原爆記・更新履歴

*(作成頁の変更などでリンクしていない項目が多くありましたので)この頁の中のリンクを見直ししました。09.06.25裕・記
22.06.19 (海田市駅からの)
軍用引き込み線跡
(1945年8月6日)被爆当日長男嘉光さんが『広島駅から海田の需品廠へ行く』と書き残しているのです。
最初に読んだ時、海田に需品廠があったのかと思って当時健在だった嘉光さんに尋ねたことがあったのです。しかし、広島駅からその需品廠まで列車で行ったということに頭が廻っていなかったのです。
時は随分過ぎ、
2021年Wikipediaの海田町の項目をみていると
『戦前、海田市駅から陸軍被服支廠海田市倉庫(現在の自衛隊)へ延びる引き込み線がありました。』
とあり、そうだったのか広島駅から海田(市町)の需品廠まで鉄道があったことを知ったのです。
14.11.24 お袋が永眠 2014(平成26)年11月24日(月)8時22分わたしのお袋が永眠しました。享年101歳でした。
家族葬での通夜などで、嘉光さんの奥様・宣江さんと、お袋の事、お袋のお姉さん・愛子おばさんの事、おじさんの事などを話しました。
お袋の残したアルバムの中に、(この原爆記に出てくる)八束家の写真や(おじさんが惚れていたと原爆記にもそのような表現がある)おばさんと子どもたちが写った写真があったのです。それらの写真と、おじさんの軍服姿の写真は、お願いしてこの原爆記に掲載することを許可していただき今回掲載しました。
12.10.09 八束嘉光さん永眠 今(2012)年のお盆に、おじさん、おばさん、原爆で亡くなった嘉孝さん、嘉忠さんが眠るお墓にお参りした後、おじさん(八束要さん)の長男・嘉光さんのお宅を訪ね、おじさんに関することも展示している『平成24年平和記念資料館「基町 姿を変える広島開基の地」の企画展』について少しばかり話をしたのです。その後体調を崩し入院されていましたが、10月8日永眠されました。享年81歳でした。ご冥福をお祈りすることしかわたしにはできません、合掌・・・
この原爆記についての記述について尋ねられる人を喪いました。
原爆の惨禍を目の当たりにし直接伝えられる人がまた一人亡くなったのだとの悲しみも多く、悲しみの涙をこらえつつ核兵器なき世界の構築をと(わたしは)願っているのです。
12.07.23 平和記念資料館
 企画展「基町」を見学してわかった事
2012(平成24)年平和記念資料館で「基町 姿を変える広島開基の地」と銘打った企画展7月13日(12月12日まで)からはじまったのです。
その中におじさん(八束要さん)が資料館に寄贈している「部下の遺品-革財布・メダル・腕時計」が展示されています。また、無料で配布されている企画展小冊子に(P7、P6)にわずかですが、おじさんの「原爆記」の掲載があります。

嘉忠さんをおじさんが仮に入れていたという本部裏の大水槽が兵器部の何処に位置していたのかずっとわからなかったのです。
企画展展示の中に基町地区の被爆直前(7月25日米軍撮影)と被爆後(8月11日米軍撮影)の大きなパネルがありました。兵器部部分をよくよく比べながらみると水槽と思われるものが数箇所写っています、その中で本部裏大水槽と思われるものはこれかなと思いましたので、関連資料として大水槽に焦点をあて編集しました。
05.01.02 曜日について 被爆60年の報道を目にすることが多くなってきました、新聞の特集を読んでいて目が留まりました。
『建物疎開に動員されその代休だったあの日』という処でした。そうです昭和20(1945)年8月6日(午前8時15分)は月曜日だったのです。
今までおじさんの原爆記を読んでいても曜日のことを考えたことがなかったと・・・月月火水木金金という歌があった時代日曜日もなく働いていたのかもしれませんが、
原爆投下をした米軍は休み明けで仕事に取りかかろうとする、多くの人々を殺傷する為に曜日・時間を選んで投下したのだとおもったから原文になかった曜日を記入しました。
04.05.09 脱字、文章の抜け等
訂正
脱字、文章の抜け等は訂正を巧く処理できなく一行で列から字がはみ出たりしています(縦書き変換のフリーソフトを使って縦書きにしていたのですがこのソフトがバージョンUPで原稿を訂正してからの変換が巧くいかず1字ずつ訂正しましたので)。
 そして最後に残った『鞆の鋲?・釘組合』福山の鞆地区は江戸時代から鋳物業が盛んなところであった事は知っていましたがどうしても文字(熟語)がわからなかったのです、今はハイテンションボルトで鋼材(鉄骨)をつなぎ合わせるのですが昔は熱く焼いたリベットを用いていたのです、リベットを金偏に交と鋲と言う字(熟語)でリベットと言っていてた事は知っていましたが繋がりがわからなかったのです、ふとネジはと思ったのです螺子なんて字が書けるはずもなく漢和辞典で調べたのです、そして“鋲螺”びょうねじとよむのかびょうらとよむのかわかりませんが、YAHOOで‘鞆 鋲螺’で検索するとあったのです(株)丸鋲という会社の紹介の中で『・・・鋲螺業界に籍を置き・・・』とこれで一応の訂正は終ったという事になりました。‘びょうら’と読むようです。
いままでの話は木をみて森をみずの話でしたが、被爆59年を数える今年も世界的には戦争がおさまる気配はありませんが、平和への方法論は違おうとも違いを乗越え平和な世界の構築を願わずにはおられません。
04.05.08 誤字等訂正 義姉が書道の先生でおじさんの達筆な字を解読してくれていたのですが、なかなか訂正ができませんでした、掲載1年を経過したいま訂正して行こうと思っています、今日は誤字・てにおはの間違い等は訂正しました、今更ながら漢字を知らなかったと反省しても遅いのですが、譬(たとえ)、聊(いささ)か等などはまったく知らない漢字で義姉に教えてもらったのです。
04.04.28 関連資料追加  施設の位置関係が立体的にわかるのではと被爆後の市街地模型を撮影したものを掲載しました
03.09.06 原爆記誤記訂正  No02-2腕時計と訂正しました、懐中時計の事と勝手に思い腹時計と解釈していた私の間違いが分かったからです
03年9月5日に行った平和祈念館の展示資料の中に一部原稿にはない加筆があり分かったのです。
03.08.28 関連資料追加  原爆記・関連位置図とし明治二十(1887)年当時の地図を作図追加しました
おじさんと嘉光さんが嘉孝さんを探したという堺町、西地方町の位置が解かってきました。
03.08.22 関連資料追加  原爆記・関連資料集の中に語句一覧を編集・掲載しました
03.08.16 関連資料追加  広島が軍都となっていった過程を年表にしてみました 「軍都・廣島」関連略年表
03.08.02 関連資料追加  No12の電車橋を嘉光さん本人に聞いて広電・天満橋とわかりました
No04常盤橋東詰の「常盤
大華樓」も聞いたのですが料理屋の名前かとも思われるとしかわかりませんでした
No02海田の需品廠とおじさんは書いていますが聞くと矢野に本部があり当日は(海田町隣町)向洋の方に行ったそうです。
03.07.24 関連資料追加  位置関係図(拡大)に流川教会資料リンク、安田高女・済美学校(廣島市)水道部の位置記入
03.07.13 関連資料追加  No12不明文字(口田村長 「田定藏」氏と判明追記)
陸軍関係資料として 歩兵第十一聯隊跡  廣島陸軍幼年學校跡 野砲兵第五聯隊跡を追加
位置関係図(拡大)06.25作図を整備 
03.06.21 関連資料追加  No14不明文字「小石川の上富坂」と訂正)
福屋・原爆被災説明板
・碑追加、 第二総軍跡(騎兵第五連隊跡・碑)を追加
 
03.05.25 「原爆記」 別紙掲載 「兵器部修理所職員戰没者名簿」・「兵器部職員戰没者名簿」を掲載しました、
2014(平成26)年11月24日(月)8時22分わたしのお袋が永眠しました。享年101歳でした。
家族葬での通夜などで、嘉光さんの奥様・宣江さんと、お袋の事、お袋のお姉さん・愛子おばさんの事、おじさんの事などを話しました。
お袋の残したアルバムの中に、(この原爆記に出てくる)八束家の写真や(おじさんが惚れていたと原爆記にもそのような表現がある)おばさんと子どもたちが写った写真があったのです。それらの写真と、おじさんの軍服姿の写真は、お願いしてこの原爆記に掲載することを許可していただき今回掲載しました。

これでおじさんが書き残したものは全部掲載しました。
八月末時点での死没者名簿と思われますが、後年おじさんが癌に倒れたことを思うと原爆の後遺症で多くの方が亡くなったと思われます、皆様の御冥福をお祈り致します。
03.05.24 関連資料追加  N011:現在の羽田別荘   関係画像一覧(7/13追加)   (表紙一部更新)
03.05.18 関連資料追加  No14:前・国立療養所畑賀病院(現・安芸市民病院
03.05.17 関連資料追加  陸軍糧秣支廠(解説)  日本製鋼所
03.05.11 関連資料追加  旧・中国軍管区司令部地下通信室:現在の写真  広島城(概説)  栄橋(現存の被爆橋梁
03.05.08 関連資料追加  位置関係図資料中の建物の爆心地よりの距離を追記
03.04.30 関連資料追加  No14:畑賀村、粟屋村の現在表記住所を追記
03.04.29 関連資料追加  (広島)女學院  市内電車白島終点  福屋(百貨店)
03.04.25 関連資料追加  No10:被爆状況の調査の解説  No12:原爆被害の解説
03.04.22 「原爆記」
一応原稿部掲載終了
人は必ず死をむかえることを思えば如何に生きるかを考える事の大切さが判る内容なのではと思います。
悲惨でしかなかったであろう原爆によって起きた色々な出来事の一断面ではあっても堂々と生きたと言う事を書き残すことが出来たおじさんの生きかた、感服せずには居られませんでした。
戦後57年のいま、今更過去を振り返る事はないとの話を聞くこともありますが、過去があるから現在がありそして未来への希望に繋げなければならないと思われてなりません、そんな事を考える一読物になったとしたら幸いです

生き様=小学館・日本語大辞典では用例として見事な生き様とあるのですが、ざま=あざけて言う言葉であり決していい事に使う言葉ではないとNHKラジオで聞き誤解を受けないために訂正しました。 (03.06.21裕・記)
03.04.18 関連資料追加  位置関係(昭和20年の概略圖)作図し掲載
03.04.14 「原爆記」 掲載開始 この原爆記が平和を考える資料になればと思って掲載しています。
ただし達筆な字を読めない処もあり、一度に頁作成できないこともまずお断りして作成しています。
誤りも気がつき次第訂正はしていますが戦後生まれの私(増田 裕)が編集したもので誤りがあるかと思いますご指摘ご指導願えたら幸いです。



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