タイトル 今は亡き級友の脱出記


はじめに
あの日学校で被爆した旧制広島一中一年生は309名でしたが、
あの惨状から脱出を果たし、翌年学校に復帰出来たものは僅か19名でした。
それら生き残り生らは、復学して間もない頃に、夫々脱出の手記を綴り、
その手記は"倒壊校舎脱出手記"という小冊子に纏められていました。
  その後19名の生き残り生の中に、原爆の放射能によると思われる晩発性の後障害に
悩まされるものが少なからず現れはじめました。
そして被爆後数年経った昭和25年頃から平成の今日までに、白血病やがんなどで
実に10名もの犠牲者が出てしまいました。
まことに痛恨の極みです。
今はもう語ることが出来なくなった級友に代わって、
原爆の悲惨さを少しでも伝えることができればと、
彼らが残していた生々しい脱出の手記の数編を
ホ−ムペ−ジで紹介することにしました。


K君のイラスト5
K君のイラスト4


バ− M君の手記 バ− K君の手記
バ− U君の手記 バ− F君の手記
バ− H君の手記 バ− O君の手記


M君の手記
M君は、昭和30年春広島大学の卒業を目の前にして亡くなりました。
新聞がその年の原爆の犠牲者第一号と報じていました。彼の脱出記から紹介します。
****あののろわしい原子爆弾は投下された。しかし私にはそれがいつ
の間に落されて、どんな風に情景が変ったかは全然記憶にない。私の意識が回復した時は、最早周囲は火に囲まれ助かる見込みは九分九厘絶たれてしまったと思われた。
その時の私の意識は朦朧として頭は全く混乱してしまい、足で歩く気力も絶たれてしまった。早や死をまつより他にとる途はなくなった。
私は火のないところを選び、木の間にもぐりこんで、のろうべき火の来るのを待ち、決心を固めた。しかしすぐ昏倒して意識を失い、次に気がついたときにはもう火が目前に迫り、体全体が焦げる様にあつく、それ故全く前の決心もくずれてしまった。それで今度はどこまでも逃げようと決心して火の中をくぐり、無意識にあちこちと歩き回った。
しかし、それは全くの徒労に終わり、生命は風前の灯火と思われた。
そして、私は逃げる術も失い、あつさに堪えられず、もだえ苦しんだ。
しかし、何か私の頭にひらめいた。その時の心理は不思議で、フラフラと左の方へ行くと、そこに防火用水があった。そしてこの防火用水が私の生命を救った。だが危険は私のそばからはなれなかった。
それは、空をトタン、瓦、大きな木片があたかも木の葉の如くに舞い、周囲は火の海であったから…・・、又トタンの五、六枚は私の防火用水の周りにつきあたり、音をたててどこかへとんで行った。
しかし生命は助かった。翌日の朝、上級生が二人私を助けて一中寄宿舎につれてかえられた。私の意識はその間正しい様でもあり、異常を起こしていたのではないかとも思われる。
その日の正午すぎ西条から従兄が来て私を日赤にかつぎ込み、その翌日親類の者が来て西条へつれかえった。三日ぶりでなつかしい家へかえった。いつも担架で運ばれた。
それから又新しい苦しみの日が七ヶ月余り続いた。***
*** とあります。
彼は顔の傷がひどく、加えて脱毛、高熱に悩まされながらも、闘病を続け翌春ようやく復学しましたが、幸運と、周囲の人々の様々な支えに感謝してこの脱出記を締めくくっています。


U君の手記
 U君は、広島大学を卒業して、自衛隊の技官を数年間勤めたあと、父親の会社を継ぎ、社会人として元気に活躍していましたが、昭和55年に多量の吐血後亡くなってしまいました。
彼の脱出記の一部を紹介します。
*****朝会をすまし、奇数学級は作業にすぐ行き、僕ら偶数学級は教室に はいり休んでいた。
本を読む者、井戸水で水筒を冷やす者などあった。しばらくすると誰かが「もうすぐ交代」と言うて来た。二、三人の者は又B29が来たと窓から外を見ていた。14学級のものは外へどやどやと出た。数分前からブ−ン、ブ−ンという音が聞こえていた。
一瞬、教室の前入口の辺からピカッと光ったような気がした。そしてあたりが黄白な色に急に明るくなり、あたたかい圧力を感じた。僕は背を向けていた筈であるのに前入口の方を向いて真正面から光を受けた様に思う。そう考えると、光は反対の方から受けたのに、僕がくるっと前入口の方に向いたのかもしれない。その時の方向のことはどう考えてもわけがわからない。
次の瞬間は真っ暗で音も何もきこえなかった。
ドンと爆裂の音がしたというが、僕には聞こえなかった。
父母の顔が目の前を通りすぎた。もう死ぬのかと瞬間思った。
僕は自然に本能的にもがいた。と楽になった。目の前に木の様に見える物があった。それに足をかけ手をかけてもがき出た。
何も見えなかった。目も見えなかった。何が何だかさっぱりわからなかった。しばらくしてバサバサバサ こわれた家屋の破片の様なものが落ちてきた。
僕はさまよい歩いた。友達に一人あった。二人で東練兵場へ行った。途中で血を吐いた。真っ黒な血であった。苦しくてたまらないのですわりこんでしまった。友を見失った。山に上り寝た。
牛田へ帰ろうと三時頃這う様にして帰っていると、将校であった父に出会った。うれしかった。声を出すのも苦しかったのが急に楽になった。二十日頃から発熱し僕の病院生活二ヶ月が始まった。
今から考えて見ると、想像も出来ない様なあの日のことであった。……


H君の手記
H君は、同志社大学を卒業後、広島で家業を継いでいました。
店が本通りという地理的な条件に恵まれており、私共の情報交換基地として中心になって世話をしてくれていました。
そんな彼でしたが、残念なことに被爆後30年経った昭和50年の秋、肺癌を患って、妻子を残して亡くなってしまいました。私共にも大変な痛手でした。
彼はあの悲惨な体験を他にも記録に残していると思いますが、ここでは中学時代に書き残した脱出の記録から紹介します。
* *****いきなりピカッと光ったかと思うと、パ−ンという音、それと
同時に、ガラガラと倒れる校舎。その音と共に私は机の間に伏せた。土は口の中にはいり、正気になった時には、口の中は土だらけであった。私は初め一中だけが爆撃をうけたのかと思ったが、それは違っていた。
みんな助けを求めていたので、私も叫んでみたが、どうにもならぬと思つて、机の間を這い出る口をさがした。すると向こうに一寸明るく見えるところがあったので、這って行くと、壁の破れた隙間があったが、あまり小さすぎて出られないので、壁を必死に破って出た。
外は月夜の夜よりも暗かった。他の者も十五、六人出て組のものを引き出していたので私も手伝った。もう首が切れて死んでいたもの、今にも死にそうになっているもの等もあって、まるでこの世の地獄であった。運よく私は怪我はなかった。窓ガラスがはまっていなかったせいであろう。校舎は骨ぐみが残っているだけで瓦などはどこに飛んだかわからない。
どこからともなく町の人々や作業に行っていた生徒などが、全身に火傷をしてパンツだけや真裸体でやって来た。
そうするうちに十米四方に一個位の割合いに焚き火位の小さい火が燃えて来た。逃げねばならなくなったので友達と本門の方へ逃げようとしたが、火が強いのでプ−ルの方からまっすぐ火の側を通り抜け、墓地をぬけ、巾三米ばかりのドブに来た。
その時本校庭のポプラの木の下にはどこかの女学生が大勢逃げて来ていた。
ドブの中には大勢の人が火傷をしてはいっていた。牛が暴れ狂って私たちの方へ走ってきた。
必死で逃げようと比治山橋に通じる大通りに出た。ビルディングの窓から火が吹き出ていた。子を探す母の叫び、何やらわめいていく人々。倒れた家や電柱、それらの間を唯一生懸命にかけて、ようやく比治山の陸軍電信隊にたどりついて、兵隊に水を貰い、頭痛がするので頭を冷やしていたら正午になった。それから四時頃まで休んで広島駅前まで行った。家に帰ろうと思ったが、火のために帰ることは出来ない。それで友達の叔母さんが豊田郡におられるので、そこにゆくことにした。駅前から海田市までバスで行き、海田市から汽車で本郷に行った。途中汽車の中で嘔吐した。
それから一週間位して広島にかえり家の焼け跡へゆくと、父母の避難しているところがわかったので両親のところに帰った。
それから一週間位経ってから原爆症が出たが、幸いに助かることが出来た。これは両親の手厚い看護と、氷が充分にあったことと、医者が毎日来て、注射やその他の手当てをして下さったお陰だと思う。****

***と結んでいます。
それから25年余り経って、元気に社会人として活躍していました頃に、彼は原爆と戦争について次の様に書いています。
「私は今、人間の心は変わり易いとつくづく思っている。あの頃憎い敵を撃たねば平和にならないと、勇んで命を捨てようと決心した心。
原爆により滅茶苦茶に焼け爛れ、水を求めて苦しみ死んでいった人間の姿を見た時、(これが戦争だ、もう戦争は絶対にしてはいけない、どんな事があっても、戦争に反対しょう)と思った心。今はもう、ともすれば原爆や戦争の忌まわしい思い出は忘れて、もっと別の楽しみを求めたいと思う様になった心。然し原爆が遠くなり、戦争の苦しみや、非人道的事実が忘れ去られようとしている今日、人間の心がまた、過ちを繰り返すのではあるまいか、と不安でならない。」*****
その彼は、この時から数年後に原爆の後障害の犠牲になって倒れてしまい、もうこの世に居ません。残念の極みです


K君の手記
K君は、東京芸術大学を卒業後、グラフィックデザイナ−として、美術大学の教授として活躍していました。その間顎がんを患いましたが手術で克服し、その後も時々体調の優れない事もあったようですが、人並み以上のバイタリティ−で頑張っていました。
しかし残念な事に被爆後50年余りの平成9年に、遂に肺がんのため帰らぬ人となってしまいました。
彼は高校三年の頃にも"原爆の子"という被爆児の手記集(長田 新編)に寄稿しておりますし、又グラフィックデザイナ−としても平和をテ−マにした作品を沢山残していますが、ここでは被爆後間もない中学時代に彼が書き残した脱出の手記を紹介します。
******警戒警報は解除になったのにB29の爆音がする。
しかし、皆んな「又のことか」と言った様な調子で気にもかけないもの、中には廊下の方へ出て見ているものもあった。
その爆音が遠くなりかけた瞬間、パッと朱色の色、セルロイドを燃やしたような光、気味の悪い光がしたと思うと「あっ」という間もなく、我々は校舎の下敷きになってしまった。
上から落ちる赤土、瓦、背中の上の材木、机の下で硫黄を燃やしたような強い臭気をかぎながら一時気が遠くなった。しかし気が立っていたせいか、すぐ前方の明かりを目当てに腹ばいになって抜け出た。
周囲から聞こえるうめき声、断末魔の苦しみの声を耳にあびながら柳の木の下まで来る。
友達のO、I 両君と、僕と同じく怪我をしていない連中は、僕を見るや否や「おい軍人勅諭だ」と言って、悲壮な声でふりしぼる様に読み出した。後から出て来たものも元気に読み出している。
そのうち臭気が次第に強くなって来る。我々は手拭いで口をおおい、一先ずプ−ルの上まで来る。
途中今の五組か六組のあたりで聞える「助けてくれ!」「畜生!畜生!」「頑張り精神だぞ!」などと言う同僚の声を聞きながら、それに答えながら「本部へ行ってくるぞ!」と叫びながら職員室のところへ急ぐ。
しかしそれも何の事か、ああ本部はおろか、一中が……我々の一中がみな見渡すかぎりペシャンコではないか。プ−ルの上にあがり、我が愛する校舎を見渡せば、すでに一番北側の歴史教室の方は火の手が上がって見る見るうちに拡がってゆく。
ふと見れば十四学級のM君は上衣やズボンの燃えているのも気がつかないのか、涙を流しながら「万歳」を叫んでいた。僕はプ−ルの水を手拭いにしませてその火を消してやった。
十六学級のS君は(近所で日頃一緒によく遊んだ)全身火傷、目はすでに潰れてしまい、体の皮ははげて着物の袖の様にブラ下がっていた。そして「何も見えない!」とつぶやいていた。
十四学級のK君は頭と足とに大怪我をして血の吹き出るのも、まけずにゲ−トルで頭や足を巻いて血の出るのを防いでいた。
元気な者や歩けるものは、一先ずここを逃れようと、プ−ルの上から裏の墓地の間を通り、比治山橋の方へ走って行った。
途中作業場に出ておられた体操のK先生と出会った。先生は全身火傷で、上衣もズボンも焼けてブラ下がっていた。一中の生徒と一緒に同じ作業場で作業をしていた女学院の生徒も、先生と同じ様に全身火傷をして、髪の毛も着物も全部焼けてしまっていた。
途中で先生や他の同僚達とははぐれてしまい、十三学級のT、N君と三人で比治山の方へ逃げて行った。大部分の生徒はプ−ルから比治山の方へ逃げて行った。それは紙屋町方面、鷹野橋附近が既に焔に包まれていて、比治山の方が焼けていないと思われたからである。
T、N両君は全身火傷で目が見えず、僕の肩に二人をとりつかせて比治山橋を渡り、しばらくの間あてどもなく宇品の方向へ足を運んだ。
僕もガスのために気分が非常に悪くなり、しばしば嘔吐して歩行が苦しかった。その時後方からトラックが来て「乗れ」と言われた。三人は天にも昇る心地ですぐさま飛び乗った。トラックの上で皆ぐったりし、僕も又ゲ−ゲ−吐いた。運ばれた所は広陵前にある共済病院であった。大火傷の二人はすぐ治療室へ、僕は歩く気力がなくなったので看護婦につれられて防空壕へ運ばれた。
壕の中でうめき声、ふと見ると腹が破れて腸がとび出して半死半生の子供である。顔の形のわからなくなっている男の大人。手がなくなって死んだ様になっている女の人。
しばらくして二人の様子を知りたいと思い、杖にすがって壕の外へ出た。
上空ではB29の爆音が聞こえていた。この病院がやっと残ったらしい。鷹野橋の方は煙と焔で何も見えない。二人はどこへ行ったものかわからなかった。
病院で元先生のS先生のうちのS君に会う。S君も怪我をしていない様でただ腰をひどく打ったのだと言っていた。割りに元気で却って僕の方が元気がなかった。
午後四時頃だったろうか、共済病院から杖にすがって出て行った。
一先ず我が家へ帰ろうと急いだ。途中鷹野橋附近、明治橋附近で幾度か水槽の中へとびこんだ。住吉橋の上より見る我が家の方は焔の海であり、とうていだめであると思った。
そこで祖母の疎開している楽々園へ行こうと思い、共済病院で貰ったにぎり飯、馬鈴薯を手拭いに包み、己斐方面へ急いだ。
大半の市民も己斐方面へ逃げて行った。全身火傷をした小母さんが、血みどろの赤ん坊を抱きながら、又着物もつけない男の大人が杖にすがってよろめきながら歩いてゆき、みなハダシ、髪はバラバラ、全身火傷、裸体でとぼとぼ歩いてゆく姿は実に悲惨なものであった。
己斐の駅でカンパンを沢山もらい、それも手拭いに包んで楽々園へ急いだ。電車は通ぜず、みな歩いて宮島の方面へ逃れて行った。 八時半頃に五日市の役場のあたりのところまでたどりついた。あてのない人々はここで夜をすごす様にムシロの上に寝ていた。一休みしてやっと楽々園の祖母の疎開先へつく。祖母はびっくりした。家が焼けたことを話した。家の者が死んでいるじゃろうと嘆き悲しんだ。
亡き先生、亡き友、広島の数知れず亡くなった方々、安らかにねむって下さい。*******


K君のイラスト1 K君の ラブ ピ−ス ポスタ− K君のイラスト3
K君のイラスト2



F君の手記
F君は関西大学を卒業後、公務員として永らく県庁に勤めていましたが、退職後しばらくして、がんで亡くなってしまいました。
彼が被爆後の中学時代に書き残した、脱出の記録を紹介します。
* ******教室で作業の交替をまっていた。するとしばらくして警戒 警報に入った。そしてしばらくして解除になった。しかし飛行機の音は聞こえていたように思う。間もなく黄色い光が光った。それきり何もわからなかった。
気がついた時には、四辺は真っ暗で何が何やら全くわからず、目をあけよう も痛くて開けられず、口はほこりのせいかいやにおかしく、そのままじっとしていた。少したって、もう何も感じなくなったので、四辺を見廻すと小さな穴があったので机に腰掛けたまま、約四十五度に傾いた体をひきずりながら、小さな穴から出て行った。出た時には約二、三十人いた。その時もまだ暗くてどうする事も出来なかった。
学級のものを助けてやり、プ−ルの方へ出て見ると、作業に出ていたものがかなり来ていた。その人々は腰から上はほとんど火傷をして皮がぶらさがっていた。
僕は友人と二人で、少しは明るくなったので、一中の裏から比治山の方へ逃げた。比治山についた頃には明るくなり、あちこちに火事が起こっていた。友達は頭をひどく怪我していたので、ゲ−トルを巻いてやった。僕は怪我もせず元気であったが、少したって朝食べたものを嘔吐し、体が段々と弱って来た。友達と二人で、互いにはげましあいながら、少し歩いては休み、休んでは歩いていたが、体はますます弱って、遂には二、三米歩いては道に倒れながらも逃げて行った。
水を呑めばすぐ嘔吐をした。いよいよどうにも出来なくなくなったとき黄色な液を嘔吐した。僕はその場に倒れていると仁保の方の知らない人が自転車にのって来られて「君は一中でしょう」とたずねられて、「君はここで倒れていてはだめだ」と言って、自転車にのせられてその人の家まで運ばれた。
そこで食べたもの呑んだものを全部嘔吐して、どうすることも出来なかった。そこの人がわざわざ僕の家(安芸中野)まで知らせて呉れたので母が迎えに来てくれた。車に乗って僕の家まで帰ったときにはもう少しは立つことが出来た。
それから少しずつよくなって八月十五日頃には家の廻りを歩くことが出来た。そして十七、八日の夕方頃、頭の毛が抜けるので、不思議に思って洗ったりしてみたが、ますますぬけた。頭を手で撫でると脱けた。そしてあくる日から熱が三十九度を十五日間ぐらい下らなかった。時には四十度をこす事もあった。その間は親戚の医者にも来てもらって、日に三本注射していた。その間ほとんど何も食べず、僕はその頃のことがよくわからなかった。熱が三十八度位になると注射を二本にして二月頃までもつづけた。その間少しずつ元気になって、一月頃 には家の廻りをは歩くことが出来た
そして二月の中頃から学校に出て行った。医者を始め家の者は、僕が生きられるとは思っていなかった
仁保の人というのは、同じ一年生に自分の子がいたため探して行ってのもどりであった。********


O君の手記
O君は、被爆から50年経った平成7年に癌を患って亡くなってしまいました。その彼が書き残していた、倒壊した一中の校舎からの脱出手記を紹介します。
* *****1945年8月6日は我々の驚愕と恐怖の記憶として永久に頭 から去らないであろう。
いつもと同じ様に自転車に乗り、そして電車に乗って私は学校に行った。その頃は疎開家屋の整理が忙しかった。
まず十一学級から十六学級までの十一、十三、十五の学級が現場に行き、我々は教室で休んでいた。
或る者は本を読み、或る者は騒いだ。しばらくして市役所のサイレンは敵機の来襲を報じ退去を命じた。それまではいつもと何ら変わらない日であったのだ。
このときB29の爆音が聞こえた。私達数名は飛行機を見るべく外へ出ようとした。その瞬間「ピカッ」、机を離れようとした自分は教室の隅の方でものすごく炸裂した黄色のものを見た時気をうしなったのだろう。後は何もわからなかった。―――ふと気がついて見ると真っ暗だ。何か背中に物がおおいかぶさって、とても苦しい。「ジイン ジイン」と耳なりがしてとても静かだったが、やがてそれは「助けて」という人の声に消されてしまった。そして自分の下に友達がいることに気がついた。
「空襲だったのだ、とうとうやられたのか。俺はもうこのままで死ぬるのか」何かとりかえしのつかない様な残念さが胸にたぎる。友達は気狂いの様に「助けてくれ」と叫んでいる。はては君が代を歌い出す者もいた。自分と I 君とは互いに励ましあいながら人の助けに来てくれるまでまったが、そのうち私達はパチパチと何かはじける様な音を聞いた。出口を探そうと無理やりに体を動かし動かしする内に、うれしや、床下の板のはずれ目から明かりがもれてくるではないか。必死になって体を動かして明かりに近づけば友の一人が椅子に寄りかかったまま首から血を出して床下の土をドス黒く染めている。「ゼロ ゼロ」と咽頭がなって早や彼は動きはしなかった。夢中になってカスリ傷一パイで出て見れば、外は濛々と煙とほこりが立ちこめ、我々の校舎はどの棟も屋根がそのまま地面に落ちていた。怪我をして血を流している友、人間とは思えぬ顔になっている友がぼんやりとすわっている。二、三人の友達を助け出した。今は逃げるときが来た。地獄の鬼にさいなまれた様な人々の間を我々は夢中で逃げた。屋根を越え墓場を越え、火の中をくぐって道へ出た時人間界で最も悲惨で残酷な様を見た。その中には大八車を引っ張って生徒を運んで行った教頭の勇ましき姿がありありと残っている。
私はとにかく生き残った。運命とは言いながら死んだ友達に対して同情の念禁じ得ない。心から誠をささげなければならない。
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