説教要旨

2001年7月22日(日)
 [説教題] キリストはモーセにまさる
 [聖書] ヘブル3章全
「そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが
告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。」

 ヘブル人への手紙の3:1から6までは、キリストはモーセに勝ることがのべられています。
旧約聖書を代表する人は、新約聖書によれば、まず、信仰の父アブラハム、律法の創始者
モーセ、そして大預言者エリヤとされています。神様は、新約において、神の最終的で完全な
啓示を、イエス・キリストを通してあたえられました。人は、神と人間との完全な橋渡しである
イエス・キリストを通して、神との交わりができるようになったことを、念を押しています。
 2節にあるように、モーセは偉大な人であり、一定期間神様の啓示を証しした証人でありま
す。神の家の忠実な奉仕者であり、神の家の一部分、神を愛し、そして信じ抜いた人ではあり
ます。その点においては間違いはありませんが、キリストは、永遠の神の御子であり、神の
啓示そのものであり、そして神の家の所有者であり、神の家の建築家であり、そして神であ
られたお方なのです。これが、ヘブル人への手紙1章でみた、キリストの卓越性です。モーセ
は、確かにイスラエルの偉大な指導者でした。モーセから信仰の知恵を与えられるところがあ
りますが、私たちが信仰を持って凝視すべきお方は、イエス・キリストただ一人です。
 どうぞ、イエス様を心の内に確認していただきたいです。その時、本当にキリストの恵みの
素晴らしさを味わうことができます。かつては、罪に汚れ、目的を持たない人生を、神の怒りの
とどまるような生活を送っていた私たちを、十字架の上で招き、ゆるし、それだけではない永遠
の命を与えようと言ってくださったイエス様です。また、世にあっては様々な戦いがあり、問題が
ありますが、その問題のただ中にあっても、世にあって勝利するその力と知恵を与えて下さる
イエス様です。モーセは、人であるから、失敗もあり、神様に背を向けて、嘆いて、祈って
ということがありますが、イエス様はそうではありません。すべてを受け入れて下さいます。
 次に7節から19節まででは、不信仰な者は安息に入れないことを語っています。だから、
不信仰にならないようにと語っています。
 それにはまず
1.心を閉ざして不従順にならないように。
 約束された神の祝福を受け継ぐためには、みことばに立つことが大切です。7節の「きょう、
み声をきいたなら」とあるのは、別の言葉で言うと、みことばを聞くということです。それが3回も
出てくるのですから、神様がみことばを聞くことの重要性を強調しているのです。み言葉を
聞くために、二つのことがあります。
 まず第1に、個人的に聞かなくてはなりません。
「わたしたちの日毎の食物をお与え下さい」(マタイ6:11)とは、私たちがクリスチャンとして
生存するために必要なすべてのことをお与え下さいという意味です。その中で最も大切なのは、
霊の糧でなのす。イエス様も、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ
一つの言で生きるものであ。」と言われたように、その糧を私たちがいただくことが必要なの
です。
 使徒行伝17:11には「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心
から教を受け入れ、果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」と
あります。私たちの信仰生活は、みことばに伴う確かなしるしをもって、現代においても、
神様は祈りを聞いて下さる、イエス様が今も臨在して下さることを経験していくわけです。その
経験がなければ、信仰は力になりません。私たちは、「心から教を受け入れ」それで終わら
ないで「果たして、そのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」これが大切で
すね。
 第2には、公の集会で語られるみ言葉を聞かなくてはなりません。そのためには、聖日を
厳守することです。
 安息に入るために次に大切なことは、
2.み言葉を信じること。
 12節には「不信仰なわるい心」とあります。単に聞くことと、信仰を持って聞くこととには
大きな違いがあります。神の言葉を信仰を持って聞き、受け止め、信じて生きていくときに、
聖霊ご自身が働いて、そこに神の業を見せて下さいます。
3.み言葉を信じて、実行すること。
 神の用意された安息に入ることができなかったのは誰か。それは、不従順な者、つまり
信仰を持って従わなかった人です。その結果、神の祝福にあずかれませんでした。ですから、
み言葉を聞いたら、従順に実行する。そして、もしその結果、違う結果が現れたとしてならば、
それは神様が責任をとって下さるのです。これが信仰の世界です。神様の前に祈って決断
していくことです。
4.互いにみ言葉を分かち合うこと。
 クリスチャンの世界では、兄弟姉妹と交わって、励まし合うことがいかに必要であるか、
クリスチャンにとって、教会がいかに重要視されているか、ここのところで分かります。神様
の考えの中には、孤独な信仰、孤独なクリスチャンはないということです。そして、励ましの
中心にあるのは、神のみことばを互いに分かち合うことです。み言葉によって、主の励まし
と慰めに満ちたみ言葉によって祈りあう、これはクリスチャンの徳です。み言葉を日々分か
ち合い、迫害の中にあっても恵みの分かち合いをしていく。これが安息に入るための祝福な
のです。

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