に喜ばれる信仰生活、イエス様と共なる信仰生活を全うし、主の栄光を表すことの
できるお互いでありたいです。

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