被爆体験
ますだ
増田 シズヨ
  2007年になって、(わたしは)じき上の兄(二男)に「お母さんの手記が原爆平和祈念館に収めてある」とはじめて聞いたのです。お袋が原爆について書いたものがあったのかと、わたしは全く知りませんでした。
90歳を過ぎても元気でいるから、いつでも被爆体験について聞く事が出来るとたかをくくっていたのかもしれないと云っていましたが、(実は正面から自分を見つめられず)、詳しく聞く事が恐ろしかったのでしょう。それは原爆によってお袋が受けた肉体的損傷が、わたしの身体の中に受継がれているだろうと恐ろしかったのでしょう。
現在病気から息子のわたしがわからないという状態になってしまいました。お袋の被爆体験を聞く事もなかった情けない息子であるとの想いが強いのです。
2007(平成19)年4月9日国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の体験記閲覧室へ直行しました。
体験記閲覧室におられた係りのKさんに「増田裕と云いますがお袋・増田シズヨの手記があると聞いて来たのです」と用件を話しました。
タッチパネル式の検索装置で、検索してくださり、体験記集を持ってきてくださりました。みると1995(平成7)年がみえました被爆50年なので、尋ねると、厚生省が被爆実態調査(平成7年11月1日 水 現在、原子爆弾被害者実態調査)をした時にお袋が記入し手記を提出した事がわかりました。
Kさんが、お袋の体験記が掲載してある『被爆体験記集(被爆地別 都道府県別 五十音別) 広島被爆 第100巻』の322ページを開いてくださりました、またもう一つ増田シズヨの体験記が掲載されているという『牛田小学校120周年記念事業・学童疎開』も持ってきて頂きました。それには兄貴(長男)の学童疎開の記述がありましたが、被爆体験の部分は下記のものとほぼ同じでした、それから、おじさん(お袋のお姉さんのご主人)の家族の事※にも簡単に触れていました。
爆心地から約1,800mの処で被爆したお袋が、生きていてくれたことで、わたしは戦後この世に生を受けました。
いつまでも生きているとは思っていませんでしたが、2014(平成26)年11月24日8時22分永眠、老衰・自然死でした。お袋が残したアルバムをみて、如何にお袋の事を知らなかったことかと、不肖の息子ですが悲しんでいます。
14.11.28更新   07.04.11増田 裕・記編集
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被爆体験について
被爆地(広島)  性別(女)  被爆時の年齢(満33歳※)
ふりがな ます だ
氏 名 増田 シズヨ
私は当時西部總軍司令部に勤めていました。
家族は両親と私と長男(小学四年生)二男4才、(5人家族でした)
主人はビルマ(今のミャンマー)に出征していました。
8月6日午前8時15分(人の運の不思議を感じるのは)
いつもは朝の体操の時間で兵舎の庭で皆さんと共に
体操をするのですが、当日は剣道の試合の為に準備をしなけ
ればならず一階の部屋で用事をしていたのです。
窓外に大きな赤い火の玉を見ました、三階建の兵舎が落ちて来ました。
目がくらんだのか真っ暗でなにも見えません。(救けて)と叫び
ましたが声はしません。しばらくするとはるか向うに朝日の光が
見えました。落ちて来たものをかき分けかき分け、血だらけになって
明かりのほうへと出ていきました。
二階に居られた参謀の方たちは大きな梁に挟まれて(救けてくれ
救けてくれと叫んでおられましたが、女の力ではどうすることも
できません、もう一発落ちたら大変。せっかく助かったのだからと

二葉山の方に逃げました。
大須賀の方の民家から火の手があがって30分もない間に
兵舎は焼けました。
常盤橋を渡って被爆者がどんどんどんどん逃げてきました。
真っ裸みたいでした、体全体焼けただれていました。
(水、ください)(水ください)と言われました。広い練兵場には水は
一滴もありません。つぎつぎに倒れて亡くなられました。
呉の海軍から衛生兵が救助に来てくれました。テントを張ってもらいました。
總軍の生き残りはテントの中に入りました。
窓際にいた者などは衣服の上からガラスが刺さって怪我をしており
ました。戸坂の収容所に運ばれました。田舎からトラックで炊き
出しに来てくださっておにぎりをひとつ頂いて食べることが出来ました。
(新型爆彈)だと聞きました。私はお尻に傷ができて、うんで膿が
どんどんでてきましたが薬はありません。叔母がオオバコの葉を
塩でもんで貼っておくように言ってくれました。3ヶ月かかって治りました。
原爆が落ちた時は空から銀粉のようなのが降って来ました。あとで
考えると核の灰だったのです。(私の膿は核の毒が出てくれたと思います)
牛田の家は焼けてはいなかったのですが、メチャメチャに壊れていました。
主人は運良く昭和21年11月に復員して来ました。しかし(マラリヤと
栄養失調で長い間苦しみました。今は死去しています。
二度と戦爭を始めたらいけません。平和を祈りながら。
増田シズヨ

1928年ころ

2013年12月30日撮影
卒業アルバムより 次男、長男、母 101歳誕生日の時
1912(大正元)年(月)12月30日(高下清一の二女として)誕生。
1928(昭和3)年3月山中高等女學校(第四十回)卒業。
1935(昭和10)年10月11日婚姻届提出。
1945(昭和20)年8月6日(月)二葉の里にあった第二総軍司令部で被爆。
2014(平成26)年11月24日(月)8時22分特別養護老人ホームで(老衰)自然死でした。享年101歳。
〔 語句の解説 〕 12.12.31.追記   07.04.11裕・編集
※満年齢 お袋は満33歳と記入していますが、1912(大正元)年12月30日生まれですので。
1945(昭和20)年8月6日にはまだ32歳で、その年12月30日に満33歳をむかえています。昨日(2012年12月30日)満百歳をむかえました。
せいぶそうぐん・しれいぶ
西部總軍司令部

(爆心地から≒1800m)
1945(昭和20)年4月大本営は本土決戦体制として東日本の要として東京に第一総軍司令部、西日本の要として広島の(当時機能していなかった騎兵第五連隊内)二葉の里に第二総軍司令部の設置をきめ、大阪以西の陸軍・海軍を統括したそうです。
  関連頁:騎兵第五連隊跡

平和記念資料館平成23年度企画展「基町」での展示パネルを12.08.01撮影
けんどうのしあいのじゅんび
剣道の試合の準備
(当日ある)剣道大会の表彰状、一等、二等と書いていたそうです。(お袋に直接聞いていました)
ときわばし
常盤橋

(爆心地より≒1550m)
牛田の人はたいてい常盤橋と書きますが(一応正式には)常葉橋のことです。
  関連頁:常盤橋
れんぺいじょう
練兵場
=東練兵場(ここではひがしれんぺいじょうのことです、広島城の南側に西練兵場もありました)
1890(明治23)年に陸軍第五師団によって開設された東練兵場は、騎兵大隊が駐屯しました。その後1894(明治27)年に鉄道がひかれ練兵場の前に廣島驛(広島駅)ができました。

  関連頁:関連位置圖
 *練兵(兵隊を訓練すること)をする所。れんぺいば
くれのかいぐん
呉の海軍
1889(明治22)年呉に海軍鎮守府が設置されました。(1945年11月廃止)
呉の海兵団派遣の医療救護班かなと思いますが、わたしにははっきりわかりません
えいせいへい
衛生兵
医療に関わる一般的な業務を任務とする。戦闘での負傷兵への応急医療だけでなく、後方での傷病兵の看護及び治療、部隊の衛生状態の維持を担当する。
へさかのしゅうようしょ
戸坂の収容所
戸坂国民学校にあった広島第一陸軍病院戸坂分院で医療救護に当たったそうです。
死亡者は約600人であったが、軍民の区別なく軍の衛生兵と警防団が協力して軍用トラックで火葬場に運び一度に30人くらいの遺体を二段にならべて供出用の松根の残りと各部落から供出した割木で荼毘にふしたそうです。
  関連頁:戸坂供養塔
オオバコ
大葉子
オオバコの成熟種子、花期の全草を乾燥したものを、それぞれ車前子(しゃぜんし)、車前草といい日本薬局方に収録された生薬で、和漢三才図會に芸州広島産の車前子がいいとされているそうですから昔からの知恵だったのでしょう。
葉だけを乾燥させたものを車前葉(しゃぜんよう)といいこれらはともに消炎、利尿、止瀉作用などがあるそうです。

  関連頁:(平和記念公園で見た)オオバコ
銀粉のようなの お袋は、原爆投下時に銀粉のようなものが落ちてきたと書いていますが、兄(4歳であった次男)の話では、原爆投下時ではなく、その前(前日かその前であったか覚えていないそうですが)であったように思うそうです。
米軍は細長いアルミ箔を大量に投下して、レーダー探知を妨害したそうで、(日本軍のレーダー探知能力を過大評価していた米軍は)細長いアルミ箔を大量に投下することがあったそうです。
その細長いアルミ箔を兄は拾った記憶があるそうです。(通夜の時に兄にはじめて聞きました)
14.11.28追記
叔母さん 原爆のあと、母、兄貴(学童疎開から帰った長男)、(二男の)兄貴の三人が志和(現在:東広島市志和)の叔母さんのところに疎開をしていた時のことだろうとのことです。[二男の話]
(わたしはお袋がお尻に怪我をして、3ヶ月も膿んでいた事をこの手記を読むまで知りませんでした。)
先日帰省した、わたしの息子におばあちゃんの被爆体験記があり内容はこれこれしかじかだと話した時、子どもの頃、お尻の怪我の件、原爆が落ちた時空から銀粉のようなのが降って来た件を聞いた事があると・・・
07.04.24追記
うしたのいえ
牛田の家
「池と松ノ木の間に小さな防空壕を掘ってつくり、その中に高下のおばあさんと兄貴(二男)の二人で逃げ込んでいた。
空襲警報が解除になったので、壕のそばのイチジクをおばあさんに取ってもらおうとしたときに原爆が爆発をして、おばあさんの後頭部の髪の毛が焼けたということや
家はメチャメチャというのは、縁側のガラス戸は全部外に吹き飛び、ガラスは粉々で、畳の床も全部下に落ち、床の間側の壁も床柱も傾き、屋根瓦は全部下に落ちて壊れ、屋根を修復しても、半分しか葺けず焼け跡の瓦を拾ってきて葺いたそうです。」
(家にいて被爆した兄貴も幼時だったので聞いた話としてですが)二男の話です。
わたしは戦後この家で生まれました。
  関連頁:牛田供養塔
おじさんの家族の事 おじさん(お袋のお姉さんのご主人)が昭和20(1945)年に書残した原爆記 (八束要:著)に詳しく書いてあります。



お袋の被爆体験記など全体 広島ぶらり散歩