タイトル(遺族の方々の証言)
原爆のきのこ雲
原 爆 の キ ノ コ 雲
はじめに
殆んどの被爆者は、原爆のことを思い出したくない、語りたくない気持ちでいました。
私らも長い間そうでいた。
そんな折、昭和42年になって私ら生き残り生の一人が、白血病で突然倒れました。その彼の死が、私らに被爆の記録を残し、そして語り継いでいくきっかけを与えました。
当時はまだ学校での被爆の実相、とくに亡くなった生徒一人一人の情報は
充分には把握されていませんでした。

20年以上も経った時点でしたが、私共は遺族の方々にあの時亡くなった友の様々な状況をアンケ−トでお伺いすることにしました。
その結果当時の生々しい惨状が沢山寄せられました。それには遺族の方々の無念の気持ちや悲痛の叫びがこめられていました。
その中から、幾つかを紹介します。

原爆による火傷

焼け野原の中の原爆ド−ム 原爆による火傷


原爆のきのこ雲(小)  I君のお母さんの証言
教室内で被爆、閃光の一瞬教壇の横に伏したところ、僕の上にO君が伏して、天井が落ち、真っ暗になり、しばらくしてO君が屋根を破って外へ出たので身が楽になり、天井板を破って出たところ、市役所方面から火の粉が隣の教室へ飛んできたと見る間に火事になった。
教室では周囲に2〜3人いたが、助けてくれと叫んでいたので、外へ出たら助けてあげると言っていたが、火の回りが早く近寄れなくて助けられず可哀想で仕方なく、頭が痛い(友人に悪い)と言っていた。
その晩は脱出した友達3人とグランドの芋畑に寝て、翌7日午前中歩いて中山まで帰った。
8月20日頃から頭髪が抜けはじめたので、臨時治療所で診てもらったところ禿頭病だと言われ、心臓が弱っているから安静にするようにとの事でした。それから2日ぐらいして熱がで、口内炎をおこし歯茎から真っ赤な血が流れ出しました。8月28日血が黒ずんで顔色が変になりました。死ぬる1時間ぐらい前まで意識は確かで、死後の事を言い残して死にました。

原爆のきのこ雲(小) A君のお父さんの証言
校舎内で被爆、被爆時からり強い閃光と直後むせる様な白煙がたちこめたがすぐ消えた。倒れた校舎から這い出し友達を幾人か校舎から引き出したらしいが、結局はぐれて一人になった様で宇品方面へ逃げ、翌日遠回りをして白島まで帰った。
外傷はなかった、10日目頃より口内炎、食すすまず2週間目頃より脱毛.班点.歯茎や鼻などより出血.手当ての仕様もなく、血便.血尿となり発熱も加わり8月28日に死亡。

原爆のきのこ雲(小) S君の伯母さんの証言
教室内で被爆し、無我夢中で運動場に脱出し、タオルを鼻に当てて地上に伏していたら黒い雨が降り、気が付いた時には周囲に倒れていた人は皆死んでいた。立ち上がって歩いていたら「わしは校長だけど早く連れて行ってくれないか」と言われて一緒に日赤病院まで逃げ、日赤では色々な手伝いをしたようです。それから宇品へ行き、実家の祖父(医師)へ無事を知らせる手配をし能美へ帰ってからは、患者運びや整理のために能美町の自宅から広島の学校の焼け跡に通い、父兄が焼け跡に訪れると先生から呼ばれ「これ一人が助かりました」と言われ、遺族の方にうらやましい様な目で見られて"さえん"と申しておりました。
熱傷も外傷もありませんでしたが、2週間ぐらいして脱毛.発熱.口内炎.班点.下痢.嘔吐.出血などの急性症状が全部出ました。
 見舞いの人々に頭が恥ずかしくて、苦しいのを我慢して学帽をかぶっていました。
 急性症状の出る前は毎日しんどいしんどい、美味しいものが食べたいの一点張りでしたが、症状が出てからは苦しみの連続で「昨日は寝返りが出来たのにクソッ、今日は寝返られない、どうしょう」と力んでいました。
 死にのぞんで祖父が朝までには死ぬかもしれないと言ったら、自分の持ち物を友達や妹、使用人などに形見にと夫々申し「紙、鉛筆」とヤット言い、渡しても手がへなへなとして書く事も出来なくなり投出してしまいました。最後まで意識が確かなのは驚くほどでした。
 こんな悲惨なことはもう沢山です。この苦しみを全世界に訴え、平和の実施を強く望みます。

原爆のきのこ雲(小) O君のお父さんの証言
私の勤務先の南観音から息子が作業に出ていた土橋附近を捜し求めて廻ったが見つからなかった。
家に帰っているかも知れないと望みを抱いて尾長の我が家にたどりついたが息子は帰っていなかった。夜になっても帰ってこなかった。
昼間市内で見た身体中皮がぼろぼろにさがって親を求めて力なく歩いていた沢山の子供達の姿、この世ながら地獄絵図が目に浮かび、その夜は殆んど一睡も出来なかった。
翌朝早く友人と共に担架をさげて、市内の収容所と言う収容所はみな片っ端から探し歩いた。
その夕方遅く己斐国民学校で「O,O」と二人で呼ぶ声に「ハ−イ」という返事がした。
つまづく足取りで声のした二階の教室に引きづられる様に入って行った。私達の顔を見るや、さも嬉しそうに「お父さん」と元気よく呼んだ。
「もうお父さんがおるから大丈夫だ、元気を出すんだぞ」と言う言葉に「ハイ」としっかり返事をした。
「僕はお父さんが爆撃を受けられたのではないかと心配しとったんです。お父さん良かったですね」、と父の無事を喜んでくれた。「おなかが空いただろう」と尋ねると、「警防団の人から昨日乾パンを貰ったんです。今なにも欲しゅうないんです。ただ水が飲みとうてたまらなんだです。が若し水を飲んだら死ぬると聞いたんで、お父さんに会うまでは水を飲んではならんと一生懸命我慢しとったんです、とさらに言葉を続けて「ああよかった、それからこの包帯(顔面から手首にかけて包帯をして貰っていた)は軍医さんが、君は一中の生徒だね、僕も一中の出身だ、一中の生徒はしっかりするんだ、大丈夫だ僕が包帯をしてやる、と大変に親切にして貰うたんです」、親切に手当てをして貰った事への感謝と、父に迎えにきて貰えた嬉しさとで、目に涙を浮かべていた。
私は己斐の教え子の家で大八車を借りて息子を乗せ、真っ暗などこが道やら分からなくなった焼け野原の市内を迷い迷って家についたのは翌朝三時過ぎであった。それからは医師に診てもらう事も出来ないまま、どんな不具になっても命さえ助かってくれたらと、必死の看護を続けたが、努力の甲斐もなく、八日夜半、漸く疎開先の郷里からかけつけることの出来た母の手をしっかと握って「おいM君、生産命令が出た」、とうわごとの中にも若い学徒の純情さあふれた言葉を最後に何の罪もなくただ戦争の犠牲となってこの世を去って逝った。

原爆のきのこ雲(小) T君のお姉さんの証言
一中附近で家屋疎開作業をしていて被爆しました。脱出して比治山橋近くの倒壊していた我が家に帰ってきたのは、原爆が落ちてから一時間位した頃でした。級友二人と一緒でした。上着はぼろぼろ上半身は火傷でした。顔は特にひどく目はつぶれそうに腫れ上がり、帽子の外に出た部分の髪の毛も眉もズバリと落ちていました。これが弟かと思う程変わり果てた姿でした。顔は何倍にも腫れて大きくなっていました。
三人共苦しいらしく、とても弱っていました。しかし言葉も気分もとてもはっきりしていました。トラックに乗せてもらって陸軍病院(宇品)へ連れて行き油薬をつけていただきました。正午になって次第に高熱となり嘔吐するようになり、容態が一変してどうしてやることも出来ないままその夜9時30分、姉一人に見守られて、病院の自転車置き場の冷たいコンクリ−トの上で息をひきとりました

原爆のきのこ雲(小) M君のお父さんの証言
息子のことが気になりながら、夕方まで海田市の警防団員として、罹災者の救援の世話をし、急いで家に帰りましたが、まだ帰っておらず、食事もそこそこにして、罹災者の収容されている所をしらみつぶしに尋ね巡りましたが、とうとう見つけることが出来ず、家に帰りましたのは夜中の二時すぎでした。また朝五時から罹災者に配る弁当を運ぶ車に乗り、まず立ち寄った東練兵場で、避難者の目にもあてられね有様に驚きました。身体全体が大火傷を受けてたおれた者、気はしっかりしていても身体の自由が利かない者、息たえだえにもだえ苦しんでいる人、その数は何百何千と数えることも出来ない程でした。
東署に全部の弁当を渡し、わが子を尋ねるべく、電車通りの各所に倒れている人をわが子ではないかと、一々見ながら西へ向かって行きました。
一層驚いた事は、進行中の電車が軌道の上に真横に廻っている事や、国泰寺の墓地の石碑が前後にくるりと廻っている事、途中道々の河川や川岸に何百何千という罹災者が折り重なって死んでいる有様、如何にその瞬間の衝撃の激しかったことを思わせました。途中何れを見ても驚く外なく、世にいわれる地獄でもこんなにむごたらしい有様は見られないないのではないかと思いました。
己斐町へたどりついたのが正午頃でした。一中生が収容されていることを耳にし、気を取り直して小学校の校庭を一人一人さがして歩いたが、遂に我が子は見当たらないのでした。これではいかぬと教室に入ってみました。教室という教室、廊下は廊下で火傷を受けた人で足の踏み場もない位一杯でした。その人達は身体の自由はきかなくても気はしっかりしているようで、私に「警防団のおじさん、私は広島市の何町何某のせがれです」とか「何々の所の何々という者です、早く家に連絡して下さい」と呼びとめられるのでした。
けれども広島市中は、全部一戸残らず焼け野原となっている有様で、如何ともするすべもないのでした。今も時折その人達の事を思い起こすことがある度毎に、誠に気の毒なことであったと涙の出る事があります。
その内突然知り合いの人に出会い、その人の言われるには「今しがたあなたの息子さんが海田町の警防団の方に、自分の名前をいうて早くお父さんに迎えに来て呉れるよういうておられたから、この教室附近に必ずおられると思う。今一度呼んでご覧なさい」と申されるので、その一言に勢いついて息子の名を呼んで見ましたら「ハイ」と返事があったので、その返事のあった教室に入ってみると、傷ついた ぶりか、まぐろの 魚を並べたように幾十人かが列んで仰寝していて、どれが我が子か見分けることが出来なかったのです。というのは、何れの人を見ても顔面.手.身体中やけどで、目やにで閉じ、身体はズルズルにただれ、膿が出て臭気が発し、眼をあけることも出来ず、手のつけられぬ有様で唯愕然と立ちすくんでしまいました。
これではいかぬと今一度名を呼びましたら「お父さん僕はここよ」と言うので、その声のする方に立ち寄って見ますと、眼はやにでふさがれ、上半身ずるずるの大火傷で全く身体の自由を失って動く事が出来ず、見る影もないその姿をみて、言葉出ぬ思いでした。
しかし気分はしっかりしていて「お父さんK君は昨日お母さんが連れに来られたのに、なぜ僕を連れに来てくれなかったのかといいました。瞬間、胸に熱いものが込み上げてきました。
ああ何という変わり果てた姿でありましょうか。たとえようのない不憫さ、可愛想さに涙も出ない程私の胸の裡はしめつけられました。
小学校附近の知人の方に荷車を借り、息子を車に乗せて市中の焼けつくような暑さの中を急いで家路につきました。その道すがらどうか命を取り止めてくれればよいがと、私の心の中は、子供の生きていた嬉しさから次は、全快してくれればよいがと思う願いとやらで、私の気持ちは何が何やらわからず歩き続けました。途中息子に声をかけるとそれに対する返事はかえって来ますが、話がとぎれると何事かつじつまの合わぬうわ言ばかりいいます。
大洲まで帰ったとき治療所があり、被災して三十五時間ぶりに初めて診療を受けたのです。しかし、早ければ今夜中おそくとも明朝までしか寿命がないからよく看てやりなさい、と死の宣告をいいわたされたのです。その時の私の胸の裡は・・・・名状しがたい気持ちでした。
重い足を引きずりながら車を引いて海田の町にたどりついたのは夕方でした。丁度K君のお母さんに出会い、息子に聞いた話を伝えますと「私は広島へ行かなかった」とのことでした。私の息子が一人思い込んでいたようでした。
家に帰りつき色々手当てをしましたが、あの当時は薬もろくろくなく、その夜二時二十分、遂に息を引きとりました。この息子の心の中を思い出しても涙の種です。
いまこの思い出を書きつつ涙がとめどなく流れて仕方ありません。この原爆にあって死んだという事は終生私が息を引き取るまで、頭にこびりついて消え去る事はないと思います。
後日K君の様子を聞きましたら、遂に本人の遺体も遺品も見出すことが出来なかったということで、非常に気の毒にたえません


終わりに
紹介しました幾つか証言は、いずれも大変悲惨なものですが、最期を身内の方々で看取る事が出来たケ−スです。
しかしアンケ−トでお返事をいただいたご遺族の三人に一人の方からは、手を尽くしてさがしたけれども、全く消息不明のままとの返事でした。即ち遺体はおろか手掛かりになる遺品さえ見付からず、あの朝家を出る時の"行って参ります"の声が最後とのことでした。
戦争の厳しさ、平和の有難さを痛感します。
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