説教要旨

2001年6月17日(日)
 [説教題] 人生は旅
 [聖書] ヘブル11:13〜16
「はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者で
あることを、自ら言いあらわした。」

 今日は、ヘブル人への手紙11:13のお言葉を通して、みことばをとりつがせて
頂きたいと願っております。
 「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」と、芭蕉の奥の細道にも
ありますように、人生は旅であることはよく言われます。
 その人生というものを振り返ってみるときに、それはまず第一に探求の旅であること
を思います。ビリー・グラハムの「神との平和」にも「人は生まれ落ちると、永遠に向か
って旅をする旅人だ。より良きものに向かって旅をする旅人だ」とあります。
 先日も新聞に、ある91歳のおばあさんが身よりのなくなった犬を引き取った記事が
載っていました。人間はやはり年齢を問わず、新しい出会い、より良い出会いを求めて
いく旅人なのだと思わされました。また、97歳の方がITに挑戦するという記事もありま
した。私たちは、神様から命を与えられ、生きている限り、探求し続ける旅人です。人
生とは何なのか、何のために生きているのかを追求する人もいます。アウグスティヌス
は「人は神様に作られたので、その魂が神の懐に安らぐまで、本当の安らぎはない」と
語っています。私たちは、真理の探究をする、あるいは愛の世界を求めて旅をする旅人
なのです。
 また第二はさすらいの旅であることです。
 創世記4:14には、弟アベルを妬みによって殺してしまうカインの話がでてきます。妬み
には、よくいろんな理由を付けて、それを正当化してしまうのですが、このような神様から
離れて旅をする旅は、さすらいの旅であり、目的を見失ってしまっています。 「神を恐れ、
その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(伝道12:13)とあるように、神様を
中心として生きる、これが人間の本分であり、その目的を見失って生きるとき、神なき世界
のさすらいの旅はむなしいのです。さすらいの旅とは追いかけられている、不安に満ちた逃
避行の旅なのです。神を押しのけた人生の旅を続けていますと、そのうち男女の事、病気の
こと、酒、前世の事など、様々なものを切らないといけなくなる、でも自分では切ることがで
きないので、縁切り寺などというもので、切ってもらおうということになる。虚しいですね。
 そしてまた、聖書には「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)ともあります。神様
を忘れ、各々自分勝手な生活をしていくときに「神は侮られるようなかたではない。人は自
分でまいたものを、刈り取ることになる。」とあるように、その罪の結果は必ず刈り取らなく
てはならないのです。それは第2の死です。しかし、のろいの言葉で終わるのではなく、「
しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝
利を賜ったのである。」とあり(Tコリント15:56〜57)、「神の賜物は、わたしたちの主キリ
スト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)とあるように、イエス・キリストに
あって、私たちは神の御国に栄光の身体をもってよみがえることができるのです。だから私
たちは、死は終わりではない、恐怖ではなくなるのです。イエスさまの命にあずかるなら、
イエス様が死んでよみがえったように、私たちもよみがえって、主にある兄弟姉妹と、愛す
るものと相まみえることができるのです。
 また第三には浮き世の旅、ままならぬ世であることを思います。ルカによる福音書の15
章にある放蕩息子の様に、この世はままならないものです。宇宙へ次から次へと旅立つ時
代となり、素晴らしい時代に生きていますが、先日の大阪で起きた児童殺傷事件のように、
貪欲の罪の奴隷の生活、欲に引きずり回された生活の結果を見せられる時、本当に悲しく
なります。
 今まで見てきたように、探求の旅であり、さすらいの旅であり、浮き世の旅の中に於いて、
一人一人が人生経験を得て、そういう中ではダメだ、もっと絶対的なもの、永遠なもの、真理
のお方が私を救ってくれなくてはと、求めていくさなかに、私たちはイエス様の招きに出会った
のです。その様な中に神様が愛の手をもって、私たちを救って下さったというのが聖書の世界
です。詩篇40:1〜2に「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫
びを聞かれた。主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上にお
き、わたしの歩みをたしかにされた。」とあります。これは神様の招きの言葉です。
 そして、今私たちは、「神の都を目指す旅人」なのです。旧約の人たちは、この地上では永
遠の旅人であり、巡礼の旅人であり、自分の国籍は天にある事を知っていました。そして、
神様は、この信仰の父祖たちに、その都を用意されていました。
 信仰者は、神様の光を受けているので、万物が流転するこの世の中にあって、より真実な
こと、より誉れあること、より正しいこと、よりきよいこと、より愛すべき事が本当に何であるか
を、主によって知らせていただいて、見分けさせていただいて、そして天に宝を蓄えていくもの
であるのです。
 だから、旅人であり、寄留人であるのに、地上のほうがはるかにいいように、そこにがんじが
らめになるように作りすぎてはいけません。私たちの国籍は天にある、その働きの報いは主の
前にある、それが信仰者の生き方ではないでしょうか。どうか、より良きものに向かって、神の
前に富をつむ巡礼の旅人であることを、自ら言い表して、また態度で現すことができますように。
 「事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:16)ハレルヤ!
感謝します。

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