説教要旨
2002年3月17日(日)
[説教題] 弟子である者を不適格にする欠陥
[聖書] ルカによる福音書第6章39〜49節
悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。(43節)
世の中は、リストラのただ中で、人は生きる意味を問い直されています。私たちクリスチャンも
生きる現実を問い直し、神様に生かされていることを認識し主を仰ぎ見て走る者でありたいです。
私たちには楽屋が必要です。それは、信仰生活で言うと毎週の礼拝です。礼拝で、ありのままを出し、
自分を再点検し良い実を結ぶ者となりたいものです。礼拝で御言葉を聞き、良い実を結ぶクリスチャンこそ
主が求めている真の弟子の姿です。
良い実を結ぶために、陥りやすい欠陥を知り、それを取り除くことが大切です。
一つ目は、「兄弟の目にある(ちり)はみても、自分の目の梁はみとめない」、すなわち他人の欠点はよく
見えるのに、自分の欠点がわからない人のことです。他人を批判はしても癒すことの出来ない人は欠陥です。
二つ目は、「いばらからいちじくをとることはない」、つまり聖霊に満たされず制御できない感情のままに
かんしゃくをおこしている人です。感情に支配されていくと、キリストの弟子としての妨げになります。
三つ目は、「主よ主よと呼びながら、私の言うことを行わないのか」、土台のある家とない家では、
天気の時には変わりませんが、台風洪水のときには、土台のある家は掘り動かされず、土台のない家は
押し流されるのです。主の言葉を聞いて行う者が、岩の上に土台を立てている者です。
口先で言うだけでなく、行っているかどうかが大切です。
目、感情、、意志の三つに留意し、真の弟子として信仰生活を歩みましょう。