※満年齢 |
お袋は満33歳と記入していますが、1912(大正元)年12月30日生まれですので。
1945(昭和20)年8月6日にはまだ32歳で、その年12月30日に満33歳をむかえています。昨日(2012年12月30日)満百歳をむかえました。 |
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せいぶそうぐん・しれいぶ
西部總軍司令部
(爆心地から≒1800m) |
1945(昭和20)年4月大本営は本土決戦体制として東日本の要として東京に第一総軍司令部、西日本の要として広島の(当時機能していなかった騎兵第五連隊内)二葉の里に第二総軍司令部の設置をきめ、大阪以西の陸軍・海軍を統括したそうです。
関連頁:騎兵第五連隊跡 |
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平和記念資料館平成23年度企画展「基町」での展示パネルを12.08.01撮影 |
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けんどうのしあいのじゅんび
剣道の試合の準備 |
(当日ある)剣道大会の表彰状、一等、二等と書いていたそうです。(お袋に直接聞いていました) |
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ときわばし
常盤橋
(爆心地より≒1550m) |
牛田の人はたいてい常盤橋と書きますが(一応正式には)常葉橋のことです。
関連頁:常盤橋 |
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れんぺいじょう
練兵場 |
=東練兵場(ここではひがしれんぺいじょうのことです、広島城の南側に西練兵場もありました)
1890(明治23)年に陸軍第五師団によって開設された東練兵場は、騎兵大隊が駐屯しました。その後1894(明治27)年に鉄道がひかれ練兵場の前に廣島驛(広島駅)ができました。
関連頁:関連位置圖
*練兵(兵隊を訓練すること)をする所。れんぺいば |
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くれのかいぐん
呉の海軍 |
1889(明治22)年呉に海軍鎮守府が設置されました。(1945年11月廃止)
呉の海兵団派遣の医療救護班かなと思いますが、わたしにははっきりわかりません |
えいせいへい
衛生兵 |
医療に関わる一般的な業務を任務とする。戦闘での負傷兵への応急医療だけでなく、後方での傷病兵の看護及び治療、部隊の衛生状態の維持を担当する。 |
へさかのしゅうようしょ
戸坂の収容所 |
戸坂国民学校にあった広島第一陸軍病院戸坂分院で医療救護に当たったそうです。
死亡者は約600人であったが、軍民の区別なく軍の衛生兵と警防団が協力して軍用トラックで火葬場に運び一度に30人くらいの遺体を二段にならべて供出用の松根の残りと各部落から供出した割木で荼毘にふしたそうです。
関連頁:戸坂供養塔 |
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オオバコ
大葉子 |
オオバコの成熟種子、花期の全草を乾燥したものを、それぞれ車前子(しゃぜんし)、車前草といい日本薬局方に収録された生薬で、和漢三才図會に芸州広島産の車前子がいいとされているそうですから昔からの知恵だったのでしょう。
葉だけを乾燥させたものを車前葉(しゃぜんよう)といいこれらはともに消炎、利尿、止瀉作用などがあるそうです。
関連頁:(平和記念公園で見た)オオバコ |
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銀粉のようなの |
お袋は、原爆投下時に銀粉のようなものが落ちてきたと書いていますが、兄(4歳であった次男)の話では、原爆投下時ではなく、その前(前日かその前であったか覚えていないそうですが)であったように思うそうです。
米軍は細長いアルミ箔を大量に投下して、レーダー探知を妨害したそうで、(日本軍のレーダー探知能力を過大評価していた米軍は)細長いアルミ箔を大量に投下することがあったそうです。
その細長いアルミ箔を兄は拾った記憶があるそうです。(通夜の時に兄にはじめて聞きました) |
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14.11.28追記 |
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叔母さん |
原爆のあと、母、兄貴(学童疎開から帰った長男)、(二男の)兄貴の三人が志和(現在:東広島市志和)の叔母さんのところに疎開をしていた時のことだろうとのことです。[二男の話]
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(わたしはお袋がお尻に怪我をして、3ヶ月も膿んでいた事をこの手記を読むまで知りませんでした。) |
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先日帰省した、わたしの息子におばあちゃんの被爆体験記があり内容はこれこれしかじかだと話した時、子どもの頃、お尻の怪我の件、原爆が落ちた時空から銀粉のようなのが降って来た件を聞いた事があると・・・ |
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07.04.24追記 |
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うしたのいえ
牛田の家 |
「池と松ノ木の間に小さな防空壕を掘ってつくり、その中に高下のおばあさんと兄貴(二男)の二人で逃げ込んでいた。
空襲警報が解除になったので、壕のそばのイチジクをおばあさんに取ってもらおうとしたときに原爆が爆発をして、おばあさんの後頭部の髪の毛が焼けたということや
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家はメチャメチャというのは、縁側のガラス戸は全部外に吹き飛び、ガラスは粉々で、畳の床も全部下に落ち、床の間側の壁も床柱も傾き、屋根瓦は全部下に落ちて壊れ、屋根を修復しても、半分しか葺けず焼け跡の瓦を拾ってきて葺いたそうです。」
(家にいて被爆した兄貴も幼時だったので聞いた話としてですが)二男の話です。 |
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わたしは戦後この家で生まれました。
関連頁:牛田供養塔 |
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おじさんの家族の事 |
おじさん(お袋のお姉さんのご主人)が昭和20(1945)年に書残した原爆記 (八束要:著)に詳しく書いてあります。 |
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