★原爆投下まで
昭和20年になって、戦局は一段と厳しい局面になっていた。
広島は軍都と言はれていたので、やがて大空襲があるのではと危惧する人が多かったが、何故か近くの海軍基地呉に比べると格段に空襲が少なかった。そんな中で、今でも私の記憶に強く残っているのは、3月中旬にあったグラマンの襲撃であった。当日は偶々中学の入学試験の発表だったので、恐ろしいグラマンの機銃掃射の合間をぬって、あちこちで避難をしながら胸をどきどきさせて中学校へ向かったものだった。運良く憧れの学校に入学を果たし、4月から希望に胸をふくらませて張り切って登校した。時局柄勉強一筋と言う訳にはいかなかったが、日夜の空襲(多くは警報のみだったが)の合間をぬって、又度々の作業奉仕もいとわず、寸暇を惜しんでの勉学の日々だった。
空襲が少なかった広島だが、4月末頃学校附近に数発の爆撃を受けた事があった。その時校舎の一部が壊れ、直径数メ−トル程の大きな穴が出来て、爆風で周囲の窓ガラスが吹き飛ばされた。私の教室も窓ガラスが壊れ、枠ごと取り外された。幸い登校前の爆撃だったので、その時は生徒に被害はなかった。
真夏になっても夏休み返上で誰もが頑張っていた。
当時広島では空襲に備えて、街のあちこちで建物疎開が急ピッチですすめられていた。
|
|