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ここで取り上げた「原爆記」は、わたし(増田裕)のおじさん(わたしのお袋のお姉さんのご主人)が昭和20(1945)年に書き残した原爆記です。 |
従兄弟(八束要さんの長男・嘉光さん)の話しでは、平成14(2002)年国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に原爆の資料として提出しているので、今後“体験記閲覧室”で自由に閲覧できるようになり資料として保存されるという事※ですので公開しても構わないと言われていました。
しかし、実名で家族に起った(2人の息子を喪ったなどなど)実に生々しく悲しい出来事が書かれており、また部下の方々や上司の方々に起った事も書かれているので掲載してもいいのか躊躇っていました。
この原爆記を読み返し再度公開してもいいのか八束嘉光さんに尋ね、そして(わたしが)考えた結果。
この原爆記には(既に故人である)おじさんの思いが凝縮されており「再びこのような惨禍を起こすような世の中にはしてならないとの警鐘になる事であろう」と(わたしは)考えて頁を編集して行く事にし掲載を終えました。
原爆記の関連資料は、戦後生まれのわたしが編集したものですので、誤りがあると思います。誤記などのご指摘ご指導を願えたら幸いです。 |
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22.06.19.更新・履歴 03.04.14増田 裕・記編集 |
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別紙 |
兵器部修理所職員戰没者名簿
兵器部職員戰没者名簿 |
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原爆記 八束 要 (1901-1967) |
当時:広島市牛田町東区(現在:広島市東区牛田東) |
略歴:陸軍兵器學校卒業 元陸軍技術大尉 |
1944(昭和19)年11月1日 正七位
1944(昭和19)年12月20日 勲四等瑞寶賞 |
1945(昭和20)年8月6日(基町の)兵器部で被爆 |
1967(昭和42)年8月31日没 享年66歳 |
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原稿用紙53枚+1枚に書かれています。
しかし、酸性紙なのでしょう留金の錆びで一部ボロボロになってきています、長くは保存できないのではと(わたしは)心配しています。 |
広島平和記念資料館を造る時、平和の為に役立つならと、この原爆記に出てくる軍刀・銀時計などを提出しているとのことです。 |
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