空と文字(MOUNTAIN)

私の被爆体験と平和への思い


タイトル  原爆投下まで
タイトル  8月6日
原爆ド−ムと原 民喜の詩碑の写真 爆心から900mで被爆・校舎から這い出たが・
嘔吐に苦しんだ・派出所で休む・外で夜を明かす
タイトル  8月7日
病院へ行ったが・タカノ橋から自宅へ・
焼けくすぶる鉄橋・母の里へ
タイトル  闘病
脱毛に驚く・ケロイドが残った
タイトル  翌年から
復学できたが・またダウン
タイトル  後障害
ABCCの検診・原爆白内障・
昭和30年の原爆症第一号・20年もたって白血病
原爆 ド−ム と原民喜の詩碑   タイトル  アンケ−ト調査
  生徒の被爆実態・驚くべき被害
タイトル  続・後障害
カ−プ初優勝のかげで・いつまで続くか後障害
タイトル  核のない世界の平和を

★原爆投下まで
昭和20年になって、戦局は一段と厳しい局面になっていた。
広島は軍都と言はれていたので、やがて大空襲があるのではと危惧する人が多かったが、何故か近くの海軍基地呉に比べると格段に空襲が少なかった。そんな中で、今でも私の記憶に強く残っているのは、3月中旬にあったグラマンの襲撃であった。当日は偶々中学の入学試験の発表だったので、恐ろしいグラマンの機銃掃射の合間をぬって、あちこちで避難をしながら胸をどきどきさせて中学校へ向かったものだった。運良く憧れの学校に入学を果たし、4月から希望に胸をふくらませて張り切って登校した。時局柄勉強一筋と言う訳にはいかなかったが、日夜の空襲(多くは警報のみだったが)の合間をぬって、又度々の作業奉仕もいとわず、寸暇を惜しんでの勉学の日々だった。
空襲が少なかった広島だが、4月末頃学校附近に数発の爆撃を受けた事があった。その時校舎の一部が壊れ、直径数メ−トル程の大きな穴が出来て、爆風で周囲の窓ガラスが吹き飛ばされた。私の教室も窓ガラスが壊れ、枠ごと取り外された。幸い登校前の爆撃だったので、その時は生徒に被害はなかった。
真夏になっても夏休み返上で誰もが頑張っていた。
当時広島では空襲に備えて、街のあちこちで建物疎開が急ピッチですすめられていた。

★8月6日
     爆心から900mで被爆
運命の8月6日私共一中一年生も、学校(爆心から900m地点)附近の建物疎開現場で作業に従事する事になっていた。
その朝私はいつもより早く午前6時頃には登校し、当番に当たっていた学校の音楽室の清掃をすませた。
当番をすませたあと、1年生全員が東校庭に集合し、朝の点呼を受けた。
そして1年生6クラスの半分、即ち11・13・15学級がまず作業に出ることになり、残りのクラスが教室待機となった。
私は11学級だったが、偶々お腹具合を悪くしていたので、作業は休ませて貰い教室にいた。
教室には後述のN君もいて自習をしていた。
8時をまわった頃、B29の爆音が聞こえ始めた。この日は登校後間もなく警戒警報が発令されたが、しばらくして解除され、この時点では何の警報も出ていなかった。
爆音が大きくなるにつれ隣の12学級が騒がしくなり、幾人かが中庭に出ている様子だった。
私も出てみようかと、廊下の方へ向かいかけた。その瞬間だった。目の前をものすごい閃光がはしった。と同時に何も判らなくなった。
どのくらい経ったか、校舎の下敷きになって机と机の間に挟まっている自分に気が付いた。真っ暗闇だった。気が付いた時、思わず"直撃を受けたか、何とついていないな"と思った。
N君の声がかすかに聞こえた。壁土の様な臭いが鼻をついた。額や肩がチリチリ痛み、腰のあたりが押さえつけられていた。やがて目の前のあたりがかすかに明るく見えてきた。痛みに耐えながら、明かりの方へ体をよじらせて手足を動かしている内、どうにか外へ這い出ることが出来た。





























     校舎から這い出たが
あたりは未だ暗く、何が何だか判らなかった。
空を見上げると、太陽が大きな満月の様にみえた。以前見たSF映画の、地球が大きな星と衝突して滅亡するシ−ンを思い出して、天体に異変が起こったのかとさえ思った。
しばらくして教室のすぐ傍に植わっていた大きな樹が暗闇の中でぼんやりと見えてきた。垂れ下がってゆれている枝が幽霊の手のように見えて恐ろしかった。
あたりを見回したが、目の前の樹以外はよく見えず、不気味な静寂だった。
そうしている内に、あちこちに小さな火が見えてきた。壊れた校舎の下からは、うめき声や、かすかな叫び声が聞こえてきた。
段々辺りの情況が見え始め、壊れた校舎と校舎の間に出たら、そこには脱出した生徒が数人、軍刀を杖にした将校さん(学校の傍で小隊を引率中被爆したらしい)を囲んでいた。夫々怪我をしている様だった。とくに将校さんは、片方の足の先が骨が見えるほどに肉がちぎれていた。その人の指示で皆は東校庭の方へ向かった。
そこには作業に出ていて屋外で被爆した大勢の生徒や女学生が、泣きわめき、叫び声をあげながら当てもなく歩いていた。
誰もが一様に、身につけていた着物がちぎれ、顔は薄黒く腫れ、目がつぶれ、両手の先には破れた皮膚が垂れ下っていた。そして男子の頭は、かぶっていた帽子のかげの部分を残し、髪の毛が剃り落とされた様に見えた。女子の髪は灰色に汚れ、乱れ、一部は前に垂れ下がっていた。とてもこの世のものとは思えない情景だった。顔や姿を見ただけでは、誰が誰だかはっきりせず、親友でさえも声を聞いてはじめて判る程だった。
将校さんは重傷のため、自力では動けなくなっていたが、気丈に周囲の者に指示をしていた。
校庭横のプ−ル入り口の石段に、作業の引率中だった担任のMO先生が、変わり果てた姿で蹲っておられ、水をくれ、水をくれ、と苦しそうにうめいて居られた。
しかし"水をやってはだめ"と将校さんに止められて、先生の訴えに報いることが出来ず、申し訳ない思いをした。
あちこちに上がった火の手が段々近づいて来た。
脱出のために周辺の状況判断をしようと、将校さんの指示で南校庭の方へ偵察に向かった。
あたりはまだ薄暗く、沢山の人たちが行く手に横たわっていた。顔が薄黒く腫れ、虫の息で苦しんでいる人、既に息絶えて体に当たっても何の反応もない人、うめき声をあげ"水を水を"としきりに訴えている人等幾人もを踏み越えた。
平時ならとても想像もつかない、異常な心理状態だった。
元の所まで引き返した時には、もう将校さんには応答する元気はなかった。周りにいた者も居なくなっていた。火の手が更に迫ってきた。
熱気を避けプ−ルに入ろうかと思ったが、既にプ−ルの中は水を求める者、大やけどの者、息も絶え絶えの者などで埋まっていた。

















































     嘔吐に苦しんだ
被爆当時の広島市の地図これは、もうここから脱出するしかないと、意を決して、一人で倒壊したお寺や民家を乗り越えて、東側のどぶ川へ出た。そして、そこから川に沿って文理大(現広島大学本部跡)の裏を通って南へ向かった。文理大は窓から盛んに炎を吹き上げていた。
その頃から猛烈な吐き気が襲ってきた。幾度も蹲って吐きながら、よろけよろけ南へ進んだ。そしてやっと、御幸橋のたもとまでたどり着いた。
御幸橋西詰めの警察派出所の前で、救護活動が行われていた。逃げてきた負傷者が順次処置を受けていた。殆どが熱傷のようで、油ぐすりを塗ってもらい、処置を受けたものは、次々にトラックに乗せられ宇品方面へ向け運ばれていた。
私も額や肩のあたりに熱傷を受けていたので、処置を受けようと並んでみたが、油ぐすりのにおいで吐き気が一段と強くなった。止むを得ず諦めてそこを離れた。近くの空き地の木陰で嘔吐を繰り返した。
その時はお腹をこわしていたために吐くのかと思っていたが、後になって放射能のせいだったと知った。そしてこの嘔吐が、体内に入っていた放射能を減らす働きをしたようだった。これも私の命をつないだ鍵の一つだったのかと、妙な感慨をもった。








































     派出所で休む
  御幸橋西詰め     
    派出所前    
      
     (松重氏撮影)
御幸橋西詰め派出所前での救護活動の写真
木陰で休んでいる内、大分気分が落ち着いてきたので先程の御幸橋西詰めまでもどった。
しかしそこでの救護活動も、トラックによる移送作業ももう終わっていた。
仕方がないので、そこの派出所の中で休ませてもらうことにした。奥に入ると脚が壊れて傾いたテ−ブルがあった。それをベット代わりにして横になった。川風が心地よかった。いつか寝入っていた。
人の話し声で目が覚めたら、もう夕方の気配だった。
"どこにも爆撃された穴がない、どうも新しい爆弾が落とされたらしい"との会話が聞こえた。
そう言えば、最初に直撃を受けたと思った学校でも、逃げる途中でも、爆撃の跡らしいものはなかった。"新兵器かな"と思った。
大分気分が落ち着き、少し涼しくなったので、暗くならないうちに天満町の自宅へ帰ろうと思った。
電車道にそってタカノ橋の方へ向かった。道路に面した家々は倒壊し、ものすごい勢いで燃えていた。道路に倒れて燃え燻っている電柱や落下した架線が行く手を阻んでいた。
500メ−トルも行かない内に、とても進めないと思った。
これからどうしようかと迷っている時、若い女の人に出会った。聞けば、その人は白神神社近くの自宅へ帰ろうとしたが、とても無理なので、一旦安全な所で夜を明かすつもりとのことだった。






























     外で夜を明かす
その人の助言と手助けで、又御幸橋の方へ戻ることにした。
辿り着いた救護所では、私の様子をみて丁重に扱ってくれ、早速近くの広場の臨時避難所へ案内された。そこでは炭俵を解いて作った即製のゴザを草むらに敷いてくれ、その上に寝かせて貰った。そして乾パンを支給されたが、まだ口にする元気はなかった。堅いゴザに横たわるとキズがずきずき痛んだ。
夜空を見上げると、炎で赤く染まった黒雲が、むくむくと次から次へ沸き上がり、何かが爆発する様な地鳴り音が度々響いて、一晩中まんじりともしなかった。











★8月7日
     病院へ行ったが
空が白むのを待ちきれずに、彼女の手助けで宇品の陸軍共済病院(現県立広島病院)へ向かった。少し遠回りになるが、病院に寄って傷の手当てを受けるつもりだった。
歩きながら裸足のままの自分に気が付いた。脱出時かそれとも逃げる途中か、気が付かない内に履いていたズックが脱げたらしい。
病院へ行く途中で、道路沿いの半壊の家の玄関口にあった下駄を、心の中で手を合わせて拝借した。
早朝の病院は、すでに入り口に通じる路上に累々と屍体が横たわっていた。いずれも、顔も手足も胴も丸々と腫れ上がり、目がつぶれていた。
玄関のまわりも同様で、すでに息絶えた人、虫の息の人、うめいている人などであふれていた。
私の傷程度では、とても診てもらえそうにないと思い、早々に引き返すことにした。
















     タカノ橋から自宅へ
再び電車道に沿ってタカノ橋まで行った。
同行していた女の人は、そこから白神神社辺りの彼女の家まで行ってみるとのことで、別れることにした。それまでのお礼を言ったが少々心細かった。
タカノ橋の道端でしばらくの間体を休めていたが、その間に先日まで11学級の担任でその時は舎監になっておられたNA先生や、小学校から一緒だったF君の家族に出会った。
皆私が生きているのを見てびっくりされた。F君は12学級だったが、結局消息不明のままだったそうで、気の毒だった。
タカノ橋からは、一人で焼け跡の街を我が家のある天満町まで西に向かった。
途中空襲警報が鳴り、B29が一機上空に飛来した。前日の恐怖がよみがえり、更に焼け野原で逃げ隠れする場所もなく、身体をがたがた震わせながらB29が飛び去るのを待った。
やっと天満町まで辿り着いたが、家は跡形もなく焼けつくし、もう何も残っていなかった。焼け跡の庭にあった見覚えのある手水鉢で、ここが我が家かと思ったが、家族の消息の手掛かりは何もなかった。




















     焼けくすぶる鉄橋
こうなれば、母の里(佐伯郡平良村)へ行くしかないと、又重い足を引き摺って己斐(こい)の方へ向かった。己斐の町の手前で電車の鉄橋を渡らなければならなかった。鉄橋の枕木はまだちょろちょろと燃えくすぶっていた。その枕木の上を、すくむ足を手でかばいながら、踏みかえ踏みかえ、やっとの思いで渡りきった。
己斐のあたり迄来ると、半壊のままの家屋が多かった。
燃え燻っていて怖かった橋もどうにか渡りきり、早朝からの疲れを癒そうと道端でくつろいでいる内、いつか寝入ってしまった。
どのくらい眠ったか、肩をたたかれて目が覚めた。どこへ行くのかと聞かれ平良と答えたら、大竹へ向かうトラックがあるからと乗せてもらった。
行ける所まで歩こうと覚悟を決めていたので嬉しかった。荷台に乗せてもらい、オニギリを渡された。昨日から何も食べていなかったが、まだむかむかが残っており、折角の好意だったが口にする気にならなかった。


















     母の里へ
トラックは宮島街道を走り廿日市で降ろしてもらった。そこから宮島線の廿日市駅まで歩いた。駅は救護所になっていた。そこで偶然知り合いに出会った。その人に新藤歯科(父が以前勤めていた歯科)に案内された。そこではじめてタタミの上で寛ぐことができた。夕方までゆっくり休ませてもらい、 "大分涼しくなったから、これで精をつけて行きなさい"と、生卵をご馳走になった。この時はじめて胃が気持ち良く受けつけてくれた。世の中にこんなにおいしいものがあるのかと思った程だった。
それで元気をつけて薄暗くなった田舎道を母の里へ向かった。大分暗くなって、やっと上平良の母の里へ辿りついた。













★闘  病
     脱毛に驚く
玄関に立った私をみて、出迎えた伯母は、大層びっくりした様子で、"まあ!よう生きて帰って来きたね"と、大声で母を呼んだ。天満町の自宅で被爆した母は、前の晩の内に、やっとこの家に逃げ帰っていたのだった。
すぐに床に寝かせてもらった。気が緩んだためか、頭がぼ−として、体中の力が抜け、それきり動けなくなった。
その晩から熱が上がり、髪の毛が抜けはじめた。母が枕についた髪の毛の多さに気付き、驚いて頭にさわったら、手が触れた部分が、ごっそり抜け落ちた。丸坊主になるのに時間はかからなかった。
それからつらい闘病がはじまった。
8月14日に岩国地区の大空襲があった。B29の大編隊が上空を通った。皆は家の裏手にある防空壕に避難したが、私は床から離れることが出来ず、家の中にただ一人とり残され大層心細かった。
8月15日の終戦の詔勅も、床に臥したまま聞かざるを得なかった。聴きとりにくい上、体がだるく、頭がぼ−としていて、何やら意味が判らなかった。日本が負けたらしいと教えられたが、不思議なほど感慨がわかなかった。





















     ケロイドが残った
あの時私は校舎の下敷きになると同時に額や肩に熱傷を受けていた。教室の窓際にいた為らしい。ただ4月末の爆撃で教室の窓ガラスがはずされていたのが幸いして、ガラス傷は受けずにすんだ。
熱傷の治療には、歯科医だった父が空襲に備えて別に保管していた薬が役に立ち、当時としては幾分まともな傷の手当てを受ける事が出来た。それでも体力の消耗がはげしかった為か、なかなか良くならなかった。ことに右肩周辺の熱傷の治療に難渋し、いつまでも右手が使えず、不自由な生活が続いた。
10月になって右胸に強烈な痛みを憶え、右の胸から背中にかけて、いくつもの水泡が帯状に現れてきた。 帯状疱疹だった。体力が極度に落ちていた時期だったので、殊の外症状が強かった。水泡の化膿が強く、周りの僅かな音や振動で、息が止まる程の痛みが胸を突き抜けた。一ヶ月余りかかってやっと治ったが、右肩などの原爆の熱傷のケロイドと同じように、帯状疱疹の跡もケロイドになった。


















★翌年から
     復学出来たが
昭和21年が明けた頃には、大分元気をとり戻して家の手伝いも出来るようになった。
そして3月には脱毛で丸坊主になっていた髪が、やっと散髪が出来る程に伸びてきた。久しぶりに床屋さんに行ってさっぱりした。
それから間もなく、父と連れ立って、復学のため広島へ出かけた。あれ以来初めての広島だった。
まず、一中の仮校舎(焼け残っていた第三高等小学校を借りていた)へ赴いて、K・T両先生に面会した。私の他にも復学を希望している生徒がいるとかで、本来なら留年するのがあたりまえだが、今回は特殊な事情なので、二年生への進級も検討中である、いずれにしても後日連絡するとの事だった。
出掛けたついでに広島駅前のヤミ市にも立ち寄った。市内の殆どはまだ焼け跡ばかりで広島には75年も草木が生えないと言われていたが、広島駅界隈は雑然としながらも結構復興の息吹きが感じられた。
数日後、二年生に進学しても良いとの連絡を貰い、昭和21年4月早々、張り切って登校した。




















     またダウン
始業式の翌日は仮校舎での復旧作業だった。少々気負って作業に出たためか、早速体調を崩し、微熱を伴って体のあちこちにデキモノが多発し、また寝込んでしまった。
薬屋で吸出しを買ってきて貰い、自分で懸命に治療をしてどうにか治ったが、このため又新学期の半分近くを休んでしまった。
新2年生は二つのクラス編成になっていた。生徒の構成をみると、原爆の日偶々学校を休んでいて助かった者が殆どで、それに私ら僅かの生き残り、そして海外からの引き揚げ生や近郊からの編入生などだった。
生き残り生は強制的に体育の授業は休まされたが、実のところクラスみんなと一緒に運動出来る程の元気はとてもなかった。
その年の夏休みは終日家の中でごろごろしていた。外をどんどん動き回っている人たちが、別の世界の人のように思えた。それでも秋風が吹く頃になると、段々元気も気力も戻って来て、その翌年あたりからは殆ど人並みに動ける様になった。
しかし勉強のブランクはあまりにも長く、そして大きかった。原爆という特殊事情があったとはいえ、無理に進級した事が後々までひびいて、被爆前までは自信のあった教科までも軒並みさっぱりであった。いくつかの赤点も貰った。























★後障害
     ABCCの検診
学校に復帰してしばらく経った頃から、原爆の身体への影響に関する調査がABCC(原子爆弾傷害調査委員会)によってはじめられた。被爆生き残り生も、その対象として定期的な検診を受ける事になった。
ABCCからの呼び出しがあると、学校に公認で授業を抜ける事が出来、加えて当時では珍しい外車(シボレ−のステ−ションワゴン)での送り迎えだったので、まんざらでもなかった。
ところが或る時、いつもの検診とは別に骨髄穿刺をされた。放射線の影響で骨髄の造血機能が抑えられて、貧血や白血球減少の疑いが強かったようだった。胸を圧えられその真ん中に太い針をギリギリと刺し込まれ骨髄から血を吸い取られた。昆虫採集の、針で昆虫を固定するシ−ンを思い出し、嫌な思いがした。穿刺部の違和感が続き、運動をすると胸が痛んだ。その後しばらくは検診を受けるのが嫌で、迎えの人から逃げ回った事もあった。
















     原爆白内障
高校に進んだ頃から、原爆の後障害についての報道がなされはじめた。
夏休みのある日、新設の基町テニスコ−トで有名選手らによる試合があって、兄と観戦に行った。大変良い天気だった。その試合の最中、突然目の前がものすごく眩しくなり、目を開けておれなくなった。
間もなくABCCの検診で、原爆白内障の初期と言われた。近距離被爆者に現れる病変だそうであった。同じ脱出生の中の一人は、この原爆白内障の症状が進行して悩んでいた。"暗い所では普通に見えるが、明るくなると何も見えなくなってしまう、これでは顕微鏡が使えそうにない"と、目指していた医学への道をあきらめて高校教師になった。教師になった後も、よく晴れた日には教室の明るい窓際の様子がよく見えないので困るとこぼしていた。私は幸いにも症状の進行がなく、どうにか医師になることが出来た。
原爆で亡くなった級友の中に、将来医学をめざす者が多かったのを知ったのも、私の進路を決める要因の一つだった。
後年内科医師となった私は、上司から同じ被爆者同志、被爆患者の心情が理解し易いだろうと、原爆病院の勤務を薦められた。そして開業までの何年間かを被爆者医療に携わることになったのだった。






















     昭和30年の原爆症第一号
被爆後数年経ったころから、被爆者の白血病、肝障害そして癌の発生などが話題に上がりはじめた。
これも生き残りのMI君は、脱出時からしばらく症状が強かった一人だったが、高校の頃にはかなり元気になっていた。私とは大学の学部は違ったが、交友が続いていた。彼は最終学年になって卒論の為にかなり無理をした様子だった。卒論は出来上がったが、そのひきかえに体調を崩して、年末には寝込んでしまった。顔色がすぐれず頚部のリンパ節が腫れていた。その頃医学生だった私には、それが白血病のような血液疾患と想像できた。その後治療の甲斐もなく卒業を目前にして帰らぬ人となった。昭和30年の初頭だった。新聞が"今年の原爆症第一号"と報じ、霊前に供えられた卒業証書が涙を誘った。














     20年たって白血病に
私と同じ11学級から脱出していたN君は脱出後比較的順調に高校・大学と進み、家業を継いで社会人になった後も二児の父として仕事に精を出し大いに活躍していた。
彼が全く久しぶりに私の所を尋ねてきたのは昭和41年の春だった。東京出張の帰途とかで、体が熱っぽくて、だるくてしょうがないと訴え診察を乞うた。早速血液などの検査をしたら、無情にも急性白血病の病像が認められた。すぐ入院をして治療を開始し一旦は緩解したが、残念にも翌春再び症状が悪化して、遂に原爆の犠牲になってしまった。











★アンケ−ト調査
     生徒の被爆実態
N君のお通夜の席で生き残り連中で話し合いをもった。話題の中心は学校の被爆の記録や、遺族会への対応だった。
運命のいたずらとはいえ、私共だけが生き残ってしまったのが悪い様に思われ、遺族の方々に顔を合わせるのがつらく、それまで、遺族会の方々から距離を置くようにしていた。しかし、それではいけないと、これからは遺族会と積極的に係わって、併せて被爆の記録の掘り起こしにも努めてみようと決めた。
そして生き残り連中の中心的存在で、学校や遺族会との窓口になっていたH君をリ−ダ−にして具体策を検討した。
早速遺族の方々に対して、亡くなった級友の、入学からの学校生活や、被爆時の行動・身体症状・死亡時期等、詳細にアンケ−トでお願いすることにした。
その結果沢山の方々の協力を得て貴重な資料が収集され、それを"ユ−カリの友"と名付けた記録誌に纏めることが出来た。H君の大変な尽力の賜物だった。
あの日から20年以上も経ってからのアンケ−トではあったが、ご遺族の方々の亡き友らへの思いは並々ならぬものがあり、沢山の生々しい情報が寄せられた。目を通しながら思わず涙した。





















     驚くべき被害
当日学校で被爆した1年生は309名だったようだが、私共がこのアンケ−トなどで被爆当時の消息を確認し得たのは202名だった。
そして驚くべき事は、実にその内の3分の1の生徒が、あの日家を出たきりいまだに遺体も遺品も見付からないままと言う事実だった。この消息不明のままの生徒らは、恐らく即死に近いものと推測され、この者と、死亡の日が確認された生徒の数を加えると、即死乃至短日内の死亡が被爆生徒の8割近くを占めた。彼らの死の殆どは強力な爆風・下敷き・焼死・全身熱傷などだった。
そして残りの2割り近くが、一旦は脱出したものの、お盆前後の頃(昭和20年8月中旬)から脱毛・発熱・出血などの急性放射能障害の症状を出して、8月の終わりから9月にかけて、苦しみながら次々と亡くなっていった。
結局翌年の春に生き残って学校への復帰が出来た生徒は、私も含め僅か19名だった。



















★続・後障害
     カ−プ初優勝のかげで
この記録を纏めてほっとしたのも束の間、今度はこの仕事の中心になっていたH君が倒れてしまった。H君はあの原爆詩人の原民喜の甥にあたるが、彼は学校とも遺族会とも結びつきが強く、家が本通りと言う地理的利便さもあって、私共にとっては貴重な情報交換基地だった。
結局彼は肺癌と診断され懸命な闘病の甲斐もなく、昭和50年秋、街中がカ−プ初優勝で大いに沸いている中、ひっそりと亡くなってしまった。彼の死は私共にとって大変大きな痛手だった。
そうしている内、その翌年にはU君が肝臓をやられて血を吐いて亡くなってしまった。U君とは気心が合うのか早くから親交があり、ことに彼が東京での役人生活をやめて広島に戻り、お父さんの仕事を継いでからは付き合う事が多かっただけに、聊かショックだった。
















     いつまで続くか後障害
これで被爆後の犠牲者が出るのは終わりかと思っていたら、平成9年の暮れにK君が亡くなった。彼はかって"原爆の子"(長田新編)に手記を残しており、先年には顎癌を手術で克服し、その後も美術大学の教授として活躍していたが、今度は肺癌を患い、とうとう倒れてしまった。平成5年の母校(広島一中)の慰霊祭では追悼のことばを述べ、その時は結構元気だったのに誠に残念なことであった。
私を含め脱出後生き残りが確認された19名の内、これまで述べたMI君など5名の他に、昭和25年にK君、昭和48年にYくん、更に平成になってF君、O君、MA君も亡くなった。
即ち九死に一生を得てやっと生き残った19名だが、その半数をこえる10名が所謂原爆後障害の犠牲になったことになる。
誠に核の恐ろしさは計り知れぬものがある。従来の兵器をはるかに凌ぐ強烈な破壊力は、勿論大変な脅威だが、何よりも放射能と言う魔物が恐ろしい。放射能は後々まで被爆者を傷め続ける。
あの強烈な威力に耐えて生き残れた者も、放射能の影響がいつ出るか判らず、何時までも原爆の影に脅えながら生きていかねばならない。生殺しの様な人生は真っ平である。この様な経験はもう誰にも二度としてもらいたくない。























★核のない世界の平和を
原爆は誠に大きな被害をもたらした。
広島は一瞬にして廃虚となり、学校では多くの先生や生徒が逝った。
私の自宅のあった天満町でも、お隣も、お向かいも全滅だった。
まさに無差別、皆殺しの大量破壊兵器である。
どんな理由があろうとも、この様な兵器を使用する事は許されない。
地上から全て無くさねばならない。
この事を心に深く刻んで、お互いあやまちは二度と繰り返してはならないのだ。
あれから半世紀以上が経っと、段々と記憶がうすれていく。しかし核の脅威は一向に衰えていない。いや増大するばかりである。
アメリカをはじめとする核大国は核の強力な威力を逆に利用して、抑止力を謳いながら、未だに核実験を止めようとせず核の保有を続けている。一方核の後発国も、夫々の国力誇示のため核の開発に、実験に鎬を削っている現状である。
現在の核は、半世紀前広島を一瞬のうちに壊滅させたあの時の原爆に比べ、その規模はるかに強大なものになっており、威力は月とスッポンほども違う。
もし戦争で使用される事があればこれは論外だが、保有中の核の管理ミス、実験に関わるミス等でも事故が起きたとしたら大変なことになろう。恐らく地球規模の大事をもたらすであろう。思うだけでも背筋が寒くなる。
核を保有しているだけでも、けっして安全なことではない。
この強烈な破壊力と、得体の知れぬ恐ろしさを秘める放射能の影響は、ただの一発で今や一地域にとどまらず、地球全体に及ぶ可能性があり、地球や人類の滅亡の危険を孕んでいることを銘記すべきである。核のない世界の平和を祈念して止まない。

























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